最終話 約束
あの激動の日から5日――
「エーネ。腰、大丈夫か? 優しくしてもらえたのか?」
表情だけは真面目なカケルに、そんな下品な心配をされて泣きそうになった。
「カケル……あのさ……」
「何?」
「あれ……夢じゃないよね? ちゃんとあったことだよね……?」
カケルが「はっ?」と口を開けてしばらく驚いてから、キョロキョロと周囲を警戒しながら私の腕を掴んだ。
「ここじゃユーリスに見つかるから、どこかに跳んでくれ。俺の命が危ない」
こくんと頷いて、大平原にぽつんと一本ある木のそばに転移した。
「えっと、どうしたの? いや、ちょっと座れ」
カケルに座るように言われて、地面に体操座りをする。ボーッと地面を見ていると横に座ったカケルの視線を感じた。
「俺はさ。ここ5日間、お前たちがいっちゃいちゃしてるだろうと思って気を使って会わないようにしていたんだけど、何かあったの?」
カケルにしては珍しく本気で心配している声に、余計に泣きそうになった。
「何も……何もないんだ……」
「えっ?」
「ユーリスがあまりにも普段通りで、その……話はしようとしたんだけど、言い出せなくて……ユーリスも何も言ってこないし……」
『エーネ。おはよう!』とあんなに爽やかな顔で言われてしまうと、何だかあれはすべて私の妄想で、私の心が汚れているように感じてしまう。
「ねえ、カケル。あの日、私はちゃんとユーリスと……」
「エーネ、大丈夫だ。あの日お前らは、結構死ぬ気で頑張った俺を全米が泣くくらい完全放置して、お前らだけの世界に浸っていた。見せつけられた上に、ただそこら辺の空気の一部だった俺が保証しよう」
ほんと? と見上げると、カケルは大きく頷いてくれた。ひとまずほっとして息を吐く。
「でも……だったらどうして、かな? ユーリス、なかったことにしたいのかな……?」
自分で言いながらその可能性に気づいて、本気で涙が目の真下まで上がってきた。
「それはねーだろ? あのさ、エーネはユーリスにあれからなんか頼まれた?」
頼まれた? うーんと考えて、思い出す。
「あぁ、これから魔王城で一緒に暮らしていいかと聞かれた。もちろんいいよと言ったよ? もともと――」
「ささやかだろ、ささやかすぎるだろう! 何なんだよその願い!」
カケルが隣でうわーっと頭を抱えている。
「えっと、ごめん。何が……?」
きっと自分は何か重要なことがわかっていない。それを感じながら、小声でカケルに聞くと、カケルがぐわっと顔を上げてこちらを見た。
「教会で、この戦いが終わったら頼みがあるってユーリス言ってたじゃん。その頼みって言うのが、たぶんそれ!」
「あっ」
忘れていた。そのあとの出来事の方が自分の中では印象が強くて、そちらの約束は今まで完全に忘れていた。
私はまだ、何もユーリスに伝えられてはいない……
カケルはうわぁと口をゆがめて前を向いている。
「てっきり俺はエーネのこと襲っているんだと思ってたけど――ユーリス頼みはまぁそれだとして、キスは何で忘れているんだろう。そのあとぶっ倒れてたけど、そのときまでは意識あったよな?」
「起きてたと思う。ユーリス笑っていたから……」
私がユーリスにキスをしたあと、ユーリスは嬉しそうに笑っていた。信じるんだあの笑顔を。
「まぁでも、ユーリスぼろぼろだったから『夢だ』って思ってるんじゃね? これは都合のいい夢だーって」
「夢か……」
私が寂しくつぶやくと、カケルがこちらを向いた。その険しい顔に私はその場で姿勢を正した。
「あのさぁ、ユーリスが夢だと思っているんだったら、それエーネの所為だからな。エーネがこれまで、散々ユーリスの気持ちを放置してきたからだからな。ちゃんとわかってんのか!」
「おっしゃるとおりです。ごめんなさい」
頭を下げると、カケルはぷいと前を向いた。
ユーリスが夢だと思っていたとしても、何か別の理由があってなかったことにしたいとしても、とにかくちゃんと私はユーリスと話をしよう。そう決意して私は立ち上がる。
「カケル、行ってくる!」
「おう、頑張れ。まぁ上手くいくって。もし変な理由で断られたら、素っ裸であいつの部屋に転移すれば何とかなるよ」
地面にあぐらをかいて、こちらを適当に見上げているカケルを静かに見下ろす。
素っ裸で転移。
ユーリスの部屋に、素っ裸で転移。
「……下着姿じゃなくて、裸がいいの?」
脱がす楽しみがあった方が良いのではないかとカケルに確認すると、カケルはしばらく無言だった。
「カケル?」
「……パジャマからで、お願いします」
あいつには刺激が強すぎるのでと言われて、私は頷いた。
「わかった」
私の寝間着は、かなりゆったりとした綿の服だ。シンプルな装いに、無防備だと感じられる首元の隙間から垣間見える肌色のチラリズム。それがいいという男性ももちろんいるとは思うけれど、ユーリスはどうだろう?
だが――やはりまずはこちらの世界に則って、ちゃんとした女性らしいネグリジェを買うか。アネッサに頼んで、貴族用のそういった店を紹介してもらおう。
ユーリスは黒が好きなようだから、黒にしよう。
よし、早速手配しようと考えていると急にカケルが声を上げた。
「あっ! もしかして……」
「どうしたの?」
「ユーリスもしかしたら、あのキス『ご褒美』だと思っているかも」
ご、ご褒美? ユーリスは私のことをそんな人だと思っているのかと困惑してカケルを見る。
「戦う前に『勝ったらエーネから褒美が出る』的なことを俺言ったじゃん? あれだと思ってるってことはない?」
「そんなこと言った……?」
必死だったからあまり覚えていない。
「あ、てことは。まずい」
カケルが突然立ち上がる。
「まずい、俺死ぬかも」
「どうしたの、急に」
カケルは実際に唇の色が少し悪くなっている。
「ユーリスがご褒美だと思っているんだったら、俺も戦ったんだし、当然俺ももらっていると思うよな? てことは、俺もエーネにキスしてもらったことになる。つまり、俺は死ぬ」
なっ? と確認されるが、仮にそうだったとしても、そんなことでユーリスに殺されはしないだろうと思う。
「俺、もう行くわ! しばらく探さないでくれ」
「えっ!? カケル!?」
「じゃーな。頑張れよ!」
魔王の大剣を背中に装備して、駆け足で行ってしまったカケルに、大声で呼びかける。
「待って、カケル! ありがとうー!!」
カケルが振り向いた。
「何がー!」
「色々!」
私がそう言うと、カケルが足を止めてこちらに向き直った。
「わりい! 実はユメニアちゃんにちょっとだけ手を出した!」
「何だって! 貴様!!」
「大丈夫ー! まだ、キスして胸触ったぐらいだから!」
「まだなの!? それ、まだなの!?」
ユメニアはまだ220歳なんだぞ! それが、そんな子をあいつは……
顔が赤くなった。
「大切にするからー!」
何が大切にするからだよ……ほんとかよ――
もし本当じゃなかったら、大海原に捨ててこよう。カケルだったらどんな場所に捨ててきても泳いで戻ってきそうだけれど、そのときはおじいちゃんを大海原に召喚して、ドラゴンレールガンで海ごと蒸発させてしまえばいい。海の中だと避けられまい。
いや、わざわざそんなことをしなくても、高度一万メートルからたたき落とせばいいのか? だけどカケルの場合、地面に剣を叩きつけた際に発生する衝撃波とかいうわけのわからない反力の作用で生き残りそうだ。やはり海だな。そうしよう。
私は頷いた。
「定期的に確認する」
「怖ぇーよ!」
カケルは私に向かって「じゃあな」ともう一度笑顔で手を振って、逃げるように走り去ってしまった。
行ってしまった。何だったんだろうあの少年は。
一人草原に取り残されて、しばらく風を感じてから、顔を上げる。
「行こう」
ユーリスがもし忘れているのなら何度でも言おう。あなたのことが好きなのだと何度でも伝えよう。
頑張るんだ。
魔王城に転移して、渡り廊下から窓の下を眺める。
ちょうど見下ろした中庭に、目的の金色の天使を見つけた。
あの子は大きくなった。私がかつて想像した天女のような美しさの金髪の美女とは違うけれど、あの子は本当にあのまま綺麗に大きくなった。
その金髪の青年が、いつものようにすぐにこちらを見つけて
「エーネ!」
私に向かって笑顔で手を振った。
その手に向かって、ひらひらと手を振り返しながら私は思う――
私は、ショタコンなのだ。
いや……あの子はついこの間まで美少女にしか見えなかったから、やはりロリコンなのか? とにかくどちらでもいいけれど、皆、私を罵りたければ『やーいロリコン!』などと好きに罵るがいい。ただの事実だ。
そう考えながら、天使の前に転移する。
「エーネ?」
「ユーリス。ちょっと話があるんだ」
返事も聞かずに、その手を掴んで再び転移した。
目の前に見えるのは金色の豪勢な椅子。その椅子に向かって天使の肩を押す。
「ユーリス。座って」
「エーネこの椅子は――」
「いいから」
しばらく押し問答して、やっとユーリスは椅子に座った。そして、少し不安そうな表情で私を見ている天使を見つめ返す。
私は赤いカーペットに膝を突いて、その手を両手で握った。
「ユーリス。あの――」
意を決して緑の瞳を覗きこむ。
「私は魔王だ。私は魔王だから、この世界でしなければいけないことがたくさんある。いや、そうじゃない。私は自分が始めたことを、ちゃんと最後までやり遂げたいんだ。だから、私はユーリスのためだけに生きることはできない。
それに、今回のように誰かに突然命を狙われることもあるから、私がそれで死んでしまったり、ユーリスを巻き込んでしまうこともある。だから――」
「エーネ。僕は――」
「ユーリス。だから私は、君と最期まで一緒に過ごせないかもしれない。それに、そんなことで死ななくても、私たちはもともと寿命が違う。あと、あの……あのね。私は魔神だから子どもが産めないかもしれないんだ……
だけど、でも……それでも、私は、ユーリスのことが好きなんだ。好きだから、君に最期まで私と一緒に居て欲しいと思っている。君の時間がすべて欲しいんだ」
自然に涙がこぼれた。
「ダメかな……?」
神に祈るように、ユーリスの手を握りしめていた両手に額を押し当てた。
……何をやっているんだ私は。今はぐずぐずと泣いている場合じゃない。
やるんだ。
急いで立ち上がって、玉座に座っているユーリスの膝の上に乗る。ユーリスが嫌だったら私を振り払ってくれるだろうと思いながら、こちらを驚いて見上げているユーリスの頬を両手で掴んで、その唇に自分の唇を押し当てた。
正直、キスのやり方なんてよく分からないから、これでいいのかなと不安に思いながら、ゆっくりと唇を離す。
「エーネ」
目を開くとユーリスに腕を掴まれた。ユーリスは私の腕を掴んで泣き笑いのような顔をしていた。
「エーネは僕のこと、何も分かっていない」
「……ごめん」
私がそう言った瞬間、ユーリスに腕を引っ張られる。そして、気づいたときにはユーリスの腕の中に居た。
「夢だと思っていた……僕の夢だって」
ユーリスのその言葉に心底ほっとする。
「夢じゃないよ」
そのまま流されるようにユーリスの胸に身をゆだねてから、カケルに言われたことを思い出した。
ちゃんと言わなきゃダメなんだ。
体を起こして、ユーリスの目を見つめる。
「今までちゃんと向き合わなくてごめんなさい。ユーリス――愛しています」
目を見開いて私の言葉を聞いていたユーリスは、突然私の左肩を掴んで、じっと私のお腹あたりを見つめ始めた。
ユーリスの体からは、私に向かってかなりの量の魔力が流れ出ている。ユーリスは何をしているのだろう?
「ユーリス?」
「エーネだ……本当にエーネだ……」
ユーリスはそうつぶやいたあと、私を見上げて満開の花のように笑った。
「エーネ。僕もだ。僕もエーネのことを愛している」
ユーリスはそう言ってから左手を私の方にゆっくりと伸ばした。そして私の髪に優しく触れてから、顔を近づけて下からキスをした。
動かないように左手で後頭部を押さえつけられながら、味わうように少しずつ角度を変えてキスをされる。
時々唇を離して、至近距離から見つめるユーリスの目――その目に、まともに頭が働かない。
「ユーリス、待ってあの――」
「待たない」
言葉を塞ぐように何度もキスをされてから、ユーリスが体を離してこちらを見上げた。
「僕のすべてはエーネのものだ」
嬉しそうに笑っているユーリスを見つめてから、まだ乱れている呼吸を少し整えて口を開く。
「ユーリス、あのね。『魔王』はあげられないけれど、『エーネ』は全部あげるよ。ずっと君のものだ」
「ずっと……?」
「うん。男の人はそういうの嫌だと思うから、ずっとユーリス以外とはそういうことはしないって約束するよ。何かに約束できたらいいと思うんだけど、口約束でごめんね……」
こんなことは約束しなくても、私は自動的に約束を守るだろうけれど、ちゃんとユーリスと約束をする。
「あと……昔この世界に来るときにアイロネーゼ様が言っていたんだけど、この世界と私とカケルがかつて暮らしていた世界は、ぐるぐると人を廻しているんだそうだ。だから、この世界で死ぬと、次はあっちの世界で生まれる。
ユーリス、ねぇ君が良かったら、あっちの世界へは一緒に行かない? あまり覚えていない私が言うのも何なのだけれど、魔法の代わりに変なものがたくさんあって、あっちも面白い世界なんだ」
私の言葉にユーリスが泣きそうな顔で頷いた。
「カケルから話を聞いて、僕も面白そうだなって思ってた……」
私は知っている――この子は結構寂しがり屋なんだ。
「管理しているのはリュシュリート様だと思うから、頼んだら待たせてくれると思うよ。だから、待っていて。私がへまをしたら、私が待っているから」
「わかった。約束しよう」
「うん。約束」
しばらく見つめ合ってから、再びゆっくり唇を合わせた。
唇を離してからユーリスの顔をのぞき込む。
「ねぇ、ユーリス。手を握っていい?」
私の言葉に、ユーリスは何を言わずに私の手を握った。
ついこの間まで、すっぽりと私の手の中に収まるサイズだったはずなのに、いつの間にか大きさが逆になっている。
「エーネ。今、僕の手が大きくなったなって考えているでしょ?」
図星を指されて動揺する。
「ユーリスが大人になったことはちゃんと分かっているよ?」
ユーリスは子ども扱いをすると機嫌が悪くなってしまう。
「分かっていないよ。エーネは絶対に分かっていない」
ふてくされたように横を向く天使を笑って見つめてから、握りしめられた手を見つめた――
かつて小さな天使に伸ばした手は、意外なほどしっかりとその小さな手を掴んでいて、
掴んだその小さな手は、予想だにしなかったほど、私の手を二度とは離してはくれなかったのだ。
そう。ずっと――




