22話 女王ティーリア
「王よ。起きましたか」
まだぼんやりとしている目に、無表情の天使の顔が入った。
「せ、セヴィニス?」
「はい。おはようございます」
「おはようございます……」
なぜか膝枕をされていたようで、しっかりと起き上がって礼をしてから周囲を見渡す。
湖の横に、人がぱらぱらと寝転がっていた。
「えっ? あっごめん! 今すぐ送るよ」
「もう少し休んで頂いて結構ですよ。まだ意識の戻っていない魔人族も多いですので」
その声に首を後ろに大きく傾けるとラッツェさんが居た。
「魔王様。昨日はありがとうございます」
「いや、いいんだ。気にしないで」
ラッツェさんが私の横に来たので、そちらを向きながら手を振るとラッツェさんが膝を突いて頭を下げた。
「魔王様に未来永劫、変わらぬ忠誠を」
頭を下げ続けたままのラッツェさんに大きく動揺してから軽く深呼吸する。こういうのは、誤魔化さずにちゃんと受け入れなければ駄目なんだ。それもきっと王様の仕事だ。
「ありがとうラッツェ。君たちにはいつも感謝しているよ」
「勿体なきお言葉です」
お互い演技だと言うことがバレているかのようにしばらく見つめ合ってから、クスッと笑って立ち上がった。
「私はもう動ける! 天使さんの邪魔になるから、魔人族は帰すよ!」
「かしこまりました」
そう言ってから空を見上げる。今はまだ結界を張っていないのか天使の姿はまだ見えるけれど、今度来たときはきっとまた見えなくなっているのだろう。朝日を浴びながら、疲れた様子でどこかふらふらと飛んでいる天使たちを目に焼き付けるように見つめてから、笑って、いつもここを去るときと同じように大空に向けて手を振った。
「私たちは帰ります! 天使さんたちありがとう! また何か困ったことがあったら言ってね!」
何も見えなかったかつての空――
だけど今は、天使たちがバイバイと私に向けて手を振り返してくれるのが見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「終わったー」
魔人族を送り届けて魔王城の会議室の椅子にもたれ掛かる。
「魔王様。ありがとうございます」
「どういたしましてー。あ、じゃあ次は隠し部屋だね」
私がそう言うとラッツェさんはしばらく考え込んでから口を開いた。
「魔王様。人族領に行きませんか?」
「人族領?」
「はい、南州領主邸へ。昨日の今日ですので、まだいると思われます」
ラッツェさんの顔をじっと見てから、同じように椅子にもたれ掛かっているカケルの方を向いた。
「カケルは行ける?」
「そのおっさんが黒幕なんでしょ? 行くよ」
カケルが腕を伸ばして大きくあくびをしてから、「よっと」と立ち上がった。そして昨日から気に入っているらしい抜き身の黒剣を手に取る。
鞘にしまった方が……まぁいいか。
「行こっか」
「えぇ」
一度『世界の決まり』を配るときに行った、南州領主の館に直接転移した。
「誰もいないね」
広いホールには誰の姿もない。横を見上げるとラッツェさんが静かに目をつぶっていた。
「この館内にいるのは40人ほどです。あぶり出しますか?」
「こちらから向かおう」
隣の人に火を付けられる前に、こちらから伺う。3回転移してやっと目的の人物を見つけた。
「やぁ、久しぶりだね。南州領主ベッセ卿」
「魔王!?」
何やら他の3人のおじさんたちと相談ごとの真っ最中だったようだ。
「私の噂でもしていたのかな?」
「残りすべての核を渡したのに、しくじりおって……あの小娘が」
おじさんたちは呪詛で忙しいらしく、私たちのために椅子を出してはくれない。
「魔王様。どうぞお座りください」
ちょうどタイミングよくラッツェさんが椅子を持ってきてくれたので、「あぁありがとう」と偉そうにその椅子に腰掛けた。
「魔王様。こちらに向かっていた兵はすべて排除しました」
「ご苦労」
一体『いつ』だよと内心震えながら、前を向くとおじさんたちも白い顔で震えていた。
「衛兵! おい何をやっている! 衛兵! 侵入者だ!」
必死に叫んでも、誰もこないから余計に怖い。
向こうから見れば、ラッツェさんは優しい風貌のただの人族にしか見えないから余計に怖いだろう。
この人は味方のはずだと、自分に言い聞かせて心を落ち着かせる。
「ベッセ卿。見苦しいから、そこのおじさんを黙らせてもらえるかな?」
必死に叫んでいたおじさんはぴたりと黙った。
今度は息までも止めていそうなおじさんをちらりと見てから、南州領主に目を移す。
「ベッセ卿。君たちが隠し持っていた先々代魔王の核は昨日返してもらったよ。連絡は受けているかな?」
ベッセ卿が「何!?」と立ち上がる。火の手は見えていただろうけれど、昨日の夜中のことなので、まだそこまでの連絡は受けていないのだろう。
なぜかこちらを怒りの目で見るおじさんたちを、隣の人が焼き尽くす前に、私が全力で魔力を放出して場を支配してから口を開く。
「長い間、ご苦労だったね」
足から力が抜けたように青い顔で椅子に戻ったベッセ卿を静かに見つめてから、垂れ流していた魔力をオフにした。
ベッセ卿が頭を抱えている。
「我々はずっとあれと共にやってきた。あれがなくなって、これからどうしろと言うんだ」
先々代魔王が死んで600年。少なくともその期間、彼らは魔王のコアを使って、自分たちだけが楽な生活が送れるように世界に干渉していた。そんな力が急になくなるとさぞ大変だろう。だけど、そんなこと――
「知らないよ」
「あのさ、おっさんたちあれで何してたの?」
カケルの急な発言にカケルに視線が集中する。
「あっ、俺は勇者です。勇者カケル」
カケルがなぜか丁寧に自己紹介をした。そして、その言葉に神が舞い降りたかのようにおじさんたちの顔が輝く。
「私たちは、あれで作物の収穫量を増やしていたんだ。東州でよく行われている焼き畑のような不利益は発生しない、素晴らしいものなんだよ。君が手伝ってくれたら、君にそれ相応の報酬をあげよう」
カケルが、そんなおじさんたちをにやにやしながら見つめている。
「なぁ、報酬って何くれんの? 魔王を倒す報酬だよ?」
不機嫌そうな演技をしながらおじさんたちの様子を観察すると、カケルに話を持ちかけたおじさんは焦ったような顔でベッセ卿を見上げた。
「君が庶民ならば貴族の位を授けよう」
ベッセ卿のその偉そうな言葉に、カケルは心底呆れた顔で「はー!」と大げさにため息をついてから鼻で笑った。
「小っさ!」
そして、私の方を向く。
「エーネだったら俺に何くれる?」
カケルのキラキラした目に、カケルが期待するものを読み取って偉そうにあごを上げた。
「世界の半分をやろう」
「くぅー、魔王様、わかってる!」
私とカケルしか理解できないであろうやりとりで、カケルは一人盛り上がってから、おじさんたちに宣言した。
「てことで、だめだ。てかさ、魔王がいなくなったらこの世界のバランスがおかしくなるのおっさんたち知ってんの?」
「一時的にだ――」
「ラッツェ!」
明らかに館を吹き飛ばす威力だった魔力を先に吹き飛ばした。
私が吹き飛ばした殺意の乗った魔力が部屋の中を渦巻いて、私の体が魔力を浄化する前に元々顔色の悪かったおじさんの一人が気絶した。
「あっ、おっさん一匹倒れた。大丈夫かー」
カケルがおじさんのもとに駆けよって、剣でおじさんの服を引っかけて壁にもたれさせた。
「んで、どうすんの?」
カケルが気を失ったおじさんの横でこちらを向いている。カケルはこのおじさんたちを殺そうとしたら、止めようとするだろうか。
「ラッツェはどうしたい?」
ラッツェさんは冷たい目でベッセ卿を見つめていた。
「魔王様がよろしければ、もう少し泳がせて全体像を把握します」
「うん、それでいいんじゃないかな。そうしよう」
そう言ってから立ち上がって、座っている彼らを見下ろした。
「ここ南州での作物の収穫量はこれから減る。頭を下げて、教えや施しを請わなければ、生きて行けないことも出てくるだろう。だけど、貧しいこと自体は『悪』ではない。頭を下げるのは『恥』ではない。ただ、生きるために必要なことだというだけだ。己を蔑む必要はない」
「帰るぞ」
「は」
ローブをひるがえして後ろを向いてから、魔王城に転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昨日食べられなかったほっこり温かい味のパメラのスープを頂いて、一度自分の部屋に戻る。
「まだ、起きていない……」
自分のベッドに誰かが寝ているという光景はすごく違和感がある。部屋の入口でしばらく遠目に眺めてから一歩足を踏み出した。
「ユーリス」
小さく声を掛けても起きない。顔色は悪くないしHPも回復しているけれど、まだMPが千くらいしか回復していない。ずいぶんと回復に時間が掛かっているようだ。
昨日の銀色の天使たちとは違って、こちらは金色の天使。
きれいな顔を無意識のうちにじっと見ていたことに気がついて少し赤くなってから、周囲を見渡した。
もちろん誰も居ない。
「いいかな……?」
よくないだろうと自分に突っ込みながら、邪魔な髪の毛を左耳に掛けて、しばらく迷ってからベッドの脇にかがんで、ユーリスの額にそっと唇を付けた。そして、顔を離して、じっとユーリスの顔を見つめる。
「……起きない」
もしかして起きているのかなと少し思っていたのだけれど、やはり眠っているようだ。今更心臓の音がすごいけれど、起きていたら自分はどうするつもりだったのだろうか。
それにしても、王子様のキスで目が覚めるのだから、魔王のキスでは眠ってしまうのだろうか? 昨日のユーリスの気の失い方を見ると、あながち否定はできないと思って、むっとユーリスをにらみつけてから、息を吐いた。そして笑顔で声を掛ける。
「ユーリス。行ってきます」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おー、ユーリスどうだった」
「まだ疲れているのか眠っていたよ」
「襲った?」
「襲っていない」
その場にいた二人の魔人が同時にこちらを向いた。それを見て、カケルが盛大にニヤついている。
「へー、襲ったんだー」
「ち、違う。違うから」
「魔力は隠せてないみたいだけどー?」
そのとき足元からひんやりとする魔力が流れてきて、小さく身震いしてから、慌ててカケルの手を掴む。
「あれ? 内緒話?」
「あれ以上私をからかうと、ラウリィに氷の彫像に変えられる」
転移してきた花畑で、カケルに理解して貰えるよう説明すると、笑っていたカケルはそのまま固まってからこくりと頷いた。
「おっけー、あのメイドの前でからかうのは止めとく。で、何したの?」
にやにやと私の手を掴んで聞いてくるカケルを見て、はーとため息をつく。そして耳が熱くなってきて、地面に咲いている黄色の花に集中した。
「えっと……おでこにキスを……」
「はっ? おでこ!? 小学生かよ!」
い、いいだろ! だって、ユーリス寝ていたんだぞ……
「腰にまたがって、イタズラするくらいしろよ!」
「なんだよ、それだけかよ」となぜかふてくされたように怒っているカケルを見て、ますます恥ずかしくなってから、無理矢理頭のスイッチを切り替えた。
「そんなことより、カケル。昨日あったこと――魔王のコアに関する話はラウリィには内緒だからね。何か余計なことを言ったら問答無用でラッツェさんに首を刎ねられると思うから」
カケルは無表情でこちらを向いた。
「そんな怖い話に俺を巻き込むなよ」
「ごめん。それは悪かったと思っている」
頭を下げてから顔を上げると、カケルは笑っていた。
「まぁいいや。昨日はいいもん見れたし」
あの光景を二度と見ることはない。
つぎに、あれがあるときには私はもういない。
「うん。とにかく魔王ザイベインは600年前に普通に死んだ。それが事実だ」
ラッツェさんがそんな話にならないように話の流れをコントロールしてくれるだろうと思うけれど、私はそう自分に念じておこう。
元の会議室に戻ると、ラウリィにじっと見つめられた。冷や汗をかきながら何とか誤魔化すために口を開く。
「あのさラウリィ。ユーリスの回復が遅いのってどうしてかな? 別に変なところはないよね?」
「魔王様。魔王様が昨日この城にいらっしゃらなかったからだと思います。魔王様のお側に居ればすぐに回復します」
ラウリィはそう言ってから氷の目でラッツェさんを睨んだ。
これまでユーリスが倒れたとき、いつも私の横に寝かされていたのはそういうことか。私は便利な魔力収集機? なのかな。
そして現在ラウリィの機嫌が悪いのは、ラウリィから見れば私とラッツェさんは朝帰りをした人か……いやいやいや、カケルも居たよ? 詳細は説明できないのが辛いな。
「ラウリィ。ラッツェとカケルは昨日一晩中、勇者関係のごたごたを手伝ってくれていたんだ。心配をかけてごめんね」
「わかっています」
ラウリィはぷいと目を逸らした。ラッツェさんは少し困ったような顔でラウリィのことを見つめていた。
「ラッツェ、そろそろ行こうか」
「あ、俺剣返す」
「いいですよ返さなくても」
ラッツェさんがまっすぐカケルを見てから、微笑んだ。
「あなたがその剣で魔王様を守ると誓ってくださるなら」
ラッツェさんの言葉にカケルが大きく頷いた。
「おーし、わかった。俺は正義の味方だ。エーネが正義である限り、俺は魔王様の味方の勇者になるぞー!」
カケルが適当におー、と剣を上げた。
珍しく呆れているように見えるラッツェさんを見上げる。
「いいんじゃないかな。カケルはあれで」
「魔王様がそうおっしゃるのであれば……」
ラッツェさんに笑いかけてから、ラウリィの方を向いた。
「さて、お待たせしたけれどラウリィも行こう」
「どちらに行かれるのですか? 私もですか?」
小さく首を傾けているラウリィにラッツェさんが声を掛ける。
「ラウリィ。魔王様が、物置へ連れて行ってくださるそうだ」
ラウリィはラッツェさんを目を見開いて見たあと、私を見上げて「本当ですか?」と幸せそうに笑った。
うんと、静かに頷いてから、立ち上がった兄妹と手を繋いで転移する。
「ごめん。二人の大切な場所だとは知らなくて。もっと早く連れてきてあげればよかった」
二人は寄り添いながら部屋の中のものを見ていた。時折ラウリィがラッツェさんの腕を引いて、「兄さんこれ」と何か嬉しそうに報告している。
彼等が拾い上げるのは、一見ただのガラクタだ。でも、彼等にとってはちっともそんなことはないのだろう。
ラウリィが、無駄に豪華な腕輪を付けてクスッと笑っている。
「ごめん、ラウリィ。その辺にあったいくつかの貴金属は売り払ってしまった」
「構いませんよ。よく魔王様が『こんなものどうやって使うんだ』と笑いながらここに投げ捨てていました。懐かしいです」
ラッツェさんにとっては昨日のこと。でもラウリィにとっては600年前。
優しい顔でラウリィを見つめるラッツェさんを見ながら、それでいいんだと私は思った――それがラッツェさんの選択だ。
しゃがんでガラクタの山を崩していたラウリィが、世間話のように口を開いた。
「兄さん。まだふらふらするつもりですか? そろそろ魔人族の族長して、魔王様を支える仕事をしてはどうですか」
「私は働いているよ。魔王様のために人族領で。これまでも、これからも――」
ラッツェさんからは、背を向けているラウリィの顔は見えない。だけど、こちらからはその横顔がはっきりと見える。わかってくれない兄に、むすっとしているラウリィ。どうしたんだろう。今日はラウリィがいつにも増して可愛すぎる。
「ラッツェ。これからは人族領での方針について時々相談に乗ってはくれないか? これからはもう少し人族の王や、各州と協力していこうと思うんだ。あと、人族領での作業は基本的に君に一任したいと思っている」
「かしこまりました」
この人は参謀としてうってつけだ。人選としては間違っていないとは思うのだけれど、一任するといつの間にか世界の半分を支配していそうだ。まぁ、そのときはそのときか。
少しだけ嬉しそうなラウリィを見つめてから、ラッツェさんの方を向く。
「そう言えば、ここって本当はどうやって入るの?」
「魔王様はどうやってここを見つけたのですか?」
質問に質問で返されたけれど、「跳べそうな穴があったから、跳んだ」と正直に答えた。
「私はあなたの力について色々と誤解しているようです」
ラッツェさんは悩ましげに頭を押さえていた。
「魔王様。こちらに来てください」
ラッツェさんに招かれて隣に立つ。
「ここにうっすら線があるのが見えますか? この向こう側に固有の魔力を感知して開く鍵のようなものがあります」
「魔力紋ってやつかな?」
「えぇそうです。ここは魔王様――ザイベイン様の魔力で開くようになっています。ザイベイン様は人族の王から頂いたこの鍵をいたく気に入り、ご自身で設置して、ご自身で補強されました。この部屋を破壊する以外では我々が開けられないほど強力に」
この物置に置いているものを見ると、魔王ザイベインはなかなかお茶目な人だったようだ。
「ずっと入り方を探していたの?」
「ときどきですが」
微笑んだラッツェさんにごめんなさいと頭を下げた。
「ねぇ、ラッツェ。もう飲んでしまったのだけど、ここにお酒が一本落ちていたんだ。それが何か知らない?」
「お酒ですか? 私たちがここに遊びに来ていたとき、私はまだお酒を飲むような年頃ではなかったので、申し訳ございません」
私に謝るラッツェさんに、「いや、いいんだ」と笑いかける。
600年以上も前のものだ。あの幻の酒の正体がわかっても、同じものは手に入らないだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
日記を書き終わってぱたりと閉じてから、立ち上がる。
まっ黒な空に、大きな月――私たちの時間だ。
黒いローブを羽織って、転移した。
「こんばんは」
「無礼者」
そう言いながら薄い寝間着にガウンを羽織る少女を待つ。少女が背筋を伸ばしてこちらを見て――私の肩に乗っているものに気づき驚いていた。そして少女はゆっくりと自分の肩を見る。
「やぁ、エリグとは仲良くしてくれたようだね」
少女の肩の上で、スーパーボールくらいの赤い精霊が、ゆっくりと点滅していた。
「魔王の……仲間?」
「あぁ、そうだ。精霊族って言うんだ。成長すれば合体してどんどん大きくなる」
自分の肩にいるルングとヤッグを指さすと、少女は自分の肩のエリグをじっと見て、突然手の甲で払いのけた。
「来ないで!」
エリグは床にぽとんと落ちてから、ふわふわと上がって少女の肩に戻ろうとするが、少女が再びはたき落とす。エリグは諦めたように、今度はゆっくりと少女の顔の前に移動した。
「フェム! 来るなって言っているでしょ!」
エリグは少女の言葉の勢いに押されたように少し下がってから、もぞもぞと宙に留まって、急にポッと小指の先くらいの小さな火の玉を出した。それがポッと、順番に5つ現れる。
少女はそれを見て、唇を震わして歯を食いしばって、何かに堪えていた。
「来るな! 魔王、連れて帰りなさい! そのために来たのでしょう!」
エリグが帰りたかったら、もちろん私は連れて帰るつもりだった。
だけど――
『名前: フェム』
いつから名前変わったんだよ。
私はエリグに『少女を手伝って上げて』としか言っていない。それ以上のことなんて命令していない。
「魔族領では自分のことは自分で決める。私はエリグのやりたいようにやらせるだけだ。ねぇエリグ、一緒に帰る?」
エリグは意思伝達スキルがないから、何と答えているのかはわからないけれど、そんなエリグと会話しているように「うん、うん。え、いいの?」と頷いてから、少女を見た。
「できればここに居たいってさ」
別に演技でもなんでもなくエリグは、こちらの言っていることは分かっているだろうけれど、こちらには来ない。それに、顔の向きなんてわからないけれど、火の玉の現れ方を見ると、先ほどから少女しか見ていない。
どいつもこいつも魔王を蔑ろにしすぎだろう!
ふてくされながら、私はいつものように諦めて口を開いた。
「では、エリグ――いやフェムよ。王女が死んだ次の日に、私は君を迎えに来るよ。それでいいね?」
赤い精霊が大きく点滅した。「わかったよ」と精霊に向かって笑うと、少女は何も言わずに私を睨んだ。そして、赤い精霊がその肩に止まる。
肩に精霊を乗せた少女に、しばらく睨まれていると少女が口を開いた。
「魔王。お父様はどうしたの」
「えっ、ジーリィード……? ジーリィードか……」
ジーリィードの現在の様子を思い出して、しぶしぶ言葉を発する。
「あのさ、返さなくちゃだめ?」
「お父様に何をやらせているの!」
キーンとする怒鳴り声に、落ち着いてとジェスチャーをする。
王も魔族領の途中までは、かなり頑張っていた。こちらが驚くほど頑張っていた。だけど、やはりまったく歩いたことがなかったので、足が途中からぱんぱんに腫れあがって動けなくなってしまった。王女ティーリアは泣く泣く王を魔族領の途中の村に置いて、一人で帰ることを選んだのだけれど、心配だったのだろう。
もともと親子仲はなぜか悪くなかった上に、途中まで魔族領という敵地を歩いた戦友のようなものだ。さぞ会いたいだろう。だが――
「いや、ちょっと聞いてよ……いやもうすごいんだ、想定外だよ! 魔族領では、お酒が通貨の代わりになるくらい重要なものなんだけれど、お酒をよく飲む人と作る人が違うから、一体どのお酒が美味しいのかよく分かっていなかったんだ。だから、年によって出来映えに大きな差が出る。それがさ、ジーリィードは舌がすごく肥えているでしょう? だから、ちょっと味見してもらったらどれが美味しいかを的確に教えてくれて、今年いきなり、今までで一番美味しいお酒にできあがったんだ。みんなもう盛り上がっちゃって。来年はこうしよう、次は酒樽をもっと増やそうとか、魔王様もう少し人手が欲しいですとか、家増築しちゃうぞとか――あぁ、作っている方は主に犬人だから、鼻は良いんだ。匂いの違いでわかるようになったら、コンスタントに美味しいお酒が飲めると思うんだよ。目が良い種族もいるからそっちの違いでもいいね。とにかくまだ一年目だから、よく分かっていないことも多いんだけれど、できれば来年も手伝って欲しくって。ジーリィードは政治の才能はまったくないから別にいいでしょ? あぁ、もしかわりの人材を寄こせって言うのだったら検討するから、駄目かな?」
熱く語ってから、私から目を逸らして斜め下を見ている王女を固唾をのんで見る。『美食』なんてスキルを持っている人を、私はジーリィード以外には知らない。
「……別にいいわ」
その声に「良かったぁ!」と拳をあげた。
「あっ、ちゃんとジーリィードには聞いているよ? まだ私とはあまり話してくれないから、犬人族伝いだけれど、ちゃんと話はして了承は取っている。帰りたければもう十分世話になったからすぐに返すし、こっちにはユーリス――聖女がいるから健康面もばっちりだ。と言っても、足が治ってからは元気に散歩しているようだから、健康は問題なさそうだけれどね」
なぜかこっちをちゃんと見ようとしない王女の顔をのぞき込んでから、話を続ける。
「来年、お酒をこっちに送るよ。王女がお酒を飲める年になったら、君のお父さんが美味しくしてくれたお酒を飲んでみるといい」
あ、『王家御用達』ってラベルに書くのはどうだろうか。嘘じゃないし。
お酒の美味さとしては、魔族領は人族領にまだまだ遅れている。お酒があまり飲めない私にはよく分からないが、やはり『働く人には美味い酒』だそうだ。お酒が美味くなって困る人はいないから、どんどん進めてしまおう。
そう。そしていつか――
幻のお酒は手に入るだろう。
「じゃあ、今日は帰るよ。来週は戴冠式だけど、私は行かないから安心してね。またね、女王ティーリア」
「魔王エーネ。今度からは夜中に寝室に押しかけるのではなく、昼間に謁見の間に来なさい。無礼よ」
「ははっ。ごめんごめん」
そう笑って言ってから、赤い精霊を見つめた。やはりこちらに戻って来る気がない、忠誠心の低い部下に苦笑する。
「君は、世界を楽しむといい」
族長の言葉を伝えてから、私は転移した。




