16話 神の腕の中で
南州の調査はあまり進んではいないけれど、それでも少しずつは進んではいるし焦っても意味はない。
私にできるのは、せめて精一杯予測をして、事前にできるだけ手を打つことだけだ。
だけど、すべてを知ることのできない私の予測なんてちっとも当たらないし、私の考える『最悪』の状況なんてこれっぽっちも『最悪』なんかじゃない。
突然何かが起こる日っていうのは、やっぱり普通の日なんだ。
「ガルフ?」
国境警備の交代のために今日の当番のガルフを迎えに来たけれど、ガルフはいない。どうしたんだろうと何度か転移すると、森の開けたところで倒れている大きな人影が見えた。
急いで隣まで転移して、鬼人族のその大きな背中が見えて息を呑む。
「ガルフ! ねぇ! しっかりして!」
ガルフの背中を必死にゆする。
「まお……さま……?」
かすれた声が返ってきた。
良かった――生きている。良かった……
「うん。魔王だ」
そのとき、後ろから背中を這うような気持ち悪い気配が膨れあがり、慌てて振り返った。
「魔王様! 危ない!」
左手を地面に思いっきり引っ張られる。
地面に倒れ込む一瞬――遠くに見えたのは、光り輝く金の剣。
それが真横に振り切られた瞬間、右肩に激痛が走った。
あまりの痛みに、目が働かない。だけど、その中で手探りでガルフを探す。
かすむ目が、私の左手がとうの昔にガルフに握られていたことを認識した瞬間、私は王都に転移した。
「エーネ?」
良かった……いた。
ユーリスが王都の教会に居てくれたことに心底ほっとしていると、ユーリスがこちらに走ってきた。
「エーネ、すぐに治す!」
「ユーリス。ガルフを頼む。死にそうなんだ」
私を助けたあと、完全に意識を失ってしまったガルフのステータスを見る。涙でぼやけるけれど、HPはまだ0じゃない。
「ユーリス、お願い……」
「わかった。先にガルフさんを治すから、エーネはここに座っていて。エーネの肩も危険だ。絶対に動いてはいけない」
ユーリスが私のために出してくれた椅子に座ってから、ユーリスがガルフの治療のために後ろを向いた瞬間、私は転移した。
何度も転移する。
何度も何度も、森の中を転移する。
地面に座って足を伸ばして、木に横向きにもたれ掛かった人影をやっと見つけた。
彼女の横に見えるのは、ぽとりと落ちた真っ黒な翼。
「マイカ……マイカ!」
泣いちゃだめなのに、泣いている場合じゃないのに、ステータスを見た瞬間、もう何も考えられなくなって地面に膝を突いた。
こんなところで膝を突いていても、彼女の楽しそうな声は聞こえない。
動け、動くんだ。
重りの詰まったような足で、立ち上がってマイカの前まで移動する。体は赤黒く血塗られていても、顔は今日も綺麗だった。足下にある翼を左手で丁寧に抱えてから、マイカの頬にそっと触れて、私は転移した。
「エーネ! どこに行っていたんだ!」
ユーリスが私の隣にいるマイカを見て息を呑んだ。
「ユーリス。ガルフは?」
「ガルフさんは大丈夫だ……」
「ありがとうユーリス」
笑い方はこれで合っているだろうかと思いながらユーリスに笑いかけてから、マイカの前でそっとしゃがんで、マイカのお腹の傷を隠すように、胸元に翼を置いた。
「マイカ。あとで迎えに来るよ」
「エーネ、待て!」
ユーリスが私の手を掴む前に、私は転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
右腕は動かない。
さっきからぽたぽたと右の手先から血が流れ落ちている。
痛くて痛くて。もう何が痛いのかもわからない。
でも、まだ死なない。
ユーリスに治してもらうと眠くなる。だから、私は怪我を治す前にすべきことを済まさなければならない。
さっき見たあの聖剣を持った人――勇者が徒歩か馬かは知らないけれど、移動速度には限界がある。国境近くに村はもうないから、馬だと想定した場合の1日の移動範囲にある村は1つ。いや、念のため2日だとすると3つか。今から私はその村の住民を奥地まで避難させなければならない。
やるんだ。
ローブから見える右手は、何か別のものに見えるくらいどす黒く染まっているけれど、大丈夫。HPが0になるまでは十分な時間はある。
大丈夫。だから、止まってはいけない。
皆、家財を捨てて逃げなければならないのに、協力的だった。日頃から訪ねていたからだろうか。それとも、私が死にかけだったからだろうか。ありがたかった。
最後は這うように、王都の三神教の教会に転移した。
辺りはもう真っ暗だ。月明かりだけが照らす教会の中を見渡すが、ユーリスがいない。
ユーリスの声がしない。
教会の扉が開いた。
「あら、あらっ!」
その声と共に、司祭様がこちらにぱたぱたと走ってくる。
「走ると……危ないですよ」
「あなたも怪我をしているのね?」
「司祭様。すみませんユーリスは」
「ユーリスは、あの女性の治療をしたあと眠ってしまったわ」
眠った……
そうか、あの子はもうとっくに寝ている時間かと思いながら、自分のHPを見る。
「急いでお医者様を呼びましょう」
「司祭様、大丈夫ですよ」
指先まで完全にまっ黒になって、壊死したようになっている私の腕。
たぶんもう間に合わない。でも、もう痛くはないし、熱も持ってはいない。
顔を上げると、月明かりに照らされて温かな3つの神の像が見えた。
その像に引きつけられるようにふらふらと足を進める。転移したらすぐなのに、歩くとひどく遠かった。
3つの像の前でしばらく悩んでから、右奥に足を進める。右奥の像の前で、ゆっくりしゃがんで、最後は倒れるようにその像に背中を預けた。
顔を上に向けると、女神リュシュリート様の顔が見える。
「平和に過ごすって……難しいですね」
思い返せば、ちっとも守れた気がしない。神本人と約束したはずなのに、なんてだめな信徒なのだろうと苦笑した。
そのまま神の顔を見上げながら、月の光を浴びていると、目の前に人影ができた。
「何か、最後に願いはあるかしら」
そう優しく微笑むのは神の遣いだ。
私の最期の願い――
言葉はすぐに口に出た。
「最期に手を……握ってもらっていいでしょうか」
「えぇ、いいわよ」
その言葉に嬉しくなって、急かすように私の横に視線を向けると、司祭様は私の隣に座ってくれた。
そして、真っ黒に濁った私の右手を両手で優しく握ってから、私に微笑んでくれた。
右手はもう何も感じない。だけど、私のすぐ側に温かな人が居るのは分かる。
ゆっくり顔を上に向けて、イシスの優しい光を見つめながら目を閉じた。
私はもうすぐ死ぬ。
でも――冷え切った体に反するように、心は温かかった。
「――ネ。エーネ!」
体を揺すられて重いまぶたを持ち上げると、日の光の下に、金色に輝く天使がいた。
「ユー……ス?」
キラキラと輝く髪とエメラルドグリーンの瞳――あぁ、今日もなんて綺麗なんだろう……
「僕が助けるから、絶対に助けるから!」
ユーリスが泣いている……どうして?
怖い夢でも見た? と声に出すつもりが喉が動かなくて、ゆっくり閉じていってしまうまぶたで光が遮られる寸前――名を呼ぶ音がして、唇に何かが触れる感触がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ゆっくりと目を開く。
「おはよう魔王様」
体を起こして、右手を伸ばしながら左手でぼりぼりとお腹を掻いた。
「あぁ、おはようマイカ。あれ? どうして私の部屋にいるの?」
あれ? ここは自分の部屋じゃない。どこだろう?
ゆっくりとベッドに近づいてきたマイカをぼーっと見上げていて、その背中にないものに気がついた瞬間、やっと私は思い出した。
「マイカ! ど、どうして……あっ、もしかして私たち死んでいるの?」
ここは地獄か。どうりで見慣れない場所だとキョロキョロしていると、狭いベッドの右隣に天使が寝ていた。
「うわぁ!」
心拍数が一気に跳ね上がる。
「うわぁって、ユーリスが一生懸命私たちのことを治してくれたのに魔王様失礼じゃない」
腰に手を当てて、少し怒りながらこちらをのぞき込んでいるマイカを見上げる。
「な、治した?」
「そうよ。ユーリスがお腹の傷を埋めて、右の翼もくっつけてくれたわ。この翼、魔王様が拾ってきてくれたんでしょ?」
マイカが見せつけるように背を向けた。翼は片方だけしかないが、マイカは――元気だった。
「良かった……良かった」
唇が震えて、それしか言えない。
「魔王様よしよし。ごめんね」
マイカが優しく頭を抱きかかえてくれる。良い匂いだった。
マイカはあのとき確かに死んでいた。だから、生き返ったのはきっとユーリスの力だ。
ユーリスのスキル『癒やし+』。
アウシアの呪いがなくなってから残っていたこの『+』の意味がわからなかったけれど、蘇生能力なのかな? だけど、普段能力を使っただけでは眠くなったりなんかしないユーリスが寝てしまったことから、万能な能力ではないのだろう。当然時間制限もあるだろうし、何にでも使えるとは思ってはいけない。
「って、勇者は! あれから何日経った!?」
外を見るとちょうど日没あたりだ。
「ちょうど一日よ」
丸一日か。よかった……まだ、大丈夫だ。
まだ大丈夫だけれど、何も解決はしていない。
「マイカ。今から私は行ってくるよ。君はここで安静にしておくように」
「エーネ」
そのとき後ろから手を掴まれた。
動悸を抑えながら後ろを向くと、ユーリスが気怠げにベッドに寝転びながら、私の手をしっかりと掴んでいた。
「どこに行くの……?」
「ユーリス。私とマイカとガルフの怪我を治してくれてありがとう。本当にありがとう。でも、私は今からまた行かなくてはならないんだ。手を離してはくれないか……」
転移能力にオンオフ機能はないから、私が手で触れている人は問答無用で一緒に連れて行ってしまう。
「僕も行く」
そう言うと思ったけれど、ユーリスの声はかすれているし、顔色も悪い。
そんな体調でも、しっかりとこちらを見上げているユーリスと向き合うように私も体の向きを変えた。
「ユーリス。今から、勇者がどの辺りにいるか偵察に行ってくるだけで、今日は奇襲はしないよ」
ユーリスはちゃんと状況を分かってくれていると思うけれど、辛そうに何かを考えこんでいる。
私のことを心配してくれているユーリスをしばらく見つめてから、顔だけマイカの方に向けた。
「マイカ、勇者の能力は分かる? ガルフとマイカの二人がなぜ負けたの?」
「魔王様。勇者のあの剣――聖剣だと思うんだけど、見えた瞬間あれが遠くから飛んできたわ。私はいきなりあれで落とされてしまって……」
「飛んできた?」
私が肩を斬られたときも、勇者は確かに遙かに遠くに居た。あれはどう考えても剣の射程の範囲外だった。
あの威力の剣が、間合いなんて関係なしに飛んでくる――自分が唇を強く噛んでいたことに気がついて、軽く深呼吸をする。
落ち着こう。どんな攻撃であったとしても、剣筋から逸れて飛んでくることはないだろう。見えないことはないんだから常に後ろを取り続ければ良い。
そう自分に言い聞かせてから右手を見ると、ユーリスは相変わらず私の手をしっかりと握りしめていた。そのユーリスの口はへの字だ。
「ユーリス」
名前を呼んで、掴まれている右手をユーリスに見せるように持ち上げると、ユーリスは一度私の目を見てから、視線を逸らした。
「僕がマイカを癒やして意識を失って、目が覚めたときにはエーネが死にかけていた。だから、嫌だ……」
「ユーリス。今からミルグレと空を飛んで勇者を探してくる。ミルグレは何人も抱えられないし、機動力が落ちてしまうからユーリスは連れて行けない。でもちゃんと帰ってくるから」
こんな約束では十分でないことは分かっているけれど、これしか約束はできない。「ねっ?」と寝転がったユーリスの顔をのぞき込んだ。
ユーリスとしばらく見つめ合ってから、ユーリスが私の視線を遮るように腕で目を覆った。そして、ゆっくりと体を起こしてこちらを向いた。
「今日は帰ってくるまで、寝ないで待っているから」
「わかった。すぐに終わらせて帰ってくるよ」
ユーリスに向かって笑いかけると、ユーリスは何も言わず下を向いてから、ゆっくりと私の手を離した。
「行ってきます」
そう宣言してから、私は悪魔族の村まで転移した。
その後の二人
「ユーリス。魔王様が帰ってくるまでに、たくさん食べて体力付けなきゃね! そんな体力で失敗しちゃったら嫌でしょう?」
「マイカ。失敗って何のはな――ち、違う!」
「さっき、帰ってくるまで寝ないって言っていたわ」
「そう言う意味じゃない!」




