8話 魔王、判決を下す
「とりあえず、少年。落ち着きなさい」
ユメニアの前で暴走している少年を止めるため、ユーリスと共にメルメルの家まで転移した。
少年は椅子に座りながら私を見上げる。
「俺、魔族語勉強するよ。なぁエーネ、俺に魔族語教えてくれ」
私が答える前に、私の隣で一緒にカケルを見下ろしていたユーリスが口を開いた。
「エーネは忙しいんだ。だめに決まっているだろう」
「じゃあユーリスでいいから」
カケルの言葉にユーリスは慌てている。
「うん、ユーリスに頼もう。二人は歳が近いから、いいんじゃない?」
ユーリスは呆れた顔で私を見た。
「エーネ。こいつは14歳くらいだろう?」
やはりユーリスは勘違いしていたか。椅子に座ったまま落ち着きなく足をぶらぶらさせている少年の方を向く。
「カケル。君が今何歳か、ユーリスに言ってやりなさい」
「18です……」
まぁ、そうだろうなと私が納得できる年齢が、カケルから返ってきた。
「えっ? そんな訳ないだろう?」
「王城でも、勘違いされていたさ! 俺を同い年くらいだと勘違いしている騎士団の新人たちに気を使って、15歳のフリをしなくちゃいけなかった俺の気持ちも考えろ!」
カケルはそうやけくそ気味で言ってから、私を振り返った。
ん? 何だ?
「ユーリス。エーネは何歳くらいに見えるんだ?」
「18?」
18だって? ユーリスがそう思ってくれていたなんて、なんだか照れるなー……
「あいつは大学は出ていそうだから、22から25ってところだ。見た目的にはな」
「えっ?」
ユーリスが戸惑いながら私の顔を見ている。落ち着け。今話しているのは見た目年齢だ。実年齢ではない。
これまで、特に人族の皆が私のことを少し下の年齢に勘違いしているのは気づいていたけれど、私はこの世界に落ちてきたときの自分の年齢なんて覚えていないし、都合良く無視していた。
カケルがこれ以上何かを言う前に、カケルを止めよう。
「私たちは、少し幼く見える種族なんだ」
「そういうことだ」
お互いこれ以上傷をえぐるのは止めよう。カケルと睨むように互いを見てから頷いた。
「で、ユーリスは何歳なんだ」
「ユーリスは19歳だよ」
ユーリスからまだ視線を感じるけれど、私は逃げるように立ち上がった。
「私はちょっと用事があるんだ。どこかの少年の命に関係することだから、今日行かなくてはならなくてね。行ってくるよ」
「お願いします」
カケルは深く頭を下げた。
「ユーリス。カケルのことを頼んだよ」
「あぁ。うん」
笑顔でユーリスに声を掛けてから後ろを向く。
あぁ、行きたくないなぁ。私はこれから向かう場所のことを考えながら転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
うぅ……体がむずむずする気がする。
もうここには何もないと頭ではわかっていても、不気味な気配が残っている気がして寒気がする。部屋の中に、ぽつんと一つだけあった椅子に腰掛けていると、扉が開いた。
「魔王様。どうかなさいましたか?」
「やぁ久しぶりだね。ラッツェ」
ラウリィとよく似た整った顔の魔人族の族長は、いつものように優しく微笑んだ。
綺麗な微笑みだけど場所と相まって、逃げたくなるような笑みだ。
「ちょっと昨日色々あって、教皇に会いたいんだ」
「今でしたら構いませんよ」
ラッツェさんはそう言いながら部屋に入ってきて、後ろ手に静かに扉を閉めた。
「行こうか」
「えぇ」
ラッツェさんの手を握って、教皇の部屋まで転移した。
「やぁ、エザル。久しぶりだね」
豪華な椅子に深く腰掛けて休憩していた老人は、突然現れた私を見上げて口をぱくぱくしていた。顔が下から、徐々に赤くなってきている。
「魔王様。こちらにお座りください」
「あぁ、ありがとう」
ラッツェさんがお客さん用のこれまた豪華な椅子を中央に置いてくれたので、そこに偉そうに腰掛ける。
私を見て言葉が出ないらしい教皇を、真正面の席から静かに見つめた。
やあ、みんな! 教皇は死んだと思っていた?
もう、私がそんなひどいことをするわけがないだろう?
人族の王様に会いに行ったあの日、なぜか教皇をお持ち帰りしてしまった私は、この老人をどうしようと今後の扱いに困っていた。そんな中「魔王様。アウシア教の教皇を捕らえたと聞きましたが、私に譲っていただけませんか?」と言われて、私は一も二もなく了承した。私は魔人族へのツケをチャラにしたことに対して心苦しく思っていたし、老人の身一つくらい安いものだ。
私は自分の身の方がかわいいのだ。
そんな訳で、今ラッツェさんは王都にあるアウシア教の大聖堂で教皇の付き人のようなことをしている。そのラッツェさんが、私がこの建物に入れなかった原因となるものを壊してくれたおかげで、私も大聖堂に入れるようになった。
椅子に座って赤い顔で震えている教皇の隣には、いつの間に移動したのか、上から下まで真っ白の色のローブを着た整った顔の若い男――ラッツェさんが立っているのが見える。隠密スキルなんてものを所持している所為か、整った顔立ちなのに街中で見かければ、すぐに視線を逸らしてしまいそうなほど印象が薄い。けれどもこの人は、精霊族の族長や、天使族の族長などという行動に制約のあるでたらめな人たちを除けば、この世界最強の魔法使いだ。
そんな何を考えているのか分からない魔人族の族長が、優しい笑顔で、まるで『自分はただの人族です』というような顔をして、アウシア教教皇の隣に立っているのを見るたびに思う。
教皇、かわいそう……
私を見てぷるぷると震えている教皇を見ながら、今日もしみじみとそう思った。
「今日は何の用だ! 悪魔め!」
老人が真っ赤な顔で、私に向かって叫んでいる。どう考えても私より、その気になればこんな建物なんて一瞬で粉々にできる横の男の方が怖いだろうと私は思うのだけど、この老人の判断基準がわからない。
「エザル。新しい勇者が立った」
老人は驚いている。レグルストが勇者でなくなったことは隠していたが、老人のこの驚き方は何も知らないのだろうか……?
老人の反応を観察していると、老人が卑しく笑った。
「あの小僧死んだか」
その表情と言い方に、少し感情が高ぶって魔力が自動的に大きく動く。けれども老人に向かった魔力は、途中で老人を守るようにせき止められた。
意識がそちらを向く。
へぇ、少しは抵抗できるのか。どうしよう。押し流そうか?
「魔王様。怒りを静めてください」
ラッツェさんと喧嘩をしても意味はない。落ち着こう。
「別にレグルストは死んでいないよ。新しい勇者が召還されただけだ。その様子では何も知らないね?」
「知らん」
ラッツェさんを見ると、ラッツェさんも頷いていた。ふーん、アウシア教ではないのかな? それともアウシア教の別の派閥なのかな?
私が教皇の顔を観察しているとラッツェさんが口を開いた。
「魔王様。新しい勇者とはどういうことですか?」
「2ヶ月前、王城の奴らが召還したらしい。その新しい勇者は今は私のところにいるんだけど、その本人が王女が指揮を執っていたと言っていた」
「あの王女が?」
「うん。まぁ人選として不可解だったから、ここに来た。でも何も知らないのならもう行くよ。もし何かわかったら教えてくれ」
「魔王様。王城に向かうのなら私を連れて行ってはもらえませんか?」
転移しようと立ち上がった私をラッツェさんが呼び止める。何だろう? 何が目的だろう。
でも、王城に連れて行く魔族として魔人族は最適だ。それに今日は血生臭いことになるかもしれない。この人だったらきっと冷静に対応してくれるだろう。
「いいよ。早速行こうか。ラッツェ、私の護衛頼んだよ」
「かしこまりました」
恭しく私に頭を下げた男が、顔を上げたあと、私はその手を掴んで転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
相変わらず悪趣味な部屋だなぁ。こんなにキラキラしていると、まぶしくて気が散ると思うのだけれど。
「やぁ、人族の王家のみなさんこんにちは」
私が笑顔でそう言ったとき、天井から大きな物音がして、緑の大きな膜が私の体全体を覆うように現れた。
顔を天井に向けると、天井から槍が生えているのが見える。
「ぐぅっ!」
天井から男たちのうめき声がして、ドサ、ドサと大きなものの倒れる音が続いた。
「手加減はしました」
「ありがとう」
後ろから聞こえる声にそう答えて、優雅にランチを楽しんでいたらしい王と王女の方を向く。
「無礼者! 王の御前であるぞ」
王を守るように、私と人族の王の間に護衛の兵士が割り込んできた。
「私も王だ。だから邪魔はしないでくれ」
そのとき、剣を抜いてこちらに斬りかかろうとしていた護衛の人たちが、突然白目をむいてどうと真横に倒れた。
大の男がこけしのように、力なく真横に倒れるのは、驚くものだ。
うん。驚かないように無表情で頑張っているけど、さっきから後ろの人は何をやっているのだろう。本当に手加減はしているのだろうか……?
「魔王様。邪魔者はすべて排除しました」
「うん。ありがとう」
後ろから聞こえる言葉に、人選ミスったかなぁと思いながら、こちらを挑むように見ている王女をまっすぐ見つめる。
「何か用かしら? 汚らわしき魔族の王」
王女はツンと顔を上げてこちらを見た。17歳くらいの小娘にしては素晴らしい度胸だと褒めたくなるような態度ではあるけれど、後ろの人の気配で冷や冷やするから止めて欲しい。
「王女ティーリア。勇者を召喚したのは君か」
「ええ、そうよ。でも使えなかったようね」
この見事な開き直りっぷり。カケルが気の毒になった。
「君一人でやったわけではないだろう」
「あら。あなたを殺すためにたくさんの人が協力を申し出てくれたけれど、考えたのは私よ」
そう言ってから王女はにっこりと笑った。
恐らく協力を申し出た人々の中に、王女の思考を誘導した人がいるのだろう。無償の協力などあり得ない。だけど、王女のこの態度――死にたいのかと確認したくなるような態度を見ると、王女本人は自分がやったのだと信じ込んでいるのだろう。
王女を泳がしてあぶり出そうか? でもそれをするには、貴族間の人脈について熟知している駒が必要だけど、そんな駒を私は持っていない。
それに――
「王女。君が私を殺したいのは勝手だけれど、王女である君が、私を殺すために動くことの意味を理解しているのか? 君は王家の人間だ。普通の村人が私を殺そうとしても、私は無視する。だけど、影響力のある人間だと話は別だ。君は普通の人よりも贅沢な暮らしをさせてもらっていて、君にはその暮らしに相応する責任がある。君の行動には責務が伴うんだ」
うーん、偉そうに説明したけれど、王女のこの顔は自分がどれほどのことをしたのかまったく理解していないな。
どうしようか。敵国の王様だったら、領地没収くらいはする規模の話だと思うけれど、私は人族領の領地は必要ない。
王女の隣を見ると、人族の王は今日も私から目を逸らすように下を向いている。王と王女の私に対するこの態度。もはや人族の王族たちは、本来の役割を放棄している。
その方が都合のいい人たちが、長い年月をかけてそういう風に作り上げたのだろう。
「王女。君はこの国のこれからの未来をどうして行きたいと考えている?」
王は答えないだろうから、王女に聞いてみる。王には子どもがこの子一人しかいないから、この子かその婿が王になるのだろう。
その未来の王が言った。
「この国の未来なんて、私知らないわよ。勝手に決めるでしょ?」
手を固く握りしめて、王女としばらくにらみ合ってから、ゆっくり手をほどいた。
「……決めた。王制は廃止にしよう。なくても動く」
人族の王を廃止にすれば、色々とその裏に隠れていた部分も出てくるだろう。私はそれを見逃さないようにすればいい。
そうだな。ではこれから――
「ではこの者たちは殺しましょう」
ラッツェさんのその言葉に驚いてそちらを振り返る。
「えっ、殺さないよ」
これからどうするかまだ詳細は考えていなかったけれど、その考えはなかった。
ラッツェさんは珍しく険しい顔つきで私を見ている。
「魔王様。なぜ殺さないのですか」
「だって女の子だよ?」
「貴女を殺そうとしたのですよ? それは関係ないでしょう」
王女を振り返ると、驚いた顔でこちらを見上げていた。
「あの子、自分が何をやったのかもわかっていない。そんな子どもを殺しても意味はない」
「我らが王を殺そうとした人族の王を、私は許すことなどできない。私は貴女の意思に反しても今ここで殺します」
まさか今日はこのために付いてきたのだろうか。苛立つような目のラッツェさんの体に、魔力が目に見えるくらい渦巻いている。
今ここでその魔力を吹き飛ばすことはできるけれど、そんなことをしても意味はない。決断を少し先に延ばすだけだ。
必死に頭を動かして、私も決意する。
「わかった。王と王女は島流しにする」
「島流し……ですか?」
「本来は近くの小島に隔離するものだけど、手頃な小島はないから、魔族領に送る」
ラッツェさんは「それだけですか?」と不満げに私を見ていたけれど、「いいね」と魔力を押し返すように出して頷かせた。
そして私は二人の王族の後ろに転移する。
「君たちは、魔族領が一度どんな場所か見てみるといい」
そう言ってから、二人の首に触れた。
ドサッと二人が地面にしゃがみ込む。
「では、またな。人族の王ジーリィード。王女ティーリア」
何も言わずに困惑した顔で座り込む二人を残して、私は魔族領最奥部の平原から転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「魔王様。人族の王たちの監視、私たちに任せてもらえませんか」
私が部屋に戻ってきて、魔人族の族長は開口一番にそう言った。
あの二人の王族をあのままにしておくと、確実に魔獣に食べられるから早めに誰かを付けようとは考えていたけれど、読まれていた上に、まさかこの人が名乗り出るとは。
この人は、何の目的もなく動く人ではない。
「人族領での探しものはいいの?」
私の言葉に魔人族の族長は否定せず、何かを隠すように微笑んだ。
「人族の王たちの監視は私ではなく、魔人族から別の者を付けます。送迎は頼んでもよろしいですね」
「わかった。送り迎えは私がしよう」
感情は読めないけれど、ラッツェさんは私の言葉を否定はしなかった。やはり、魔人族は人族領で何かを探しているのだろう。
私もつい最近知ったのだけれど、魔人族の中で、隠密スキルを持っている人たちは全員人族語が話せるそうだ。もちろん知ったときは「先に言ってくれよ」と過去の自分の努力を思い出して泣きそうになった。
魔人族は、人族語を勉強して、隠密スキルを付けて、人族たちに紛れるように人族領を巡っている。ラッツェさんが教皇の付き人をしているのも、それに関係することなのだと思うけれど、この人たちがそこまでする何か――それは何なのだろうか。
探しもの、もしくは何かの調査だと想像はしているけれど、彼らは人族領で一体何を探しているのだろう。
「ラッツェ。私は君たちに世話になっている。だから私にできることがあれば手伝うよ。君たちの探しもの、見つかるといいね」
ラッツェさんは一瞬静かに私を見つめて、「えぇ」と感情を隠すように微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
近くまで来たのだからと跳んできてみれば、相変わらず汚い。いや、男の手の届く半径1メートルだけが汚い。
「あっ、魔王様どうしたの?」
マーシェがテーブルの上で本を何冊も広げて、てきぱきと紙に何かをまとめていた。
「この男に用があるんだ」
「うーん、あと2時間はそのままだと思うな」
助手のマーシェがそう言うのだから、そうなのだろう。仕方ない。
今日も椅子があるのになぜか地面に座って本を貪り読んでいる男に向き直す。そして、軽く深呼吸をしてから、魔力を前方に向けて放出した。言葉なんてものを使っても意味がないことは、この男を知っている皆が理解している。
「魔王様のそれ便利だねー」
「何だ」
男が煩わしそうに顔を上げた。
「ローディス。王女が勇者を召喚した」
私の言葉に、ローディスは「勇者召喚か」とくっくっくと笑い出した。
「で、聞きたいんだけど勇者召喚はこれまでどのくらいの頻度であったことなの?」
「勇者召喚の儀式はたびたび行われているが、成功するのは稀だ。記録が残っている範囲で一番新しいのは365年前だ」
カケルは365年ぶりの召喚された勇者様か。
「魔王。それで王女はどうした?」
男は私の行動に期待するかのようにこちらを見上げている。
「王と王女は魔族領に送ったよ。頑張ればここに帰ってこられると思うよ」
私の言葉にローディスは再び笑い出したあと、私の顔を楽しそうに見上げた。
「王族にとっては、死んだ方がましな処罰だな」
「そこまで酷い場所ではないよ……?」
男は「素晴らしい」と、褒めているのか、けなしているのかわからないことを呟いた。
男は何を想像しているのだろうか。虚ろな目で気味が悪いくらい微笑んでいる。
「急に不在になった王が所有している権利に対して、貴族間の抗争が勃発するだろう。血で血を洗うような醜さになるだろうな……」
「ローディス。これからの貴族の動きに関して、何か目立ったことがあれば教えてくれ」
「あぁ。わかった」
男はそう言ってから、私をまっすぐ見上げた。
「魔王。ありがとう」
どういたしましてなんて言う気にはなれなくて、男から距離を取るように一歩下がった。そんな私を、男は地面に座ったまま見上げていた。
「魔王、以前頼まれたことの調査がすべて完了した」
調査……? 突然の男の言葉に頭が動かない。
あぁ、あれか。私は以前、私の個人的な頼み事をローディスへ依頼した。まさか覚えていてくれた上に、まだ調査を続けてくれているなんて思わなかった。
「どうだった?」
「記録は見つからなかった」
その言葉に、やはりそうなのかと納得してから――なぜか足下が、大きくぐらついた。
男が私の顔を観察しているのがわかる。だけど、私は言葉を出す余裕がなかった。
「あくまで人族側の記録だ。魔王に関する記載は元々少ない」
「……うん」
慰めてくれているのだろうか。いや、この男に限ってそれはない。ただ、事実を述べているだけだろう。
「ありがとう……じゃあね」
それだけ言い残して、私は転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今日は色々あったから、私は疲れているのだろう。
透き通る湖を立ってしばらく見つめてから、地面に座って、そのまま後ろに寝転んだ。目にしみるような青空をそのままぼーっと眺める。良い天気だ。
この中央山脈の湖は、いつも誰もいないように見えるけれど、本当はこの空に天使が隠れているらしい。目をこらして見ても、天使の白い羽根は見えなかった。
「今日も見えない……」
ユーリスはたくさんいると言っていたけれど、たくさんの天使たちが、この空を一体どんな風に飛んでいるのだろうか。
「いつか、見てみたいなぁ……」
体を横に向けて、感傷的な心を静めるために、目を腕で覆った。
何かの気配がして目が覚めた。
体を起こして周囲を見渡してみるけど、もちろん今日も誰もいない。気のせいかな?
少し寝てしまったようだ。寝て頭もすっきりしたし、もう起きよう。
立ち上がってもう一度湖を見つめてから、何も見えない空を見上げて、手を上げる。
「天使さん。何か困ったことがあったら言ってね」
青空に笑顔で手を振ってから、私は転移した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
メルメルの家に転移してきたけれど、誰もいない。どこに行ったのだろう。
ふと窓の外を見ると、ちょうど探していた二人がいた。家の外に転移すると、二人はメルメルの家の前で木刀で打ち合っていた。
ユーリスにこれを言ったら嫌がられそうだけれど、ユーリスには年の近い友人があまりいなかったから、できればカケルと仲良くなってほしいと思っている。
今日一日一緒に過ごして少しはカケルと仲良くなっただろうか。ほほえましい気持ちで二人の様子を見ると、ユーリスは木刀でカケルのことを容赦のなく叩き返していた。痣だらけでユーリスに向かうカケルの足取りは大分怪しい。
仲良く、なった……?
「エーネ」
ユーリスが私のことに気がついて打ち合いが止まる。それと同時にカケルが木刀を置いて、地面に倒れるように座り込んだ。
「えっと、お疲れさま。ずっと二人で打ち合いをしていたの?」
ユーリスは私の言葉にカケルを振り返った。
「あぁ。カケルがユメニアにも負けて、強くなりたいから手伝ってくれって」
「それで手伝ってあげているんだ?」
ユーリスは私の言葉に目を逸らしながら口を開く。
「エーネ。カケルはしつこいんだ」
「そっか」
笑ってそう言った私を、ユーリスは少し睨むように振り返った。それを見て、へへーとからかうように笑う。
「あのさー、エーネ。俺どうなった?」
その声に振り返れば、カケルが地面に座ったまま私を見上げている。
「あぁ、君はしばらくそのままだ。今、人族領に帰ると、本当に殺されるかもしれない」
王が不在になって、王城はしばらく貴族間のごたごたで揉めるだろう。勇者であるカケルは、政権抗争に巻き込まれる可能性がある。
「あっ、そうっすか……」
「ごめんね」
「いや、ありがとうございます……」
さすがに少しダメージを受けている様子のカケルをしばらく見つめてから、ユーリスを見上げる。
「ユーリスはどうする? ユーリスは人族領に戻っても大丈夫だと思うけれど」
「僕はしばらくここにいるよ。あいつのことが不安だし、この辺の村で僕の仕事もあるようだから」
ユーリスの減ったMPを見て頷く。
「ユーリス、ありがとう」
笑顔でそう伝えてから、少し赤くなってきた空を見上げた。
「じゃあ、私は仕事があるから戻るね」
「エーネ!」
振り返ると、ユーリスはまっすぐこちらを見ていた。どうしたのだろう。ユーリスは何か言いたそうだったけれど、言葉はなかなか出てこなかった。
「エーネ。お休みなさい」
やっと出てきた言葉に私は微笑みながら頷いた。
「うん。ユーリス、お休み」
ユーリスが魔王城で暮らしていたときは、こんなにお休みと言われただろうか。
ユーリスが眠るまでベッドの横で見守っていた小さなころを思い出しながら、そう言葉を返して私は転移した。




