2話 『魔王の友だち』
一枚の大きな紙を、細かく千切ってからぺたぺたと適当に貼り直したような私の記憶。
断片的すぎて時系列はよく分からないし、大切な記憶ほどはっきり消えているらしいので、残っている記憶が私にとってどのくらい価値のあることなのかは分からない。
でも、ばらばらの記憶の中で、いくつかはっきりと覚えていることもある。
『誰か』に向かって必死に手を伸ばしている幼い頃の私。その小さな手を、その人が振り返って掴んでくれることはないのだとわかったとき、私はその手を伸ばすことを止めた。
私は、諦めた。
そして、私は毎日机に向かって、何かを待っていた。毎日良い子にしていれば、もしかしたら私のところにも来てくれるのではないかと、良い子のフリをしてずっと待っていた。
机の引き出しが開いて、あの『青い』何かが私に会いに来てはくれないかと――ずっとずっと、待っていた。
あの小さな女の子は、一人机に向かって、何を待っていたのだろうか……
思い出したいのに、思い出せなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
やあ、みんな、久しぶりだな。私は魔王だ。
私の仕事はこの世界の魔力を整えること。
そして――
「あれ? 今日はどうしたんだ? かかって来ないのか?」
上空を飛ぶ無数の美女たちにそう声を掛けると、私の言葉に耐えきれなくなったのか、3人が無計画に飛びかかってきた。私はその美女の特攻を、もちろん余裕を持って転移で避けた。
私は、強い魔族が暇すぎて何かをしでかさないように、定期的に彼女たちと遊んでやっている。これも、まぁ私の仕事だ。遊んでいるわけではないぞ!
避けられて悔しそうな美女たちを笑顔で見つめていると、上空を埋め尽くす悪魔の中から一人の美女が高度を落として艶やかに微笑んだ。
「魔王様。今日の私たちは少し違うわ」
いつもと様子が違うミルグレ――悪魔族族長代理を見つめる。今日はどうしたんだろう。なぜか自信満々だ。
「何を隠している?」なんて聞いてしまうと、純粋な悪魔族中の誰かが口をこぼしかねないので、聞かないように黙って悪魔族たちを見つめる。悪魔族はそわそわとしながら、互いに見つめ合って頷いていた。
「じゃあ、みんな。『くんれん』通りにやるわよ」
訓練。まさか『訓練』なんて言葉をミルグレから聞くとは思わなくて驚いた。『遊び』の言い間違いではないだろうか。
「あんなに頑張ったからね。今日こそは!」
「魔王様。行くよー」
他の悪魔族たちからも気合いの言葉が続く。ほんとにどうしたんだ今日は。前回土産としてもってきたお菓子の数が、村の人数に少し足りなかったから暴走しているのだろうか?
「前回売り切れてしまっていて足りなかった分は、今日用意してきたぞ! 今は持っていないけど、ちゃんと私の机の上に用意してある!」
「魔王様、何の話? まぁいいわ、始めましょう」
ミルグレが肉食獣を思わせる笑みをこぼして、今日も悪魔との鬼ごっこが始まった。
いつもと様子が違う美女たちの突撃を少し警戒しながら避ける。だけど罠でもあるのかと思いきや、そんなことはなさそうだ。いつも通りの突撃――それでも昔よりは連携して飛んでくるようになったので、避ける方も逃げ切れる穴を考えておく必要があるが――私はいつも通り一人一人の最大速度から避けきれる位置を計算しながら、ひたすら転移で逃げ続けた。
それにしても、今日の悪魔族たちは私に避けられても悔しそうに見えない。避けられることを想定している? その割には、私を罠にはめる――どこかに私を追い詰めようとしているようには感じない。
「今日はどうしたんだ? ほんとに……」
「あのね! きょう――」
私のつぶやきに、反射的に言い漏らしそうになった悪魔族が、瞬時に現れた仲間二人に同時に蹴られて遠くまで飛んでいった。飛んでいった方角から、「そういえば、魔王様には内緒だったねー!」との声が聞こえる。
「あぶなかったー」
「冷や冷やするわね」
防衛が済んだ二人の悪魔がこちらを向く。
二人が同時に飛びかかってきたけれど、私は普通に避けた。
数時間後――
地面に手を突いて、ゼーゼーと荒い息を吐いている美女たちの姿が見える。消費MPは新記録を更新したけれど、結局何も起きなかった。
「ふう、さすがに私も少し疲れたな」
いつもは途中で参加者がどんどん増えて、悪魔族vs魔王の鬼ごっこになるのだけれど、今日は最後までユメニアは現れなかった。どうしたのだろうか?
一人だけまだ元気に上空を飛び続けているミルグレに声を掛ける。
「ミルグレ。今日はユメニアは?」
「ユメニアなら、今朝、下にいるのを見たわ」
ミルグレが下を見ながら「あぁ、居たわ。そっちよ」と、木の根元に向かって指を指すので、そちらを見るために村の端まで歩いて移動する。
村の端から下を覗くと、魔樹の真ん中にある悪魔族の村からさらにちょうど半分くらいの高さに、ユメニアが黒い槍を抱えて飛んでいるのが見えた。
「おーい! ユメニア!」
「あっ、魔王様!」
ユメニアがこちらを見上げて、笑顔でこちらに飛んでくる――
そのとき、パシンという軽い音と共に、私の目の前に突然何かが現れた。
一度左右を見てから首を上に向けると、その何か――木の皮で作られた網目状のものが、私の周囲全体を覆っているのがわかった。そして、ゆっくり後ろを振り返ると、いつの間にかオレンジ色の髪に、くりくりした黄緑色の目をもつ女の子――猫人族のメルメルが、私を捕らえる木の皮でできた『檻』の向こうで、笑顔でこちらを見つめていた。
「さすが、メルメルです!!」
悪魔族の間からそんな歓声が上がり、目の前のメルメルが周囲の歓声に応えるように片手を挙げた。
鳴り止まない拍手の中、私を捕らえている檻を見上げる。
木の皮に、カモフラージュするように魔樹コノーキナンノキの葉が貼り付けられている。先ほどまで魔樹の生い茂る葉の中に、私に見つからないように隠れていたのだろう。そして、私が近くまで来るのを見計らって、メルメルは上空から音もなく飛び降りた。
私は檻に捕らえられていても転移で逃げることはできるけれど、それでも、負けは負けだ。
「今日は、負けたよ……」
私は咎人のように地面に座って、笑顔で喜び合う悪魔族の歓声が止むのを待った。
大喜びしている綺麗なお姉さんたちを、笑顔で見つめているメルメルを見上げる。
「メルメル。魔樹の中で今日一日中ずっと待機していたの?」
「はい。魔王様がどこに跳んでくるのか分からないので、今日成功するとは思いませんでしたけど」
そんなメルメルの隣で、ユメニアがミルグレに褒められて照れていた。
「この檻は?」
「それはトムさんが作ってくれました」
犬人族のトムか。そういえば一月ほど前に、家の修理を頼みたいから連れてきてくれと頼まれた。恐らくそのときだな。手先が器用で、気の弱いトムは美女軍団に簡単に押し負けたのだろう。
「それで、この作戦を考えたのは貴様か? 勇者レグルスト」
村の中から現れて、こちらに向かって来る白金色の髪の男を見る。
「あぁ」
勇者は軽くそう答えながら、檻の中で座り込む私を見て笑った。
恐らくメルメルの位置を知っていたのは、悪魔族の中ではユメニアだけだ。他の悪魔族に余計な情報を教えると私に感づかれるからな。多くの悪魔族は「いつも通り遊んでいろ」くらいの指示しか受けていないだろう。
悪魔族の生態を熟知した巧妙な作戦。おのれ勇者め!
「ふん、捕まったさ!」
「うまくいったようだな」
勇者は笑ってそう言ってから、周囲の美女たちを振り返った。
「良かったな」
「ありがとう! 勇者!」
大勢の美女たちに褒められても、涼しい顔で対応している勇者を頬杖をつきながら見上げる。これだからイケメンは。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私が人族の王城で第一回種族会議を開催したあと、何か考えがあったのか勇者は騎士団長の職を辞めてしまった。そして無職になった勇者は当然のように東州で働き始め、現在は主に東州で魔獣退治をしている。その送り迎えを私が手伝っているのだけれど、当然タダではない。
悪魔族を鍛えさせるべく、村に何度も送り届けているうちに、いつの間にか勇者の拠点が東州の領主の館からこの村に移った。そして、いつの間にかイスカのもとに、コウノトリさんが訪れたらしい。この村に、不思議なことが続くものだ。
と言うわけで、現在のイスカは魔王軍将軍の仕事を休ませて、悪魔族の村でゆっくりさせている。新婚さんのお宅に突然押しかけるのは、いつもは絶対にしないのだけど、勇者は今ここで別の美女たちに囲まれているし、いいだろう。
私はイスカに会いに、新婚さんのお宅に転移した。
格好いい将軍用の鎧は脱いで、私のプレゼントした紺色のエプロンを身につけてくれているイスカがすぐにこちらを振り向いた。
「あ、魔王様! 外の騒がしさを見ると、捕まりましたね?」
「あぁ、見事に捕まったよ」
イスカは目の前の主には同情する気はないらしく、自分のことのように喜んでいた。
「私も出たかったのですが、皆にだめだと言われました」
「そりゃそうだ」
イスカは子どもができても将軍職を続ける気満々だったけれど、イスカは初産なので悪魔族の中でも年長のお姉さまたちと相談のもと、無理をさせないことに決めた。現在イスカの剣は、魔王城の隠し部屋に隠している。
最近のイスカは、お腹のふくらみが少し目立つようになってきた。そして少し雰囲気が丸くなったように思う。勇者がいるときのこの家のオーラは――思わず逃げ出したくなるほどだ。まぁ……わかるだろう?
私がそんなことを考えていたから、勇者が帰ってきた。
「おかりなさい!」
「イスカ、ただいま」
おかえりなさいって、勇者がいたのすぐそこだろうという気持ちは置いて、邪魔をしないように隅に寄る。一言声を掛けたらすぐ出て行くかと待っていると勇者がこちらを振り向いた。
「魔王。明日からはもう少し東州の北の方に足を伸ばそうと思う。すまないが、明日に送ってもらっていいか」
「あぁ、わかった。明日また迎えに来るよ」
「ありがとう。あと、ユメニアが探していたぞ」
「わかった」
勇者はイスカに教えてもらっているのか、簡単な魔族語は話せるようになってきた。楽しそうに魔族語で会話する二人を見つめる。
さぁ、そろそろユメニアのところに行くかと転移しようとした瞬間、それは起こった。
『勇者』という存在。魔王が感じ取れるその特別な存在感。
それが――当たり前にあったそれが、不意に消えた。
勇者は、何か手からこぼれて空に逃げていくものが見ているように、右手を見つめてからゆっくりと天を見上げた。
そして私を振り返る。
「魔王。どうやら私は勇者ではなくなったらしい」
その勇者の顔を、しばらく呆然としながら見つめて、私は言葉を絞り出した。
「勇者レグルスト。お疲れさまでした……」
「魔王エーネ。なぜ泣く?」
だって……
ぽろぽろと涙をこぼす私を苦笑しながら見ている勇者の下に見えるその文字――
かつては『勇者』と書かれていたそこに、新たに現れた文字。
『ジョブ: 魔王の友だち』
なぁ、みんな。これは反則だと思わないか?
涙でぼやけるその文字をしばらく見つめてから、こぼれていた涙をぬぐって顔を上げた。
「レグルスト。本日付で勇者をクビになった貴様に、魔王エーネの友だちの仕事をやろう!」
「そんな仕事いらん」
勇者の当然のようなその言葉のあとも、変わらないジョブ名を見つめてから、私は15年の付き合いになる友の顔を見上げて笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
勇者の話によると、勇者が勇者でなくなったのは恐らく新しい勇者が現れたかららしい。
2ヶ月前のあの日から人族領の各地を探し回ってみたけれど、新しい勇者が現れたという噂はなかった。勇者本人が勇者に選ばれたと気づかないことも多いので、今回の勇者もまだ気づいていないのだろうと言うことだ。
「新しい勇者か……」
私にとって、勇者とはあの白金色の髪のイケメンのことだ。それ以外の勇者なんて、想像ができない。
魔王と勇者。
今度の勇者が、勇者レグルストと同じくらい魔族に好意的だといいな。私は勇者を殺したくないし、勇者に殺されたくもない。
自分の執務机の上で考えごとをしていると、空が茜色になってきた。
「そろそろ今日の送り迎えに行くか」
立ち上がって黒いローブを羽織る。
今、この城には、アーガルとラウリィとパメラとクルーゼルしかいない。イスカとユーリスが居なくなって、この城がそれ以上に静かになってしまったように感じる。
私は少し寂しいのだろう。イスカを勇者に取られてしまったように感じて、そして――
3ヶ月前のあの日、私の名の花の前でユーリスが私に言おうとした言葉を、私は言わせなかった。
聞かなかったから、ユーリスが本当は何を言いたかったのかはわからない。だけど何となく予想は付く。この魔族領に人族は私とパメラしかいない。だから、さすがの私も薄々そうではないかと気がついてはいた。
気がついていて――どうにかしなければと頭の中では考えつつも、忙しさやユーリスの身の安全を言い訳にして、私は行動に移そうとしなかった。
その結果がこれだ。私はユーリスをひどく傷つけてしまった。
何をやっているのだろう、私は。
私が謝っても、私に対する癒やしにしかならないから、ユーリスには謝らない。だからせめて私は、ユーリスの前では何でもないように、以前と同じように振る舞わなければならない。
あと数年……いや数ヶ月もすれば、ユーリスは可愛い女の子を私に紹介してくれるだろう。だって、ユーリスはあんなに綺麗で、しかも優しいのだから。王都の女の子にもてないはずがない。
そして――いつかユーリスにも子どもが生まれるだろう。きっと可愛いんだろうな。
今度は、誘拐しないぞ? ほんとうだぞ?
自分でも信用ができない言葉に苦笑してから、
「さぁ、行くか」
王都にある三神教の教会まで転移した。




