1話 禁句
「あなたは魔族を傷つけない――聖女との約束です」
「お約束します。聖女様」
しっかりと握手をしてから、その手を離して微笑んだ。その女性は少し赤い顔で僕に「ありがとうございます」と礼をしてから、僕から逃げるように教会を出て行った。
今日も20人の『癒やし』が終わって、額に浮かんでいた汗を少し拭いながら椅子にもたれ掛かる。僕がそうして休んでいると、三神教の司祭様が今日もにこにことしながら僕のところにやってきた。
「ユーリス。今日も人々のためにありがとうございます。豊穣の女神アイロネーゼ様もきっとお喜びですよ」
「司祭様。ありがとうございます」
司祭様が持ってきてくれた水を受け取って、一息つく。
俯いていた顔を上げると、長いすに座って神の像をまっすぐ見上げている司祭様が目に入った。そんな司祭様の邪魔しないように、僕は像の前に置いていた椅子から立ち上がって司祭様の横まで移動する。
「ユーリスも座ってくださいな」
隣に立った僕を見上げる司祭様に優しくそう言われて、司祭様の横に腰掛けた。
「ユーリスはもうここには慣れましたか?」
「はい、おかげさまで」
教会の端に目を向けると、今日も壁際に佇む鬼――鬼人族のガルフさんが僕の護衛として待機してくれている。僕の視線を追うように司祭様もそちらを見て、優しく微笑んだ。
「あのお方は、今日も屋根の修理を手伝ってくださって、孤児院の子どもたちとも遊んでくださったのですよ。ユーリス、“ありがとうございます”。これで合っています?」
感謝の気持ちを伝える魔族語はこれで合っているかと聞かれて、「はい」と僕は頷いた。司祭様は、僕の返事に嬉しそうにガルフさんを見てから、静かに神の像に視線を戻した。僕も同じようにそちらに顔を向ける。
神に語りかける僕たちの間に、静かな時間が流れた。
司祭様がゆっくり腰を上げる。
「ユーリス。あの子が来るまで、私は少し用事があるので外しますね」
「ええ」
司祭様が教会を出て行くのを見送ってから、顔を正面に戻した。
夕日を浴びる優しげな三神様の像。左奥から豊穣の女神アイロネーゼ様、創造の神ディヴァイアート様、循環の女神リュシュリート様。僕は僕の神――聖女の力を司る神であるアイロネーゼ様の像を見つめた。
「アイロネーゼ様。僕はどうすればよいのでしょうか」
神からの返事はない。けれども今日も僕は、神にその答えを問いかけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(3ヶ月前)
「ユーリス。ちょっといいかな? 今日、一緒に見たいものがあるんだ」
最近エーネは人族領で『この世界の決まり』を配るのに忙しいらしく、あまり顔を見ることができていなかった。僕のところに突然やってきて、嬉しそうにそんな誘いをするエーネを、心が躍るのを感じながら見つめる。
「エーネどうしたの? 何を見るの?」
「ふふん。それは見てからのお楽しみだ」
エーネは僕に秘密にしたいらしく、そう楽しそうに言った。結局僕は、エーネが僕と『一緒に』見たいと思うものなら、何だって嬉しいのだ。
「よく分からないけど、いいよ。行こう」
「うん。ユーリス行こう!」
今日も僕は笑顔で僕を見上げるエーネの手を、壊さないように優しく――そっと握った。
僕の目の前にたくさんの『色』が広がっている。
「ここは……」
エーネが僕を連れてきたのは、広い庭だ。魔王城の剣を振るうためだけにある簡素な庭ではなく、色とりどりの季節の花が咲いた手入れのされた庭――花の量だけで言ったら、東州領主の館よりも多いだろう。この庭の主は、随分と花が好きなようだ。
僕の横に立っているエーネを見ると、エーネも驚いたように庭を見つめていた。てっきりエーネの知っている場所なのだと思っていたけれど、エーネもここに来るのは初めてなのかもしれない。僕は花に気を取られているエーネの邪魔をしないように、そんなエーネの様子を目を逸らさないように見つめながら、エーネが話し始めるのを待った。
「ユーリス」
そう僕の名を呼ぶエーネの視線は、花に向いたままだ。
「ユーリス、王都の情報屋に頼んでこの場所を教えてもらったんだけど、思ったよりも凄い場所だ……」
「きれいだね」
エーネは「うん」と頷いてから、僕を見上げた。
「ユーリス。今日、ここの館の人は、パーティーに呼ばれていて不在なんだ。何人か館に残っているメイドさんたちには、黙ってもらうようお願いした」
エーネが笑顔でそう言ってから、「あっ、脅したわけじゃないよ! ちゃんとお金を渡したから!」と慌てた様子で説明する。いくら渡したのかは知らないけれど、エーネのことだから相場よりもかなり多めの額を渡したのだろう。
「エーネ。ありがとう」
僕がそう言うと、エーネは僕の顔を見て明るく笑った。
僕はこんなにたくさんの花が見れて嬉しいのだろうか。それとも僕のためにこんなことをしてくれるこの人のことが嬉しいのだろうか。
後者だなと考えていると、嬉しそうに笑っていたエーネの顔が急に焦った様子に変わった。
「あっ、ユーリス。見せたかったのは実はこれじゃない――あー、えっと……ここにあるはずなんだけど、私はどれか知らないんだ」
エーネは僕の方にまっすぐ向き直して、僕を見つめた。
「ユーリス。今日はユーリスに教えて欲しいんだ。私の名前の花を」
最後は少し照れた様子でそんなことを言うエーネを見る。
エーネの花。
エーネはもう何回も人族領に行っているから、てっきりもう知っているのだと思っていた。
「エーネの花……」
「うん、そう。せっかくだから一緒に見たくてね。頑張って探さないようにしてたんだ。ユーリスに教えて欲しいんだ」
『教えて欲しい』――エーネは人が人にそう聞かれるときの嬉しさを分かっていない。
僕の目の前にいるこの世界の王は、その言葉の力をちっとも分かっていない……
「エーネ。すごく綺麗な花なんだ」
僕の大好きな花だから。そう言って、エーネの手を引いた。
広い庭だ。手を引きながら、僕はずっと見つからなくてもいいと思っていたけれど、すぐにその目立つ姿を見つけてしまった。
「あった」
「えっ? どれ、どれ?」
楽しそうに探しているエーネの手を引く。
「あっ、もしかして、あれ? あの黒いの?」
「……うん」
「黒い花なんてあるんだね!」
エーネの声に、エーネの手を離した。エーネは僕を置いて、少し小走りで黒い大きな花弁を持った花まで向かう。エーネが花壇の前で立ち止まって、花をのぞき込んだ。
「豪華な花だな……もっと小さいのを想像していた」
エーネが自分の手のひらを広げて、花と大きさを比較している。僕はそんなことをしているエーネの綺麗な髪の色と、花の色を比べていた。
小さい頃は、エーネの花の色は真っ黒だと思っていたけれど、今見るとほんの少し紫がかっているように見える。エーネの花のその隣――そちらに見える『黒』の方が綺麗な黒だと僕は思った。
「持って帰る?」
聖女が威圧してはならないと、僕はいつも白い服の下に護身用の小剣を隠している。花に見合った太い茎を手で切ることはできないけれど、小剣なら切れるだろう。
「いいよ、いい! こんな豪華な花、育てるの大変だろうし、この館の主に悪いよ」
エーネは僕の言葉を必死に否定してから、横まで移動してきた僕を見上げた。
「だから、ちょっと待ってて。もう少し見たいんだ」
「うん」
僕の返事にエーネがにっこりと笑った。
もう少しじゃなくていい――エーネが待ってと言ってくれるなら、僕と一緒にいてくれるなら、ずっとこのままでいたいと僕は思う。
「想像していたよりも、ずっと綺麗な花だな……ユーリスありがとう」
『不吉な色の気持ちの悪い花だ。処分しろ!』
大聖堂にあった僕の部屋。花だけが色を点すあの部屋で、教皇様にそう言われて、一言も反論せずに花を片付ける侍女ユムルの姿を見たとき、僕は教皇様の言っていることの方が本当なのかもしれないと思った。
僕はエーネの花がすごく綺麗だと思うのに、そうじゃないのかもしれないと知って僕は傷ついた。だからこそ、この花は僕の心に強く残った。
魔族領では、自分のことは自分で決める。
僕はこの花が綺麗だと思う。だから、そうなんだ。
そうじゃない人もいるのかもしれない。幼い頃の僕はそのことの方が真実だと思って傷ついた。だけど、僕にとっては僕が思うこと――そちらの方が真実だと、今は思う。
魔王エーネ。
人族領では聖女である僕が隣にいても、聞くに堪えない暴言を言われてしまう人。
だけどその話が嘘か事実か、そんなことは何一つ関係がなく、僕はこの人のことが好きだ。
好きなんだ。
「エーネ」
僕の言葉に、しゃがんで花を見ていたエーネが僕を見上げるために顔を大きく上げる。エーネとしばらく見つめ合って、言う決心がついて僕はやっと口を開いた。
「エーネ。僕は――」
「ユーリス」
エーネが僕の言葉を遮るように立ち上がって、僕をまっすぐ見た。
「ユーリス。あのさ……前から考えていたんだけれど、しばらく王都で暮らしてみない?」
「王都で……?」
突然何の話だろう。以前よりは、エーネも王都で動きやすくなっただろうけれど、さすがに魔王であるエーネが王都で暮らすのは――そう考えてから、王都で暮らすのは『僕か』と気がついた。
「ユーリス。一度、王都で人族に囲まれて暮らしてはみないか?」
エーネは淡々とそう言ってから、顔を上げた。
「ユーリス。分かってはいると思うが、魔族ではないから出て行けとかそう言う意味ではないぞ。でも、私も最近忙しくなって、聖女巡行にも行ってやれないし、やっと王都でもある程度身動きがとれるようになったから、しばらく王都に拠点を構えてみるのはどうかと思って」
「……うん」
素直に頷いた僕を見て、エーネは余計に焦ったかのように説明を続ける。
「世話になるのは、王都の三神教の教会だ。前にちらっとそんな話をしたときに『いいわよー』と司祭様は言ってくれていたから、大丈夫だと思う。護衛として鬼人族も付けるし、アウシア教に関してはこちらで色々と準備をするから、そこまで危なくはないはずだ」
僕の耳はエーネの言葉をただ聞いているだけで、頭では理解が追いついていない。だけどそんな僕であっても、次の言葉は理解した。
「ユーリス。人族領でまともに暮らすのは初めてだろう? しかも、王都だ。きっと可愛い人族の女の子がたくさんいるんだろうなー。ユーリスがどんな人族の女の子を私に紹介してくれるのか、今から楽しみだよ」
エーネはそう言ったあと、僕から目を逸らした。
僕がそのとき、どんな顔をしていたのか僕は覚えていない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの日から、もう3ヶ月。
『もう』なのだろうか。今でも思い出したら心が悲痛な声を上げるのは変わらない。
僕はエーネに振られてしまった。
エーネは僕の愛の告白の言葉を遮った。だから、告白して振られた訳ではないけれど、『あの』エーネが、普段は絶対にそんなことをしないエーネが僕の言葉を遮った。
エーネは僕の表情から僕の言葉を予想して、僕にそれを言わせまいとした。
その事実が余計に僕の胸に刺さった。
神様、僕はどうすればいいんでしょうか――そんなこと、神に問いかけてみなくても僕だってわかっている。僕はエーネが言った通りに、王都で可愛い人族の女の子を見つけるべきなんだろう。
僕が見つめると、途端に顔を赤く染める女の子。アウシア教徒のはずなのになぜか三神様に祈りに来る女の子。手作りだと、手紙の入ったお菓子をくれる女の子。その子たちの中から、僕は僕の相手を見つけるべきなんだろう。
エーネはこの世界の王様だ。僕の魔力の乱れなど、川の中の小石のように圧倒的な力で整えてしまう魔力の王。僕が、僕だけが欲しいと思っていい人じゃない。
エーネは僕のことが嫌いな訳じゃない。不安に思う必要もないくらい、エーネは小さいころから僕のことを愛してくれていた。
ただ、僕とエーネの『好き』は種類が違うだけだ。
「だけど、僕は……」
エーネは、僕が王都に住み始めたあとも、毎日この三神教の教会にやって来る。僕に会いにくるためではなく、僕の護衛として置いてくれている鬼人族の交代要員を連れてくるためにだ。
僕は、そんなエーネが日暮れにやって来るのを、毎日待っている。
長いすに座って三神様の像を見上げながら、エーネの顔が見られるその瞬間を、どうしようもなく楽しみに待っている――
教会の扉が開く音がして、顔を入り口の方に向ける。エーネは扉なんか使わないからエーネじゃない。
逆光で輪郭しか見えないけれど、男だ。普通の人よりも多い魔力を感知して、僕は警戒しなから立ち上がった。
「お邪魔しまーす!」
若い男ののんきな声が教会内に響いたあと、音を立てて扉が閉まった。西日が遮られて再び暗くなった教会で、ゆっくりとこちらに歩いてきた男――いや、少年と目が合った。
エーネと似た、王都では非常に珍しい黒髪の少年が、僕の顔を凝視して固まっている。
「……もしかして、聖女?」
やっと出てきた少年の言葉に僕は頷いた。
「私は聖女だ」
「聖女が、なんで男なんだよ!?」
僕の返事に少年の驚きの声が上がる。そして、その少年は――見るからにうなだれていた。歴代の聖女は確かに女の方が多いが、男もいない訳ではない。どうしてここまで驚かれているのだろうか。
少年が人の顔を見上げて、「はぁ」と大きくため息をついた。
「まぁ、確かに噂通りびっくりするくらい綺麗だけどさ……性別を言えよ、先に性別を……」
人の顔をじろじろ見ながら、そんなことを言う少年のことを失礼だとは思ったけれど、期待を裏切られてひどく心を痛めている少年を見て、少し申し訳なくもなった。
それにしても、珍しい黒髪だ。アウシア教が『黒』を毛嫌いしていることもあって、王都では黒髪の人は本当に少ない。
そんなことを考えていると、うなだれていた少年が顔を上げた。
「まぁ、残念だけど、いいやっ」
少年が明るい表情でまっすぐ僕を見た。少年のその目――エーネと同じ珍しい黒い瞳に気がついて、驚いてその目を見つめる。
そう、エーネと同じ色を持つ少年に、僕はそのとき少し親しみを感じていた。
だから――
「俺は、勇者カケル。聖女、俺の仲間になって、一緒に魔王を倒しに行こうぜ!」
僕に向かって握手をするように手を伸ばしながら、無邪気な笑顔でそんな提案をする少年に対して、僕の心は静まり返った。
少年の提案が意味するものを理解しても、僕の心は僕が想像していたよりもずっと冷静だった。
無邪気な笑顔の少年をしばらく静かに見つめてから、僕は口を開く。
「ガルフさん。今から周囲の人たちが怪我をしないように守ってください」
「ユーリス急にどうしたんだ? この少年がどうかしたのか?」
人族語が聞き取れないため、状況が分かっていないガルフさんに簡潔に説明する。
「この男は勇者だ」
そう言いながら、周囲一帯の魔力を搾り取るように僕の周りにかき集める。
僕がエーネの怪我を治せなかった幼い頃、時々エーネは怪我をして魔王城に帰ってきた。
僕は聖女だ。エーネがその傷を隠していてもどうしてもそれに気がついてしまう。エーネは、そのことに気づいてしまった僕を見て、いつもしゃがんで僕の手をぎゅっと握りながら、僕の顔をのぞき込んで明るく笑った。
僕は、エーネを守りたかった。僕の力では治せないから、傷つけたくはなかった。
それは――エーネの怪我を治せるようになった今でも変わらない。
「勇者は、僕がやります」




