幕間4 月下の祈り
僕の最初の記憶――思い出すのは白一面の世界だ。僕はその白しかない世界で、いつも一人で自分のベッドの上に座っていた。
そこから、侍女のユムルが僕の部屋に花を飾ってくれるようになって、世界に少し色が点るようになった。
僕が7歳になったあの日、僕の世界に突然エーネが現れた――そのときから世界に色があふれた。
まぶしくてまぶしくて直視できないくらい色のある世界。その中で、いつもエーネは僕の手を引いて、笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「うそだ」
さっきから、考えるのはそればかりだ。
聖女の能力から、エーネの傷が致命傷であることはわかった。そして僕がすぐに『癒やし』を使わないと助からないこともわかった。
でもエーネには僕の『癒やし』は効かない。
だからエーネは死ぬ。
……僕は、そんなことは信じない。絶対に信じない。
そんなことはあるはずがないと信じて、僕は走っていた。
目の前にやっとバルコニーの扉が見えてきて、開けるのももどかしく、体当たりするように開け放つ。イシスの光が、優しくバルコニーに広がっていた。
僕の本来の力は、エーネが魔王であっても拒むはずがない。皆を分け隔てなく癒やす。それが聖女の力だ。
だから、僕の力がエーネに届かないのは、何かが邪魔をしているからだと――そう考えて思い浮かんだのは幼い頃、大聖堂で執り行なわれた儀式だ。
今考えれば反吐が出るような、エーネが見れば激怒して破壊してくれるだろう儀式――白い服を着た老若男女を生きながら地に埋めて、その上に聖女が跪いて、一日中、魔族を滅ぼさんとする祈りをアウシア様に捧げるあの儀式だ。
あの儀式を行ったあとから、大聖堂の周りと僕の体に居心地の悪い魔力が絡みつくようになった。
あの儀式の祈りを何とかできれば、エーネにもきっと僕の力が届くはずだ。
今の僕にすがれるものは、もうそれしかなかった。
神への祈りを打ち消すために、再び神に祈ろう。そのために祈るのにふさわしい場所を探した。
この城に教会なんてものはない。せめて日の当たるところにと思って日当たりの良いこの場所に来たものの、今は夜だ。日の光もない。
だけど、僕が祈るのはエーネのためだ。空を見上げると、ちょうど僕の頭上に銀色の大きなイシスが輝いているのが見える。日の光よりも穏やかなその光の方が、エーネにはよほどふさわしい。
イシスの優しい光の下で、僕は膝を突いた。
あの儀式の祈りを吹き飛ばすには、僕も何かを捧げなくてはいけないのかもしれない。でも、僕自身はなにも持っていない。誰かを生け贄に捧げようなんてことをしたら、僕がエーネに殺される。
何かないか……そう必死に自分の体を見て、唯一切り分けられる部分を見つけた。
エーネが綺麗だと、綺麗だから伸ばしていてくれと何度も頼まれて、仕方がなく伸ばしていた長い髪だ。エーネがあんなに褒めるのだから、少しは祈りの足しになるだろうと、根元からナイフでばさりと切りとって、その金の束を膝の前に置いた。
そして、ずいぶん久しぶりに、神に祈る。
もちろん相手はアウシア様ではなくて、魔族も愛する、エーネが会ったと言っていた、古の神だ。
他に、僕に捧げられるものは、何もない。
僕は、僕の魂を捧げるように、豊穣の女神アイロネーゼ様に祈った。
神に祈るときは、祈りのことだけを考えて、あとは無心にならなければならない。幼いころの僕は、それが上手だったはずだ。
それなのに、今の僕の頭の中は,祈りどころではなく、他のことで頭がいっぱいだった。さっきから頬を涙が流れている。
『エーネ』
あの、白しかない世界で、正反対の色で輝いていた綺麗な花。
不吉な色だと教皇様に言われてから、ユムルは飾ってくれなくなったけれど、僕はあの花のことを一番よく覚えていた。
宝石よりも、綺麗な色で輝く星々。息を呑むようなその景色を僕に見せてくれた、空の色と溶け合うような美しい髪色をした彼女に、名前がないと知ったとき、僕はその花の名前がぴったりだと思った。無邪気に、そう――僕は自分が愛している花の名前を、彼女に送ったのだ。
こんなときなのに、笑みが漏れる。
幼い頃の僕は、今の僕より、よほど自分の気持ちがよく分かっていて、素直だったのだ。
いつからか、彼女と少し距離を取るようになって、それでも変わらない時間、彼女のことを目で追いかけてしまっていた理由――
勇者に勝てるくらい強くなるんだとそう誓って、毎日骨を折るくらい自分を鍛えてまで守りたかったもの――
その正体を、僕はこのときやっと理解した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を開くと、目の前に置いていた僕の髪はなくなっていた。
転がるように立ち上がって、足が悲鳴を上げるのも気にせずに、僕は全力で走り出す。足などあとで治せばいい。
エーネの部屋に行くと、先ほどはいなかったアーガルと、パメラ、クルーゼルの姿があった。
皆の見つめる先で、穏やかに眠っているように見えるエーネ。
あれだけ、世界を引っ掻き回しておきながら、満足そうな顔をして、無責任にも一人どこかに飛び立とうとするエーネを、
僕は無理矢理引きずり落とした。
女神 (ガタッ)「この気配は、もしや……」




