35話 魔王、神に喧嘩を売る
朝食のあと、ユーリスが私のところに来てもじもじと、何かを言いたそうに私を見上げた。
「ユーリス、どうかした?」
「ねぇ、エーネ。僕、一度帰りたいんだ」
その言葉に凍り付く。そこから、無理矢理笑顔を作って、ユーリスを見上げるためにしゃがんだ。
「わかった。寂しいけれど、約束したし……ユーリス、これまでありがとう。本当にありがとう。私も楽しかったよ」
「うん。僕も」
ユーリスは、周囲を照らすように、明るく笑った。
「ユーリス。最後に行きたい場所はあるかい? どこにでも連れて行ってあげよう」
ユーリスに世界を楽しんでもらいたくて――いや、つぎはどんな風に喜んでくれるだろうかと、私が楽しみにしていたから、この半年ユーリスをいろんな場所に連れて行った。
遊んでもらっていたのは私の方じゃないかと言いたくなるような、寂しい気持ちを感じながら、諦めが悪く、つなぎ止めるようにユーリスに聞く。
「えっと、今日は大丈夫。今度来たときに、またいろんなことに連れてってよ!」
ユーリスの元気の良い返事に、固まった。
「ユーリス。一度、教会に帰れば、もうここに来ることはできないと思う。私が誘拐したせいなんだけど、警備が厳重になって、もう一度ここに連れてこられるとは思わない……」
「そうなの?」
驚いた声のユーリスを見あげる。
「すまない。私のせいだ」
教会に戻れば、一度魔王に誘拐されたユーリスは厳重に監視されて、外を見ることもできなくなるかもしれない。『自分で決ればいい』と、ユーリスにはそんな偉そうなことを言っておきながら、結局私の行動が、教会に戻ったユーリスの暮らしを縛ってしまう。私は、その責任すら取れない。
「すまない……」
ユーリスに無意味に謝りながら、何か方法はないかと、頭の中で必死に考えていると、
「じゃあ、やっぱりやめる!」
至近距離から明るい声が聞こえた。顔を上げると、笑ったユーリスの顔が見えた。
「ユーリス。いいの?」
「うん。だって、こっち戻って来れなくなるんでしょ? じゃあいいよ」
その、悩むまでもないと言いたげな幼子の態度に、私の方が慌てる。
「ユーリス。あのさ、どうして帰りたかったの?」
「んー? 僕のともだち取りに行きたかった」
「友だちって誰だい?」
その『友だち』もここに連れてくるかと、物騒な考えが頭をよぎる。
「えっとね。このくらいの大きさのぬいぐるみ!」
ユーリスは両手を広げてそう言ってから、首を傾けて「もう少し小さい? このくらいかな?」とそのお友だちのサイズを訂正した。
指をパチンとならす。
「ユーリス。私は、その友だちを連れてくるのに全力を尽くそう。
が、力及ばなかった場合は、おなじくらいの抱き心地の新しい友だちを用意するよ。私があの教会の中に入れれば、何の障害もないんだけれど、こればかりはそうも行かないからね」
「エーネが連れてきてくれるの? ありがとう!」
「できるだけ頑張るけど、その、すぐには無理だ」
笑顔で喜ぶユーリスにほっとしながら、教会に囚われたお友だちをいかに救出するかという問題を、必死になって頭の中で計算していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ユーリスのお友だち救出大作戦は、秘密裏に進行していた。進めていたのだが……
「いや、これ無理じゃないか……?」
数々の難問に、机の上で頭を抱える。
まず調査の結果、あの教会には、私はもちろんのこと、無害な一般市民でさえも入ることは許されておらず、中に入れるのはごく一部の貴族や聖職者だけであることがわかった。しかも、ユーリスのお友だちがいるのは、教会のどこにあるかもわからない『聖女様』の部屋だ。当然、誰でも入れるような場所にはないだろう。
つまり、教会の中に入れて、聖女様の部屋が分かって、聖女様の部屋の中に何とか入れる人物に協力してもらわなければならない。
王様を暗殺しろだったら余裕でできる。勇者様も……現在地を探すのは王様よりも難しいが、まぁ可能だろう。する気はないけれど、こういうことはこんなにも簡単なのに――
「なんでこれが、こんなにも難易度が高いんだ?」
私は頭を抱えた。
作戦は継続するが、時間稼ぎや失敗したときのために、ユーリスにお友だちの外見をそれとなく聞き出して、似たような姿の新しいお友だちを用意しておこう。
クルーゼルを無理矢理手伝わせて描いてもらった、やけに緻密なぬいぐるみの絵を握りしめて、私は王都のおもちゃ屋さんに走った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最近パメラが語学教師の仕事で忙しく、今日はラウリィが執務室の掃除をしてくれていた。
「エーネ。見て」
ラウリィが掃除をする傍ら、執務机で仕事をしていた私が顔をあげると、小さなもこもこの帽子をかぶって、真っ白でかわいらしい冬装備をしたユーリスが、ぐたっとした細長いイタチのような生き物を抱えていた。
「どうしたの、それ?」
ユーリスは今日、アーガルと森に遊びに行っていたはずだ。そのアーガルの姿は見えない。
「森で怪我してたから、僕が治した。そしたら眠っちゃった。森に置いておくと食べられるから、持って行けって、アーガルが」
「そうなんだ。良いことをしたね。でも、その持ち方は苦しそうだから、こっちに置こう」
机の上に、ハンカチを開く。その上にユーリスから受け取ったイタチを、少し考えてからドーナツのように丸めて置いた。この置き方で合っているのだろうか……
「目が覚めるまで、彼にはここで休んでもらおう」
「うん! 僕それまで、ここで待つね」
ユーリスに紙と鉛筆を渡すと、ユーリスは最近パメラが教えてくれている文字の書き取りの練習を始めた。
「ユーリス、アーガルは?」
「んー? 下で、捕まえた動物運んでる」
ユーリスはもう作業に集中しているようだ。私も邪魔をしないように、自分の仕事を再開した。
視界の端でごそごそ動く物が見えたので、目線をそちらに向けると、イタチ君が目を覚ましかけていた。
「ユーリス。起きたようだ」
「あっ、ほんとだ!」
そのまま、ユーリスが笑顔でイタチに手を伸ばそうとするので、慌てて止める。
「ユーリス、待って。落としたら危ないから私が持つよ」
ユーリスの小さな手では、掴むのがやっとだ。そんな持ち方では、きっと逃げられてしまう。
ユーリスにそう言ってから、まだ、眠そうなイタチに手を伸ばしたとき、
「イテッ」
がぶりと、左手の人差し指に噛みつかれた。
「エーネ!?」
「ユーリス、大丈夫だ。彼を捕まえたのはいつもの森だよね?」
「そうだよ」
ちょうどいい。私の指に噛みついたままのイタチと一緒に、そのまま森の中へ転移した。
イタチが私の指から口を離して、地面に着地をする。私がイタチの怪我の心配をする前に、イタチは一目散に森の中へ逃げてしまった。
その後ろ姿を見送ってから、自分の指をゆっくりと見る。かみ切られてはいないが、爪の反対側から少し血が流れていた。
「ただいま」
「エーネ!」
「さっきの彼は、元気に森の中に戻っていったよ」
ユーリスにそう伝えながら、引き出しから出したハンカチで傷を押さえる。
「エーネ。見せて!」
ユーリスが私の傷をじっと見てから、何も言わずに、いつものように力を使い始めたのがわかった瞬間、
激痛が走った。
激痛を与えるその根源を反射的に突き飛ばしたあと、私が突き飛ばしたものがユーリスだと頭で理解した。突然のことに唖然とした顔で私を見るユーリスの真後ろに、ラウリィが立っているのが見えた瞬間
「ラウリィ! 待て!」
今度はユーリスの方に必死に手を伸ばして、私の手がその小さな体に届いたと同時に、部屋の反対側まで転移した。
「ラウリィ、待ってくれ! 違うんだ!」
ナイフを右手に抜ききったラウリィから、ユーリスをかばうように立つ。
今、そんなことを考えている場合ではないのに、左手はさっきから脈動するような激しい痛みを伝えてきて、袖口からわずかに見えた左手は青黒い色に変色していた。歯を食いしばって、意識を持っていかれそうになる痛みに耐える。
「エーネ。僕、僕……」
「ユーリス。わかっている」
私の後ろから泣きそうなユーリスの声が聞こえるが、ユーリスの方を振り向く余裕は、今はない。
「ラウリィ……ユーリスは私を攻撃したかった訳ではない。ユーリスを攻撃しようとするのを止めてくれないか」
「魔王様ですが……」
「ラウリィ、今は口答えしないでくれ……!」
ラウリィからは、痛みに歪む私の顔がはっきり見えているはずだ。しばらくしてから、カチンと、ラウリィがナイフを鞘にしまう音が聞こえた。
さぁ、最後の仕事だ。私は後ろを振り返り、呆然と私の手を見ているユーリスの前にしゃがんだ。
「ユーリス。ユーリスは悪くない。知らなかったんだろう?」
「エーネ。僕、そんなつもりはなくて……ただ、治そうとしただけなんだ」
泣きそうな顔のユーリスに、私は気力と根性で笑った。
「わかっている。大丈夫だ」
それを言うまでは、何とか顔を上げることができていた。
「では、ラウリィ。ユーリスを、少し外に連れて行ってあげてくれないか……」
先ほどユーリスを殺そうとした相手に、こんなことを頼むのは間違っていると分かっている。けれども、イスカやアーガルを迎えに行く余力が、私にはなかった。
「かしこまりました」
ラウリィが、ユーリスを引きずるように部屋の外に連れ出して、扉が閉まる音を聞いた瞬間、私はずるずるとその場に座り込んだ。
左手を上にして、どさっと横に倒れる。
動く右手で、首元を大きく引っ張って、現れた左肩に目をやると、左肩の付け根の辺りまで、手先と同じようにどす黒い色に染まっていた。
それを見て、呼吸をする方法を忘れたかのように、息が止まる。
意識を取り戻すために、きつく唇を噛んだあと、涙が数滴こぼれた。
痛い――どうしようもなく痛い。
絶え間なく襲ってくる痛みと、恐怖から目を逸らすために、膝を抱えて、目をつぶった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
意識が飛んでいたのだろうか。朦朧とする中、目を開くと、痛みに回路が焼き切れたんじゃないかと思ってしまうくらい、痛みはいつの間にかきれいさっぱりなくなっていた。
ずいぶん時間が経ったように思えるが、太陽はまだ高い位置にある。体を起こして、左肩を見ると皮膚は元の色に戻っていた。左袖を捲ると、まだ、肘より下のあたりまで皮膚の色が青黒いが、さっきよりは大分薄くなっている。時期に治るだろう。
近くの壁にもたれかかって、地面に足を伸ばすように座り直す。額にびっしりとかいていた汗を、袖で拭った。ステータスを確認するとHPは50しか残っていなかった。
さっきのあれは、まさしく私に対する攻撃だったが、ユーリスにそんな気配はなかった。ユーリスが言っていたように、ユーリスは本当に『癒やし』の能力を使っただけなのだろう。
アウシアからの『寵愛』。
ユーリスのステータスの項目を思い出す。
ユーリスのスキル『癒やし』に『+』が付いている原因がこの神からの力だとすると、この『+』の効果は、聖女の本来の癒やしの力を、魔王に対しては攻撃に変換する能力といったところか。私の怪我は指先だけだったので、さっきのユーリスがそこまで力を込めたとは思えない――それでもなおこの威力。
確かに私に対して、すさまじい威力だ。だけど……
「ははは!」
思わず、笑いがあふれた。
アウシア教では『魔族を滅ぼす』などという、ご大層なことを謳っている。だが、その神が力を貸してなお、拒絶する――いや拒絶できる対象は、魔王たる私だけ。
「何て、お粗末な力だ」
神を挑発するように、私は大きく笑った。
聖女は、ただ私を癒やすことができないだけ。他の魔族、私の民には、癒やしの能力は問題なく発揮できる――それは、私にとって、何一つ問題がないという意味と同義だ。これまで通り、私が怪我をしないように注意すればいい。ただ、それだけのこと。
見慣れてきた青黒い色が、すべて消えるのを、私は笑顔で待っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ユーリス。何をやっているんだい?」
ユーリスは、魔王城の中庭で、地面をスコップのようなもので黙々と掘っていた。冬の固いはずの地面に、深々とスコップを刺したまま体勢で、ユーリスは私を見上げる。
「何か見つけた?」
「エーネ! 手、大丈夫!?」
「あぁ、大丈夫だ」
左手を出して、ユーリスの前で見えるように、手を開いたり閉じたりする。ユーリスが、そんな私の手を掴んで止めて、小さな包帯が巻かれた私の人差し指をじっと見つめた。
「エーネ。この指」
「治っていなかったから、いつも通りパメラに治療してもらったよ」
ユーリスが、口をへの字にしてこちらを見上げる。そのきれいな緑色の瞳がゆらゆらと揺れていた。
「エーネ。僕、いつものように力使ったんだよ……?」
「ユーリス、だから分かってるって。お願いだから泣かないでくれ。魔王だけには、聖女の力がなぜか効かない――ただそれだけのことで、つまり、私は特別ってことだ」
自慢するように私が笑顔でそう言うと、ユーリスは私をもう一度じっと見上げてから、下を向いた。
ぽたぽたと、涙が地面に落ちる。
ユーリスにとって、今回の件は衝撃的だったらしい。あのとき、できるだけユーリスを傷つけないように気を配ったつもりだったけれど、私も必死だったので配慮が足りなかったかもしれない……
神からの呪いなんて、解除する方法を知らないし、解除できるかもわからない。ユーリスには、あの神と私のせいで、そんなどうしようもないことに悩んでほしくなかった。
私はユーリスに、世界を楽しんでもらいたいのだ。
うつむいて自分の服の前側をぎゅっと握っているユーリスの両手を掴み、えいやと引きはがして万歳のような体勢を取らせて、ユーリスに顔を上げさせる。突然のことに、うろたえるユーリスの目の奥を見つめた。
「ユーリス。世の中には、悩んでもどうしようもないことがたくさんある。そのどうしようもないことに、いちいち悩んで、苦しんであげるのはもったいないと思わないか? ユーリス。そんなことより、遊びに行こう!」
私の言葉に驚くユーリスの返事も聞かずに、私は、楽しい場所に転移した。
転移した瞬間、一面の緑に呑まれる。この森に季節なんてあるのだろうか。そう思ってしまうくらい、いつ来てもここは変わらなかった。
森の向こうから、手のひらくらいの大きさの、青と緑の光がふわふわとこちらに飛んでくる。
「ルング。ヤッグ。久しぶりだね」
そのまま、私の肩に留まる二人の頭(?)を撫でながら、「今日は遊びに来ただけなんだ」と本日の目的を告げる。
二人はしばらく私の肩に留まっていたが、ユーリスに気がついたのだろうか、私の肩から離れて、ユーリスの顔の辺りまで高度を落とし、互い違いに点滅し始めた。
「エーネ。これ……なあに?」
頬に涙の乾いたあとを残してはいるが、ユーリスは今はもう、いつもと同じようなあふれんばかりの好奇心で二人を見ている。
「青い方がルング、緑がヤッグ。私の友人で、精霊族だ」
「精霊!? これが?」
ユーリスは、恐る恐る手を伸ばして、ルングをつついている。ルングは、遊んであげているのであろうか――ユーリスの指に大した威力はないはずなのに、押されるタイミングに合わせて遠くまで飛んでいった。もちろんHPは減っていない。
「わっわっ」
「ルング。何をやっているんだい?」
慌てるユーリスを見てクスクス笑う私の隣で、ヤッグが点滅していた。
しばらくユーリスはルングと、途中から参戦したヤッグと遊んでいたが、ふと立ち止まって、静かに森の奥を見つめる。
「エーネ。何か来る……」
ユーリスが見つめている方向を見ると、森の奥から、ひときわ大きな光の球――精霊族の族長さんが現れた。
「族長さん。こんにちは。お邪魔しています」
「これは、これは魔王様。おや? そちらにいるのは……」
「以前、ご相談した『聖女』です。ユーリス、こっちの大きい光が精霊族の族長さんだ」
「こんにちは! ユーリスです!」
「これは、ご丁寧にどうも。族長のエイグです」
「エーネ! 声が、聞こえるよ!」
ユーリスは耳に手を当てて、はしゃいでこちらを見上げている。族長さんの『意思伝達』スキルは、翻訳機能も搭載なのか……素晴らしい。
「魔力、すごいですね!」
ユーリスが興奮する様子で、のほほんとした様子の族長さんに、魔力の美しさについて説明している。
ふと森の奥を見ると、大小様々な光の粒が、波のようにこちらにやってくるのが見えた。ユーリスは、目の前に魔力の塊である族長さんがいるからか、そのことにまったく気がついていない。
もちろん、私がそのことをユーリスに教えるはずもなく、ユーリスが光の粒に包み込まれて盛大に慌てる様子を、少し遠くの木の根に腰掛けて、ルングとヤッグと一緒に眺めていた。




