34話 魔王、聖女とコウノトリさんに感謝する
マーシェが人族領に帰ってから、パメラは少し寂しそうにしていた。そんなこともあって、パメラには、前々から考えていた語学教師としての仕事を再開してもらうことにした。ただし、今度の生徒は私ではない。
魔族の中で、ドワーフなどいくつかの種族は言葉が異なる。私との会話は、魔王の翻訳機能で何とかなっているけれど、魔族領で生活する上で、やはり何か共通言語があった方が便利だ。普通だったら、その共通言語は魔族語にすべきなんだろうけれど、別にそうでなければならない決まりも理由もない。どうせ一から勉強する種族が出てくるのだ。魔族語だと、話せる種族と話せない種族で、不公平ではないか――そう考えて、共通言語は人族語にしようと決めた。
犬人族やドワーフ族、エルフ族など、各種族の村を回りながら今回の件を説明しているとき、「魔族語にしろ」との反論が出てくるかと思ったけれど、そんな反論は出てこなかった。それどころか、各種族から、代表を一人か二人募った際、想定を遙かに超える参加希望者が集まって、『ジャンケン』でその代表を決める種族もあった。
私が現在普及活動を行っているジャンケンで決めさせたのは、決闘よりも平和的で、単純に運だけの要素なので、その方が面白いと思ったからだ。けれども、猫人族の村で20人を越える希望者の中から、一回もあいこにならずに
「さすが、メルメルです!」
と言われながら、優勝まで勝ち取ったメルメルを見たとき――一部の魔族にとっては、ジャンケンさえも実力勝負なのだな、という事実を私は学んだ。
参加希望者は8割以上が大人だ。悪魔族以外はあまり暇ではないはずなのに、時々「いつ始まるの」と聞かれる――なぜか皆、楽しみにしているようだ。
そんな中、パメラはクルーゼルに少し手伝ってもらって、青空語学教室のための準備をしている。
私が魔族語と人族語の両方が分かるので、前ほど苦戦はしていないが、初めての試みなので、パメラは準備に苦労しているようだ。パメラが私に魔族語の意味を聞きに来て、手元の紙に熱心に書き取っている姿を見ると、ついこの間のはずなのに、自分の姿を見ているようで懐かしくなった。
「いつ始まるのと、今日も聞かれたよ」
そうパメラに伝えると、パメラは少し動揺した顔で「が、頑張ります」と答えた。
最近のパメラは忙しそうだけれど、楽しそうだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ユーリス行こう!」
「うん!」
ユーリスを連れて、おじいちゃんのもとに転移すると、今日のおじいちゃんは立ち上がっていて、そのおじいちゃんと向かい合うように、先に連れてきていたユメニアが槍を持って立っていた。
ユーリスが慣れた様子でおじいちゃんの翼の下に駆け出して、熱心に翼の付け根あたりを触っている。かつておじいちゃんの翼の付け根にあった、下から斬り上げたような、翼がちぎれそうなほどのあの大きな傷跡はもうない。半年以上もかかってしまったけれど、えぐれていた肉は完全に再生して、翼はしっかりと付いているように見えた。
「うん、いいよ。治ってる」
ユーリスの声に、ユーリスを連れて、ユメニアの斜め後ろまで下がる。
「魔王様。始めていいの?」
「うん。ユーリスが大丈夫だって」
振り返ったユメニアに答える。ユーリスの能力はここ半年で嫌と言うほどよくわかった。疑う気なんてまったく起きない。
おじいちゃんに大きく手を振る。
「おじいちゃん! 始めよう!」
「わかった」
おじいちゃんが翼を真横に開いた。はじめはゆっくりと、次第に速く、翼を上下に動かす。
「ユーリスもう少し下がるよ」
風が強くなってきたので、先ほどいた位置から、念のため倍くらいの距離を取る。ユメニアは、豪風に髪を巻き上げられながら、微動だにせずに、まっすぐおじいちゃんを見つめていた。
おじいちゃんの足がゆっくり地面から離れる。数秒間、地面からわずかに離れたその位置を保ったあと、徐々に高度を上げる。おじいちゃんが上昇するに連れて、私の首が大きく上に傾く。私が真上を見上げるくらいになってから、おじいちゃんが前に体を傾けて海に向かって移動した。
ユメニアが翼を広げて、無音でそのあとを追いかける。
「いいなー、飛べて……」
「そうだね」
ユーリスの言葉につくづく同意しながら、遙か彼方まで飛んで行ってしまった二人が戻ってくるのを待った。
「おかえり」
「魔王様、ただいま!」
ユメニアと共に戻ってきたおじいちゃんは、疲れているようではあるものの、以前のように痛みにうずくまる様子はない。そんな気持ちが伝わったのだろうか――
「もう痛くない。ありがとう」
おじいちゃんの優しい声が聞こえた。
その声に、何だか胸がいっぱいになって、隣に突っ立っていたユーリスの方を向いてしゃがみ、ユーリスの腕の下を掴んで力一杯上に持ち上げた。
明日はきっと、腕が筋肉痛だろう。
けれども、そんなことどうでもよくなるぐらい、私は嬉しかった。
「降ろしてー!」
「ありがとう! ユーリス!」
宙でじたばたするユーリスを笑って見上げながら、そろそろ降ろしてあげるかと考えていたとき――腰が捕まれる感触がして、ふわっと足が地面を離れた。地面がどんどん離れていくのを見ながら、私が持ち上げていたユーリスを今度は全力で抱きかかえる。
「ユメニア! 降ろして! 危ないから! ユーリス落とすから!」
「良かった! おじいちゃんの怪我が治った! ありがとう!」
あとから考えれば転移で逃げることもできたのに、そのときはまったく頭に浮かばず、私は空中でユーリスを必死になって抱きしめていた。
はぁ。死ぬかと思った。
地面に座り込んだまま横を見ると、空の旅が楽しかったらしいユーリスが、たどたどしい魔族語でユメニアにお礼を言っていた。
ふと、地面に大きな影ができたので、上を見上げると、おじいちゃんが首だけこちらに伸ばして、のぞき込んでいる。
「ユーリス。ありがとう」
おじいちゃんの声に、ユーリスもおじいちゃんを見上げた。
「ユーリス。おじいちゃんがありがとうって」
「どういたしまして! もう怪我しないようにね!」
ユーリスがおじいちゃんに向かって、勢いよく手を振っている。それを見たおじいちゃんの、優しい笑い声が耳に入った。
「そろそろ帰ろうか」
ユメニアとユーリスに声を掛けると、なぜかユメニアがこちらに飛びかかってきた。
「魔王様、聞いて。良いことがあったの!」
「どうしたの? ユメニア」
また、新しい遊びでも思いついたのかと、子どもに確認するような気分で言葉を返すと
「妹ができたの! 今度生まれるの!」
嬉しそうなユメニアから、想定外の言葉が返ってきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「子どもが生まれるって!」
「あらぁ、魔王様。こんにちは。でも、少し早かったわね。まだよ」
驚いた勢いで、ユメニアとユーリスを連れて、直接悪魔族の家まで転移すると、敷物の上に座って、数人の悪魔族が編み物をしていた。その中央に座っていた人物が目に入った瞬間、視線を合わせるために目の前で膝を突く。
「おめでとう。アメニア」
「ありがとう。魔王様」
アメニアは幸せそうに笑いながら、楽しそうに私の頬を指でつついていた。
『悪魔族は女性しかいないはずなのに……』とか、『最近、悪魔族は猫人族とずいぶん仲が良いよなぁ』とか、『異種族でもいけるんだ?』とか、そんなことを深く考えるのは止そう。コウノトリさんが頑張って、送り届けてくれたに違いない。ありがとうコウノトリさん!
「アメニア。必要なものがあれば、何でも私に言ってくれ」
「ふふふ、ありがとう。でも二人目だから、大丈夫よ」
その言葉にユメニアを振り返る。
「さっき妹って言っていたけれど、ユメニアはアメニアの娘なの?」
「えっ? 違うわ。この村で210年ぶりに生まれるのよ。やっとわたしにも妹ができるの」
ユメニアは神に祈るように嬉しそうに上を見上げている。悪魔族は村全体が姉妹という感覚か。
それにしても『210年ぶり』か……友人だと思っていた人物の衝撃の年齢を本日初めて知った。
「ねぇ、エーネ」
呆然としていると、服の袖を引っ張られた。引っ張られた方を見ると、ユーリスが私を見上げていた。
「ああ、すまないユーリス」
ユーリスは魔族語がまだあまり分からないから、何の話かがわかっていないはずだ。
「新しく、子どもが生まれるんだ。こちらにいるアメニアがお母さんになるんだよ」
「そうなんだ! おめでとう!」
ユーリスはアメニアを見つめて、ニコニコしている。
驚いて何も考えずにユーリスをここに連れてきてしまったが、ユーリスがここに来るのは、今日が初めてだ。もちろん、ユメニア以外の悪魔族がユーリスを見るのも、今日が初めてだ。
「魔王様。さっきから気になっていたんだけれど、その子、誰?」
部屋の中の悪魔族たちは、もうよだれを垂らさんばかりの様子だ。その様子に、本能的な恐怖で背筋が寒くなる。
「アメニア、また来るよ。ユーリス、帰るよ!」
「待って! ねぇ、その可愛い子、誰!?」
悪魔族に捕まる前に、何とかユーリスの手をつないで、魔王城に逃げ帰った。




