32話 それぞれの見る世界
「ユーリス、寝る前に風呂に入ろう」
「ふろ?」
何それと言う顔で私を見上げるユーリスに
「風呂を知らないのか? 水浴びをする場所だよ」
そう教えてあげると、あぁと納得していた。
「ラウリィ。風呂の準備を頼む。あと、ユーリスの着替えを用意しておいてくれ。少し大きいかもしれないけれど、マーシェの小さい頃の服で今日はいいだろう」
「かしこまりました」
丁寧に頭を下げて、ラウリィが部屋を出て行ってから、ユーリスが口を開いた。
「ねぇ、エーネ。あのお姉さんも魔族……?」
ユーリスは少し自信がなさそうだけど、数多くの人族に会って、ラウリィのことを当てた人は初めてだ。
「あぁ、そうだ。よく分かったな」
「あのお姉さんの魔力、なめらかで尖っているんだ! こんな感じ!」
ユーリスがこちらを向いて、私によく見えるように、手で宙を斬るようなジェスチャーをしてくれるが、さっぱりわからない。
「私はそういうの鈍いから、ユーリスは分かってすごいな。ラウリィは魔人族という種族で、魔法が凄く上手なんだ」
「まじんぞく? まじんぞくも魔族なの?」
「そうだ」
「悪魔でしょ、鬼、せいれい、まじんぞく……魔族って、たくさんいるんだね!」
ユーリスは下を向いて、小さな指を順番に折って、数を数えていた。その様子がかわいらしくて、
「他にももっともっと、魔族にはいろんなのがいるぞ。また紹介してやろう」
「ほんと!?」
また、そう軽々しくと約束してしまう。
何を見ても喜んでくれる、この小さな子どもに、見せてあげたいものが――世界が、たくさんあった。
「そろそろ、準備ができているころだろう。行こう」
部屋でラウリィがわざわざ呼びに来てくれるのを待つのは、ラウリィの手間だろうと思うので、頃合いを見て風呂場に直接転移する。
「ラウリィ。いいかな?」
「はい。風呂のご準備はできております」
「ありがとう。ユーリスの着替えは、ここに置いておいてくれ」
「かしこまりました」
わーい、風呂だ! 自分の服をはぐように脱いで、畳んでかごにしまってから、隣を見ると、ユーリスが自分の服を脱ぐのに、大いに苦戦していた。
「ユーリス。そんな脱ぎ方をすると服が伸びてしまう。両手を挙げて。そう、スルリと抜き取る感じで脱ぐんだ。わかった?」
「わかった!」
ユーリスはやっと脱げた! と、少し息が上がっていた。
「下は、自分で脱げるよね?」
「うん!」
返事はいいけれど、手つきはぎこちない。何とか脱げている、といった様子だ。これまで、付き人にすべてを任せていたのだろうか。
「エーネ! 僕、自分で脱げたよ!」
「風呂に入る前に、すでに一仕事した気分だな。ユーリス、服はそのかごに入れて……」
ユーリスが、言われた通りに、脱いだ服をかごに入れて、素っ裸でこちらに振り返った。
「ちょっと待ってくれ……」
見えているものと、頭の中の認識が一致しなくて、働かない頭を押さえる。
「あのさ……ユーリス。君、男の子なの?」
「そうだよ!」
いや、まぁ、付いているものを見れば、そんなことは分かる。でも、当たり前のように『聖女』と呼ばれていた上に、どう考えても、どこから見ても、顔は愛くるしい『女の子』だ。
頭を押さえる私を、不思議そうにのぞき込む緑の目と、金色の髪――まさに天使としか言いようがない完璧な造形だ。この年齢だったら、性別なんて大した違いにはならないのだろうか。
というか、『僕』っていう一人称で気付けよ自分。でも、可愛い子が『僕』なんて言っていても、そういうものとしか思わない。
いや、落ち着こう。私も素っ裸だし。
「ユーリス……今、君、何歳……?」
「7歳だよ!」
小学校前かな……? この世界の法律は知らないけれど、まだセーフ? うん、そういうことにしよう。
「ユーリス。君は、風呂の入り方も恐らく知らないだろう。今日はそれを教えるから、しっかり覚えるんだ。いいね?」
「わかった!」
「覚えたら、今度からはアーガルかクルーゼルに入れてもらうといい」
「エーネじゃ、だめなの? エーネがいい!」
ユーリスには乾いた笑みでごまかしてから、湯気の上がる風呂に移動した。
ユーリスは、風呂の入り方を何一つ知らなかった。聞いてみると、いつもは『清めの水』とやらで、体を拭いてもらうだけらしい。風呂を知らないとは、なんてもったいのない!。
聖女なんて崇め奉られていたから、金をそれこそ湯水のように捨てる、貴族のような暮らしをさせてもらっていたのだと思っていたけれど、そうじゃないのかもしれない。単純に、風呂いっぱいの湯を沸かすのが大変だからだろうか? ラウリィは可愛くて有能な、我が城自慢のメイドだ。
「気持ちいいだろう?」
「あったかいね……」
ユーリスは、肩まで湯につかるようになんて言われる前から、大人しく肩までつかっていた。ユーリスの金色の細い髪が、額に張り付いている。ユーリスの性別が男か女なんて、別にどちらでもいいのだが、これが男の子とは……世界は不思議に満ちていた。
「よし、ユーリス。そろそろ上がろう」
「あともうちょっと」
「今回はだめだ。長く入るとのぼせてしまう。風呂に入るのなんて今日が初めてだろう?」
「のぼせる?」
「頭がふらふらするんだ。私は何度も経験があるが、私と同じ過ちをしてはだめだ」
「わかった」
すでに足取りの少し怪しいユーリスの手を引いて脱衣所に移動し、髪の拭き方と、服の着方を教えてあげたあと、ラウリィが用意してくれていたユーリスの部屋までユーリスを案内した。
「エーネ。明日は何をするの?」
「それは明日のお楽しみだ」
ベッドに入ってもなかなか寝ようとしないユーリスを、ベッドに腰掛けて見守る。
「ねぇ、エーネ。僕、帰らなくていいのかな……」
「ユーリス、ここは魔族領だ。自分のことは自分で決めることになっている。帰るか帰らないかはユーリスが決めるんだ。帰りたくなったら、私に言うといい。すぐに人族領まで送ってあげるよ」
「すぐに……」
「そう。私の能力だとほんの一瞬だ」
「そっか……」
ユーリスが、肩まで布団を引っ張った。
「うん。おやすみ、エーネ」
「おやすみ。ユーリス」
夜目の利く私は、暗い部屋でもユーリスの顔がよく見える。ユーリスが目を閉じて、5分ほど経ってから、私は自分の部屋に戻って星の名前を思い出して、紙に書き付けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「今日はどこに行くの!」
朝、私に会って開口一番にそう言うユーリスに苦笑する。
「今日は、海に行こう」
「昨日行ったよ?」
「昨日は遠くから見ただけだろ? 今は少し寒いから、入るのは止めた方が良いと思うけど、海っていうのは色々な生き物がいて、面白い場所なんだ」
「えっ!? 行く!」
ユーリスは慌てた様子で、そのまま私の方に手を伸ばしてくる。
「ユーリス。先に朝ご飯だ」
不満げなユーリスの手を掴んで、朝食を用意してくれているパメラのもとに転移した。
「パメラ、ありがとう。美味しかったよ」
そう伝えてから立ち上がって、食器を下げる。まだ食べているユーリスを待つために、席に戻ると、ユーリスは私のことをじっと見ていた。
「ねぇ、エーネ。どうしてありがとうって言うの?」
「ユーリス、美味しくないの?」
「え? 美味しいよ?」
言葉通り、美味しそうに食べているユーリスの質問の意味が分からず、困惑する。
「エーネは魔王なんでしょ? 偉い人じゃないの?」
その言葉に、やっと意味がわかった。人によるかもしれないけれど、これは私にとって大切な問題だ。
「ユーリス。確かに私は偉い。立場上は偉い。だけど、ここで働くか、働かないかは、それぞれが決めることだ。私はパメラに偉そうに振る舞って、『こんなところで働くのはいやです!』と去られるのは困る。非常に困る。
美味しいものを用意してくれたら、何かを手伝ってくれたら、まずは『ありがとう』だ。パメラも、私がそう言うと喜んでくれているように見えるし、喜んだパメラを見て私も嬉しい。出てくる食事もどんどん美味しくなるし、良いことづくしだ。ユーリスは、ありがとうって言われて嬉しくない?」
「嬉しい」
「嬉しかったら『ありがとう』で、いいんじゃないか? 難しいこと考えなくてさ」
へこへこ頭を下げて、威厳がない。魔族たちから、そんなこと思われてもどうだっていい。その弱っちい魔王が、私だ。
「まぁ、あくまでこれは私の意見だから、人によっていろいろな意見がある。私の言葉だけを鵜呑みにしてはいけないよ。自分で考えるんだ」
小さな頭をさっそく抱え込んでいるユーリスの様子に、少し笑って
「まずは、朝食を食べよう。こういうことは少しずつでいいんだ」
そう言うと、ユーリスは急いで朝食をかけ込み始めた。
朝食全部食べ終えたあと、ユーリスは自分の手元を一度見つめてから、力一杯顔を上げて、笑顔で――そう、冬の花も満開になりそうな破壊力のある笑顔で、パメラに「ありがとう」を伝えていた。
そんなユーリスに、パメラがかなうはずもなく、パメラは10代の少女のように、初々しく顔を赤らめて照れていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「じゃあ、ユーリス。行こうか」
「エーネ。先に、ドラゴンのところに行こう!」
昨日、すっからかんまでなくなっていたユーリスのMPは、一晩で回復していたけれど、昨日の今日で、また力を使わせるのも酷だと思っていた。
「ユーリス。いいの?」
「僕? 力はもう使えるよ?」
「わかった。では、先に頼むよ。ユーリスありがとう」
「うん!」
ユーリスを連れて、おじいちゃんのもとに転移するとおじいちゃんは眠っていた。
「ドラゴン。よく寝てるね」
「まぁ、おじいちゃんは基本的にいつも寝ているけどね。私が近づくといつもは起きるんだけど……」
すやすやと、気持ちよさそうに寝ていて、一向に目を覚ます気配がない。これを起こすのは、心が痛むな……
「ユーリス。今日は止めておこう」
「そうだね。古い傷だから、回復に時間がかかっているんだと思う。良く休んでね」
ユーリスは静かな目でおじいちゃんを見たあと、くるりとこちらを振り返り、
「海! 海に行こう!」
「わかった。わかったから落ち着いて」
ユーリスが私の足に抱きついてきたので、苦笑しつつ、引きはがした。
「あれ? ここ海じゃないよ?」
隣でそんなことをつぶやいているユーリスは置いて、上空に手を振る。
「イスカ! おはよう」
「おはようございます。魔王様」
イスカが空から降りてきて、音もせず地面に着地する。隣のユーリスを見下ろすと、イスカを見ながら口を開けて固まっていた。ユーリスのその様子に、イスカに初めて会ったときのパメラの様子を思い出していた。
「ぼ、僕も飛びたい!」
再起動して、イスカのところまで走り出そうとしたユーリスの手を反射的に掴む。
「イスカ。この子、ユーリスが、飛んでみたいって」
「私はかまいませんが、今日の用件はそれですか?」
「いや違う。今から、海に行くから付いてきてくれないかな?」
「はい!」
笑顔でこちらに伸ばしてきたイスカの手を掴んだ。
「あと、イスカ。この子は男の子だ」
「えっ!? あ、お、男!?」
イスカが予想通り、ユーリスの顔を穴が空くほど見て、驚いてくれている最中に、海に向かって転移した。
キラキラ光る海が目の前に見える。
すでにユーリスは、そのまま手を離したらバタンと前に倒れそうなほど、私の手にかろうじて捕まっている状態だった。突然手を離したら、ユーリスが怪我をするかもしれないので一言忠告する。
「ユーリス、手を離すよ」
「いいよ!」
「離すからね。イスカ、あとは頼んだ」
「え!?」
イスカとユーリスの手を同時に離したとたん、ユーリスが海に向かって走り出した。イスカはスタートが少し遅れたものの、さすがのイスカだ、海に突撃しているユーリスに途中で追いついて前に回り込んだ。
「止まって!」
「悪い、イスカ! ユーリスは魔族語は分からない!」
悲壮な顔でこちらを見たイスカに、笑顔で答える。
「好きにさせてやってくれ! ただ、大きな怪我をしないように見ていてくれると助かる!」
「わ、わかりました!」
その直後、バシャーンとユーリスが海に突っ込む音が聞こえた。
「エーネ。見て、捕まえた」
読んでいた本から目を離して顔を上げると、服どころか顔までびちょびちょに濡らしたユーリスが、笑顔で、両手で持った細長い魚を見せてくれた。
「魚を、素手で捕ったのか……すごいなユーリスは。私にはできない」
少し引きつった顔でそう言ってから、ユーリスの後ろに目をやると、イスカがげんなりした表情で、翼を広げて低空飛行していた。翼を畳む暇もなかったのか……イスカ、すまない。
「風邪を引く前に、帰ろう」
「僕、風邪引かないよ? 治せるから」
その能力、自分にも使えるのか……
「治せるからと言って、風邪を引かないわけじゃないだろう。午後は別のところに連れて行ってあげるから、一度戻ろう」
「わかった!」
イスカに帰ることを告げると、イスカの表情がぱーっと輝いた。
「エーネ。これだけ、持って帰っていい?」
ユーリスが見せてくれたのは、赤と黄色の液体が混ざったかのような変わった色の、平たい石だ。
「あぁ、いいよ。面白い石だね」
「でしょ?」
大事そうに懐に石をしまうユーリスと、イスカと共に、魔王城の風呂場に転移した。そのあと、その場にラウリィも連れてきて、どろどろの二人に直接お湯をかけてもらった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あー!」
「ユーリス、どうした」
昼食を食べて少し休憩していると、突然ユーリスが声を上げた。
「飛んでない!」
「イスカには午前中遊んでもらったから、また明日の朝頼みに行こう」
「うん。そうする!」
イスカ済まない、明日もだ……心の中で小さく部下に謝った。
「エーネ。もういいでしょ? そろそろ行こう!」
「あぁ、わかった」
椅子にもたれかかって寝そうになっていると、ユーリスに起こされた。よっこいせと立ち上がる。
「ユーリス。一度様子を見てくるから、少し待っていてくれ」
「わかった! 早くね」
早く早くと、足踏みをしているユーリスに笑い掛けてから、転移した。
透き通った、どこまでも透き通った湖が、目の前にある。角度を変えれば、まるで鏡のように、背後にある雪山を、逆さまに写していた。
今日もここは静かだ。中央山脈を適当に探索しているときに発見したこの場所は、標高が高いためか、いつ来ても誰もいない。
透明な湖と、立ち上がれば遠くに見える人族領と魔族領。
ここは私のお気に入りの場所だった。
「あ! エーネ!」
椅子に座って私を待っていたユーリスは、私を見ると、勢いよく立ち上がった。
「行こうか」
「うん!」
伸ばされた小さな手を、ぎゅっと握る。
「わ! わぁー!」
湖のほとりに立って、感激の声を上げるユーリスを見守る。
「きれい! 見て、エーネきれいだ! 飛んでる! おーい!」
ユーリスが、どうして目の前の湖でもなく、山の下の景色でもなく、空を見上げて大きく手を振りながらそう言うのかわからなかったけれど、きれいな鳥でも見つけたのだろうと、そのときは気にも留めていなかった。
まさかこの世界に、まだ存在さえも知られていない、聖なる力で魔王から隠れ続けている種族がいるなどとは、知るよしもなくて――私が見ているものとまったく同じ景色を、ユーリスも見ているのだと、疑いもなく信じていた。
再びこの場所に並んで立って、ユーリスに白い翼の生えた魔族の存在を教えてもらうのは、ここからまだ先の話だ。




