幕間2 懺悔
暗い話ですので、ご注意ください。
私は、商家の一人娘として生まれました。
贅を尽くせるほどではありませでしたが、父は、一人娘の私のことをずいぶんとかわいがってくれました。人形や本など、私が欲しいと頼めば、父が商家の伝手ですぐに手に入れてくれました。小さかったころの私の頭を撫でる、父の大きな手を良く覚えています。
そんな贅沢な暮らしをさせてもらっていた私が14歳のときに、父が病で亡くなりました。父は「今回は手強い風邪だ」と笑っていたのですが、寝付いたときにはあっという間でした。
母は、父が大きくした商家を守ろうと頑張ってくれました。頑張ったのですが――
親切そうに近づく人を簡単に信じてはいけないものですね……騙されてあっさりと、商売の権利を取り上げられてしまいました。
私たち親子は途方にくれました。商い以外で暮らすすべを、私たち親子は持っておりませんでした。
本が読める、文字が書ける、勘定ができる。
そんなことは村の生活には何の役にもたちませんでした。村の人たちは騙された私たちをはじめは不憫に思ってくれていました――しかし,彼らも日々の暮らしは楽ではありません。少しずつ日が経つにつれ、村にとって、もはや役に立たない私たちを見る目が冷たくなりました。
母は、村の人たちに頼み込み、農作業の手伝いをするようになりました。
毎日、日が暮れてから帰ってくる母は、慣れない仕事で疲れ切っており、手は傷だらけで、冷え切っていました。
そのとき私は14歳。農家の子たちはもう大人と同じように働いています。「私も働きたい」と母には伝えたのですが――母は、母自身が両親にしてもらったのと同じように私を育て上げたかったのでしょう――私が嫁ぐまで私にそんなことはさせられないと、意地を張るように言っていました。
私たちは、初めて、貧しい暮らしをしました。
貧しいと、人は人に優しくする心の余裕がなくなるのですね。そんなことも知らずに私はこれまで生きてきました。
いつもニコニコと笑っていた母から、少しずつ笑顔が消えました。些細なことで、母は私をしかり、そのあと決まって泣きながら私に謝るのです。母にしかられることよりも、私にすがりついて泣く母の姿を見るのが、辛くて、悲しくてたまりませんでした。
そんなある日、日が暮れても母は家に帰ってきませんでした。寒い、寒い冬の日でした。
私は一人で母を探しに行きました。そして、畑のそばで座っている母を見つけました。私が声をかけても母は返事をしてくれません。
母のすぐそばまで来て、私は始め、母は眠っているのだろうと思いました。
目をつぶった母の口元は静かに微笑んでいて、何か良い夢を見ているのだろうとそう思っていました。
母は、座ったまま亡くなっていました。
私は、私は、そのとき……笑顔で亡くなっている母を見て、
「ああ、これで母はもう泣かなくていいんだ。私に謝らなくていいんだ」
と思いました。なんて、私は親不孝者でしょうか。
そのあとのことはあまり覚えていません。気がつけば母の葬儀が済み、私は村の人の知人の紹介で、あるお屋敷に働きに出ることになりました。
下働きなどしたこともなかったので、お屋敷では「こんなこともできないのか」と怒られてばかりでした。毎日毎日、怒鳴られ続けました。
けれどもここには、暖かい部屋と食事がありました。
私は心を凍らせるすべを学び、1年,2年と経つうちに、少しずつ、少しずつ私にもできることが増えました。
あの日、私は17歳でした。
私たち下働きはお屋敷の方々に姿を見せないように教育されています。たまに遠くからお見かけすることはあっても、頭を下げる私たちに、お屋敷の方々が注意を向けることなどありませんでした。
その日私は執事頭に、ご主人様のところにグラスをお持ちするようにと指示されました。執事頭がなぜ私に直接頼むのかと、少し不思議に思いましたが、そんなことお聞きできるわけがありません。指示通りに、私は指定されたグラスをトレイに乗せて、ご主人様のお部屋に向かいました。
あぁ……唯一神アウシア様。
そのとき、私は何も知らなかったのです! 何も知らない小娘でした。それだけは信じてください。
執事頭が、ご主人様の部屋で呆然と座り込む私を、部屋から連れ出しました。引きずるように歩かされて、自分の足で歩いているはずなのに、よくわからないうちに私は自分の部屋まで帰ってきていました。
その次の日、私が自分の部屋で寝ていても、誰も怒鳴りには来ませんでした。
あの日のことが私の記憶の中で黒く塗りつぶされ、「何もなかった」と思い込めるようになったとき、また執事頭からグラスをお持ちするようにと指示を受けました。その瞬間、目の前が真っ暗になりました。足がどうしようもなく震えます。
けれども私は逃げることができませんでした。
どうやら、奥様が不在の日だけを狙っているようです。同じようにグラスを運んでいる下働きの仲間を見かけたこともあります。私たちは、皆知っているけれども、お互い何も知らない振りをしていました。
私は、逃げ出さなくてはいけなかったのでしょう。
けれども、逃げることを考えると、あの日々を――優しかった母の最期を思い出して、私はどうしても逃げ出すことができませんでした。
私には勇気が、心の強さがありませんでした。
私は結局、子どもを授かったとわかったあの日まで、お屋敷で働き続けました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私が妊娠したことがわかると、皆は何も言わず、屋敷を逃げ出す協力をしてくれました。
特に、長い間子どもができず悩んでいる奥様には、知られる訳にはいきません。私はその日のうちに屋敷を辞めなければならない粗相をしたことにされ、皆の少ない給金の中から集まったお金だけを握りしめて、屋敷を出ました。
屋敷から逃げ出して、しばらく旅をして、私は体調が悪くて動けないところを助けてくださった人の村で暮らすことになりました。子どもの父親は病で亡くなったことにしました。父と母のことを思いながら、涙ながらに話す私のことを、村の人はだれ一人として疑いませんでした。村の人は子どもを抱えた私に、非常に親切にしてくれました。
子どもを抱えながら、女手一つで生活するのは簡単ではありません。でも、この子が、マーシェがいるから私は頑張れました。小さな一つ一つのことが大切に思えて、楽ではない生活でしたが、私は幸せでした。
私が29歳,マーシェが8歳になったあの冬、静かに暮らしていた私たち親子のもとに、かつて働いたあのお屋敷の――奥様が、やってきました。
奥様は私の顔すらご存じなかったはずです。それなのに、一緒に来ていた、かつての執事頭が私を指さした瞬間、私のことを見て「こいつは魔女だ」と叫び始めました。
奥様の子どもが流れたのは、『私が魔女で、奥様のことを呪った』からだそうです。
奥様が何をおっしゃっているのか意味がわかりませんでした。私が屋敷にいた時期に、奥様が妊娠されたことはありません。奥様が子どもを授かったのは私が出て行ったあとのはずです。私はそう必死に訴えました。
私は魔女ではありません。奥様を呪ったことなどありません。
けれども、私自身がそう願ったわけではなくても、私がご主人様と関係を持っていたのは、紛れもない事実でした。妻を持つ男性と関係を持つ――アウシア様の教えを裏切ったことには代わりがありませんでした。
村には、熱心にアウシア様の教えを守っている方々がいました。
私はその人たちを騙して、この8年間村で生活をしてきました。
私は、私たち親子に親切にしてくれていた方々を、堂々と裏切り続けていました。そんな私は、本当に『人』だったのでしょうか。アウシア様に敵対する魔族の一員――『魔女』ではないのでしょうか。
私がそんなことを考えていると、奥様が「魔女め!」と叫びながら、私の顔を手の甲で払うように殴りました。地面に倒れこんだ私の後ろからマーシェの声が――マーシェが「お母さん!」と必死に叫ぶ声が聞こえました。
家の中にいるようにと言ったのに、マーシェが家の入り口で、今にも泣き出しそうな顔で、心配そうに私のことを見つめています。マーシェは私だけを、まっすぐ見ていました。
私は、こんな私は、マーシェの前だけでは立派な母親でいたかった。心配しないでと、マーシェに優しく笑いかけました。私の最期の意地でした。
そのとき、奥様が、マーシェにも聞こえるように大声で、私の『罪』を話し始めました。少しだけ真実が含まれているだけで、ほとんどは作り話です。まだ8歳のマーシェがすべてを理解できるとは思いません。でも、できることなら、私はマーシェの耳を両手でふさぎたかった。マーシェには聞いて欲しくはなかった。
けれども、奥様の正気ではない、狂気めいた様子を見て、私はマーシェの前で取り乱さずに、逆に奥様を静かに見つめました。
奥様が金切り声を上げて、右手に持った聖杖を振り上げたのを見ても、私は逃げ出しませんでした。心の中は震えています。けれど、私のことを見ているマーシェに、無様な姿は見せたくありませんでした。
衝撃を覚悟して目をつぶった、瞬間――
私の目の前に真っ黒のローブを着た人物が現れました。
私の代わりに殴られたのか、目の前の人物は小さく呻いています。大丈夫でしょうか。奥様は「魔女が仲間を呼んだ!」と叫んでどこかに行ってしまいました。
私は立ち上がって、その人を、家に引き込みました。
フードを深く被っていて、顔は見えませんが、その人は痛そうに顔を押さえています。どのくらいの怪我かと、私がのぞき込もうとしたときに、こちらに気づいたその人が自分の手でフードを取り払いました。
イシスの光に照らされて、銀色に輝く真っ黒の髪と、こちらを見つめる――服と髪と同じ吸い込まれるような黒の瞳に息を飲みました。年齢のわかりにくい小さなきれいな顔立ちのその方に見つめられて、夜の闇が私を迎えに来たと、そう思っていたとき、目の前の人が一瞬子どものように笑って、
鼻血を流しました。
慌てるその人の様子で、私は我に返りました。
その人は私たちの言葉が分からないようでした。鼻をタオルで押さえながら、きょろきょろと家の中を興味深そうに見ています。奥様は「魔女の仲間だ」とおっしゃっていましたが、この方はどこから来たのでしょうか。なぜ、私をかばってくれたのでしょうか。
私はこれからどうなるのでしょうか。魔女として処刑されるのでしょうか。それとも、不義を行ったとして裁かれるのでしょうか。
マーシェは……親の罪が子どもに向かうとは、教えには書かれていません。たとえ私が処刑されたとしても、この子は見逃してもらえるでしょう。
ですが、マーシェは――私が居なくなって、この子はどうやってこれから生きていけばよいのでしょうか。
外から複数人の足音と、「魔女だ」と私たちのことを話す大きな声が聞こえます。
「お母さん」とマーシェが不安そうに声を上げました。私のことをまっすぐ見上げる、親の私とは不釣り合いなくらいに良く出来た、優しいこの子の頭を撫でました。
死にたくはありません。私だって死にたくはありません。
でも、神様どうか、どうか、この子にだけは幸せな未来をお願いいたします。
アウシア様を裏切った私が、そう神に必死に祈っていたときに、突然カーテンが閉じる音がして、部屋が真っ暗になりました。
何も見えませんが、マーシェが私のすぐ側にいることはわかります。
コツコツと、足音が一歩ずつこちらに近づいてきました。
目が少し闇に慣れて――
真っ黒の瞳が、優しげに私たちを見下ろすのが見えました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
下働きがいるような豪華なお城に住んでいて、不思議な力を持っているその方――魔王様のことを、始めはどこかのお嬢様だと思っていました。そのお嬢様がどうして私たちに親切にしてくださるのか、理由がわからず困惑しました。
私に言葉を教えて欲しいということは魔王様の必死なご様子から伝わってきたので、私にできる限りの協力をしました。言葉を教える、ただそれだけのことで、下働きの1年分の給金に相当する白金貨を出されたときには驚きました。
私は魔族語がわからないため、魔王様が何を話されているかは、はじめはまったくわかりませんでした。けれども、穏やかに話されるこの方が、私をいつも気遣ってくれていることは、言葉などなくても分かりました。
魔王城。私がその場所のことを知ったのはだいぶあとの話でしたが、この城の方々はみな私たち親子に優しい方ばかりでした。
アーガル様を初めて見たときは、驚いて失礼にも気を失ってしまいました。魔族とは恐ろしい者だと聞いていたのですが、小さな魔王様に怒られて小さくなっているアーガル様を見て、思わず笑ってしまいました。
アーガル様にはずいぶん親切にして頂きました。マーシェはまるで父のようにアーガル様に懐き、今日は何をして遊んでもらったかを自慢するように私に報告してくれました。
アーガル様は、ときどき樽がいっぱいになるくらいの量の花をくださいます。魔族領の花は、人族領よりも大きく、それに大量に生えているのでしょうか? 部屋に飾ると、それだけで部屋の中が花の香りでいっぱいになりました。
ラウリィ様は普段は口数が少ない方ですが、時折魔王様と楽しそうにお話されています。
一度だけ、魔王様と柱の陰から、ラウリィ様が『魔法』でお城の掃除をしているのを覗いたことがあります。人族では魔法が使える者が少ないので、間近で見るのは初めてだったのですが魔法とはすごいものですね。私はマーシェに教えてもらうまで、ラウリィ様のことは同じ人族だと思っておりました。
私が食事を作っているとき、よくラウリィ様が無言で私の作業を覗いていることがあります。私は魔族語が話せないので聞かれてもお答えすることはできないのですが、ラウリィ様の熱心なご様子には緊張しました。ラウリィ様は、魔王様に美味しい料理を作って差し上げたいのだと思います。
イスカ様は、イスカ様の姿は教えの中に出てくる『悪魔』そのものでした。
けれども、イスカ様は、教えの中に出てくる残虐に人族をいたぶって殺す『悪魔』ではありませんでした。イスカ様はお優しい方です。私の作る料理をいつも人族語で「“おいしい”」と言ってたくさん食べてくださいます。イスカ様はおかわりができないと悲しい顔をされるので、作る私も必死になって作りました。
マーシェがときどき私に隠れて、イスカ様に空へ連れて行ってもらっていることは知っています。自分の翼で飛ぶというのはどのような感覚なのでしょうか。空から見る景色はどのようなものなのでしょうか。私も頼めば連れて行ってもらえるのでしょうか。大人げないと笑われてしまうでしょうか。
イスカ様のことを考えると、私が当たり前だと思っていた、アウシア様の『教え』のことが分からなくなります。
クルーゼル様は、竜人族という種族だそうです。容貌が人族と大きく違ってはじめは驚いたのですが、声を荒らげることなどない、いつの間にか後ろにいるような物静かな方です。
クルーゼル様は私たちとは手の構造が違うのでしょうか? 間違って紙の中に入り込んだかのような繊細な絵をお描きになります。魔王様に言葉をお教えする際に,何度助けられたかわかりません。魔王様はクルーゼル様のこと「“それしかできないから”」とよくからかうようにおっしゃっていますが、クルーゼル様がお描きになっている壁画を一番楽しみにしているのは魔王様です。
壁画に、お優しいこの城の方々は全員描いて頂けるのでしょうか。私とマーシェは描いて頂けるのでしょうか。私はいつか完成を見られるのでしょうか。
魔王様。
魔王様が人族語で「“人と仲良くしたい”」とおっしゃられました。これまで魔王様が私と言葉を勉強してきた理由が、まさかそのためだとは思ってもみませんでした。
『魔王』
人族の敵である魔族の王様です。人族にとっては、いつか勇者様が倒してくれるのを、心待ちにする存在――
目の前のこの方がですか? 私はこの方が死んだら喜ぶのですか?
魔族を滅ぼす。ただそれだけが正しいと伝える、アウシア様の『教え』とは一体何なのでしょうか。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は、心のどこかでは、ずっと静かにこの城で暮らしていくことを願っていました。
魔王様は4年間で人族語がお上手になられましたが、まだ難しい言葉はあまりご存じではありません。そのこともあって、魔王様はずいぶん悩んでいるご様子でした。けれども、魔王様はマーシェのために、私たちを人族領に帰すことに決めました。
魔王様からは信じられないくらいの大金を頂きました。これだけのお金があれば、人族領でマーシェとのんびり暮らすことができます。
ですが、遠いその地で、いつか私は「魔王様が勇者に討たれた」と聞くことになるのでしょうか。その知らせを聞いて、私は不審に思われないように、他の人々と同じように喜んだふりをするのでしょうか。
そんなこと考えたくもありません。魔王様がこの4年、必死に人族の言葉を学ばれたのは私が一番よく知っています。それなのに、私は何事もなかったかのように再び人族領で暮らすのでしょうか。それでいいのでしょうか。
私がマーシェと離れ離れになることで悩むなど、4年前には考えられませんでした。
マーシェに将来何をしたいか聞いてみたところ、
「魔王様を、ぎゃふんと言わせられるくらい賢くなりたい」
と言ったので、マーシェは学校通わせることに決めました。
東州には領主様がお作りになった、庶民でも通うことのできる全寮制の学校があると聞いたことがあります。庶民には払える額ではないため、通っているのはほとんどが貴族の方々だそうですが、費用はもう問題にはなりません。
マーシェが貴族の方々とうまくやれるのか少し心配しましたが、マーシェはこれまで魔王様や魔王様直属の将軍様というような、雲の上のような方々と付き合ってきたのです。きっとマーシェは私などが考えるより、よっぽど上手くやることでしょう。
「お母さんはどうするの?」
マーシェは私にそう聞いてきました。
この4年間で思い返すのは、こちらに手を伸ばされる魔王様。
あの方は、何てまっすぐに私の目を見られるのでしょうか。そして、私の名を呼んで「“ありがとう”」と「“いつも助かっている”」と、真っ先に覚えられた言葉で何度も、何度もおっしゃるのです。
そう、私が本当にそうだと信じてしまうくらいに、何度も――
どれだけ嬉しかったでしょうか。どれほど救われたでしょうか。
私はまた、逃げているのかもしれません。
ですが、これまでマーシェのためだけに生きてきた私が、魔王様にお仕えさせて頂くことに決めました。
私は、『魔女』になることに決めました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マーシェの学校への入学手配と、卒業までの後ろ盾はギルドに依頼を出しました。
ただの庶民の私は、ギルドに依頼を出す前に門前払いされる恐れがあります。ましてや、今回は高額な依頼です。訳ありの貴族を装って――あのお屋敷の奥様をイメージして着飾ってギルドを行き、ギルドマスターの部屋で、庶民であるマーシェを横に立たせて偉そうに説明をしました。
ばれてはいないと思います……ギルドが受けた依頼を破棄するようなことはしませんし、半分は後払いですからしっかり仕事はしてくれるでしょう。
マーシェはそのままギルドの人に預けました。
マーシェを抱きしめたかった。けれども、今の私の姿は貴族の奥様です。そんなことはできませんでした。
「“お母さん。またね”」
マーシェが魔族語でそう言って、こんなときでも私を励ますようににこりと笑いました。
本当に……私には不釣り合いなくらい、よくできた子です。
魔王様とは5日後に会う約束をしましたが、来て頂けるでしょうか。私は受け入れてもらえるでしょうか。そのことを頭の中でぐるぐる考えながら、約束した森に向かいました。
魔王様は4年前とまったく変わらない姿で、優しい黒い瞳で私を見ました。
あぁ、神様。
魔王様を認めない唯一神アウシア様にはもう祈ることはできません。私は、魔族も人族と同じように受け入れてくださる古の神々に祈るために、膝を突きました。
「私、パメラは法を司る循環の女神リュシュリート様に申し上げます。私は、この身と忠誠を、すべて“魔王様”に捧げることを誓います」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は、魔王様にお仕えするのを受け入れて頂けました。
なぜかその日から、魔王様は私の言葉が――人族の言葉がはっきりとわかるようになりました。魔王様は、そのことに非常に喜ばれていました。これで、魔王様とこの城の方々は、人族と争わずに済むでしょうか。
私は、ちっぽけな私のすべてを魔王様に捧げたいと思います。どうか、どうかリュシュリート様、魔王様のために、この城の方々が平和に暮らせる世界をお願いいたします。
今、私は、魔王様に私についてお話をするために、魔王様の執務室へと向かっています。
たびたび廊下に立ち止まって、震える手足をなだめます。
真実を話すのが、怖くて、怖くてたまりません。けれども、もう、隠して、騙して生きてはいけないのだと思います。
魔王様は私の話を聞いて、何とおっしゃるでしょうか。軽蔑なさるでしょうか。私はこれからも魔王様にお仕えできるのでしょうか。
震える手で、扉をノックしました。
「やぁ、パメラどうしたの?」
魔王様は執務机で本をお読みになっておられました。
執務室の入り口に立ったまま、いつまで経っても口を開くことの出来ない私の様子を見て、魔王様が静かに本を閉じられました。黒い、黒い瞳がまっすぐ――優しげに私を見つめています。
「魔王様、長いお話になりますが、私の話を聞いて頂けますか……?」
これで2章は終わりです。魔王就任から03~07年の話でした。




