16話 魔王、洋館を攻略する
「この文字は、何て読むのかな……」
近頃は、人族領で拾った本で、人族の文字を読む練習をしている。けれども、絵本ではないので初心者には難しく、勉強は難航していた。この本を拾ったのが、古い洋館だったので、絵本ではないのは仕方ないだろう。
「それにしても、あそこの探索は大変だった」
本の表紙を撫でながら、あの場所の探索にかけた日々を思い出す。
人族領の探索は順調に進んでいた。
魔族領に近い東部地域は粗方調査が終わり、北部地方に足を伸ばそうとした頃に、たまたま上空から古い洋館を見つけた。
その日は遠くから見つめただけで、すぐに魔王城に戻った。
なんというか、深夜に一人で探索するには、雰囲気がありすぎる洋館だったのだ。
一体どうして、ツタで覆い隠された家の門を潜ってすぐのところに、墓が並んでいるのだろうか。そしてなぜ真夜中に、真っ黒のカラスが、カーカーとこの世の終わりを告げるように敷地内で鳴いているのだろうか。
意味が分からない。
その日から、夜に何度か訪れて建物に灯りが付いていないのは確認し、さらにそこから数日かけて、建物の入り口に鍵がかかっていることも確認した。
その洋館のせいで、人族領の探索は完全に止まっていた。
よし、今日こそは建物の中に入ろう。
でも怖いから日中にしよう! 人里離れたところにあるし、森の中から歩いて行けば、日中に転移しても誰かに見られることはないだろう。
真っ昼間に魔王城から洋館近くの森に転移する。しばらく歩いて、やっと目の前に洋館の門が見えた。門の隙間から中を覗いて見たけれど、今日も当然のように誰も居なさそうだ。
門を両手でゆっくり開ける。
「ギィー」
門がきしむ大きな音がした。帰りたい。
まだ、日差しの出ている時間帯の今日はカラスはいないけれど、野犬が数匹たむろっていた。この野犬が一歩でもこちらに近づいてきたら、今日は帰ろう。そうしよう。
残念ながら、何事もなく建物の入り口に到達した。念のため、大きく扉をノックをしたあと、耳をすませて応答がないのを確認してから、ガチャガチャとドアノブをひねった。今日も建物には鍵がかかっている。
この敷地内のどこかに鍵が落ちている――何てことは防犯上あり得ない。ドアノブを握ったまま数回深呼吸をして、10分ほどそのままの体勢で休憩したあと、
「行けー!」
と己に活を入れて、えいやと建物の中に跳んだ。
ミシッという音とともに、床板が柔らかくしなり、足元が若干沈みこむ感覚がした。無言でしばらくそのままの体勢で静止する。帰りたい。
長らく人が住んでいないのだろう。建物内部もぼろぼろで、ほこりと蜘蛛の巣がすごいが、それ以外は普通の――よくあるお金持ちの洋館だ。一歩一歩歩くたびに、床がきしむ音がする。
真っ正面に両開きの大きな扉と、左右に小さな扉がある。うーん、しばらく考えて右側の扉を選んだ。右利きなので、何となくまずは右だ。
鍵はかかっていなかった。中はキッチンだったのだろうか、大きな釜のようなものがある。それ以外のものはすべて引き上げられて、室内には何も残っていなかった。残念。
よし、じゃあ反対側の扉に行こう。キシキシ言わせながらホールを横切り、今度は左側の小さな扉をひねった。鍵はかかってはいないが、何かが引っかかっているのだろうか、引っ張っても扉が開かない。けれども私の力でも開きそうな反応はあるので、ぐいぐい後ろに体重をかけるように、思い切り力を入れた。
突然、バンッと、勢いよく扉が開く。
地面に放り出され、私は尻もちをついた。尻をさすりながら、顔を上げると、何かと目が合った気がした。
「うわっ」
驚いて数メートル後ろに転移する。座った体勢だったので、転移後に立てるようにいつもより少し高めの位置にだ。これまで何度もやったように、転移からの着地が成功した瞬間――足元から「ビシッ」と嫌な音がした。そのまま、つま先の方向から、足元の床板が抜け落ちるような感触がする。
まずい。
体が前のめりになって、そのまま止まった――ような気がしたのはほんの一瞬で、ガコンと、かかと側も抜け落ちた。
もう最近では慣れた、『自重による落下』が始まったのがわかったときに、やっと再転移ができるようになった。一気に建物の外まで転移する。
心臓がばくばく鳴っている。思わず床に手をついた。危なかった……
30分ほど、門の前の墓の横で、野犬たちに見守られながら体育座りで休憩したあと
「もう一度行くか」
重い腰を上げて立ち上がった。
嫌なことを明日まで持ち越したくはない。今日中に終わらせよう。
勢いよく落下して床を踏み抜かないように、地面すれすれに転移するように意識して、また建物内に戻る。さっき自分で踏み抜いた板は大きく避けて、再度左の扉に向かった。
先ほど目があったと思ったのは、ただの甲冑の兜だった。左の部屋は武器庫か物置だったのだろうか、他にもいくつかの剣が転がっていたけれど、どれも錆びている。これは使えないな、と肩を落とした。
最後に中央の大きな扉に向かった。両開きの扉をそっと、反応がないので段々力を入れて引っ張るが、扉は開かない。鍵がかかっているのだろうか。けれども、鍵穴のようなものはなかった。
周囲を見回すと、これは何のためにあるのだろうかと言いたくなるような、珠をはめる穴の開いたオブジェや、『ひねってください』と言わんばかりの形をした燭台がある。金持ちの道楽で、この辺のギミックを上手く操作すれば、扉が開くような仕掛けがあるのかもしれない。
「……。そうかもしれないけれど、面倒だ」
少しだけ悩んだけれど、やはり面倒だったので、部屋の中に直接転移した。
室内に転移した瞬間、周囲と足元を警戒した。再転移できる時間が過ぎても、なにも起こらなかったので、ふう、と落ち着いて周囲を見る。大量にほこりが積もっているのは変わらないけれど、これまでとは打って変わって落ち着いた綺麗な部屋だった。歩いても床がミシミシと言わない。
この部屋は、この館の主の執務室だったのだろうか。
「お! いいもの発見」
大きな机が目に入った。魔王城の自室で使っている机は――『魔王』があまり書き物をする習慣がないのだろう――小さな学習机だ。目の前にある机は、大理石のようなものが使われている、しっかりした素材のものだった。きれいに拭けば十分使えるだろう。
そして……
「本だ……」
壁一面に本が並んでいた。ほこりっぽいけれど、こちらも十分綺麗だ。人族の言葉なので何が書いてあるのかはわからないけれど、情報収集や言葉の学習に使えるだろう。
どうして私はこの洋館にこだわっているのだろうかと、自分でも途中から訳が分からなくなっていたが、まさかこれほどのお宝が手に入るとは……
頑張って良かった。じーんと突っ立って感動する。
そのまま、部屋の中のすべてのものをかっぱらうのは気が引けたので、換わりに青い大きな石(たぶん宝石)を部屋の中央に配置して、「こんな場所、二度と来るか」とすがすがしい気分で、この洋館から立ち去った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
寝室とは別に、執務室を新たに作って、重厚な机の前で本を開いていると、それだけで真面目に仕事をしている気分になる――なるだけで、読めない文字は、いつまで経っても読めないままだ。うん、仕事をしよう。
パメラに聞きに行こうと、私は椅子から立ち上がった。
「ん。なんか良いにおいがする」
部屋にはいなかったので、キッチンに移動すると、パメラとマーシェが並んで何かを作っていた。
「魔王様、こんにちは!」
マーシェが私に気がついて、笑顔で挨拶してくれた。
パメラとマーシェがここに来てから、早いもので2年が経った。
この2年で、マーシェはずいぶん大きくなった。そして、人族語を真面目に勉強している私よりも、マーシェの方がはるかに魔族語が上手くなってしまった。ときどき、犬人族の子どもたちと一緒に遊んでいるので、その子たちから覚えたのだろう。子どもはすごいな。
「魔王様、“何か、仕事――、来た――?”」
パメラが手をタオルで拭きながらこちらにやってきた。私の方は、個々の単語はだいぶ分かるようになってきたが、まだ細かい文脈が分からない。
「魔王様、お母さんが、何か用事があってここに来たのかって!」
マーシェがパメラのあとに続いて、パメラの言葉を翻訳してくれながらこちらにやってきた。実を言うと、マーシェの優秀さに、マーシェを通訳として雇うことも考えたけれど、子どもには今しかできないことがある。この子を完全に巻き込んではいけないと、自分に言い聞かせている。
「“パメラ、わからない言葉、あった。教えて”」
そう言って、本の該当ページを開くと、パメラがいつものようにのぞき込んだ。
「“この言葉は、――。行う、始める――意味する丁寧な言葉”」
『開始する』辺りかな?
「“ありがとう。それで、何、作ってる? 良い、匂い”」
「ケーキだよ!」
「そうか、それは楽しみだな」
パメラの作ってくれるお菓子はおいしい。パメラとマーシェが早口に何かを話したあと、パメラが私の方を見た。
「“あと少しで、できます”」
私が聞き取れるように、ゆっくりと人族語で言ってくれた言葉に、「“ここで、待つ”」と笑顔で答えた。
食堂の椅子で、マーシェと並んで一冊の本を広げて読む。マーシェはまだ人族の文字があまり読めないらしく、文字に関しては私とどっこいどっこいの実力だ。
私が本の内容を声に出して読んで、マーシェが知っている言葉について説明したり、間違った発音を訂正したりする。私たちがそんなことをしている間も、パメラはせっせとケーキ作りの後片付けをしていた。
「“マーシェ、―――”」
「“はーい! 手伝う”」
ケーキが焼き上がったのだろうか。マーシェがパメラに呼ばれて、行ってしまった。すごく良い匂いがするが、私は邪魔なので大人しく座っていよう。そうだ、ちょうどいいから皆を呼びに行くか。
城の中にいた全員を拾ってから、食堂に戻った。
「ラウリィ、紅茶を頼む」
「かしこまりました」
ラウリィが丁寧に礼をする横で、マーシェが手を挙げながらぽんぽんとその場で跳んでいる。
「魔王様! わたしも、入れれるようになったんだよ! 教えてもらった!」
「そうか、すごいな。でも、今日は人数が多いから、また後日私に入れたものを持ってきてくれ」
「わかった!」
皆で並んでテーブルに座り、パメラが切り分けてくれたケーキを食べる。
「“おいしい”」
「これは、美味しいですね」
イスカが私の倍近くの大きさに切り分けてもらったケーキに、勢いよく食いついている。
パメラは最近イスカを見ても怖がらないようになった。イスカもパメラを過度に避けないようになった。
少しずつだが、ちゃんと進んでいるように思う。