七森奏は勤労少年である。
早朝、まだ太陽が顔を出していない時間。
ドアをノックする音がして目が覚めた。
起きた瞬間、ここがどこだか分からなかった。
これはあれだ。
ホテルとかに外泊したら、朝起きた時、
何と無く、実家にいるような錯覚に陥る現象。
辺りを見て、やっと気付いたりするんだよな。
まぁ、学校以外で外泊したことないけど。
俺の場合、現実になって欲しかったが…
温もりが恋しいところが、出ない訳にはいかない。
ベッドから降りて、玄関へ向かう。
「うぅ、朝はやっぱ寒いな〜」
両手で腕をさする。
一晩のうちに冷えた空気が、家中に積もっている。
こりゃあ、朝は上着が必要だな。
そんなたわいもない事を考えながら、
扉を開くと…コードリの爺さんが居た。
「よっ、おはよーさん」
手を上げて、挨拶をする。
この人、昨日足をくじいていたよな?
片方の手には釣竿が2本握られ、
地面にはバケツが置いてある。
「まさか…釣りですか?昨日挫いてた足は大丈夫なんですかコードリさん」
「あーあれな。もう治った。ギックリ腰みたいなもんじゃろ、さぁさぁ釣りに行くぞ」
「え、ちょっと」
腑に落ちない俺の手を引いて、
朝釣りへと向かった。
丘を下り、街とは反対方向に見える、
山に向かって進むと川が見えて来た。
とても綺麗な川だった。
幅はそこまでないものの、
水はガラスの様に澄み渡り、
魚が活き活きと泳ぐ姿がありありと見られた。
奏の住んでいた都会では見られない光景だ。
「ほいほい、竿」
太い枝で作った釣竿を渡される。
リールも付いていて、案外ちゃんとしている。
「後これ、使え」
それと、ナイフを渡された。
糸が引っかかったら切れということだろうか。
用意周到だなぁ。
それより、一体どんな魚が釣れるんだろう?
人面魚?人魚?それとも、
深海魚みたいなグロテスクな魚かな?
思わず、想像してしまい身震いする。
「ねぇ、コードリさん。どんな魚が釣れるんですか?」
水面に糸を垂らしながら尋ねる。
「今日はサシューが食いたいの」
「さ?サシュー?」
この七森、カシューナッツならわかる。
いや、シチューの聞き間違いかも。
食べ物の事を考えていると、そう言えば昨日から何も食べていない事に気付き、腹が鳴った。
それを聞いて、コードリが笑った。
「腹減ってんだろやっぱ。ほれほれ、はよう釣らんと飢えるぞ」
「言われなくとも、釣りますよ」
釣りをするのは初めてではない。
本格的にやったことなんてないけれど、
昔は、食うものがなくてどこでも糸を垂らしたものだ。
小学校の池にいた鯉を釣り上げて、
担任教師に怒鳴り散らされたこともあった。
事情を話すと、哀れんだ目をされたっけ。
あれが一番精神的にきついんだよなぁ。
そんなことを遠くの山を眺めながらぼんやりと考えていると、コードリの声で我に帰った。
「奏!引いてるぞ!!」
竿を見ると、見事な弧を描いている。
慌てて竿を立てる。
「コードリさん!これサシューですかね?」
「さぁ?わからん。わし、老眼じゃし」
そうか…釣り上げてみれば分かるか!
竿を立てつつ、ゆっくりと糸を巻いて行く。
慎重に、慎重にだ。
俺の親父は言っていた。
恋と釣りは慎重にって…
いよいよ目の前まで迫って来た。
「飯!俺の飯!!!」
川岸から、二、三歩下がり、一気に引き上げる。
「どっせいや!」
魚は宙を舞い、地面に…地面に…
何これ?
見た目は魚の形。鯖とかに似ている。
だが…脚生えてるよ。虫の様な脚。
鳥肌が全身に拡がる。
「何しとるんじゃ!サシュー逃げちまうぞ!」
「逃げるって?え?」
「ナイフで刺すんじゃよ!」
あ、これそういう意味だったの。
ナイフを握り、サシューに向かう会う。
サシューは釣り針を外そうと、
かさこそ動いている。
「ギチギチ」言いながら…
正直、こんな気持ち悪いのに触れたくないが、
背に腹はかえられん!サシュー覚悟!
ナイフの切っ先をサシューに向け、振り下ろす。
キーンと金属音がして、外れてしまった。
すばしっこいやつ。
もう一撃!もう一回!ワンモアチャンス!
いつの間にかサシューよりも、
自分の方が消耗している事に気がついた。
奴は案外すばしっこいのだ。
結局どうなったのかって?
そこは聞かないで欲しい。
なんて言ったらいいのか。
逃げられましたとも…
七森、不覚。
「まぁまぁ、そんな落ち込むなって」
コードリが肩を叩く。
「サシューと初めて対峙したんじゃあしょうがない」
「コードリさんは何匹釣ったんです?」
「5匹くらいかの?」
バケツがサシューで一杯だ。
それに比べ、俺は…
溜息を吐いて、肩を落とす。
「それじゃあ行くぞ〜」
コードリがバケツを持って、
街の方へ歩き出す。
「ちょ、ちょっと家はあっちですよ?」
コードリは振り向いて、
歯茎を見せてにっと笑う。
「いいからついて来い。飯食わせたる」
奏はコードリに羨望の眼差しを向けた。
そんな漢らしいコードリさんに後をついて行くと、
昨日送り届けたコトヅテ屋に招かれた。
一階が事務所で、二階が住居となっていた。
二階に上がると、人の良さそうな顔をした、
笑顔がお日様の様に明るい、
奥さんのミレイさんがキッチンに立っていた。
俺たちが帰って来た事に気づくと、優しい笑みを浮かべた。
「あらあら、昨日はありがとね奏くん。でも、あんまり大した怪我じゃなかったらしくて、今朝なんて走って奏くんの家に行ったのよ」
「あはは。無事で何よりです」
結構、痛そうに見えたけどなぁ。
気のせいだったのか。
「お腹減ってるでしょ?待っててね」
コードリさんからバケツを受け取ると、
ミレイさんはキッチンに向かい、早速調理を始めた。
その間、俺は食卓に腰を下ろしていたが、
何だか落ち着かずに辺りをキョロキョロしていると、
壁に掛った一枚の絵画を見つけた。
俺の視線に気づいたらしく、コードリさんが言った。
「それは息子とわし達じゃ。あいつらが、ここにいる間に街の絵描きに描いてもらっての。記念品みたいなもんじゃ」
「今は息子さんたちはどうしているんですか?」
「他の街でコトヅテ屋を営んでおる。わし程じゃないが、まぁまぁと言ったところかの」
コードリさんに息子が居たのか。
というか皆コトヅテ屋をしているのか…
何だか一家で事業を立ち上げるのって夢があっていいな。
「ということは他の街にコトヅテを頼むことも?」
「勿論できる。小さな村とかは、距離によって断る場合もあるが大概は届けられるぞ」
俺の想像以上にコトヅテ屋は進化しているらしい。
「はい、お待たせ」
しばらく経つと、ミレイさんが大きな鍋を持って食卓にやって来た。部屋中に、スープのいい香りが漂う。
乳製品の様な香りがして、中を覗くとサシューの赤い身とミルクの白さのコントラストが食欲をそそった。
生唾が口内に溢れ、腹が絶え間なく鳴り続けた。
「おいおい鍋まで食うなよ!?」
「食べませんよ!!!」
そんなやりとりを見て、ミレイさんが優しく微笑んだ。
サシューのミルク煮は、まさに頬が落ちるほど美味かった。
頬どころか、顎も落ちそうになった。
ついでに涙も……
サシューは先述通り、赤い身をした魚で、
現実世界でいう鮭と同じ様な味だった。
見た目はえらく違ったが、不思議なこともあるものだ。
食卓には他にも腕をふるったサシュー料理が運ばれた。
野菜と炒めたものや、シンプルな塩焼き。
素揚げも出て来たが…これはちょっと遠慮したかった。
勿論、美味しく戴きました。
この七森、好き嫌いはないのである。
腹を満たした所で、
コードリさんとミレイさんは一階に降りた。
続いて降りると、事務所の入り口に女性が居た。
肩まで伸びた赤い髪に、猫の様な耳。
そして、露出の多い服を来た同年代くらいの女性だった。
「おはよーサラちゃん。今日もめんこいね〜」
「ありがとうおばちゃん!そう言ってくれるのはおばちゃんだけだよー」
女性は明るい笑みを浮かべ、ミレイさんに言った。
「嫁の貰い手はないがな」
そのコードリさんの言葉には苦笑いで返した。
様子を見守って居た俺に気付き、女性は近づいて来た。
「あんた誰?」
怪訝な表情で尋ねる。
そんなに怪しいだろうか…
「七森奏と申します。コードリ夫妻とは、何というか…知り合いです」
「ふーん」
値踏みする様に、じろじろ見てくる。
警察に職務質問されてる気分だ。
「あーサラちゃん。今日、そいつに仕事教えてあげて」
「仕事?何のこと!?」
思わず声を張り上げる。
「何のって、お前は今日からここで働くんだよ?」
え、そうなの?そんなこと言われた記憶がない。
それよか、職までいただけるの!?
この老夫妻はなぜそこまで俺に??
その言葉に、即座に意義を唱えた者がいた。
「えーおじちゃん!こいつ雇うの!?サラちゃんだけ居てくれればいいって言ってたじゃん!!あの言葉は嘘だったの!?私の純情な感情を欺いたの!?」
「えっと、それはそのじゃの〜」
コードリさんが困った様に頬をかいた。
「まぁまぁ、サラちゃんだって1人じゃ厳しいでしょう?それに、男手だって欲しいとこだったのよ」
ミレイさんがすかさず救いの手を差し伸べる。
これが、長年の夫婦の絆か。
「そういう訳で、頼んだよサラちゃん」
「よ、よろしくお願いします…」
俺が控えめに言うと、サラさんが俺を見て、目を細めた。
睨んでいるのだろうか…
何だか、先行きが不安だ。
「ちょっと待ってサラさん!」
案の定、サラさんは俺を置いて全力で走り出した。
そのスピードはまさに脱兎の如く。
サラさんは獣人という種族で、
その名の通り、人間よりも優れた身体能力を持っていた。
それ故に、俺は置いていかれた。
1人ポツンと…寂しい…
「おーいサラさーん!!」
遠ざかっていくサラさんに向かって大声で叫ぶ。
すると、砂埃を巻き上げながら、
物凄い速度で引き返して来た。
砂が口に入り、むせていると、
目の前で胸を抱える様に腕を組んで見下ろしていた。
「何よ?早く着いて来なさい」
「いやいや無理ですって、俺そんなに速くないですし…」
「知らないわよ、そんなこと」
理不尽な…
「いい?昼までに街中に設置された投函箱から、コトヅテを集めないといけないのよ?20近くあるんだから。箱は分かりにくいとこにもあるから、あんたに教える。でもね?仕事を遅らせるわけにはいかないのよ」
そう言うと、俺の手を取って、
「それじゃあ全速力で行くよ?っしゃーー」
走り出した。
景色が次から次へと後ろに流れて行く。
最早、俺は野球部のタイヤの様に、
地面に跡を残しながら引き摺られている。
「サラさん!待って、ストップ!!」
「何ぃ!?サラさん大好き愛してる??私はそんなに安い女じゃないわよ!!!」
「そんなこと言ってませーん!!」
サラさんは1個目の箱に着くまで、
足を止めることはなかった。
道中、朝食べたサシューが俺の口から見え隠れしたのは、今となっては良い思い出だ。
箱に着くと、サラさんは俺を乱雑に地面に放り投げ、
少し気怠そうに箱の説明を始めた。
「いい?これは店の鍵じゃないと開かないの。開けて中からコトヅテを取り出して、しっかりしめる。汚れがあったり、ゴミとかたまに入れるやつがいるから、その辺もしっかり見ておくこと。まぁ、そのくらいね。回収の方はそんなに教えることはないわ」
手際よく、作業をしながら教えていく。
箱は、切妻屋根の住宅の様な形をしており、
屋根が赤、壁の部分は白色になっていた。
前の壁に、細長い投函口があり、
後ろの壁に錠が取り付けられていた。
遠目から見ても分かりやすい形をしていた。
「一つ言い忘れてた」
作業する手を止め、サラさんは奏に向き直った。
「これは、ただの文字が書かれた紙じゃないの。人の想いや、願いが書かれた、大事なものなの。私たちはそれを届ける重要な役目しているの。雑に扱ったりして、破いたりなんてしたらただじゃおかないからね」
サラの淀みのない目は、真っ直ぐ俺の目を見据えていた。
まるで俺の心に、しっかりと植え付ける様に。
彼女が、この仕事にかける想いの強さを感じた。
人と人とを繋ぐ役目…
それは一重に、運ぶだけの役目ではないということだ。
人の想いを背負って、責任をもって人に届けるという事なのだろう。
言わばコトヅテ屋は、
心の橋渡し役を担っているということ。
だから彼女はコトヅテを懇切丁寧に扱うのだ。
想いを、確実に届けるため。
「分かったら返事!」
「は、はいっ」
「よろしい!」
そう言ってにこやかに笑う、
サラさんに俺は不覚にも、胸がときめいてしまった。
いや、これは恋とかそういうのじゃない。
断じて違うからな!
この七森、ピュアな心の持ち主なんだから!!
その後も街中を駆け回り…
いや市中引き摺り回しの刑に遭い。
俺は箱の場所の確認と、回収作業を行った。
回収作業は取り残しをしないこと。
それが何よりも重要だった。
サラさんの話を受けて、
何だか俺にも責任感というものが出て来た。
回収作業を終えると、一旦事務所に戻り、
回収したコトヅテの仕分け作業を行った。
仕分け作業は4人で行ない、
街の名前が書かれた木箱に街ごとに分けた後、
街中の地区でまとめた。
その後はいよいよ配達だ。
配達は時間が掛かるので、サラさんとは別行動。
コードリの爺さんと廻ることになった。
まず、道を覚えなくてはならない。
ヤパーナはこの異世界の中でも、
街としては比較的小さいが、
道の数は無数にある様に思われた。
それに、地図は大雑把で、
もはや自分の方向感覚に頼るしかない。
目印になりうる、商店、酒場、宿屋、ギルド、
教会等の位置は確実に覚える。
後は、箱の位置と組み合わせれば、
辛うじて現在位置くらいは分かるになった。
コードリさんが言っていたが、
「覚えるまでは感か、通行人に道順を聞くしかない」
だそうだ。
それと配達では、受取人が不在だった場合、
配達を後に回さないといけない。
時間を置いて、受取人が帰ってくるのを待つのだが、
それでも不在だった場合は不在票を挟まないといけない。
これは、受取人が自ら事務所に、
取りに来なければいけなくなる。
何だか、少し申し訳ない気がするが、
コードリさん曰く、そんなこと誰も気にしないらしい。
異世界人は、心が広い様だ…
配達を終え、事務所に帰ると、
ミレイさんが昼食を作ってくれていた。
バラモンという家畜の肉を使った料理で、
食感は鳥肉の様だったが、
味は脂が乗っていてどことなく豚肉に似ていた。
更に、甘辛いソースがバラモンととても合っていて、
食欲が泉に様に湧いて出た。
俺は一口でバラモンが気に入った。
昼食を食べ終えると、小休憩を入れ、
午前と同じ作業を繰り返した。
「あー今日も疲れた」
午後の配達を終え、事務所に全員が集まった。
サラさんは、椅子に体を預け、天井を仰いでいる。
「サラさんはどうしてここで働こうと思ったんですか?」
素朴な疑問を聞いてみた。
だけど、サラさんは「忘れたー」と言って、
一蹴されてしまった。
「それより、あんた。ヤパーナに裸で来たんだって?」
体を起こして、嘲笑う様にニヤニヤしている。
俺は、怒りを抑えて冷静に答える。
「気がついたら裸でここにいたんです。というか、ちゃんと下は履いていました」
そういうと、サラさんは膝を叩いて笑った。
「全く、若いのは騒がしいなぁ」
コードリさんが、葉巻を吸いながら呟く。
「おじちゃんは愚痴が騒がしいけどね」
「サラ、減給な」
「えーーそんなぁ、後生だからさぁ〜!!」
コードリさんの機嫌を取るため、肩を揉み始めた。
「ね、おじさまお願い給料上げて♡」
そんな2人を遠目で眺めていると、
コードリさんが俺を手招きした。
コードリさんの手には、小さい麻袋が握られていた。
「ほれ、給料じゃ。多めに入れたから、帰りにでも、生活品を買っていけ」
麻袋の中身は、銀貨が数枚入っていた。
一体、これがどれ程の価値があるのか、
わからなかったが、やはり労働をした後に、
もらう給料というのは格別だ。
疲れがみるみる引いていく。
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた。
帰宅しようとする、俺の肩を掴んだのはサラさんだった。
眩しいくらいの笑顔を浮かべ、一言。
「飲み行こう!!もちろん、奏の奢りでね」
「嫌です、帰ります」
「ちょっとー、私の教育費がただなわけないでしょ!」
そう言って帰ろうとする俺の腕を掴み、
全力で走り出した。
「離してください!!!パワハラだぁー!!!」
「なに??奢らせてください??太っ腹だ??なーんていい後輩なの!サラお姉さんは感激したわ!!」
「そんなこと言ってない!!」
サラさんは、悲鳴をあげる俺を他所に、
酒場に向かってまっしぐら。
そして、俺の懐には麻袋しか残らなかった…