七森奏は街を駆け巡る。
頭が痛い。ついでに腰も背中も、尻もだ。
照りつける太陽が眩しい。
目を閉じていても、瞼を透過した光が、目に入る。
太陽?あれ、いつの間に外へ出たんだっけ。
体を起こそうと、手を着くと柔らかい物に触れた。
「ぐへぇ」
車に轢かれたカエルの様な鳴き声が聞こえてきた。
体の下を見てみると…貴樹くんが居た。
「あ、ごめん」
素早く彼の上から降りる。
そして、辺りを見渡すと、信じられない光景が広がっていた。
「ま、まじかよ」
現代とはかけ離れた光景。
機械など一切なく、石や木で作られた家々。
アスファルトじゃない、土臭い道。
ゆったりとした、少し不格好な服を身に着ける人々。
そして、見たこともない聞いたこともない、食料を売る商人。
「一体ここはどこなんだ?」
アフリカ大陸の秘境の地にでも来てしまったのだろうか・・・
さては、どこかの映画撮影現場まで飛んだのか?
これは何かのドッキリに違いない。
あの角からプレートを持った女子アナが、「はい、ドッキリでしたぁ~」と言いながらあっけらかんとした顔をしながら出てくるに違いない。
兎に角、異世界なんてあるわけないのだから・・・
「おい、糞野郎!」
七森が現状把握に勤しんでいると、貴樹が起き上がって寄ってきた。
「おいおいおい!よくも俺様を踏んでくれたな!」
胸目掛けて、人差し指を何回も突き刺してくる。
「痛い、痛いから」
「俺の方が何倍も痛かったんだぞ!」
「ごめんって」
「ごめんで済んだら警察なんかいらねぇんだよ!」
唾と生臭い息が顔にかかって、思わず顔をしかめる。
こいつ、なんて短気なんだ・・・
そんな風に争っているうちに、徐々に人垣が出来てきた。
珍しかったのだろう俺たちが。
いや、この全裸に等しい恰好をした俺たちが。
貴樹もそれに気づいたらしく、俺から目をそらし、辺りを舐めるように見廻した。
「おぉ、異世界の住人どもじゃあないか。どれどれ、可愛い子は・・・いたいた!しかも金髪美少女!やっふぅ~!」
群衆の中から、目玉商品を見つけた貴樹は少女目掛けて一目散に飛んでいく。
何の躊躇いもなく。
だが、想像して欲しい。
可愛い子が居たとして、全裸同然の男が駆け寄ったらどうなるか。
「きゃあああああああ」
空気を切り裂く様な高音が辺りに響く。
だがこれは、アイドルが受けるような黄色い声援ではない。
本物の悲鳴だ。
その悲鳴を聞いて駆け付けたであろう、制服をピシッと着こなした巨漢が二人、人垣を掻き分けて現れた。
彼らが現れた途端に辺りは静まり返り、圧倒的な威圧感で、空間を支配していた。
貴樹は察したのだろう。俺の方をチラチラ見ている。
「今、ここで悲鳴が聞こえた気がするのだが?」
帽子の鍔が顔に影を落としていて、表情が読めない。
が、穏やかではない。もう一度言う穏やかではない。
巨漢は貴樹以上に辺りを嘗め回す様に見下し、俺たちが視界に入ると、首を止めた。
やばいと思った。不味いとも思った。
そう、奴が捕まるなら、俺も同罪。
だって、同じ恰好なんだもの・・・
「逃げろぉーーーー!」
静まり返った人の輪の中に、叫び声が響く。
それを皮切りに、俺たちは一斉に駆け出した。
予想通り、というか当然、制服を着た巨漢はその体躯からは想像できない程の俊敏さで追ってくる。
そしてこれもまた予想通り、貴樹は足が遅かった。
数十メートル走っただけで息を上げている。
顔に満遍なく汗を掻き、豊満なボディは激しく踊っている。
服を着ていたらまだ、見られたかもしれないが、今の彼はとても見苦しい。
貴樹のペースに合わせて走っていたら、すぐそこまで巨漢が来ていた。
その時、咄嗟に頭に浮かんだのは、貴樹を捨てるか、捨てないかだった。
俺が一人で全力疾走すれば、逃げ切れる可能性が微量だがまだある。
だが、彼と並走していたら間違いなく捕まる。
これは変えようのない事実だ。
もう一つ、意を決して戦うという選択肢もあったが、死に急ぎたくはない。
プロレスラーに向かって、思いっきり殴ってくださいと言うもんだ。
「よし」七森は決断した。貴樹くん・・・さようなら、と。
スピードを上げようとした瞬間、横から足がスッと伸びてきて、俺は転んだ。
地面に両手を付いて、ジンジン来る痛みに顔をしかめていると、貴樹の声が遠くから聞こえた。
「頑張れよ~。俺様の為に犠牲になったことを光栄だと思え!」
全く、どっちが糞野郎なんだか。
突然の仲間の裏切りに、拍子抜けしていると、腕を掴まれ体を起こされた。
「悪人を捕らえる瞬間は実に心地が良い。まるで、水浴びをした後のように清々しい気分だ。判るか?悪人よ。体中が正義で満たされるんだよ」
「俺は何もしていないじゃないか。悪いのはアイツで俺は善人。判るか?」
癇に障ったのだろう。無言のまま、岩の様に固そうな拳を振り上げた。
あれに殴られたらそれはそれは痛いに違いない。
だが、俺にも策はある。
殴られるより先に、掴まれていない方の手で握っていた砂を巨漢の顔目掛けてぶちまけた。
一瞬、ほんの一瞬腕を掴む力が緩んだ。
その隙を見逃さなかった。
腕を大きく振って、巨漢の手から逃れ、痛む足を歯を食いしばって堪えながら再び走り出す。
さっきよりも、何倍も速いスピードで。あっという間に巨漢との距離が開いていく。
七森は脚には少し自信があった。
雨の日も、風の日も、雪の日も、台風の日も、彼は毎日新聞配達を欠かさなかった。
その結果、七森の脚は見事なまでに鍛え上げられた。
七森は巨漢が見えなくなった後も、街の中を走った。
あらゆる角を曲がり、小道を進み、民家を通った。
そして、脇腹が痛み出した頃になってやっと、速度を緩めた。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
疲れた、もうしんどい。
七森は人目の付かなそうな路地に入り、そこにあった樽に腰かけた。
にしてもだ。街中駆け回っては見たが、一向にここがどこか分からない。
耳にした言葉は理解できた。つまりは日本語で、日本人ということになる。
だが、明らかに日本人離れした顔をした人が多かった。
イメージ的にはハーフに近い。
それに、獣の様な耳を持った人間も居た。
獣人、というやつだろうか。どこかで聞いた気がする.
だが日本でこんな処があるのだろうか。
普段、メディアに触れない俺にとっては未知の領域だ。
兎に角、一刻も早く家に帰って勉強したい。
ふと入ってきた大きな路地の方に目をやると、蹲ったまま動かない老人がいた。
ハンチング帽の様な物を頭にかぶり、皮で出来たショルダーバックを持っていた。
怪我でもしたのだろうか、それとも持病が突然・・・
七森はその老人に近づき、肩をそっと叩いた。
「おじいさん、大丈夫?」
老人はゆっくりと顔を上げると、目を大きく開いた。
「あんたなんちゅう恰好をしとるんじゃ」
まぁ、そこだよなぁ。
「服装の事はいいんですよ。これは健全な男子は皆やることらしいです。それより、おじいさんこんな所に蹲ってどうかしたの?」
おじさんは自分の足元をチラリと見て言った。
「挫いてしまったんじゃよ。巨漢の男がいきなり目の前を風の様に過ぎ去っていってな、そいで驚いて転びそうになって、足を出したらこの様じゃわい」
巨漢の男。おそらくさっきの男たちだろう。もしかしたら、貴樹がここを通ったのかもしれない。
「家は何処ですか?運んで差し上げますよ」
「いやいや、いいんじゃ。まだ仕事が残っておってのう。今日中に済まさなければならんのじゃ」
遠慮じゃなく、真面目に少し嫌そうな顔をした。
「仕事?」
「これじゃよ、これ」
そう言ってショルダーバックから、長方形の紙を出した。
「あぁ、手紙。ということは郵便配達員なのおじいさん」
しかし、老人は頷かなかった。
「なーに言っとるんじゃ。これはコトヅテじゃよ。そしては儂はこれを届ける仕事をしておる」
コトヅテ?言伝・・・要は手紙だよな。
「これは儂の生きがいなんじゃよ。これを待っている人に一刻も早く届けにゃならんのじゃ。さぁ、そこをどけ少年よ。気遣いは無用じゃ」
そう言って、立ち上がろうとすると、よろけて危うく転びそうになるのを七森は支えた。
「これは気遣いじゃあないよ。たまたまだ。たまたま手が出た。そして、俺はたまたまあんたに協力する。何回も言うようだがこれは気遣いじゃあない」
俺はそのまま老人を背中に背負って駆け出した。
流石に老人を見捨てられるほど、心は廃れていない。
そう。この七森、敬老の心を持っている。
老人はとても軽かった。
骨と皮。なんだかそれだけで構成されている気がする。
七森は老人の指示通りの道順を走った。
「儂はこの街にずっと住んでコトヅテを運んでおる。だから、こんなに禿げ散らかる程歳をとってもどこに誰が住んでおるか完璧に把握しとるんじゃ」
七森は何となく分かる気がした。
新聞配達も一緒だ。
頭で覚えるという表現よりも、体が覚えているという方が的を射ている。
積み重ねによって、自然と体が動くようになるのだ。
細い路地で、老人は止まれと言った。
路地の間には洗濯紐が掛けられ、大小様々な服が干してある。
ここの家もやはり、石造りだ。
老人は背中から降りると、足を引き摺りながら、手前の扉の前に立ち、三回ノックした。
「はーい」
中から女性の声がして、扉が開いた。
「あら、コトヅテ屋のおじいさん」
頭に三角巾をした、中年の女性が出てきて、はっと驚いた顔をして、口の前に手をやる。
「どうも、コトヅテじゃよ」
老人はショルダーバックから、質の悪そうな紙で出来た手紙を彼女に渡した。
「ありがとう、おじいさん。ところで・・・そこの肌色のお兄さんは知り合い?」
「儂の馬じゃ」
「あら、そうなの」
こんなツルツルの馬が存在するわけないでしょう奥さん。
「でも、何も身に着けないんじゃ可哀想ね。ちょっと待っててね」
そう言うと、女性は家に戻り、服を持ってきてくれた。
「お父さんのお下がりなんだけど、ごめんね」
ベージュのチノパン?の様なものと、白いシャツをいただいてしまった。
お下がり、というのは嘘だろう。
アイロンを掛けたばかりの様に、暖かく、皺が一筋も無かった。
七森、感無量。
「あ、ありがたき幸せ・・・」
「まったくいいんですよ奥さん。馬は裸なんだから」
言っていい冗談と悪い冗談がありますよ、おじいさん。
女性は大口を開けてわっはっはと笑った。
俺はさっさと着替えて、再び老人を背中に背負って、街を駆け巡った。
やはり、服は良い。股間に風が吹き荒れない。
そして、人前に出ても恥ずかしくないぞ!
多分さっきよりも速く走れていた。それこそ、馬の様に。
次に訪れたのは靴屋だった。
壁に備え付けられた板に、職人の技が光る靴が整然と並んでいた。
俺は、爺さんが用事を済ますまで、その手製の靴に見入っていた。
手製の靴、というのは自分が以前履いていた量産型のものよりも、職人の顔が見える分何だか温かみを感じた。
「履いてみるか?」
いつの間にか背後に、靴屋の店主が居た。
スキンヘッドに無精髭。
現代だったら絶対極道な顔の持ち主が靴を薦めてきた。
その時、初めて自分が裸足だということに気付いた。
足の裏は、雪の上を歩いたら跡が付いてしまうくらい真っ黒だった。
そんな状態じゃあとてもじゃないけれども、履くわけにはいかない。
「いや、いいです。遠慮しておきます」
「いいから、履け」
もはや命令口調。
俺は渋々、靴に足を履いた。
しっかり履いたのを確認して、店主はこう言った。
「汚れた足で履きやがって。それはもう商品にならんな。持って帰れ」
「え?いいんですか?」
「そうじゃぞ店主さん。こいつは馬だ」
この老人はどうしても俺を馬と言わなければ済まないようだ。
後ろ脚で蹴ったろか?
「馬にも蹄鉄は必要だろ?くれてやる」
七森、感激しました。
思わず、目に暖かいものが・・・
「でも、悪いので、出世払いで・・・」
そう言うと、二人は顔を合わせて笑った。
俺はその後も、老人と街を駆け回った。
靴を履いた俺は、翼を手に入れた鳥の様により速く駆けた。
様々な家々を巡り、コトヅテを届け、気づいた頃にはもうすっかり日も落ちて、街には闇が訪れようとしていた。
仕事を終えた後、俺は老人を家へと送った。
老人宅は街の外れ、殆ど周りに何も無い様な所にあった。
小さなログハウスが一つ、丘の上にポツンと建っていた。
家からは灯りが漏れていなかった。
一人暮らし、なのだろうかと七森は思った。
老人は俺を中に招き入れると、ランプに明かりを灯した。
ログハウスの中身はシンプルで、部屋が二つあり、片方は寝室。
もう片方はリビングで、机が一つと椅子が二つ。
そして台所と食器棚があるくらいの最低限な家具しかなかった。
爺さんは、椅子に身を預けると、一息ついてから話し出した。
「ここは昔、儂が子供の頃住んでいた家じゃ。だが、母さんがなくなって以来、誰も住むものがおらんくてのぉ。年に何回かは掃除に来るんじゃが、それ以外はただの空き家じゃ」
「昔?でも、今はどこに住んでいるんですか?」
「さっきの街に婆さんと住んで居るよ」
「じゃあ、何でここに?」
老人は不敵な笑みを浮かべた。
「自己紹介がまだじゃったな。儂はコードリ。まぁ、爺さんで構わんよ。お前には儂らに代わってこの家を管理して欲しい。浮浪者とかが住み着くより、お前の方がましじゃからな」
「俺に?この家を?」
「お前、住むところが無いんじゃろ?違うか?」
確かにそうだけれども・・・一体この爺さんは何を考えているんだ。
いきなり遭った男に、家まで与えるなんて・・・正気じゃあないぞ。
「嫌ならそれでいいんじゃぞ?ほれ、どうする若造」
ど、どう答えるのが正しいのだ。
俺には家がきちんとあるし、それにここが異世界がどうかも・・・
「あ、あの質問があるんですけど」
「なんじゃ?飯は付かんぞ?そのくらい自分で・・・」
「いや、そうじゃなくて。ここは日本ですか?」
爺さんは首を傾げた。
「二ホン?聞かぬ名じゃのう。ここはヤパーナじゃぞ」
ヤパーナ?何だそのバナナみたいな名前は。聞いたことがないぞ。
ますます頭が混乱してきた。
俺は本当に貴樹が言う異世界に来てしまったのだろうか・・・
頭を抱えて、悶絶していると老人の方から質問してきた。
「とりあえず、お前の名を教えろ」
「七森、七森奏ですよ」
「ナナモリカナデ?変な名前じゃのう。虫の名のようじゃの。ふはは」
この爺さん、人の名前聞いて笑っているぞ。無礼な!
「で、どうするカナデ。住むのか?住まんのか?」
七森は考えた。考えて考えて・・・
「住みます!」
そう答えた。
コードリの爺さんを街まで送り返し、再び丘の上の我が家に戻ってきた。
もう辺りはすっかり真っ暗になっていて、部屋のランプの明かりが暖かかった。
ランプの明かりを見ていると、七森は昔の事を思い出した。
電気代を払えず、蝋燭の灯りだけで過ごしていた貧しい時代を。
あの頃は酷かったな。
小学校の飼育小屋で飼っているウサギたちの餌は、近所のスーパーで余った野菜を貰っていたのだが、俺は飼育当番の日、ウサギたちにその餌を与えず家に持ち帰って食べていた。
余り物や不要な部位の野菜だったが、涙が出るほど美味かったなぁ。
その翌日。ウサギが死んでしまった時は、罪悪感で胸がいっぱいになったんだっけ。
でも結局、俺は自分の犯した罪を言えずに卒業してしまった。
嫌なことを思い出してしまった。
今日はもう疲れた。寝よう。
七森は、服を脱ぎ、布団に入った。
何か大事なことを忘れている気がしたが・・・
目を閉じると、意識が薄れていき、深い眠りに落ちた。
久し振りに、七森はぐっすりと眠った。