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やばいと思ったが、成長を抑えきれなかった

作者: あおぶた

   やばいと思ったが、成長を抑えきれなかった

                                  あおぶた



 県内でも屈指のイベントホールと言えばここ、「膜張メッセ」であろう。

 この日会場では、同人漫画・同人音楽CDの即売会が行われていた。参加団体は二〇〇余り、一二時の時点で来場者は既に三〇〇〇人を超えていた。午後もおそらく、人の波が穏やかになることはないだろう。

 参加団体は各々、自らの作品を売るブースを煌びやかに装飾していた。きっとこの会場の鳥瞰図を作ったならば、羽を広げた孔雀達が朝八時の山手線に乗り込んでいるような状況になっているだろう。あるいは、繁殖期のウグイが川底で群れているようにも見えるかもしれない。

 田代もまた、孔雀の、ウグイの一員であった。彼は動画共有サイトにてカバー曲を投稿し続け、その結果、人並みよりは頭二つ分くらい飛び出たシンガーとして、今日の即売会に名を連ねていた。自らの販売ブースには、カバー曲の最新作を収録したアルバムが売られていた。彼が持ち込んだCDの約半数は、既にカネへと姿を変えている。

 しかし、田代はいくら自分の財布が膨れようとも、心が完全に充足されることはなかった。それどころか彼の心は刺激物を欲していて、肌の白い女性がブースを横切る度に、時は満ちた、と言わんばかりに拍を打ち続けるのだった。田代にはそれが警鐘に聞こえる時期もあったが、ここ最近はその鐘を聞き流す背徳すら、悦びの一部へと変容していた。結果的に、田代は可愛い子が通りかかると、そっと目配せをするのが即売会での常となっていた。



 田代がトイレから自分のブースに戻ってみると、田代のアルバムを熱心に眺めている姿があった。身長は田代よりやや低く、ほっそりとした体形の持ち主である。

 田代は妙な違和感を憶えた。まだ来客の後ろ姿しか見ていないが、何かただならぬものを感じたのだ。来客の頭は、大きな赤いずきんですっぽりと覆われていた。服には、桜色のワンピースを拵えてある。そこまでなら、そういうコスプレをした方なのだと認識できる。

 ただ、田代の知っている限り、赤いずきんを被り、且つ、手が緑色をしているキャラクターがいないのだ。よく見ると、ワンピースの下からしっぽがはみ出ている。

 美人のキチガイだという僅かな可能性に賭けつつ、田代は歩み寄った。

「こ、こんにちはー。このブースの担当のものですが……」

 来客は、そっと振り向いた。

 ――なんということだ!

 田代は思わず、声を上げてしまいそうになった。もしもお客様でなかったなら、逃げ出していたかもしれない。

「あら、こんにちは! もしかして、あなたが田代様でいらっしゃいますの?」

 とても嬉しそうな声を上げた。

「わたくしは、グリーンイグアナと申しますの。ずっと、田代様の歌声のファンでしたのよ」

 そう言うとイグアナは、田代に握手を求めてきた。思考回路はほぼ停止状態にあったが、これは従わざるをえないという動物的直感から、田代はイグアナの手を握った。

 意外と、ぴたぴたしていて柔らかい。

「まあ、感激ですわ」

 イグアナは、舌をチロッと出して微笑んだ。



「そうそう、田代様の楽曲の中でも、特にこれがお気に入りですの」

 グリーンイグアナが指していたのは、『ブラジルのみなさんに聞こえる訳がない』という曲だった。故郷を離れ来日した人間が、その故郷のあまりの遠さを哀しみ懐かしむ歌である。

「イグアナさんは、日本に来られてから長いんですか?」

 田代はイスに座ると、イグアナを見上げるような形で尋ねてみた。

 イグアナの目が、ギョロッと一回転した。

「ええ。あの人がわたくしを日本に招きいれてからですから、とても長く……」

 イグアナは言葉を途中で切ると、スッと目を伏せてしまった。途中から見えるしっぽが、べったりと地面に投げ出されていた。

「す、すいません! 何かマズいことを訊いてしまいました?」

「いえ、過去のことですので」

 イグアナの顔には、再び微笑みが戻っていた。

「もう何年も前のことなんですけど……わたくし、連れ添っていた主人と別れてしまいまして。一人身になって、やっと故郷が愛おしくなった馬鹿なババなのでございます」

 イグアナは、自らの半生を語り始めた。

 彼女が元主人と出会った時、彼女は今よりもずっとずっと小さかったらしい。元主人はそんな彼女を、「小さくて柔らかくて、とても可愛い」とたいそう大事にしていたようである。平素の仕事だけでなく、掃除や食事の準備といった家事まで元主人は請け負っていたそうだ。

「良いご主人じゃないですか」

「ええ、確かに良い人だったんです。休日などは、わたくしの好きな水泳にも付き合ってくれましたわ」

 イグアナは、自分のしっぽを少し憎らしげに眺めた。

「しかし、わたくしは年を取りました。五〇センチ足らずだったわたくしの背丈も、一六〇センチまで大きくなったのです。あの人は、わたくしが醜くなったと言いました。こんな筈じゃなかった、と嘆きました。わたくしは泣き喚いていたい気持ちでいっぱいでしたが、じっと耐えていました。耐えていたのです。あの人を愛していたから! しかしあの人は――春の某日、ついにわたくしを捨て、そのまま音沙汰がぷっつり途切れてしまったのです」

 イグアナは泣かなかった。強い、と田代は思った。

「わたくしのようなイグアナが、何の養いもなく生きてゆくのは困難極まりないことでございます。あの人に、イグアナの何が分かるというのでしょう。毎日のご飯を食べるので精一杯なのです」

 田代は、イグアナが不憫でならなかった。そして同時に、今日会場に来た理由の大方が、女性との出会いであった自分自身が、ひどく下賤な存在に思えて仕方なかった。

「イグアナさん」

「ええ?」

 田代は、イグアナの手に握られているアルバムを指差した。

「それ、良かったら貰ってやってくれませんか? お代は結構です。あなたからお金なんて取れない」

 田代がそう言うのを聞くと、イグアナの表情がぱあっと明るくなった。

「まあ! 本当によろしいのですか?」

「はい。僕なんぞの歌で良いのならば」

「ええ、ええ、良いにきまってますわ! だって人間の若い方は、みんなそう言ってますし! これをオークションに出せば、しばらくは食卓が豪華になりますわ!」

 そう言うとイグアナは礼を述べ、すぐに人混みの中に消えて見えなくなった。



 ――そういえばイグアナって、腹の中に大量の寄生虫を抱えてるんだっけ。田代は、ぼんやりとそんなことを考えていた。


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