日常 1
入学式は多少の遅れがあったもののつつがなく終わり、僕はいつものように生徒会室で本を読んでいた。
直近のイベントは五月だし、今日は入学式ということもあっていつもはもう少し人のいる生徒会室も閑散としている。……まぁ、人がいるといっても部活動をやっている生徒が、特に用事もないのに部室でだらだらと時間を過ごすようなものになるのが大体なのだが。
とはいえ、誰もいない生徒会室というのもたまには趣き深い気がしなくもない。春の陽気もあってだんだんうつらうつらとしてくる。
ガチャ
「……あら? まだいたの有人。今日は特に仕事もないのだから帰ってもよかったのよ?」
鞄を右手首にかけた黒ドリルテールの女の子が入ってきた。こんな奇矯な恰好をしているうちの生徒は当然一人なので間違えることはない。
「あぁ、緑子か。残念ながら今日はちょっと早く帰れない用事があってね。しばらく時間を潰してから帰りたいんだよ。それに、君がこんなに長いこと先生に絞られるとは思って無かったんでね」
「まぁご挨拶ね。そもそも有人があの新入生二人ごと全員校内にいれれば問題なかったのに。聞いてるわよ? 「魔法の直撃を受けてもピンピンしてた男子生徒がいた」って。それ、間違いなくあなたじゃない」
若干拗ねたような目をして緑子が睨んでくる。
「いやいや、無理を言わないでくれよ会長。僕みたいなカリスマ性のない人間にそんな仕事ができるわけないだろう。君が登校した時に、猫みたいに二人の襟首を掴んで校内に放り込んでおかなかったのが敗因だよ。それに、会長ならできたはずだったから先生方にも絞られるんです」
そういってまた本に目を戻す僕に、緑子はしばらく何か言いたそうにしていたが、諦めたのか一つため息をついて、いつもの自分の定位置に座った。
●●●
カチ……カチ……
ぱさり……ぱさり……
時計の音と僕のめくる本の音だけが聞こえる生徒会室。午後の三時を回り、ちょっとお腹が空いて来るような時間だ。
朝のこともあって、静夜の怒りが収まったころを見計らいプレゼントで追撃をかけ機嫌を直してもらおうと思っている僕はさておき、緑子は一体何をしているんだろう。
見たところ仕事はやってないみたいだし、気まぐれに行う新髪型の開発もしていない。
そういえば、今の縦ドリルにしてからそろそろ一月は経ったのではなかろうか。あんなにセットに時間と手間とお金のかかりそうな髪型をよく続けるものだと感心する。
確か、「金髪ではなくても、縦ロールは似合うわ。見てなさい」とか脈絡もなく言い出して、以後そのまま続けているはずだ。
神崎緑子――うちの高校の現生徒会長にしてリアルなお嬢様。僕の今の父さんと彼女の父親が旧知の仲らしく、彼女は僕が異世界人だということを知っている。もっとも、このほとんど現代日本と変わらない世界にあっては、異世界人に対する認識は完全に理解の埒外というよりも、ちょっと不思議な都市伝説程度なのでそれでもめるなんてことはまずないだろう。しかしそれでも、緑子に初めて会ったとき父さんに「今日から息子になる有人だ。彼は異世界人でね、右も左もわからないだろうと思う。聞けば緑子ちゃんと同い年みたいだから同じ学校に入ってもらう事にしたよ。ひとつよろしく頼むね」と紹介された時は、それはそれは大きな目をキラキラ輝かせながら、「異世界人!? 本当ですかおじ様!! ねぇ、あなた何かすごいことできるの!? あぁ、とっても楽しみ!!」と必要以上に期待されてしまった。
結論から言って、僕に特殊な力は何も無い。
元いた世界でも特段天才扱いされたことは無かったし、世界を移る時にも神様やそれに類する何者かに会ったことはない。ただ、いつも通りに横断歩道を渡ったと思ったら見たことのない場所に立っていたのだ。そのせいで出会っていきなり緑子に失望のため息をつかれてしまったが、まぁ僕という人間はそんなものである。
それでも僕に一つだけ珍しい特性があるとするならば、「魔法の影響を受けない」ということだろうか。といっても、小説の主人公みたいに魔法を無効化する特殊能力なんてかっこいいものではない。なんでも、魔法分野に詳しい父さんがいうには、この世界の人間は、「魔法を認識する特殊な神経系」を体内に持っているらしい。だから、魔法を扱う才能というものは、人の神経系にどれだけ干渉できるかということであるそうだ。わかりやすく言えば、催眠術を想像してほしい。そしてここからが面白いところなのだが、魔法の影響を受けるのは外的な要因ではない。高温の炎も凍りつくような冷気も実体として世の中に召喚されるわけではなく、相手の脳に「それらの影響を受けた」と認識させることによって、内的に変化をおこすのだ。つまり、魔法は思い込みによって自分自身が傷つくだけのものらしい。そしてその思い込みが実際に体にその通りの変化を起こすのだから、人の想像力とは大したものである。
そして当然と言えば当然で、甚だどうしようもない話であるのだが、僕にはその特殊な神経とやらがない。そのため「魔法」が全く認識できないのだ。認識できないのだから魔法の影響など受けるはずがない。だから僕の視点では、朝の新入生のやりとりは「魔法の呪文を大声で唱えるいい年をした男女がいる」程度にしか見えていなかったという訳だ。
その程度の能力? など自慢できるはずもなく、おまけに剣と魔法のファンタジー世界ならいざ知らず、魔法が生活に必須ではないこの世界では必要がないことこの上ない。むしろ魔法が自分で使えなくて損している気分にすらなるくらいだ。それでも緑子なんかは「ふふ、やるじゃない。伊達に異世界人ってわけでもないってことかしら。もっと誇ってもよろしいんじゃなくて?」などと言ってくれる。きっと彼女なりの気遣いなのだろう。
そんな気遣いのできる変わり者な緑子だが、今日は特別変だ。本当に何もしていない。余裕と気品溢れるお嬢様でありたいと普段から標榜しているからというべきか、にもかかわらずというべきか、ともかく緑子はいつでも何かをしている。
そんな彼女がいつもの彼女の席に座ったまま、ここ三十分ほど微動だにしない。背筋をピンと伸ばし、呼吸は規則的。瞼は閉じているようで閉じていなく、俗にいう薄目を開けている状態である。
これはひょっとして瞑想というやつだろうか。
瞑想を積むことによって精神力を鍛える、この魔法なんていうものがある世界では目に見えて効果があるなんて可能性もあるけど……。
「なぁ、緑子。さっきからやけに集中しているみたいだけど、なんかやってるのか?」
「……えぇ、精神統一を少々。これから大立ち回りをする予定ですので」
「……なんだって?」
「朝、新入生に言っておきましたの『文句があるなら放課後生徒会室に来い』と。聞けばなかなか血の気の多い方々のご様子。それでなくても、私が同じ状況なら貴方を連れて殴り込みに行かせていただいてますわ。ですからいつ来られても失礼の無いように叩き潰せるよう、気を練っているんですの」
「……あぁ、そう」
聞いて損した。
なんなんだろうこの物騒なお嬢さま。なんだよ殴り込みって……。今時そんなことするヤツがほんとにいると思ってるんだろうか。いくら血の気の多い新入生って言っても、入学初日から上級生、それも生徒会長ともめ事を起こす物好きなんてそういないだろうに……。というか、僕も巻き込むのは彼女の想像の中だけにしておいて欲しい。
「なぁ、緑子。ほんとにそいつら来るの?」
「そんなの私にはわかりませんわ。ただ、待つと言った以上、待つのは礼儀。学校の閉まる時間までは待っているつもりですわ」
「……相変わらず奇矯な性格してるよ緑子は。そんな口約束、律儀に守らなくてもいいのに」
「ふん、私の勝手ですわ。もし万が一私が帰った後に来て『生徒会長は逃げた』とでも思われたら私の精神衛生に悪いですもの」
「……そんなもんかね。まぁ、なんにせよ僕には被害の無いように頼むよ」
「ですからさっきも言ったように帰ってもいいのに。それに魔法であれば貴方を傷つけるなんて世界中の誰にもできないじゃない」
「帰るのは却下。理由は言わないけれど。後者は褒め言葉として受け取っておくよ」
ペラり……っと僕はまた本を読む作業に戻る。
緑子は緑子で僕が帰る気が無いとわかると、また精神統一とやらに戻ったようだ。
時計はまだ三時を回ったばかり、学校の閉まる時間と駅前のケーキ屋さんのサービスタイムまではまだまだ時間がある。一冊くらい積み本を消化できればいいかなと僕は思った。
●●●
午後五時、まだ夏には遠いこの時期、この時間には外はだいぶ冷える。教室にいる僕たちはまだ大丈夫だが、帰ることも考えるとそろそろ潮時と言えた。緑子も緑子も気を張ったまま待ち続けていたのが祟ったのか、規則正しい呼吸は寝息に変わり教科書のような高校生のイネムリスタイルになっている。
……緑子起こして帰るか。
そう思って、鞄に本を入れ、椅子から立ちあが――
――コンコン
ビクぅッ!!
ハリネズミのように僕と緑子の体が緊張する。
バッと顔を上げる緑子。お約束のような『よだれてろーん』などはこのお嬢様には無い。
「緑子さん。よだれよだれ」
弾かれたようにポケットからハンカチを取り出し口元を拭う緑子さん。もちろん僕の他愛ない嘘である。
拭ってみて嘘だと気付いたのだろう、緑子は不愉快なようなホッとしたような表情で僕を睨みつけてくる。
――コンコン
先ほどよりやや大きめの音でドアがノックされる。
ちなみに生徒会室に先生はまず来ないので、先生ということは無いだろう。また、他の生徒会メンバーならノックなどしない。緑子のようにいきなり入ってくる。イベント時以外で生徒会室を訪れる一般生徒もまぁいないだろう。僕か緑子の知り合いで僕たちのどちらかに用事があれば携帯に連絡があるのが当然である。ということは結論は一つであり。
……本当に来るとはなぁ。
まだ見ぬ扉の向こうの客人に少しばかり感心してしまう。よもや緑子と同じような感覚を持っている生徒が他にもいるとは思って無かった。
緑子はすでに先ほどうたた寝していた事実など全く無かったかのように堂々としている。そして、僕に早くドアを開けて連れてこいとアイコンタクト。彼女の中ではこの手のお客を出迎えるのは自分の役目ではないと思っているらしい。
……はいはい。まぁ仕方ないね、ドアを開けるや否や殴り合いなんてことになったら大変である。向こうも僕というクッションを置くことで冷静になるかも知れないしな。
席を立ってドアに向かう。生徒会室の扉は外開きなので、思いきり開けて外の人にぶつけないようにゆっくり開けてやる。ぎぎぎっと金属の軋む音を聞きながらそれを開けてやると、目の前にいたのは肩口で切りそろえたサラサラの黒髪と小さめの身長の見慣れた美少女。そういえばこの制服姿を見るのは初めてだっけという、今僕が最も会いたくない相手が、腰に手を当て頬を膨らませ、いかにもな『私は怒ってます』ポーズで立っていた。
「お兄ちゃん!! なんでまだ帰ってこないのよ! 今日は学校も早終わりだし、今朝の埋め合わせも兼ねて遊んでもらおうと思ってたのに!」
「あ、あぁごめん静夜、今日はほら、生徒会の用事がね、ちょっとね? ほら、生徒会長もいるでしょ?」
「ほんとに? 生徒会って入学式の日にも仕事あるの? 他の人はいなそうなのに?」
……どうしよう静夜の追及が厳しい。今朝のこともあってジトい目つきが心に刺さる。
じいぃぃぃぃぃっと僕の目を見ようとしてくる静夜の目線をさっと避けると、静夜の後ろに何故か既にボロボロになりながらお互いにガンをつけあっている今朝のカップルがいた。
「やぁ、今朝振りだね。会長に用事なら中にいるけど?」
「「あ゛? ってええ!? あ、あんたは!!」」
睨み目から一転、驚愕に目を見開きザザッと後ろに跳び退って距離を取り、なぜか警戒色を前面に出してくる二人。例えるとすれば、シャーっと威嚇してくる猫みたいだ。
「ど、どうしたのかな? そういえばこの二人って静夜の知り合い?」
「蓮司君と千里ちゃんは中学校時代の同級生なんだけど、なんか朝に自分達には理解できないくらい完璧な対魔法を見た。この地区の同期にそんな奴はいなかったから先輩だろに違いない。ぜひその人に会ってみたいって言っててね? その特徴とその力を聞いたらなんとなくお兄ちゃんかなぁと思ったんで連れてきたの。良かった。あってたみたいだね」
そういってさっきとは表情をころりと変えて微笑む静夜。
しかし勘違いしてはいけない。女の子ってやつは表情ほど簡単に感情を変えないものである。こうなったら少し作戦を変えて一緒にお詫びの品を選ぶくらいはしなければならないだろう。お金刺さるなぁ。
しかし、それはそれとして対魔法、ね。知らない人から見るとそう見えるんだろう。
この二人も僕のことをかなりの実力者と誤解してるに違いない。かといってあんまり大っぴらに「僕は異世界人です」って説明するのもなんとなくやめた方がいい気がする。現状知っているのは会長ファミリーとうちの家族くらいのものだし。とはいえ、他にも魔法を見せてくれとか言われると困るんだよなぁ。昔試しに静夜にやり方教えて貰って「ファイヤー」とかやってみたけど、全然ダメだったし。うーん……どうしたものか……。
「あ、あの! よろしければ! 師匠と呼ばせてもらっていいですか!」
「はっ?」
どうしたものかと悩んでいたら、威嚇猫♀が突然そんなことを言い始めた。
「あっ、千里! お前だけ弟子入りの抜け駆けとかずるいぞ! 俺も、俺も弟子にしてください師匠」
「……静夜、どういうこと?」
「なんかね、お兄ちゃんに対魔法の極意を教えて貰えればお互いに相手に勝てると思ってるみたいでね。私は無理だと思うって言ったんだけど、もう聞く耳持たないって感じで」
はぁ、っと苦笑気味にそういう静夜。
「そういわれても……僕には人に教えるなんてできないよ?」
「それはアレですね! 技術は教わる物ではなく盗むものだっていうやつですね! 面白い! 絶対千里より先に掴んでやる!」
「ふっ、師匠の技を盗むのは私の方が先だよ蓮司。知能指数が設定的にゼロなメカにそんな高度なことができるものか」
「何!」 「何か?」 「「ふしゃー」」
お互いに飽きもせずまた威嚇をし始める二人。どれだけ仲がいいんだよって。
……ん? そういえば
「ねぇ、君たち。えぇっと、千里ちゃんに蓮司君? 君たちは会長に用があったんじゃ?」
「蓮司でいいっすよ師匠。会長? まだ入学して間もない俺に会長に用事なんてあるわけないじゃないっすか」
「同じく千里でいいです師匠。私も蓮司と同じく用事はありません」
二人とも、何でここで会長の名前が出たのか心底わからないって顔でこちらをみている。
おや、なんか聞いた話と違っているんだが……。
「でも、うちの会長が朝君たちを仲裁した時に、「文句があったら生徒会室にきなさい」って言ったらしくて、そのために来たのかと思ってたんだけど……」
「今朝?」
「そのセリフ、確かに聞き覚えが……」
揃って天井を見上げるようにして回想し始める二人の顔が徐々に赤く染まっていく。
うん、今にも倒れるんじゃないかってくらい真っ赤だ。
「あれは!! 事故だ!!」
「え、ええ、私の初めてがあんななんて認められないわ!!」
「はっ!! お前みたいな凶暴なのがする機会なんて生涯ねーよ」
「うるさい蓮司。貴様も似たようなもののくせに」
「何だと!」 「何よ!」 「「決闘だ!」」
そういって、廊下をダダダダ―と駆け出していく後輩二人。
……え? これは……。緑子さん?
僕の背中に冷たいものが流れる。こういう時の緑子は、荒れるに違いない。
「もう、本当にあの二人は正直じゃないんだから……。ね、お兄ちゃんももう帰るとこでしょ? 一緒に帰ろ? 駅前のケーキ屋さんでプリン買ってくれたら許してあげるから」
「あ、あぁ、じゃあ帰ろうか静夜」
「あれ? お兄ちゃん。鞄は?」
「静夜は気にしなくていいんだよ。僕の鞄はこのまま置いて帰るのが正解だから」
「???」
キュートに首を傾げるかわいい妹の頭にぽんっと右手を乗せ、決して後ろを振り返らないように僕は扉を閉めた。
神崎緑子。やはり生まれてくる時代を間違えた人間かもしれない。