第二章
風が鳴っていた。
草を揺らしながら、頬を撫でながら、耳元を吹き付ける。
「ん……く……あ……?」
ぼんやりとしながらも辺りを見回す。まだ頭が回らない。全身に痺れるような感覚が残っていて気分が悪い。
「……一体何が、起きたんだ?」
頭痛のように重い痛みを感じる頭を押さえながら周囲を見渡し、驚愕に目を見開く。
「は?」
視界に広がるのは森だった。見渡す限り巨木が密生した森の中にあるやや開けた小さな湖のほとりに自分はいる。
(ここは何処だ?)
頭がそんな疑問で埋め尽くされたが、何とかパニックには陥らずに済んだ。落ち着けと自分に言い聞かせながら意識を失う寸前の出来事をよく思い出そうとする。
自分が居た筈の遺跡は影も形もない。それどころか見渡す限り樹木しか見えない。その事実を確認して、しばしの間呆然とする。
取り敢えず頬をつねってみたが、しっかり痛かった。
痛覚の事を抜きにしても鼻から伝わる草木や水の香りも、地面についている手から感じる草の感触もリアルで、土はしっとり湿っている。空を見上げれば澄んだ青一色を背景にして、風に乗って雲が気ままに流れている。
ああ、爽やかでいい天気だ。このまま昼寝でもすれば心地いい事だろう。
現実逃避をすること数秒、いやもしかしたら数分から数十分だったかもしれない。
我に返ると付近で一番高そうな木に昇り、さっきよりも遠く、広い範囲を見渡してみる。
結論。森しか見えない。最早樹海と呼んでも差し支えない場所にオレはいた。どうしてそんな場所にいるのかは分らない。
持ち物は、暑くなると思ってジーンズのポケットに突っ込んでおいたタオルと財布に携帯電話のみ。携帯は県外で繋がらない。
この遭難(?)した状況下ではまるで役に立たない物ばかりだった。
腕時計で確認した時刻は午前十時を過ぎたぐらい。遺跡にいた頃から二時間ほど経過していたらしい。
自分に起きた現象が何だったのかはまるで理解できない上に、置かれている状況は遭難時に考えられる最悪のもの。
「くそっ! 一体どうなっているんだ!?」
思わず悪態をついて木を殴り付ける。頭が変になりそうだった。大声を上げてパニックに陥って闇雲に走り回らない事が奇跡に近い。
いや、不思議な事と言えばそれもそうだ。
この異常極まりない状況にもかかわらず不思議なほどに落ち着いている。
周囲の空気や雰囲気と言うべきか。言葉に出来ない懐かしさに胸の奥が疼く。一度も見た事も無い筈の大自然の光景なのに、知っている気がする。それがオレの心を落ち着かせていた。
だが、理解できない状況に自分が居る事には変わりはないし、事態が好転する訳でもない。
「……これからどうすればいいんだよ? くそ……」
ひどく打ちのめされた気分になってオレは思わず呻いた。
ウジウジ悩んだり考え込んだりしても事態は一向に良くなる事は無い。それに思い至るのに時間はかかったが、オレは一先ず森を出る事にした。
周囲を見渡して川が少し離れた場所に見えた事が唯一の救いだった。南に川を沿う形で下っていけば人里に出られる可能性はある。そう思う事にした。
「……それにしても、本当にここは何処なんだ?」
川に沿って森を暫く進んで思わず疑問が口から出る。
植生を見た限り、ここは日本だった。「修行の一貫じゃ」とか言って無理矢理じいちゃんに連れていかれた山奥の草木とほぼ同じだったから間違いはない筈だ。それに川の中に見える魚もその時に捕まえて食べたものと同じに見える。
しかし、日本にここまで広大な樹海があるとは思えない。仮にオレが知らないだけにしても、広大過ぎてどう考えても日本ではない。
後もうひとつ分らない事は気候だった。仮に日本にいるのだとしたら、夏の昼近くの今の時間帯では木々に囲まれた川縁にいようともそれなりに暑い筈なのに、そんな事はなかった。気温としては春と言われた方が納得いく。
そんな事を考えながら移動し始め三時間と少し。
「どうにか森からは出られたか……」
ようやく樹海を抜ける事はできた。できたにはできたが──
「覚悟はしたつもりだったが、本気で何処だよ此処?」
前方は地平線の彼方まで草原。後ろを振り返れば樹海。
川沿いに樹海を抜ければ人里くらい見えるかと期待したが、人里どころか人影すら見当たりそうになかった。
広大な無人の場所。誰もいない世界に一人放り出されたようで泣きたくなった。
その時、
「なっ!? 何だっ!?」
少し離れた場所。一キロぐらいのところに突如として空から光の柱が現れた。光の柱は僅かな時間存在していたが、徐々に輝きを弱めては消えた。
オレは少し逡巡したが、当てのない場所を行くよりは何かが有るかもしれないと思い、光の柱の現れた場所に行ってみる事にした。
光の柱の現れた辺りに何かが有るのが見えてきた。遠目で自信はないが人間が寝ているように見える。自然と速足になり、すぐにかけ足になる。
「春菜!?」
寝ている人間を判別できるぐらいの距離に近付き、驚く。地面に寝ていた人影は春菜だった。
慌てて駆け寄って肩を揺すって呼び掛ける。
「春菜。おい、春菜!」
「……ん……紅、真……?」
呼び声に反応して春菜がうっすらと目を開ける。
「春菜! 大丈夫か!?」
「ん……え……なっ……あ……う……」
寝ぼけた表情が徐々に抜け、覚醒していく春菜の顔が赤く染まって硬直する。
オレはやっと会えた人間、しかも知り合いに気持ちが昂ぶっていたようで、かなり至近距離まで顔を近づけてしまっていたが、春菜の反応に更に顔を覗き込むように近づける。
「どうした? どこか痛む所でも──」
「いやぁあああ~~~~!!」
「へ? ぶっ!?」
春菜の鋭い拳を頬に喰らって視界の奥に火花が散り、オレは仰向けに倒れた。
オレが一体何をした?
「じゃあ、紅真はただここまで歩いて来ただけで何が起きたのかも良く分らないの?」
「ああ」
春菜の一撃のダメージから復活したオレは、春菜と状況を整理していた。
結論から言えば、何も分らないという事が分った。
春菜は遺跡で光に呑み込まれて気を失い。気が付いたら俺が目の前にいたらしい。
現状では分からない事だらけで、一人から二人になっても自分がいる状況をまるで理解できない。
と言うより、今の状況をすぐに理解できる人間がいたら、それはそれで怖い気がする。
ごく普通の人生を歩んでいる人々にとって、こんな事態は一生に一回もないだろう。
それ程までにこの事態は異常であり、また日常からかけ離れた出来事なのだ。
「一先ず、人の居るところを探すか」
「でも、どうやって?」
「ちょっと行った所に川が有るから、それに沿って移動する。人の居るところに行けるかは知らないが、何もしないよりはましだろ」
「……そうね。ただここにいる訳にもいかないよね」
何かしらの状況の好転が有るかもしれないという、やや楽観ともいえる考えかもしれなかったが、精神を安定させるためにもそう思い込む必要があった。
日の高いうちに出来るだけ移動しようと腰上げたその時、
「……?」
春菜が怪訝そうな顔をして、きょろきょろと周囲を見回している。
「春菜? どうした?」
「なんか、変な音が聞こえたの」
「変な音?」
「うん。何かの鳴き声みたいな……」
言われて、オレも耳を澄まして、周囲を警戒してみる。
ハッハッハッ、グル、ガルルッ……
「ああ。オレも聞こえた。……これは獣、か?」
「紅真! あれ!」
「こっちに来る。春菜、気を付けろ!」
春菜が指差した方角から草を掻き分けて何かが一直線にオレたちの方へ向ってくる。
そして向かってきた何かは速度を維持したまま草から飛び出す。
緊張して身構えたオレたちの視界に飛び込んできたのは、
「犬!? いや、狼か!? でかい!」
巨大な狼だった。全長は百五十センチほどにもなるだろうか? その双眸は赤く禍々しい光を放ち、鋭い牙がズラリと並んだ口からは涎が垂れていた。
巨狼は獣が発するものとは思えない濃厚な殺気を放っていて、気当たりを受け流す訓練を受けたオレでも恐怖で身動きが取れなくなりそうだった。
(まずい……かなり気が立っているのか嫌な気配だ。しかもこっちは丸腰)
思わず舌打ちする。
神薙流の遣い手は得物を選ばない。それ故に、無手でも闘う事は可能だ。しかしその本領はやはり刀剣の類の得物を持った時であり、得物が有ると無いとでは、雲泥の差が存在するという事実が鎮座している。
(ここはどうにかして逃げ──)
生身で目の前の獣と戦うのは危険と判断して逃げる事を選択しようとするが、視界に巨狼が発する殺気に竦んで動けないでいる春菜の姿が映る。オレと同じように剣を修めていても一般的な武道の経験しかない彼女は軽くパニックを起こしていた。
(──られるか!)
明後日の方向を向きかけた足を止め、覚悟を決めて巨狼目掛けて駆け出す。
「こっちだ! この野郎!」
「ガルルッ、ガァアァァーー!!」
こっちの声に反応して巨狼もオレに向かって走り出す。牙を剥いて迫る巨狼にカウンターの要領で引き絞った右の拳を合わせる。
拳が巨狼の鼻頭を捕らえる寸前に、拳が緋色に燃え上がった。
「ギャゥッ! ガァアァァ~~!!」
不気味な悲鳴を上げ、巨狼が緋色の焔に包まれる。
焔に巻かれた巨狼が地面を転げ回る。しかし、焔の勢いは弱まる事は無かった。
数秒ほどで巨狼は骨も残さずに綺麗に燃え尽きてしまった。
「な……何だ? これ……炎?」
紅真は突き出した拳を解き、呆然と掌を見詰める。右手に緋色の焔が纏わり付いている。それなのに全く熱さを感じない。
緋色の焔は右手から離れて徐々に一点に凝縮されていき、やがて焔の中から一振りの剣が出現した。
抜き身の剣が地面に突き刺さるのを呆然と見つめる。
──恨め軻遇突智。お前に過酷で、残酷な使命を背負わせる、この父を
何故かその時、今まで聞き取る事さえ出来なかった筈の夢の青年の名前を思い出した。
そして、紅真には自分が生まれて初めて自分が覚醒したのだという、不思議な実感が生まれていた。
「──かの神は神殺しの神。その焔は神をも滅ぼす浄化の焔也」
何時の間にかオレたちの背後に黒い長髪をうなじ辺りで大雑把にまとめた古代の甲冑を着こんだ剣士が立っていた。
「……軻遇突智の焔を操りし者。お前がこの地に来る事を待ち続けたぞ」
その男はそう言ってオレに向かって手を差し出した。