序章
浮かんだ感想は「またこの夢か」だった。
オレは、また同じ夢を見ている。
幼い頃から繰り返し繰り返し、何度も同じ夢を見続けている。
場所は石造りの祭殿。窓の存在していない広い石室に陽の光は一切射し込んでいない。
だが、決して暗くはない。
赤よりもなお紅く、紅よりもなお鮮やかな緋色の炎が燃え盛って全てを照らしている。
業火に包まれる石室に三つの影があった。
一人の女と二人の男だった。
長い黒髪の三十歳ほどの女は、巫女が着るものに似た古代の衣装を纏い、翡翠の勾玉の首飾りをかけている。
男の一人は女と同じ年齢で、女の纏うそれと似た意匠の衣を纏っている。
もう一人の男は、二人よりもいくらか若い青年だった。青年も同じく古代の衣装を着て、長い緋色の髪を熱風に靡かせて男に付き従っていた。
一人の女と二人は燃え盛る業火の中で向き合っている。
「──許さぬ」
女は周囲で燃える炎よりも激しい憤怒を瞳に燃やして男を睨み、呪いの言葉を紡いだ。
「わらわは決して許さぬ。わらわは必ずこの地に舞い戻り、一日に千の人間を殺してくれよう」
「……ならば私はこの地で、一日で千五百の産屋を建てよう。人々に、そなたがこの地に戻ろうとも、生き残る術を遺そう」
女と男達の間には、見えない壁があるように隔たれていた。精緻な細工が施された巨大な岩の門が、その境界線だった。
男の背後にいた青年が進み出て、女の前──門の前に立つ。青年が両手を掲げると周囲の緋色の炎が一層強く燃え盛り、門の向こう側に立つ女を包み込む。
「お前も、お前までもわらわを否定するか! わらわの子でありながら、わらわを滅ぼすか!?」
「はい、母上。私はこの〝力〟を以って貴女を彼の地へ送り、この身の血肉を以ってこの〝扉〟を封じましょう」
青年はそんな女に首を悲しげに、泣いているような顔で微笑んだ。
一際激しく炎が燃え上がり、視界を緋色で埋め尽くす。
「────ーー!!」
女は〝扉〟の向こう側で、女は青年の名前を叫んだ。
それはノイズの入ったラジオのように雑音が夢に混じって聞き取れなかったが、それはひどく懐かしい……聞き慣れた名前のような気がした。
重々しい音を立てて岩の門が閉じる。
炎は消え去り、刹那の静寂が石室を支配する。
ややあって、青年は男に向き直った。
「父上」
「……ああ」
青年の呼びかけに応え、男は腰に吊るした剣を鞘から抜き放った。
そして、
ざくり、という肉を断つ音と共に、鮮血の花が咲いた。
男は真っ直ぐに剣で青年の胸を貫き、青年の背中から切っ先が血に濡れて覗いていた。
「恨め────。お前に過酷で、残酷な使命を背負わせる、この父を」
涙を一筋流す男に、青年は微笑んだ。
「……いいえ。私はこの使命を、背負わされてはいません。私は自らの意思で、この道を選んだのだから」
そう言って青年が静かに、穏やかな表情で瞼を閉じた。
それにつれて景色が遠ざかっていく。意識が浮上する。
青年の肉体は三つの光となり、門に吸い込まれると完全に〝扉〟を閉ざした。一人の男だけが残される。
「……お前もまた、往くがいい……遥かなる未来の、お前の主の許へ」
男は剣に向かって語りかけ、剣は鞘と共に淡い光に包まれて消えた。
そこで完全に視界が暗い闇に支配され、目が覚める。
「……うぅ……」
もう朝か。
窓からカーテン越しに朝日を感じた。
布団の中で微睡む心地良さと睡魔をどうにか気力で捻じ伏せ、もぞもぞと布団から起き上がる。
「……ふぁ~……眠……」
欠伸をひとつ漏らして、寝ぼけ眼で自室を見渡す。
六畳の和室。内三畳分は畳ではなく板張りの床で、壁際には箪笥、本棚、机がある。残りの三畳分の畳が今居る寝るスペースだった。
枕元の目覚まし時計を掴み、時間を見る。
午前五時二十六分。
普段起きている時間よりも三十分以上早い。しかし、もう一度寝るには目が冴えてしまった。
「……何だか、段々鮮明になっていくな……」
寝巻からトレーニングウェアに着替えつつ、今朝の夢を思い返して呟く。
いつからこの夢を見ていたのかは定かではない。
だいぶ小さい頃から見ていたという自覚はあるのだが、物心がつく頃には見始めていたような気もするし、もっと後からだったような気もする。
大して気にもしていなかったが、確かこの夢を見始めた当初、夢に出てくる人物たちの姿すらまともに判別できなかった筈だ。
徐々に鮮明になっていく夢の内容には、何か意味があるのだろうか?
ふと疑問に思って首を捻るものの、
「──ま、夢は夢だ。気にしてもしょうがないか」
答えの出ない事をあれこれと悩んでも仕方がないと割り切り、着替え終えて壁に立てかけてある木刀を手に取って部屋を出る。
純和風の建物の廊下を歩いて行って裏口から裏庭に出る。裏庭は植え込みと小さな池があるだけですぐに高い塀にぶつかる。
裏口から続く飛び石の道の上を歩いて目的地に着く。
そこはお世辞にも立派とは言い難い、小さ目の武道場。自宅に隣接するそこは、夏場は全ての窓を開け放ってなお暑さが充満し、冬場は足の指先が凍り付くように冷え込む。今は夏だが、早朝ということでさほど暑くはないのが救いだ。
「む。紅真か。おはよう。今朝は少し早いな」
道場にいた、だいぶ髪に白髪の混ぜた男が、オレの姿を認めて素振りを一旦止めて声をかけてくる。
神薙蒼真。オレ──神薙紅真の祖父に当たる人物だ。今年で齢七十という割に、まだまだ元気な老人である。
「おはよう、じいちゃん。まぁ、ちょっと目が冴えちまってさ。じいちゃんは相変わらず朝が早いな」
「武道家たる者、たるんだ生活を送るわけにはいかんからな。それにこれくらいで早いとは言わんわい」
かっかっと快活に笑うじいちゃん。
毎朝五時起きで早くないなら、一体何時なら早起きになるんだ? 四時か? 三時か?
いずれにしても必要に迫られない限り、自分に六時起き以上の早起きは不可能だ。
「しかし、いつも道場を使うなら道着を着ろと言っとるだろうが」
「別にいいだろ。朝の鍛錬ぐらい堅苦しい格好じゃなくても」
「……仕方ない奴じゃ。他の門下生にその姿は見せるなよ?」
「へいへい」
「返事は『はい』じゃ」
「は~い」
諦めたように溜息を吐き、じいちゃんは素振りを再開する。その少し離れた場所で何度か深呼吸をしてからオレは、日々の日課となっている剣の鍛錬を開始した。
鍛錬など古風な呼び方でじいちゃんは言うが、そう込み入った事はしない。精々(せいぜい)が柔軟運動に筋力トレーニングと剣の型の稽古程度だ。
武道家が身体が硬いなど話にならないので、解すのが目的であってもかなり念入りに行うように言われている。まあ、平成のご時世で戦いと呼べるような本格的に身体を動かす機会はあるわけも無いが、師の言い付けはきちんと守る。
学校もあるので早朝は身体づくりの筋力トレーニングの方は、あまり無理をし過ぎないようにしている。
柔軟とトレーニングを終える頃には目覚めきっていなかった身体も完全に起き、そこから剣の鍛錬に入る。しかし、これも筋力トレーニングと同じく簡単に済ませる。
オレが行う型は、神薙の家に伝わる古武術のものだ。
神薙の家に伝わるそれは武道ではなく武術。
無論、精神論等も教える武道の道場でもあるが、神薙の道場はそれとは別の、古武術であるが故に、現代の武道で失われつつある殺法の色を色濃く残す流派も教え伝えている。もっとも、そっちは一子相伝という古臭いとも感じる伝え方をしているのだが。
始めの内は一つ一つの動きを確認するように軽く、緩やかな速度で木刀を振るっていく。上段から振り下ろし、右から左に薙ぎ、突き、下段から斬り上げる。同時に、それに応じた体捌きを行う。
時間が経ち、型を何度も反復するにつれて段々とその動きは勢いを増し、鋭くなっていく。
既に当初の動きを確認するような様子はなく、遅滞する事なく流れるように動き続ける。それは、見えない敵と戦っているようでもあり、剣舞を舞っているようでもあった。
一時間ほど経ち、七時近くで動きを止める。二、三度深呼吸をして息を整える。今朝の鍛錬はここまでだ。
「だいぶ様になって来たな。じゃが、まだまだ未熟。日々の精進を怠らぬようにな」
「……はい」
「うむ。風邪をひかんように汗を流して来い」
「了解」
家に戻ると再び風呂場でシャワーを浴びて汗を流す。それから今日は食事当番なので台所で朝食の用意を開始。
今朝はご飯と豆腐とワカメの味噌汁に目玉焼きだ。
既にご飯は炊いてあるため二十分弱で出来上がり、居間に運ぶと、じいちゃんも汗を流してさっぱりした顔で定位置に座って新聞を広げていた。
「朝飯出来たぞ」
「ん、ご苦労さん」
テーブルの上に配膳し、じいちゃんの向かい側に座る。
「「いただきます」」
家族二人でテレビを見ながらのんびりと咀嚼する。飯時はあまり会話が無いのが神薙家の日常だ。
食べ終えたら流しに食器を浸ける。今日の洗い物はじいちゃんの担当だ。オレは歯を磨いたり、制服に着替えたり、身支度を整え、学校へ行く用意をする。
「それじゃ、じいちゃん。行ってきます」
「うむ。行ってらっしゃい」
居間で緑茶を啜っているじいちゃんに挨拶を済ませ、仏壇のある部屋で手を合わせ、一組の男女が映った遺影にも声をかける。
「行ってきます、父さん、母さん」
古めかしい門から道路に出ると、学校へと続く坂道から蝉時雨が聞こえた。坂を登り、オレは学校に向かう。