突然の来訪者
「あら、香澄さん……おはようございます。本日はお休みではないのですか?」
無我夢中でトカゲを倒した次の日、制服姿でダイニングテーブルに座り、朝食のパンを食べていると……客間からリビングへ出てきた雛菊が首をかしげた。
「おはよう雛菊。相変わらず変な格好ねぇ……」
普段は和服なのに、寝るときはジャージというよく分からない格好の雛菊は、あたしの正面に座って一言。
「あ、私にもパンと緑茶をいただけますか?」
この言葉を聞くたびに……毎回思う。
「食べ合わせ、悪くない?」
「そんなことありません。緑茶は最強なのですから」
何がどう最強なのかよく分からないが、あたしは自分のパンを皿に置いて、背後にある食器棚から湯のみと急須を取り出した。
お湯はポットに入っているので、机上の茶筒から茶葉をすくい上げ、急須へ。
何だか、彼女に顎で使われることに慣れてしまった自分がいるような気がする……慣れというか、諦めかもしれないけれど。
食パンはテーブルの上にあるので、雛菊は勝手に開けて手近にあったジャムを塗り始めている。
雛菊は焼かないパンが好きらしい。あたしはトーストできつね色にした方が好きなんだけどなぁ……。
「香澄さん、お皿もいただけますかー?」
「はいはい……」
丸いパン皿と、湯気が立ち上る湯呑を手渡す。
雛罌粟はその香りも楽しみながら、ずずずと一口。
「……ふぅ」
優雅な横顔を見ながら、あたしも自分の席に戻った。
残ったパンをコーヒーで流し込みながら、テレビで時間を確認。8時半か……まだ、ゆっくり出来るかな。
「それで、香澄さんは今日も学校なのですか?」
「え? あ、うん。今日は生徒会の活動があるから」
「生徒会、ということは、悠樹さんもですか?」
「そうだよ。だから、今日は『堕落者』関係のことは無理だからね」
まぁ、雛菊には何を言っても関係ないと思うけれど、一応釘をさしておこう。
あたしの言葉に、雛菊は「ご心配なく」と微笑みを浮かべる。
「今日はおそらく大丈夫だと思いますけれど、何かあったらご連絡しますね」
「はーい……」
嫌な予感を払拭したくて、あたしは残ったコーヒーを飲み干した。
澄み渡った青空が眩しい土曜日の午前中、約束の20分前に、あたしは久那高校の校門前にいた。
バスが思ったよりも順調に進んで、予想よりも早めに着いてしまったのだ。
門は道路に面しているので、車や自転車が目の前を途切れることなく通り過ぎていく。
グラウンドの方へ耳を澄ませれば、金属バッドでボールを打つ音と守備位置を支持するような声が聞こえてくる。
穏やかな風が、吹き抜けていく。
何の変化もない、平和な時間。こうしてみると、昨日までの戦いがウソみたいに思えてしまった。
昨日の力は、本当にあたしが引きだしたものだったんだろうか。
あの巨大なトカゲを木っ端微塵に切り刻んだ、強大な力。
よく呑み込まれなかったものだと思う。
だけど……今、同じことをリクエストされても、その方法をきちんと覚えていないのだ。
と、
「……樋口、早いな」
横から聞こえた声に顔を向けると、自転車に乗った奥村先輩がいた。
何だか久しぶりに会ったような気がする。
「奥村先輩。おはようございます」
「おはよう」
自転車から降りた先輩は、あたしの顔をまじまじと見つめて、
「大丈夫か?」
「へっ!?」
唐突に心配されて、思わず変な声が出てしまったではないか。
驚いて目を丸くするあたしに、先輩は真面目な表情で理由を説明する。
「顔色、あまり良くないぞ。疲れているんじゃないのか?」
「え? あ……そう、ですか……」
自分でも気がつかなかったし、雛菊が指摘してくれるはずもない。
まぁ確かに、体には些細な違和感が残っているけれど……熱があるとか怪我をしているとか、そんなことはない。
ただ、これから会う人に心配をかけたくないので、どれくらいなのか確認してみよう。
「そんなに悪いですか? 真っ白ですか?」
「いや、そこまでひどくないが……あまり無理するなよ。3日連続だったんだからな」
「ありがとうございます……」
先輩から優しくされることに全く慣れていないので、とりあえず頷いた。
……あ。
「そういえば奥村先輩、一つお聞きしたいんですけど」
「?」
「奥村先輩は、剣の力を使うときに何て言いますか?」
「……」
あたしの質問に、先輩は30秒ほど考え込んで、
「……滾れ、焔」
ですよね。
「それ以外は?」
「特になし」
「ですよねぇ……」
今度はあたしが考え込むと、先輩が首をかしげた。
「どうしたんだ?」
「いえ、ちょっと気になることがありまして……」
あたしが昨日のことを説明すると、
「雛菊さんは何も言っていなかったのか?」
昨日の雛菊の様子を必死で思い出す。
……特に何も言われなかった。
「特には……あたしもよく覚えていないので」
もしかしたら、あたしが覚えていないだけかもしれない。椎葉にも聞いてみようと思いつつ、腕時計で時間を確認した瞬間、
「――ちょっと、道を聞いてもいいか?」
唐突に先輩と反対方向から尋ねられて、あたしはあわてて顔を向けた。
そして……反射的に目を見開く。
だって、そこに立っていたのは、
「雛菊……?」
思わず彼女の名前を呟いた。
位置的には後ろにいる先輩も息をのんだのが分かる。
あたし達の目の前に現れた女性は、黒く長い髪をポニーテールに結い上げ、Tシャツにジーンズというラフな格好ながら、背が高いので完璧に着こなした美人。
先ほど聞いた声は、女性にしてみれば低めのハスキーボイスだった。言葉づかいからもサバサバしている女性なのかな、という印象を受ける。
少なくともあたしは面識がないけれど……どうしても、違和感を感じざるを得ない。
その顔が、雛菊とそっくりだったからだ。
他人の空似だろうか、それとも――
あたしは一度呼吸を整えてから、彼女を真っすぐに見据えた。
「えぇっと……どこまで行くんですか?」
作りかけの笑顔は引きつっているだろう。
彼女はそんなあたしの反応を面白がるように、悠然とした笑みを浮かべて続ける。
「久那総合病院に行きたいんじゃ。ここからどうすればいい?」
「総合病院ですね……まぁ、タクシーを使えば一発ですけど、バスだとあそこのバス停からバスに乗って、久那バスセンターで一度降ります」
あたしは、道路沿いにある近くのバス停を指さす。
「んで、3番乗り場から総合病院行きのバスが出ていますから、後は終点まで乗ってください。バスの行き先も病院になっているので、分かりやすいかと思います」
説明を終えると、彼女は「ありがとう」とお礼を告げて、
「随分と詳しいな、助かったぞ」
その言葉を、あたしにわざと言っているような気がした。
でも……ここで動揺するわけにはいかない。
後ろには先輩がいるんだ。知られたくない……知られたくない。
無意識のうちに唇をかみしめて、何とか言葉を絞り出す。
「バスはよく使いますから」
「そうか。じゃあ、またな」
またな、彼女はそう言って、あたしの前を通り過ぎていき、
「雛菊によろしく伝えてくれ」
「っ!?」
今、雛菊って言った――!?
慌てて彼女を呼び止めようとしたが……彼女の姿は、どこにも見当たらなかった。
「樋口……」
茫然と立ち尽くしていたあたしは、先輩からの声にびくりと両肩を震わせた。
先輩の方へ向き直ると、彼もまた、困惑した表情を浮かべている。
「今のは、誰なんだ?」
「さあ……あたしにも全く……分かりません」
二人して首を傾げるしかない現状。
だけど、雛菊のことを知っていたとなれば、関係者である可能性が非常に高い。
……敵か味方か、はっきりしないけれど。
5分後に稲月先輩と皆瀬君が合流するまで、あたし達は無言のまま棒立ちになっていた。
それから……昨年から生徒会に所属している稲月先輩の助言を受けながら、買い出しと会場セッティングに勤しむあたし達。
会合にはケーキ(店舗指定あり)と紅茶orコーヒー(選択制)が必須アイテムなんだとか。
そのことを知っていた稲月先輩が、ケーキは既に購入してくれていた、のだが……。
「あのー……稲月先輩、一つ聞いていいですか?」
生徒会室にて。倉庫から運び込んだ長机や椅子を男性陣がセッティングする光景を眺めながら……あたしは部屋の後ろ、ポットやインスタントコーヒーが並ぶお茶スペースにて、その箱を穴があくほど見つめていた。
真っ白の箱に、お店の名前が一ヶ所だけ金色で書いてある。
だけど、それだけで……このケーキがどこからやってきたのか、分からない久那市民はいない。
「うん、何となく言いたいことは分かるけど……何かな」
「このお店のケーキって、確か、恐ろしくお高い一品ではございませんでしたか!?」
そう、このお店のケーキは、それこそセレブ御用達。
何を間違ってか久那センの一角に出店している、首都圏の超有名ケーキ屋さんなのだ。
……まぁ、星霜のお嬢様を狙っているんだろうけど……お嬢様方はあまりバスを使わないよ?
庶民が9割の久那市民にとっては憧れの的。あのお店のケーキを年に一度、誕生日に食べるのが、あたしのささやかな楽しみでもある。
そのケーキが……この長方形の箱から察するに、全員分あるぞ。
目を見開いて驚愕するあたしに、稲月先輩も苦笑いで説明してくれる。
「この総会って、各学校からお金を出し合ってお茶なんかを準備しているんだけど……星霜学園の出す金額、毎回桁が違うの。だから、彼女たちの要望に答え続けた結果、ここのケーキを毎回買うことになっちゃったのよ。インスタントの紅茶やコーヒーで納得させるまで、大変だったんだっから……」
インスタントにしなかった時代、久那工業がホストになった時に大変だったらしい。
……納得。
でも、自分で買わずに食べられるのは嬉しい。
「普段は滅多に食べないものだから……定期的に食べられるのはラッキーなんだけどね」
どうやら稲月先輩も、あたしと同じことを考えていたらしい。
何だか今日はいい日になりそうだなー……と、朝のことをすっかり忘れてほくそ笑むあたしに、腕時計を確認した稲月先輩が笑顔を向ける。
「そろそろ時間ね。香澄ちゃん、皆さんを迎えに行くから、付いてきてもらってもいいかしら」
「迎えに、ですか?」
「そう。ホストが門のところまで迎えに行くことになってるの。本来は会長と副会長の役割なんだけど……今日は久那高校が今のメンバーになって初回だから、私が行くことになったの」
どうやら昨日のうちに決定していたことらしい。
でも、だったら……。
「奥村先輩と稲月先輩じゃないんですか?」
あたしのもっともな問いかけに、稲月先輩は口元に人差し指をあてて、
「会長からのご指名だもの」
「へ?」
「ほら、香澄ちゃんの方が社交的でしょう? 奥村君、他校の方と話すために心の準備が必要らしいのよ」
おいおい会長……。
ジト目で会長の方を見ると、あたし達に対して背中を向ける会長と、必死で笑いをこらえている皆瀬君が飛び込んできた。
……はいはい、分かりましたよ会長様。あたしが頑張って皆さんをここまでお連れしますから。
「稲月先輩……行きましょうか」
「ええ。じゃあ、ちょっと下まで行ってきますね」
二人の間をすり抜けて、あたし達は生徒会室を後にしたのだった。
校門のところには、既に3人ほどの待ち人がいた。
全て男性。久那工業の学ランを着ている人が二人と、久那商業のブレザーを着ている人が一人。
彼らへ近づく稲月先輩を見つけると、全員がそれぞれに軽く会釈をした。
「佐藤さん、中谷さん、牧さん……お久しぶりです。お待たせしてすいません」
あたしには誰が誰だか分らないけれど、とりあえず会釈。
「稲月さん、お久しぶりです。この方が新しい生徒会長ですか?」
一番手前にいた久那工業の人があたしに気がついた。
よし、ここはきちんと自己紹介を!
「初めまして。今年度の副会長やってます、樋口香澄です。会長がちょっと手が離せなくて、あたしが稲月先輩にくっついてきました」
「初めまして。久那工業の生徒会長、中谷です」
髪の毛を五分刈りにしている中谷さんは、身長も高く手も大きい、きっと制服の下に筋肉もあるだろう。見るからに野球やってますって感じの雰囲気だ。偏見だけど。
「久那工副会長の佐藤っす。よろしく」
中谷さんの後ろからひょっこり顔を出した佐藤さんは、茶髪で両耳にピアスを開けている。声も男性にしては高く、一番話しやすそうだけど……彼が副会長でいいのかと思ってしまった。
「久那商業の生徒会長をやってます、牧です。よろしくお願いします」
そして、唯一の久那商業、牧さんが笑顔を向ける。
身長はあたしと同じくらいで、小柄。襟足で結っているほど髪が長く、中性的な雰囲気を醸し出している。
「皆さんは私や会長と同じ2年生なんだけど……牧さん、山岸さんは?」
「申し訳ない、彼女は簿記の試験があって、本日は欠席です」
簿記……何だか商業高校っぽい。
山岸さんというのが、きっと、久那商業の副会長なんだろう。彼女って言うくらいだから女性だ。
と、いうことは、あと来ていないのが――
あたしが口に出すよりも早く、門の所に一台の車が止まった。
銀色のセダンタイプで、ドアのところはスモークガラスになっている。
車の正面にあるロゴを見てもあたしには分からないけれど……何となく、高級車であるような気がした。
まさかと思いつつ稲月先輩を見ると、先輩が一度だけ頷く。
そして、自動で内側から扉が開き、
「皆様、ごきげんよう」
数日前にも聞いた声が、高らかに響く。
車内から出てきた女性――綾小路さんに、稲月先輩がぺこりと頭を下げて、
「こんにちは、綾小路さん」
綾小路さんに負けないくらいの柔和な笑顔を向ける。
男性陣は……牧さんが頭を下げて、他の二人は首を動かしただけだった。
「ごきげんよう稲月さん。あら……?」
先輩の隣りに立っているあたしに、綾小路さんの目線が移動する。
「貴女、東原さんのお友達でしたわね」
「あ、はい。先日はありがとうございました」
慌ててお辞儀をすると、稲月先輩があたしを不思議そうな眼差しで見つめて、
「香澄ちゃん、綾小路さんとお知り合いだったの?」
「知り合いというか、あたしの知り合いが星霜学園にいて、この間、ちょっと案内してもらったんです。その時に……」
あらあら、とでも言いたそうに目を丸くする稲月先輩。
まぁ……つい最近不本意な形で出来た知り合いなので、先輩に紹介することもないと思いますけれど……。
綾小路さんと中谷さん、各学校の制服を着ている二人を見ると、どうしても東原さんと椎葉を連想して、どこか疲れを感じてしまうあたしなのでした。
さて、そんな新人生徒会長・奥村先輩の第一声は、
「今年度の生徒会長を務めます、奥村悠樹です。よろしくお願いいたします」
……という、掴みもひねりもないコメントでした。
あたしは会長の隣で、出されたチーズケーキをどのタイミングで食べ始めていいのか、周囲の雰囲気を伺う。
机はロの字に並べられており、入口に近い所に久那高校の二人、その右側に星霜学園の二人、左側に久那工業の二人、そして、あたし達の正面に久那商業の牧さんがいる。
全員が改めて自己紹介を終え、飲み物に口をつけたが……まだ誰も、ケーキには手を出していない。
どのタイミングで食べていいんだろう……頼りの稲月先輩も、今は遠い。
稲月先輩と皆瀬君は、お茶やケーキの配膳と議事録を作成することが本日の仕事なんだとか。室内後方にあるポットの近くに机と椅子をセットし、ノートパソコンを開いていた。
全員の前には、今日の議題が書かれたプリントがある。
タイムスケジュールが書いてあったので確認すると、最初に各高校の現状を報告しあい、その後に意見討論、集約と書いてあった。
……意見討論?
あたしが首をかしげている隣で、先輩が頑張って堂々とした振る舞いを続けている。
「ではまず、久那高校の現状ですが……」
自分用に用意していた資料を読み上げていく先輩。各高校の皆さんがメモを取っているので、あたしも真似してシャープペンを握った。
先輩の発表は、文化祭の準備が始まること、最近、久那高校周辺で変質者が出ていること。
「次に……星霜学園、お願いします」
「分かりましたわ」
綾小路さんは、星霜学園の近くでも変質者がいること、今度、ビニールハウスで栽培した野菜を使ってのイベントを開催するので、各学校にポスターの掲示をお願いしたいことを告げる。
「では……久那商業」
「はい」
牧さんは、先日体育祭が行われたことを報告。
最後の久那工業は、地域一斉ゴミ拾いを企画したいこと、職員の異動があったことを報告。
「あと……わが校の近隣でも、女子生徒を連れ去ろうとしたという変質者がいた、という情報がある」
「暖かくなったからでしょうか、物騒ですわね」
紅茶をすすりながら綾小路さんが呟いた。
ひと通りの報告を受けた奥村先輩は、一度息をついて、
「では、本日の議題は……やはり、治安維持でしょうか」
「ですわね」
奥村先輩に同意する綾小路さん。先輩を見つめる目がどこか熱いのは……あたしの気のせいだ、多分きっと。
他のメンバーも同意して……あ、佐藤君がケーキに手を出した!
待ってましたとばかりにケーキ周辺のビニールをはがすあたしに、奥村先輩が生ぬるい目を向けたことには気付かないことにした。
と、
「奥村かいちょー」
不意に、佐藤君が右手をあげた。
左手はしっかりフォークを握って、口は少しもごもごしているけれど。
全員の視線が彼に集まる中、彼は口の中に残っていたケーキを完全に飲み込んで、
「『灰猫』からの報告があるんっすけど……いいすか?」
彼の言葉にきょとんとしたのは……残念ながらあたしだけでした。