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【外伝5・奥村悠樹編】只今ラブコメ猛勉強中

 俺――奥村悠樹と最近何かと行動をともにしている彼女は、やはり、よく分からないことが多すぎる。


「――踊れ・颯!!」

 彼女――樋口香澄の声と共に振り下ろされた刃・『颯』は、一陣の風を生み出して……射程距離内にいた『堕落者』を粉砕し、消える。

 その風の余波が近くにいた俺のところにも届き、パーカーのフードと髪の毛を巻き上げていく。

 ……もう少し、周囲との距離感を考えて攻撃をして欲しいものだ。

 久那市の郊外にある運動公園、その裏山に整備されたサブグラウンドが、今日の戦闘場所に選ばれていた。遊具があるのはメイングラウンドの方なので、普段はあまりここまでこないけれど……木々に囲まれてぽっかり開けたこの場所は、雛菊さんの『境界』がなくても、周囲から取り残されたような空間だった。

 彼女が仕留めたのが、本日最後の獲物だった。空間上に味方しか残っていないことを全員が確認し、それぞれに持っていた剣を虚空へ放り投げる。

 時刻は午後4時を過ぎたところ。今日は曇り空なので、普段はジリジリ照りつける太陽の光も届かない。というか、今にも雨が降りそうな色の雲だ……空気もジメッとした湿気を多く含んで汗を誘発するので、早く帰りたい。

 俺の剣・『焔』が消えたことを確認すると、少し離れた場所にいた仲間――有坂椎葉が、意気揚々とした足取りで合流する。

 アウトドアブランドの半袖Tシャツに膝丈のカーゴパンツ、足元はハイカットスニーカーで、動きやすさを重視した服装だ。無地の半袖ポロシャツの上からパーカーを羽織り、下は紺のジーパンという俺とは対照的というか、彼の金髪という髪の色とも相まって、言い方は悪いけれど遊んでいるように見える。まぁ、実際間違いでもないだろう、多分きっと。

 改めてこうして見ると……こういう縁がなければ、絶対に自分から話しかけないタイプだ。

「いやー、終わった終わった。しっかし、俺達も大分慣れて早くなったんじゃね? 絢芽ちゃんがいないのが勿体無いぜ……」

 そう、本来ならば4人で討伐するはずだった今回の『堕落者』だが、このチームのエースでもある東原は、本日諸用で参加できず。急遽3人で5体を仕留める、ということになったのだ。まぁ、何の問題もなく15分で終わったけれど。

「椎葉ー、そっちも終わったんだよね?」

 樋口が俺達の方へ駆け寄ってきて、互いの顔を見合わせる。

「香澄ちゃんお疲れ、俺達の方は終わってるぜ」

「あたしも何とかなったよ……それにしても、夕方前に終わるなんて珍しいね。まぁ、その分夜はゆっくりできるからいいんだけどさ」

「うわー、香澄ちゃんはゆっくり出来ていいねぇ……俺はもうちょっと動き回んなきゃダメなんっすよ……」

「それ、『灰猫』としてってこと? 最近忙しいねぇ……大丈夫?」

「ま、若いから大丈夫。それに、ボチボチ終わりが見えてきたから椎葉君は頑張っちゃうぜー」

 そう言って笑う有坂につられた樋口が笑顔を見せると、どこからともなく雛菊さんが現れ、コチラへ近づいてくる。

 真夏だというのにビシっとした和服に身を包み、その顔は涼しけ、汗の一滴だって見当たらない……いや、確かに俺達とは体の構造そのものが違うのかもしれないけど……信じられない。

「皆さん、お疲れ様でした。迅速に対応していただいて助かりました」

「おうよ雛ちゃん、これくらい楽勝だぜ」

「椎葉さんは心強いですね。では……『境界』を解除しますので、目を閉じていただけますか?」

 その言葉に従って、3人共目を閉じる。

 そして、体に違和感を感じたら……全てが元通り、今日の御役目も無事終了だ。


 ……そう、思っていたのだが。


「あれ、奥村先輩……自転車じゃないんですか?」

 サブグラウンドの脇に自転車を止めているという樋口と有坂とは反対方向へ――メイングラウンドの方へ向かおうとする俺の背中を、樋口が呼び止める。

 俺は振り向いて、その理由を説明した。

「いつもの感覚で、メインの方の駐輪場に止めたんだ。だから、俺のことは気にせずに行ってくれ」

「分かりました。気をつけてくださいねー」

 そう言って手を振る樋口と有坂に改めて背を向け、俺は自分の自転車の元ヘと再び歩き始めた。


 ……の、だが。


 異変は突然だった。数歩先に進んだところで、まるで足に根っこがはえているかのごとく動かなくなってしまう。

「あ、あれ……? 俺、何をして……」

 右足も動かなければ、左足も持ち上げられない。上半身は自由に動かせるが、下半身が自分の意思ではびくともしなくなってしまった。

 そして……異常は連鎖する。

「あ、あれっ!? 足……足が動かない!?」

 俺と同じ現象が、すぐ後ろにいる樋口でも発生しているらしく……隣りにいる有坂が訝しげな表情で彼女を見つめている。どうやら、彼は自由に動けるらしい。

「香澄ちゃん、俺で遊んでる?」

「いやいや違うから!! 試しに引っ張ってみてよ!!」

 そう言って自分の両手を前に突き出す樋口。彼女の前に立った有坂がその手を握り、思いっきり自分の方へ引き寄せて――

「――ぐぬっ!?」

 すぐにその異変を感じ取り、彼女を引っ張ることを諦めた。

 そして、直立不動の俺を手招きする。

「おーい悠樹、ちょっと手伝ってくれよ」

「いや、俺も手伝いたいのは山々なんだがな……」

「お、おいおいマジかよ……自由に動けるの俺だけ!?」

 動けなくなってしまった俺と樋口の距離は、2~3メートルくらいだろうか。俺達の間を行ったり来たりして焦る有坂が、いなくなった雛菊さんを大声で呼んだ。

「ちょっ……雛ちゃん、雛ちゃーん!! 緊急事態だからもう一回出てきてくれーっ!!」

「……何ですか騒々しい。私、帰ってテレビ見たいんですけど」

 すぐにその場へ戻って来た雛菊さんは、不機嫌な顔で俺達を見やり……。

「あら……お二人とも、随分ガッチリ絡まってますねぇ……」

 しみじみと呟く。

 代表して樋口が手を上げ、雛菊さんに説明を求めた。

「か、絡まる? 雛菊、何を言ってるの?」

「あら、皆さんには見えませんか? 香澄さんと悠樹さんの……そうですね、互いが発する気力とでも言いましょうか……とにかく、目に見えないものが空中で絡まっているんですよ」

「へ? あたしと先輩の……気力?」

「そうです。香澄さん、悠樹さんに自分の攻撃を当てたりしませんでしたか? 恐らく悠樹さん側が『風』の力に過敏に反応して……要するに風に煽られた『炎』が応酬して、空中で絡まっちゃったんです」

 そう言って、雛菊さんは俺達の頭上を指差しているが……当然、何も見えない。

 互いに無表情で目を合わせた後、樋口が焦りを追加して雛菊さんを問い詰めた。

「こ、コレ、何とか出来ないの!? あたし達動けないんだけど!?」

「なるほど、今のお二人は一定距離以上は離れられなくなってしまっていますね。試しにお互い近づいてみてください」

 雛菊さんの言い分に従って、俺達は互いに一歩後ずさりして……距離を近づける。

 先程まで頑なに動かなかった足は、何事もなかったかのようにすんなり動かすことが出来た。

「本当だ……ねぇ雛菊、コレ、何とかならないの?」

 そう言って、樋口が自分の頭上を指差す。

 困り顔の俺達を交互に見つめる雛菊さんは、これまた困った顔で頬に手をあてた。

「そうですねぇ……『縁故』の方でもいらっしゃればすぐに解決するんですけど……作品違いますからね」

「あの雛菊、何言ってるの?」

「独り言ですので気にしないでください。うーん……これは私が無理やり断ち切ることも出来なくはない、ですが……」

「で、ですが……?」

「ただでさえ力が拮抗して緊張状態のところに、私が無理やり干渉すると……ばーんってなっちゃいますよ。木っ端微塵ってやつです」

「そ、それはダメ!! じゃあ、あたし達はずっとこのままなの!?」

「いえいえ、恐らく……この程度ならば24時間後くらいには自然と消えていると思います。それまで多少体に変化があるかもしれませんが、基本的には大人しくしていただければ大丈夫ですよ」

「問題しかないんですけど!? あた……あたし達、家に帰れないじゃない!!」

「いえいえ、お二人は一定距離近くにいればいいのですから、今日はどちらかのお家で一晩やり過ごしていただければ大丈夫ですよ」

「全然大丈夫じゃないんですけど!? 第一、学年も性別も違うんだから、そう簡単に相手の家に泊まれるわけないでしょう!?」

「あら、今日は香澄さん、家で私と2人ですよね。好都合じゃないですか」

「そ、そりゃあそうだけど……って違う!! そうじゃなくてね!!」

 1人で怒り焦る樋口を横目にため息をついていると……有坂が俺をジト目で見ていることに気付いた。

「……何だよ有坂、言いたいことがありそうだな」

「いーやべっつにー、香澄ちゃんの家でお泊り会なんて、随分楽しそうだなーと思って」

 この状況を楽しめるのは、第三者以外にありえない。

 無責任な発言に、俺は顔をしかめた。

「お前なぁ……当事者になって考えてみろよ、制限だらけで割と面倒だぞ」

 今後を考えて再びため息をついてしまう、そんな俺に、有坂は目を見開いて力説する。

「いいや、考え方次第では天国だろこの状況!! この距離じゃないとダメってことは、食事も風呂も寝るのも一緒だろう!?」


 ……。


 ……何だと?

 

「……有坂、その発想を俺に理解させたお前を一度殴らせろ」

 俺が真顔で拳を握りしめてにじり寄ると、慌てて距離を取る有坂。

 案の定、数歩進んだ所で……樋口が立ち止まっているため、俺の足が動かなくなる。

 ……ほら、早速制限がかかったじゃないか……。

 行き場のない拳をブンブン動かして威嚇する俺に、有坂は勝ち誇った顔でこう言い放った。

「ここが年貢の納め時だな、悠樹!! 妙齢の男女が一つ屋根の下で何も起こらないわけがないのだよ!!」

 後ろの樋口は雛菊さんへの抗議で、有坂の言葉まで聞こえていない。その状況に内心安堵しつつ……俺は、奴をジト目で見つめた。

「俺と樋口に限って何もない。あるとすれば……宿題で徹夜する可能性くらいだ」

「い、今から宿題で徹夜すんのかよ……ま、まぁ、それはさておきだ!! 俺は気が利くから押しかけないでいてやんよ!! でも、何があったかは根掘り葉掘り聞くからな!! 覚悟しておけよ!!」

 ここでようやく有坂の大声に気づいた樋口が、何事かと振り返った。

「椎葉……どうしたの? なんか楽しそうでムカつくんだけど……」

「ううん、何でもないよ香澄ちゃん。んで雛ちゃん、この2人、どーすんの?」

「そうですね……経過観察もしたいので、悠樹さん、申し訳ないですが、今晩は香澄さんの家に泊まっていただけませんか? 辻褄合わせは私が責任をもって行いますから」

 雛菊さんにこう言われた俺は……不承不承、了解するしかなかった。


 そこから約1時間後、一旦俺の家で必要な荷物をまとめて、樋口の家へ向かう。

 自転車でも離れる距離に制限があり、特に信号では気を遣った……同じペースで並走することの難しさを思い知った1時間だった。

 そして……午後5時過ぎ、まだ外は明るい時間帯で、空気もじっとり蒸し暑い。雨が降らなかっただけマシなのだろう。

 樋口の家は一戸建てで、車庫に車は見当たらない。その一角、屋根があるところに自転車を止めて、彼女に従い、家の中へ。

「お邪魔します……」

 ここへ来るのは初めてではないが、泊めてもらうのは初めてのことだ。着替えや洗面道具、勉強道具の入ったドラムバックを持って、とりあえずリビングへ向かう。

 先に入った樋口がエアコンのスイッチを入れ、テレビの前にあるソファを指差した。

「とりあえずその辺に座っててください。麦茶でいいですか?」

「ああ」

 そう言ってキッチンへ向かおうとした足が……止まる。

 ……あぁそうか、たった数メートル、この距離も離れられないのか。

 俺はカバンを床において立ち上がり、彼女に近づいた。

「慣れるまで厄介だな」

「そうですね……あー焦った……」

 苦笑いの樋口と連れ立って冷蔵庫の前に立ち、2人で麦茶を飲む。

「そういえば……雛菊さんはどこへ行ったんだ?」

 あの場で別れたはずの雛菊さんは、まだ、家の中で姿を見ていない。

 純粋な疑問で首を傾げる俺に、どこか冷めた目の樋口がボソリと呟く。

「さぁ……でも多分、6時15分からのニュースまでには帰ってくると思いますよ」

「そうなのか?」

「はい。地域ニュース担当の男子アナウンサーがお気に入りみたいですから」

 呆れ顔で呟く樋口は、コップの中のお茶を飲み干して……上目遣いで(身長差があるからしょうがない)こちらを見つめた。

「そういえば、夕ご飯は何がいいですか? 候補は冷やし中華かハヤシライス、角煮は……時間が足りないから、親子丼かなぁ……」

 俺にメニュー候補を告げながら、冷蔵庫を見やる。

 料理が得意な彼女には、これまでに何度も助けられてきた。

 最近はそれが当たり前で感謝を忘れていた自分に呆れつつ、俺は彼女の質問に答える。

「俺は何でもいいよ。使いきったほうがいい食材があるなら、それを優先してくれ」

「了解です。じゃあ、トマト食べたいし簡単だから冷やし中華で!!」

 そう言って笑顔を向けてくれる樋口に、俺は足を向けて眠れないのであった。


 その後……6時過ぎに帰ってきた雛菊さんも合流して食事を済ませ、時刻は気付けば7時30分を過ぎたところ。

「お2人とも、お風呂あきましたけど……どうしますか?」

 完全に風呂あがりの雛菊さんがリビングに顔を出す。

 食器を片付けて、ダイニングテーブルの椅子からテレビを見ていた樋口が、同じく正面で椅子に座っている俺に目線を向けた。

「じゃあ、先輩先に入っちゃってください。あたし、最後に風呂掃除したいので」

「分かった。じゃあ、お先に」

 そう言って立ち上がった俺が、テレビの近くに置いた荷物を取ろうと足を踏み出して……当然のように一定距離から先へ進めなくなる。

「あ、そうだった」

 気づいた樋口が立ち上がり、俺に近づいた。

「スイマセン奥村先輩、忘れてました」

「いや、いいんだが……だよな、そうなるよな……」

「へ?」

「いや、だからその……風呂に入るとなると、樋口に付いてきてもらわないといけなくなるわけで……」

「あ、そりゃそうですよねー……って……!?」

 ようやく気付いた樋口が顔を赤くして、ソファでくつろいでいる雛菊さんを睨んだ。

「ちょっと雛菊!? 呑気にしてないで対策考えてよ!!」

「対策? 何のことですか?」

「だっ、だから……!! このままだと一緒に入らなきゃいけなくなるっていうか……!!」

「あら、良かったですね香澄さん。浴槽だけじゃなくてタイル掃除も出来ますよ」

「そういうことじゃない!! ど、どうしよう……でも、こんなに汗かいてお風呂入らないのもなんかイヤだし……」

 そう言って、彼女がすがるような目で俺を見つめた。

 ……正直、俺だって何も考えていないわけではない。覚悟しているし、ある程度の作戦は、既に脳内で完成している。

 俺は真顔で樋口を見つめ、口に溜まった唾を飲み込んで……こう、言った。

「一緒にいく、それしかないだろう?」


 とりあえず2階に付き添い、彼女の着替えも持って……再び1階、樋口家の脱衣所である。

 洗濯機と洗面台がある一般的な脱衣所は、白を貴重とした清潔感がある。そして、すりガラスの引き戸の向こうが……問題の浴室だ。

「お、奥村先輩……どうするつもりですか?」

「とりあえず、どれくらい離れられるのか確認しておきたい。樋口は動かないでくれ」

 彼女に洗濯機の前から動かないよう指示を出した俺は、荷物を床において、引き戸を開く。

 そしてそのまま浴室内に足を踏み入れて……4歩ほど歩いたところ、浴槽の手前で、足が動かなくなった。

「なるほど……体は洗えそうだが、浴槽につかるのは無理そうだな」

「も、もう少し近づきますか? こっちはまだいけますよ!!」

「頼む」

 樋口が引き戸ギリギリまで近づいてくれたため、更に数歩前に進む余裕が出来る。これなら大丈夫そうだし……最悪、シャワーですませてもいい。

 彼女のところへ戻った俺は、濡れた靴下を脱いで、安堵の息をついた。

「とりあえず……この距離を保てば何とかいけそうだ」

「分かりました。じゃあ奥村先輩、ちゃちゃっと入っちゃってください!!」

 そう言われたので、俺はとりあえず着ていたパーカーを脱ぎ、ポロシャツのボタンを外して……。

「ってちょっと待って下さい先輩!! な、ななななんで脱ぐんですか!?」

「風呂入るんだから脱ぐだろうが……」

「はっ!? そ、それは確かにその通りだ……すすスイマセン後ろ向いてますからっ!!」

 そう言って後ろを向き、少し距離を取る樋口。

 脱衣所の隅、体操座りで縮こまる彼女の背中を見つめながら……次は立場が逆になるのかと思うと、早くも憂鬱な気分になるのであった……。


 そして……約30分後。

 俺と交代した樋口が、今、風呂に入っている。

 俺は引き戸に背中をあずけて腰を下ろし、持ってきた世界史の参考書を読み進めていた。

 この時期はドライヤーを使わず、タオルで拭いて乾かしているので、頭にフェイスタオルをのせたまま……ページをめくる。

 背後から聞こえるのは当然だが水音だ。しかし、洗い終わったのか……お湯にザプンと何かが沈む音が聞こえ、静かになる。

 ……落ち着かない。参考書のページはもはやめくるだけ、全く頭に入ってこない。

 風呂あがりは頭もスッキリしていることが多いのだが……今日は例外のようだ。でも、何もしないわけにもいかないし、携帯電話はリビングに置いてきてしまったため、今は手元の本のページをめくるだけの簡単なタスクをこなすしかない。視線を動かせば彼女の着替えなどが目に入りそうで、何となくそれを見るのはいけない気がして……結果、手元の本に視線を落とすしかないのである。


 もしも今の俺の立場が有坂だったら、こういう場面でも扉越しに会話をしたりして、円滑にコミュニケーションを取れるのだろうか。

 不意にそんなことを考えて……何だが不愉快な気分になった。

 

 そうこうしているうちに、ザバンと大きな水音が聞こえてきた。そろそろ上がってくるのかと身構え、とりあえず本を閉じていつでも動けるように腰を浮かせる。

 とりあえず着替えだ、樋口の着替えさえ終われば……!!

 背中で扉が開く。湯気と石けんの香りが脱衣所に押し寄せて、そして――


「――うわ奥村せんぱひにゃっ!?」

「っ!?」


 逃げられない距離から降ってきた非常に重たいものが、中腰になっていた俺を持っていた参考書ごと床に押し潰した。

 パジャマ代わりのTシャツにジワリと水分が染みこんでいく嫌な感覚と、それとは別の、暖かくて柔らかい何かが俺を全力で潰そうと背中にのしかかっている。

 ……鼻が潰されて地味に痛い……。

 樋口が思いっきり前のめりで俺に倒れていることに気付いたのは、鼻に特大の痛みを感じた数秒後のことだった。

「うわわっ!? お、奥村先輩大丈夫ですか!?」

「あ、あのなぁ、大丈夫なわけが……」

「うわーっ!! まだ起きないで振り向かないでちょっと待って!!」

 刹那、俺の視界がぼんやり暗くなる。どうやら頭に湿ったバスタオルが放り投げられたらしい。

「はっ!? 自分のバスタオルを投げてしまった……!! ど、どうしよう……えぇっと……あぁもうフェイスタオルでいいや!! 奥村先輩、そのまま動かないでくださいね!!」

「……」

 ……もう、どうでもいいや。

 かくして、彼女の身支度が整うまでの約5分間、俺は頭にバスタオルを被ったまま、床に転がっていたのだった。


「……先程は大変失礼をいたしました……」

 10分後、身支度を整えた樋口とリビングまで移動し、ダイニングテーブルに横並びで腰を下ろして……彼女が神妙な面持ちと低姿勢で、俺にスススと缶コーラを差し出す。

 俺はコーラをチラリと横目で確認して、これみよがしなため息をついた。

「……さっきはどうしてああなったんだ? のぼせたのか?」

「い、いえ、ドアを開けたら先輩が思ったよりも近くにいて……ビックリして足がもつれました」

 シュンと小さく肩をすくめる樋口は、俺の顔をマジマジと見つめ……手を伸ばす。

 思わずビクッと体が反応する俺に、樋口もまた、慌てて手を引っ込めた。

「あ、スイマセン……その、鼻が赤くなってて大丈夫かな、と、思って……」

「大丈夫だ。見た目ほど痛みはない」

「そうですか、良かった……じゃあ、これをグイッとどうぞ!!」

 そう言って樋口が缶コーラをあけ、俺に差し出す。

 とりあえず受け取って、一口流し込んだ。冷たい炭酸が喉を通りぬけ、火照った体を中心から冷やしていく。

 もう一口すすりつつ……サイダーを飲んでいる樋口が、チラチラとコチラの様子を伺っていることに気付いた。

「どうかしたのか?」

「い、いえ、先輩コーラで良かったかな、と、気になって。特に聞くこともなく渡しちゃったんで……」

「ありがとう、大丈夫だ。飲むか?」

「お、いいんですか? じゃあ……あたしのもどうぞっ」

 そう言って彼女は自分の飲み物と俺の飲み物を入れ替え、コーラに口をつけた。

 樋口はそういうことを気にしない奴だとこれまでの経験から把握していたので、俺も躊躇うことなくソーダを一口いただく。うん、これはこれで美味い。

 刹那、近くに置いていた俺のスマートフォンが振動した。何かと思って画面を確認すると、有坂からメッセージが届いている。何事かと警戒しつつ、それを開いてみて……。


『よう悠樹、香澄ちゃんとのドッキリハプニングはあったか? 香澄ちゃんも何だかんだいっても女の子だから、お前が至近距離で「俺がこのままずっと一緒にいてやるよ」とか言えばドキドキズッキュンで両思い間違いなしだぜ!! 俺ってマジで頼れるキューピットじゃね!?

っていうか……悠樹にその気がないなら俺が香澄ちゃんに本気でアピっちゃうからな、後悔すんなよー♪』


 俺は無言でスマートフォンの画面を暗くした。

 口をへの字に曲げている俺の顔を、コーラを差し戻した樋口が覗きこむ。

「あれ先輩、もしかしてさっきの、電話ですか?」

 彼女から缶を受け取った俺は、それを一口すすってから返答した。

「いいや、迷惑メールだった。放っておいていい」


 こうして、互いに雑に飲み物を交換しながら体の熱を取り、その後は当然……。

「さて……樋口、やるぞ」

「え? やるって……何をですか?」

 手元のスマートフォンは午後8時30分と表示している。立ち上がった俺を見上げる彼女に、俺は当然のごとくこう言い放つのだ。

「宿題だ。俺に全教科面倒を見て欲しいんだろう?」

「……」


 そうして、約3時間……俺達は真面目に勉強をした。


 普段は2階の自室で寝ている樋口だが、今日は俺もいるため、1階の和室に寝床を整えてくれた。

 ここは普段、雛菊さんが寝室として使っている部屋らしい。そんな雛菊さんは樋口の部屋で寝ることを告げ、2階へと消えていく。

「あ、先輩……申し訳ないですが、戸締まりの確認したいので、付いてきてもらえますか?」

 という申し出を断れるわけもなく、一緒に1階をぐるりと見て回って、窓や扉が施錠されていることを確認することに。

 そういえば……この家に入ってから、雛菊さん以外の大人の姿を見ていないのだが……。

「樋口、玄関にチェーンをつけていいのか? 誰か帰ってくるんじゃ……」

「あ、いいんです。今日は母さんが夜勤で、父さんは1泊2日の研修なので、夜は誰も帰ってきませんから」

 さも当然という口調で玄関を施錠した樋口が、「次行きますよー」と風呂場の方へ向かう。

「夜勤……お母さんは看護師だったか?」

「はい。母さんは看護師で、父さんは薬剤師なんです。2人とも、市立病院で働いてます」

「病院か、忙しい職場だな」

「そうですね、母さんは特に……あたしも手がかからくなったことで4年前に昇進して、余計忙しくしてます。まぁ、楽しそうだからいいんですけど」

 そう言って風呂場の窓を閉めた樋口が「あとはリビングなので、電気も消しに行きますよー」と俺を先導する。

「普段は父さんがいてくれることが多いんですけど、割と当直だったり、研修だったりするので……こうして、雛菊以外の人が家にいるのは変な気分ですけど、なんか楽しいですね」

 リビングの窓の鍵を確認した樋口が、俺に向けて照れたような笑みを向けた。


 ……雛菊さんが来る前まで、彼女は1人で夜を過ごすことがあったのか。

 ふと、そんな感想を抱いた。


「さて、戸締まりも終わりましたので……寝ますか。それとも枕投げしますか?」

 先日の合宿でも率先して投げていたが、どれだけ枕投げが好きなんだ樋口は……俺はジト目で彼女を見やり、釘を刺しておくことにした。

「枕投げは合宿で十分しただろうが。そんなに元気なら数学の続きするぞ?」

 俺の本気の目に、樋口は顔を引きつらせて首を横に振った。

「いっ、いえ、それはもう十分ですやめましょうそうしましょう!! 先輩……よくそんなに集中力が続きますよね……尊敬通り越してコワイです……」

「聞こえてるぞ樋口。褒めてないだろ、それ」

「そーんなことないですよ!? で、電気消しますからねーっ」

 俺のジト目を不自然に受け流し、樋口がリビングの電気を消す。

 廊下の明かりのみとなった1階は、薄暗さが際立って……少しだけ、肌寒さを感じた。


 ――『君』は、誰だ?

 俺は『誰か』に問いかけている。

 靄の向こうにいる『君』の顔がぼやけて、見えなくて……俺は必死に手を伸ばす。

 でも、届かない。


 ――行かないでくれ。

 そう強く思った。

 『君』は俺に背を向けたまま、透明な声で問いかける。


 ――『これ』は、誰?

 そんなの分かっている。

 普段通りに呼んだ名前、でも、『君』は首を横に振る。


 ――『これ』は、どっち?

 それも分かっている、だから、さっきから呼んでいるじゃないか。


 ――違う、そうじゃない。

 『君』は首を横に振る。

 どうして伝わらないのか、俺の焦りが嫌な汗になって、ボタボタと足元へ落ちていく。


 ――『これ』は、どっち?

 もう一度同じことを問いかけられ、俺は――



「……香澄……」



 久しぶりに、彼女の名前を呟いた。



「……い……せ……奥村先輩!!」

「っ!!」

 刹那、焦ったような樋口の声に意識が引き戻され、覚醒する。

 そして……体中を包む寝汗の湿っぽさに、自分でも驚いてしまった。

 和室の電気をつけて俺の顔を覗き込んでいた彼女が、目覚めた俺を確認して、ホッとした表情になる。

「良かった……大丈夫ですか? なんだか、ひどくうなされていて……というか、汗が凄いんですけど……」

 そう言って、自分が羽織っていたタオルケットを差し出す。俺はその申し出を辞退して、とりあえず上体を起こし、自分の手で額に触れてみた。

 指先にはっきりと汗の粒を感じる。この和室はクーラーもあるので、寝苦しくない温度設定で眠りについたはずなのに……自分の状態に一番驚いているのは、間違いなく俺だと思う。

「悪い……俺、何を……」

「いや、あたしにも分かりませんけど……でも、喉乾いたと思って何となく寝返りうったら、先輩が苦しそうだったので……」

「そうか……」

 確かに不可解でよく分からない夢を見ていたと思う。でも、それだけでこんなに汗をかくだろうか?

 もしかしたら、熱中症にでもかかってしまったのかもしれない。全身が重く、何をするにも気だるさが襲い掛かってくる。

 ぼんやりしている俺に、樋口がおずおずと話しかけてきた。

「あ、あの……あたし、何かしましたか?」

「? いいや、樋口は何もしていないが……どうかしたのか?」

「いえ、その……さっき、名前を呼ばれたので、ですね……」

 そう言って彼女は口ごもる。そうか、さっきの夢のあれは寝言だったのか……恥ずかしい。

「要領を得ない夢を見ていたらしい……俺もよく覚えていないから忘れてくれ。何か飲みに行くか?」

「そ、そうですね。あと、先輩も水分取ったほうがいいですよ。というか……着替えますか?」

 確かに、今の俺はパジャマ代わりのTシャツが若干変色する勢いで汗をかいてしまっている。

 とはいえ、予備なんて持ってきていないから……今夜はこれで耐え忍ぶしかない。

「すぐ乾くと思うから大丈夫だ。行くぞ」

 そう言って立ち上がろうとした瞬間――軽い目眩を感じ、その場に座り込んでしまった。

「奥村先輩!?」

 慌てて樋口が側に付いてくれる。正直……色々情けない。

「熱中症でしょうか……大丈夫ですか?」

「ああ、重ね重ね申し訳ない……」

「あたしがお茶を運べればいいのに……そうだ、例えば『颯』を使って――!!」

「――変なことを考えるな。行くぞ」

 樋口の物騒な企みを遮って、俺は改めて立ち上がる。

 若干、軸がぶれているというか、足元にふらつきを感じるが……熱があるわけではなさそうだ。

 俺の半歩前を歩く樋口が、時折心配そうな表情でこちらを伺いつつ……俺達は数時間ぶりにリビングへと移動する。


 2人して麦茶を飲んでいると……階段を降りてくる軽快な足音が聞こえた。

「……あら、悠樹さんに出ましたか……」

 リビングに顔を出したスウェット姿の雛菊さんが、俺を憐れむような眼差しで見つめる。

 空のコップをテーブルに置いた樋口が、雛菊さんに詰め寄ろうと数歩前へ進んで……当然、一定の場所から先に進めなくなった。

 せめて睨む眼光を鋭くして、樋口が雛菊さんに問いかける。

「雛菊、どういうこと? 何か知ってるの?」

「お二人がこうなった時にも言いましたよね、多少は体に変化があると。香澄さんはそうでもないみたいですが、悠樹さんの方が、力が暴れているといいますか……何だか色々不安定になってますね」

「ちょっ……それ、大丈夫なの!?」

「今のところ問題はありません。ただ、もうしばらく続くんじゃないかと思います」

「そんな……何とか出来ないの? こんなんじゃ、先輩が干からびちゃうよ!!」

 いや、そんなことはないと思う……と言いかけた俺を、雛菊さんはじぃっと凝視して。

「ふむふむ……香澄さん、悠樹さんの負担を軽減することに協力していただけるのですか?」

「出来ることがあるならやるよ!! だって、あんなに苦しそうで……隣で気になって眠れないし」

「分かりました。じゃあ……試しに、悠樹さんと握手してもらえますか?」

「あ、握手? 握手でいいの?」

 樋口が首をかしげつつ、俺の方へ戻ってくる。

 そして横に並び、右手を突き出した。俺は左手で彼女と普通に握手をする。

「――っ!?」

 次の瞬間……今まで重たかった体が少しだけ軽くなったような、体中にまとわりついている嫌な流れが少し変わったような、そんな感覚を感じ、思わず息を呑んだ。

 ただ、彼女と握手をしただけ、それだけで……こんなに違うものなのか、と。

「悠樹さん、いかがでしょうか?」

「何だか……さっきより楽になりました」

 俺の正直な呟きに、余計に混乱する樋口。

「握手しかしてませんよ!? 雛菊、どういうこと?」

「説明が若干面倒くさいんですけど……今、お二人はそれぞれの気力的なサムシングが絡まっていますよね。香澄さんが無神経なのか強いのか分かりませんが、悠樹さんの体はその負荷に耐えられず、香澄さんの気力を強制的に消そうとして、もっと強い力を放出してバランスを壊しているんです。汗がひどいのはそのせいですね。なので、手をつなぐことで香澄さん側の力を流し込んで、バランスを取っている……と、思ってください」

「雛菊の言い方は若干ムカつくけど……要するに、朝まで何とかこのままだったら、奥村先輩は大丈夫ってこと?」

「少なくとも今よりはマシになると思います。繋がる面積が大きければ大きいほど楽になると思いますので、悠樹さんが香澄さんを抱きまくらにでもしてもらうのが一番なんですけど……」

「抱きまくら……」

 本気で思案する彼女に、オイオイと釘を差しておこう。

「樋口、そこは真面目に考えなくていい。とにかく少し楽になったから、今のうちに寝てしまおうと思うんだ、協力してもらえるか?」

「あ、はい、分かりました……じゃあ、コップだけ片付けますね」

 どこか腑に落ちない表情の彼女だったが、俺に促されて空っぽのコップを手に取り、流し台へ向かおうとする。

 そんな背中に、雛菊さんがこんな提案をしてくれた。

「香澄さん、ここは私が片付けておきますので、悠樹さんを寝かせてあげてくださいな」

 刹那、コップを持ったまま振り向いた樋口が、これでもかというくらい目を見開いて驚いた。

「ひ、雛菊がそんなこと言うなんて……!! 何か変なものでも食べたの!?」

「食べさせたとすれば香澄さんなんですけど……私の食事に細工しましたか?」

「人聞きの悪い事言わないでよ!? でも……ありがと、お願いするね」

 そう言って、こちらに近づいてきた雛菊さんへコップを手渡すことに。

 すれ違いざまにそれを受け取った雛菊さんが流し前に立ったのを確認して、樋口が俺にアイコンタクトをおくる。

 俺は無言で首肯して、寝床にしている和室へ戻るため、重たい足を踏み出したのだった。


 さて、和室に戻って来たのはいい、の、だが……。

「樋口……?」

 俺の少し先を歩く彼女が、先程まで俺が寝ていた敷布団のシーツを剥ぎとったではないか。

 確かに汗でグシャグシャにしてしまったけれど……でも、予備はあるのか? 俺に寝るなって言いたいのか?

 シーツを丸めて部屋の隅に放り投げ、色々な疑問が浮かんでは消えていく俺のところへ戻って来た彼女が、ぶらりと垂れ下がっていた俺の右手を勢いよく掴む。

 そしてそのままグイグイ引っ張って……先ほどまで樋口が寝ていた敷布団の上に俺を座らせた。体に力がうまく入らないので、先程から彼女の思いのままだ。

 その場にへたり込む俺の前に腰を下ろした樋口が、俺を真剣に……でも、どこか気恥ずかしそうに見つめて。

「あ、あの……奥村先輩っ!!」

 よく通る声が、部屋の中に響く。

 何となく、彼女の言いたいことに察しはついていた。俺は一度息をつくと、握ってくれている手を強めに握り返す。

「俺はこれで十分だ。樋口が抱きまくらになる必要はないぞ」

 こう告げた瞬間、彼女が分かりやすく動揺する。

「へっ!? あ、いやーそのー……でも、奥村先輩がしんどい思いしてるの、あたしのせいですよね?」

 そして、何やら変なことを言い出したではないか。

 今回のことが樋口のせい? 俺、そんなこと言ったか……?

「樋口の……? いや、違うと思うぞ?」

 正直に答えたのだが、目の前の彼女は納得していない。

「でも、あたしの攻撃が先輩をかすめちゃったから……あの時も、本当は強い方の技を使うつもりだったんです。それなのに、直前で怖気づいたといいますか、失敗したらどうしようって、弱い方でも大丈夫だろうって思って、あんまり周囲とか考えずに技を使って……」

「だとしても、樋口が気に病む必要はない。むしろ、今のこの状態は、力のバランスが取れてない俺のせいだから……自業自得だ」

「だとしても――!!」

「――俺は大丈夫だから」

 更に言いかけた彼女の言葉を遮るように、俺は言葉をかぶせる。

「色々ありがとな。んで、俺の布団からシーツを剥がして……どうするつもりだ?」

「それは……ほら、あんな湿った状態は気持ち悪いですし……」

「今更気にならないよ。それに、俺が樋口の布団で一緒に寝るわけにもいかないだろう? 狭いし」

 務めて明るい口調を心がけたつもりだったが、彼女が俺を疑いしかない眼差しで見つめている。

 その頬は不服を訴えるようにふくれ、そして……。

「……あぁもうやっぱダメです!! 四の五の言わずに大人しく――!!」

「――っ!?」

 刹那、視界が急激に移動する。

 俺の手から離れた樋口の両手が、その次の瞬間には俺の両肩をいきなり突き飛ばして……なすすべなく布団に転がった俺の上に彼女が覆いかぶさる。俺の顔の横に両手をつき、文字通り俺を押し倒した樋口が、「どうだ」と言わんばかりのドヤ顔を向けた。

「本調子じゃない人は大人しくあたしに従ってくださいっ!!」

「……女の子がはしたないぞ、樋口」

「もうこの際なんとでも言ってください。前にも言いましたけど、あたしと奥村先輩は運命共同体、一蓮托生なんです。弱った先輩を助けることが出来るならあたしはそれをやるだけですし……立場が逆だったら、先輩も、同じことしてくれると思ってますから」

「……」

 真っ直ぐ見つめる彼女が眩しくて、思わず視線を横にそらしてしまった。

「それに……あんまり強がってる人には、お仕置きですっ!!」

「ぐふっ……!?」

 刹那、俺の腹部に尋常ではない重さが加わる。

 俺の腹の上に樋口が足を開いた状態で座っていることに気付くまでに、時間は全くかからなかった。

「ひ、ぐっ……重たっ……い……」

 慌てて腹筋に力を入れるが……重たいものは重たいのだ。特に今はただでさえ全身に力が入りづらいので、非常にしんどい。俺の反応を見た樋口が、不満そうに口をとがらせる。

「女の子相手に失礼ですよ、奥村先輩」

「事実だろうがっ……!! わ、分かった、樋口の……指示に従うから、どい、どいて……てくれっ……!!」

 容赦なく自分の全体重(多分)をかけて脅してくる樋口に白旗を上げた俺は、重さのなくなった腹部をわざとらしく手で擦った。

 そして、仁王立ちで俺を見下ろす彼女を見上げ、溜息をつく。

「……俺はどうすればいいですか、樋口香澄さん」

「じゃあ……真ん中は邪魔なんで右が左にずれてください。あ、枕はさっき先輩が使ってたやつを持ってきてくださいね」

 彼女の指示通り、隣の布団から先ほど使っていた枕を持ってきた俺は、樋口の布団にそれを2つ並べ、布団の右半分に内側を向いて転がった。

 しかし、すぐに枕の位置を直される。樋口の枕が俺の一段下に移動した。

「じゃあ、おっじゃましまーす」

 布団の左半分に同じく内向きで――俺と向かい合うように寝転がった彼女が、何の躊躇いもなく俺にくっついてくる。

 刹那、火照っていた体がすぅっと涼しくなったような……心地よい風が吹き抜けたような感覚を感じた。

 2人の腰部分を中心にタオルケットをかけた樋口が、ふぅ、と、安堵の息をついたのが分かる。頭の位置がずれている――俺の肩の位置にある――せいで、俺からは今の樋口の表情は見えないけれど、ほのかに香るシャンプーの香りにちょっとドキッとしてしまった。

 ……恥ずかしくないんだろうか、この状況。

「よく恥ずかしくないな、樋口……」

「こういうのは勢いが大事ですから。それに……医療行為みたいなものだと思えば、そんなに恥ずかしくないと思い込むことにしました」

 なるほど医療行為……そう思えば俺も気が楽になるかもしれない?

 ……そうでもなかった。

「……俺、汗臭いと思うぞ?」

「ご心配なく、先輩からは柔軟剤のいい匂いがしてますよ。でも、先輩が気になるなら……制汗剤でもかけときますか?」

「……いや、いい。今日はもう、動きたくないんだ……」

 雛菊さんの言うとおり、彼女と接する面積が大きくなったことで体がとても楽になって……徐々に眠気が襲ってきた。

「樋口……ありがとな。おかげで苦しまずに眠れそうだ……」

「それは良かったです。じゃあ、あたし頑張ったので……1つだけ、頼みごとをしてもいいですか?」

「頼みごと……? 宿題は自分でやらなきゃダメだぞ」

「分かってますよそんなこと!! そうじゃなくて、その……」

 彼女は一瞬口ごもった後……声のトーンを落として、ボソリとこんなことを呟く。

「その……今だけ、あたしのこと、下の名前で呼んでもらえませんか?」

 刹那、眠気が一気に吹っ飛んだ。それくらい予想外の頼みごとだったから。

「下の名前で……? 別に構わないけど、何かあったのか?」

「え、あ、いやその……さっき、寝言で呼ばれた時に何事かと思ったんですけど、なんか新鮮でいいかなーって……今の先輩なら弱ってるから、これくらい優しくしてくれるかなーって」

「……要約すると、普段の俺は優しくないと言いたいんだな」

「いっ、いえいえ、そんなことあるようでないですよ!! 奥村先輩はチョー優しいです!!」

「不自然きわまりない言い訳をするな。ったく……」

 やっぱり、彼女のことはよく分からないことが多いけれど。

 俺は左腕を彼女の肩から背中にかけて添えると、少しだけ力を入れて、自分の方へ引き寄せた。

「……本当、失礼で親切な後輩だな、香澄は」

 前よりも恥ずかしさは薄れている。この状況でこれ以上恥ずかしいことなんて、最早無いに等しいのだから。

 彼女を近くに感じて安心したのか、再び眠気に襲われる。瞼が重たくなって、意識がぼんやりしてきて……。

「……先輩……は……すね……」

 樋口の……もとい、香澄の呟きは最後まで聞こえなくて。

 俺の意識は、再び深く沈んでいった。


 次に気付いた時、カーテンの隙間からまぶしい光が漏れていた。

 ぼんやりした意識のまま、とりえずまぶたを開いて……視界の中に誰かの頭を見た。

 そういえば、腕の中に誰かがいる感覚がある。華奈が忍び込んできたのか? いや、そうじゃない、確か……。

「香澄……」

 思い当たる人物の名前をつぶやくと、意識と記憶がはっきりしてくる。

 そうだ、ここは樋口の家で、昨日、色々ありすぎて……。

 ここでようやく焦点が合う。見慣れない部屋と、安心できる温もり。遠くでセミが鳴いている音が聞こえ、俺が住んでいる地域とは違う、戸建ての多い住宅街特有の静けさというか……要するにうるさいのはセミだけだ。

 部屋の中はまだ朝の涼しさを残しているけれど、じきに暑くなるだろう。今日がどんな1日になるのか分からないけれど、今日の夜は自分の布団で眠りたいものだ。

 そう思いつつ視線を落とし、彼女のつむじを見つめる。

 結局、また……彼女に助けられてしまった。今度は俺が支えるつもりだったのに。

「んむ……むむ……?」

 刹那、腕の中の彼女がモゾモゾ動いて……頭も動く。見上げて俺を見つめる彼女の目は完全に寝ぼけていて、どこを見ているのかよく分からないくらいだ。

「あっれ……奥村、先輩……?」

「おはよう、ちゃんと眠れたか?」

「そりゃーこっちのセリフですよぉ……せんぱ……ふぁ……先輩こそ、具合はいかが……でふかぁ……?」

「俺は割と元気だぞ。香澄のおかげだ」

「ふあっ!?」

 刹那、彼女の意識が一気に覚醒して、俺をマジマジと見つめる。

「あ、あの先輩、今、あたしのこと……」

「香澄が名前で呼べって言ったんだぞ、俺もたまには優しいところを見せないとな」

「そ、それは確かにそうですけど……でも、それは昨日の夜だけじゃ……!!」

「そうだったか? じゃあ戻すよ、樋口」

 俺がしたり顔で呼び方を戻すと、彼女はどこか安心したような、でも、どこか残念そうな……形状しがたい微妙な表情をしていたが、すぐに口元を引き締めて体ごと上にモゾモゾと移動し、目線を俺と同じにする。

 普段以上の至近距離で見つめ、どこを見て良いのか分からなくなった。クリっとした瞳に長いまつげ、キメの細かい肌……さっきから何を観察してるんだ俺は。

 そんな俺の心情など察するわけもなく(むしろ察しないでくれ)、彼女が俺を笑顔で見つめる。

「やっぱり、いつもの呼び方がしっくり来ますね。と、いうわけで改めておはようございます、奥村先輩」

「おはよう」

「うん、顔色もそんなに悪くないみたいだし……でも、油断出来ませんよね。元に戻るまで何か違和感があったら教えて下さい。1人で無理しちゃダメですからね」

「分かったよ。俺、信用されてないな」

 彼女に伝わるように溜息をつくと、「当たり前じゃないですか」と言い返された。

「昨日のことがありますらかねー……念には念を入れないと。だって奥村先輩、すぐ1人で無理するじゃないですか。今一緒にいるのはあたしなんですから、あたしの目が黒いうちは無理させません!!」

「それは心強いな」

「当然です。いつまでも先輩に頼るばっかりじゃダメなんです……『干渉者』のあたし達は横並びの仲間なんですから」


 横並びの、仲間。

 彼女のその言葉に、思わずハッと息を呑んだ。

 確かにそうだ。学校では先輩後輩という間柄だけど、学校の外に出て剣を握れば、彼女は頼もしい『仲間』になる。

 あの、最初は怯えて尻込みしていた彼女が……今では特攻隊長なのだから、短い期間で本当によく頑張った。


 ……俺は、どうだろうか。

 俺は、彼女の風に追いつかれ、このまま、置いて行かれてしまうのでは?


「……奥村先輩、どうしましたか?」

 無言になった俺を、彼女が訝しげな眼差しで見つめている。

「いや、何でもない。樋口がたくましくなったことに驚いたんだ」

 半分本音の返事を返すと、彼女が俺に不服そうな表情を向ける。

「何ですかそれ、あたしだってちゃーんと成長してる(つもりな)んですから!! 先輩なんて、すぐに追い抜いて置いていきます!!」

 強気な口調でそう言った彼女が、俺を少し下から最至近距離で見上げ、不意に、口元に笑みを浮かべた。

「だから……ちゃんとついてきて、あたしが間違えそうになったら引っ張ってくださいね、奥村先輩」


 その顔は、普段見慣れていた彼女とは違う力強さと、どう言葉にすれば良いのか分からない不思議な魅力があって……思わず、見惚れてしまった。

 同時に、今の顔を誰にも見せたくないと――


「先輩、奥村せんぱーい?」

「っ!?」

「さっきからボーッとして……もしかして先輩、寝起き悪いんですか?」

 キョトンとした顔で俺を見つめる彼女から視線をさり気なくそらしつつ……ダメだ、益々真っ直ぐ見つめられなくなってきた。

「先輩、どうかしたんですか?」

「……何でもない。起きるぞ」

 そう言って俺は上体を起こす。そして、彼女に背を向けてわざとらしく背伸びなんかしてみた。

「どうせまだ、一緒じゃないと行動出来ないんですから、着替え取りに行くの付いてきてくださいね」

 背を向けた背後、彼女が体を起こす気配を感じながら……俺は、枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、メールを開く。

 昨日、有坂から届いたメールに返信をしていなかったから。用件は手短に、それだけで十分伝わるはずだ。


 樋口香澄。

 彼女のことは……やっぱりまだよく分からないけれど、でも、一つだけ分かってきたことがある。

 それは――


 メールの返信を終えた俺はスマホをズボンのポケットに入れて立ち上がり、彼女と――樋口と向かい合わせになって視線を交錯させた。

「あれ、先輩……どうかしたんですか? なんか、嬉しそうというか……笑ってません?」

「まぁ……これまで分からなかった問題の答えが分かったような気がした、かな」

「先輩でもそんなに考える問題があるんですか!? あたし、2年生の勉強ついていけるかな……」

 ガクリと肩を落として踵を返す樋口が、とりあえず部屋の外へ出ようと歩き始めて……。

「んぐっ!?」

 扉の直前で動けなくなる。そして振り向くと、恨みがましい目でコチラを見つめた。

「奥村先輩……ちゃんと起きて動いてくださいよ」

「ああ、悪い。今行くから」

「笑ってますね!? 誰のせいでこうなったと思ってるんですか!?」

 朝から元気な樋口に追いついた俺は、連れ立って部屋を出る。

 ポケットの中ではスマートフォンが元気に振動していたが……今はその着信に応じないことにした。


 最近、一つだけ分かってきたことがある。

 それは……俺が、樋口のことをどう思っているのか。

 先ほど送った有坂へのメールに、今の俺の思いを込めたつもりだ。



 『香澄は渡さない』

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