【外伝2・東原絢芽編】夜明け直後に貴方と2人で
1人で何とかなると思っていたし、実際、何とかするつもりだった。
世界は『監督者』によって監視され、『堕落者』と呼ばれる存在を知らない『繁栄者』は己の無力を知らずに世界を動かし、壊し……堕ちていく。
そんな世界の理を、私の一族は少しだけ垣間見ていて――『干渉』する力を持っていた。
「絢芽ちゃん、今からお母さんがお話することはね……家の外では絶対に、誰にも言ってはいけないことなのよ」
具体的な年齢は覚えていないけど、多分、幼稚園にいた頃。お母さんの真剣な表情と、雛菊さんという存在によって、幼い私でも母の話がお伽話ではないことを悟る。最初に聞いた時は、よくあるような架空の物語だと思っていたけれど……実際に雛菊さんが『堕落者』を討伐する姿を見たり、お母さんが『雫』を持っている姿を間に当たりにすれば、決して絵空事ではない現実だと受け入れるしかなかった。
でも、私の非日常は家の中だけだったのだ。ひとたび、門の外に出れば――家の外に出てしまえば、そこには普通の日常しか広がっていない。同年代の友人、先生、習い事の先生……全てが普通で、私にとって安心出来る日常だった。
それが一変したのは、私が中学を卒業した今年の3月、桜が舞う春休み。いつもは笑顔の雛菊さんが神妙な面持ちで、私が訓練に使っている東原家敷地内の道場に尋ねてきた。
そして、私の運命を決める一言を告げる。
「絢芽さん……申し訳ありませんが、『雫』と共に戦っていただくことになりました」
覚悟していなかったわけではない。でも、心の何処かで「そんなことはない」と思っていた。
まさか、私の世代が再び武器を取ることになるなんて……思っていなかったのだ。
「……ふぁ……」
体内時計はいつでも正確だ。普段と同じ時間――午前5時45分に目を開き、あくびと共に体内の空気を入れ替え、体を起こす。
刹那、身震いをして両手で体を抱えた。山の中特有の空気は体を起こすのに最適だが、今が夏だということを忘れさせるくらい……冷たい。
一瞬、自分がどこにいるのかを忘れそうになったけれど……周囲を見渡し、嫌でも思い出す。
ここは、毎年私がお世話になっている久那市郊外の山中にある個人所有のペンションだ。いつもは私1人、もしくは雛菊さんが同行なのだけど、今年はやたら人数が多くて、そして……。
「――お、絢芽ちゃん早いね、おっはよー」
「っ!?」
真後ろから唐突に声をかけられ、肩をすくめて振り向くと……着替えを終えた彼――有坂さんが軽快な足取りで階段を下りてきたところだった。
全身をスポーツブランドの黒いジャージに身を包み、紺色のパジャマ姿で寝起きの私をニヤニヤしながら見つめている。
正直、彼は……苦手だ。これまで私の周囲にはいなかったタイプというか、意図的に関わりを避けてきたタイプというか……同じ使命がなければ話すこともない、そんな感じの。
しかも今の私は寝起きなので機嫌も良くない。だからこそ、余計にトゲトゲした態度で接してしまう。
「……何ですか? 言いたいことがあるならはっきり仰ってください、気分が悪いですわ」
「いやいや、眼鏡もかけていない絢芽ちゃんの寝起きなんてレアだなーと思ってさ。隙だらけなんじゃない?」
「隙だらけかどうか……試してみますか?」
油断していたことは事実だし、寝起きは悪くない方だと自負しているけれど、朝からこんなことを言われると些細な事でもイラッとしてしまう。ついつい裸眼のまま彼を睨むと、はっきり見えないけど……苦笑いを浮かべた有坂さんが「いや、それはマジで勘弁して……」と言いながら両手を振りつつ、そのまま横歩きで玄関の方へ向かっていく。
この部屋と玄関は廊下なしで繋がっているため、彼は数歩で出口へとたどり着いた。そして、作り付けの靴箱に手を入れ、自分の靴を一段下がった土間に置く。どうやら、外に出ていこうとしているらしい。
私は枕元に置いていた眼鏡をかけると、クリアになった視界で改めて有坂さんを見つめ、尋ねる。
「有坂さん……こんな時間からどちらへ?」
正直、まだ眠っていても誰も咎めない時間だ。しかも、彼はこの時間に無理をして起きているのではなさそうで……毎日この時間は既に体を動かしている、私と同じ慣れを感じる。
彼は靴を履くため私に背を向けて、言葉を返した。
「ちょっとひとっ走りしてこようかな、と、思ってさ。この時間はいつもバイトしてるから、体を動かさないとなまっちゃうんだよねー」
「バイト、ですか……?」
「そ、新聞配達をね。おかげで授業中眠いったらありゃしないぜ……」
そう言って、肩越しに振り向いた彼は笑顔を浮かべた。そう、彼はいつも笑っている、こんな非日常に身をおいても、どれだけ私から蔑まれても……苦笑いだったり、嘲笑だったりすることもあるけれど、笑っているから。
どうしてだろう。
どうして、彼は……こんなに笑っていられるのだろうか?
少しだけ、ほんの少しだけど、気になってしまった。
「……有坂さん、私も準備を致しますので、少しお時間をいただけますか?」
「へ?」
刹那、靴を履いて立ち上がった彼が瞬時に振り向いて私を見た。
私は彼を真っ直ぐに見据え、もう一度、同じ内容を繰り返す。
「ですので、私もランニングにご一緒します。土地勘がない方を1人にして何かあったら大変ですもの」
「へぁっ!? あ、絢芽ちゃんが俺と!?」
彼が大声を出した瞬間、『まだ寝ている2人』が布団の中で身動ぎしたので慌てて制する私。
それは、彼が恐らく私に初めて見せた……心から驚いた表情だった。
10分後、着替えと軽い洗顔を済ませた私は、一旦靴を抜ぎ、室内でストレッチをしていた彼の元へ合流する。
朝のランニングはいつも通り、ポニーテールにノンブランドのジャージ、顔はノーメイクだし、足元は履きなれているけど故にくたびれたスニーカーという出で立ちになるので、あまり他人には――特に私を知っている人には――見せたくなかったのだけど……。
腕時計で時間を確認した。時刻は間もなく6時になる。では出発を……と、言いかけた私を遮るように、有坂さんが部屋の『ある場所』へと移動を始めるではないか。
「有坂さん……?」
このペンションは吹き抜けの木造2階建てになっており、1階はリビングとキッチン、お風呂やトイレなどの水回りが集まっており、2階に2部屋のゲストルームがある。
普通ならば2階のゲストルームで寝るし、実際、そのつもりだったのだけど……私達の布団が敷き詰められたのは、1階のリビング。しかも、ご丁寧に家具は全て部屋の隅へ追いやられ、誰の手を煩わせることもなく……『彼女』は――香澄さんはあっという間にこの環境を作り上げたのだ。
そんな香澄さんが眠っているのは、この部屋の中央部に敷いてある布団の中。有坂さんはまだ布団が膨らむ枕元まで移動して……そこに寝ている人物を、それはもう楽しそうな笑顔で見下ろしている。
「あの、有坂さん?」
玄関前で怪訝な顔をする私を彼が手招きした。
行かないのか、と、表情で訴える私を、彼は自分の方へ来るよう手を動かす。
「まぁまぁ絢芽ちゃん、俺達が勝手に出て行くと残った2人が心配するよね? 一応、声をかけておこうと思ってさ」
「ですが、香澄さんも奥村さんも、まだ眠っていらっしゃるのでは? メールでも送っておけば……」
「それはどうかなー? いいから来てみなって」
「……?」
先程から彼の行動の意図が分からないまま、とりあえず彼に従って私も移動してみると……。
「――あら、奥村さん、おはようございます」
眠っていると思っていた彼――奥村さんは既に起きていて……私達が起こしてしまったのかもしれないが、困った表情でコチラを見上げていた。
私の姿を見つけた彼が、すがるような眼差しでこんなことを言う。
「……東原、頼むから樋口を引き剥がしてくれないか?」
「香澄さんですか? 一体何が……あらまぁ……」
奥村さんの視線が、彼の左下に移る。その視線の先には、どうしてなのか……彼がパジャマにしている半袖シャツの袖口をギュッと握りしめ、気持ちよさそうに眠っている香澄さんの横顔があった。
どこをどうすればこんな体勢のままで平然と眠れるのか、彼女の心情を私が推し量ることは一生出来そうにないけれど……ここで起こしてしまってよいものか、と、迷いが生じる。
「……正直、分かんないんだ。『干渉者』になってから、奥村先輩と一緒にいる時間が増えたこともあるし、この間の……プールのことがあって、あたしから忘れよう、今まで通りでって提案したんだけど、正直、難しかったと思う」
「あの時、亜澄と初めて直接戦ってみて、あたしがやるべきことを再確認したの。あたしは、亜澄を止める。『確定事項』とかいうものに縛られている亜澄を、開放してみせるって」
「まぁ、そういうことになるかな。正直、亜澄は強いよ。あたしの気持ちに迷いがあったら絶対に勝てない。でも、負けるわけにいかないって思ったら……奥村先輩と、前と同じように接することが出来た。だから、良かったなー……って」
昨日、買い出しの帰り道で話してくれた香澄さんの横顔は、嘘を付いているように見えなかった。けれど……そう思わなければいけないという義務感を感じてしまったのも事実だ。
そう、それは、私が最近取り払いかけている意識。戦わなければならないけれど、それと同じくらいに青春を謳歌しても構わないじゃないか――そう言って私を楽にしてくれた彼女が、今度は戦いへの義務感を言い聞かせることで自分を納得させ、確かに存在している別の感情に蓋をしているように思えたのだ。
「奥村先輩は真剣に考えて、恥を忍んで聞いただけだよ。椎葉だって聞いてたでしょ? 最近、知り合いから立て続けに告白されたことで、自分の身の振り方に悩んでるって」
「そりゃあ聞いてたけどよ、でも……」
「ハイハイ、この話はもうオシマイ! 当事者同士が納得してるんだから、これ以上掘り下げても何も出てこないよ。ですよね、先輩?」
「……俺の言い方は、やはり色々な誤解を招くようだな。以後気をつけようと思う。樋口、すまなかった」
「気にしないでください。全ては……茶化してひっかき回そうとした椎葉が悪いんです」
そして、昨日の夜の出来事が頭をかすめる。そして……この2人は本当にどうしてこんなに面倒なのだろうか、と、笑いにならないため息をついてしまった。
「東原……?」
助けてくれると思っていた私の表情が渋いことに気づいた奥村さんの顔が、心なしか引きつっているのが分かる。
私は一度呼吸を整えてから、外向きに使っている綺麗な笑顔を作って、彼を見下ろした。
「昨日の香澄さんは7時に起こすようにと言っていましたわ。今はまだ6時ですので、少々早すぎます」
「いや、それとこれとは別問題で、とりあえずこの現状をだな……」
「あら、その程度ご自分で何とかなさってはいかがですの? 端から見ると恋人が……えっと、何でしたかしら……いちゃ、いちゃ……イチャモンをつける?」
慣れない言葉は使い方が正しいのか分からない。そんな私に助け舟を出してくれるのは有坂さん。
「いやいや絢芽ちゃん、そこは『イチャついている』が大正解だし俺もそう思うぜ!!」
「そうそう、それですわ。とにかく、私達はこれから1時間ほど外を走って来ますので……どうぞごゆっくりお休み下さいませ。では有坂さん、参りましょうか」
「アイアイサー」
「ちょっ……東原!? 有坂!!」
焦りしかない奥村さんの声が私達を引きとめようとするが、私はもう立ち止まることはない。
私の後ろに続く有坂さんは、肩越しにチラリと彼を見下ろして……。
「あのなぁ悠樹……特に昨日からのお前、香澄ちゃんに気があるようにしか思えねぇんだよ。その気がないならさっさと振りほどかないと、香澄ちゃんにこれ以上いらぬ期待をさせるのは可哀想じゃね? お前のそういう態度が、女の子を誤解させてんじゃねぇのか?」
その顔は苦笑いを浮かべているけれど、声には奥村さんへの苛立ちを感じた。
しかし、彼の言い分は私も同意出来るので、特に諌めることはしないでおこう。
奥村さんは言い返さず、決まりが悪そうに視線をそらす。
「俺は忠告したからな。じゃ、絢芽ちゃんと楽しいロードワークに行ってくるぜ」
こうして、私達は靄の残る外へと出て行くのだった。
山の中を闇雲に走り回るよりも、整備された道路を走ったほうが安全だし、走ることだけに集中出来る。
と、いうわけで……本日のランニングコースは、ペンションからふもとまで降りて、自動販売機で飲み物を購入し、再びペンションまで戻る、という、非常にシンプルなコースにした。
ふもとの自動販売機までは片道約3キロ、合計6キロ走ることになるが、まぁ、途中で休憩を挟むから大丈夫だろう……。
……そう、思っていたのに。
「全く……情けないですわね」
時刻は午前6時20分を過ぎたところ。山を下ってきた私達は、予定通りふもとの自動販売機で飲み物を購入。その場で水分を補給してから、来た道を戻る山登りを開始した。
ところが……開始2分で有坂さんがギブアップ。今は道の途中で立ち止まり、一休みをしているところだ。
自分の足で走ってみると予想以上に傾斜を感じる坂道は、まだまだ先まで続いている。緩やかなカーブが連続しているため、あとどれくらい走れば良いのか……ゴールは見えない。
元々車の通りも少ない道ではあるし、こんな早朝に私達以外の人影は見当たらず。周囲を覆うように木々の枝葉が伸びているので、日中は日陰になって涼しいけれど……今は、朝日が薄く差し込む程度で、動いていなければ肌寒ささえ感じる。
有坂さんはカーブにそって設置されているガードレールにもたれかかりつつ、両肩を上下に動かして、荒くなった呼吸を整えた。
「あっ……あや、あや……めっちゃ……ん、は、ど……」
「はい? もう少し落ち着いて喋ってくださいませ。聞き取れませんわよ」
彼の斜め前に立って腕を組み、ジト目を向けると……彼は顔を上げて苦笑いを浮かべ、私を見つめる。
「……ご、ゴメン。それに、しても……絢芽ちゃんは、日頃どんな訓練をすれば、そ、そんな平然として、いられるのかな……俺、体力には自信があったんだぜ……」
「そうですわね……起きたら、朝食前に5キロのランニングと、瞑想と……」
普段のスケジュールを何となく口に出すと、彼が驚いた表情になった。
「5キロ!? 毎日!?」
「天候に左右されることもありますが……ほぼ毎日です。そういう有坂さんも、新聞配達をしていらっしゃるのでしょう?」
「いやー俺は自転車だから……それに最近はちょっと向こうもゴタついててねー、あんまり体を動かせてないんだよ」
そう言って、彼は額の汗を首にかけたタオルで拭い、ため息ひとつ。
彼が口にした向こうという言葉、それが指す意味は……。
「向こう、とは……『灰猫』ですか?」
「そ。やっぱり夏休みって、普段静かな奴らが牙をむこうとするんだよね。ちょっと今、色々準備をしててさー……ま、上手くやってみせるけど」
口元にニヤリと笑みを浮かべる有坂さん。
……まただ。どうして彼は、自分が今、辛い状況下にいるというのに……。
「有坂さん……1つ、伺ってもよろしいですか?」
「へい?」
「その……失礼かもしれませんが、どうして笑っていられるのですか?」
私の質問に、彼が真顔になって首を傾げる。
「俺が笑ってる、理由?」
「ええ。少なくとも今は過酷な環境下で、まだこれからランニングは残っています。開き直ったとしても、あまり笑えるような状況ではないように思えました。それに……」
それに……特に最近、目につくようになっていた。
有坂さんは『干渉者』としての使命を楽しんでいる気がする。得体のしれない『堕落者』と剣を交え、不可思議で強大な力を操ることを求められ……下手をすれば死んでしまうかもしれない、そんな状況下であっても、彼は普段と変わることなく笑顔で事をなし終えていく。
香澄さんは論外、奥村さんも落ち着いてはいるけれど、そこに笑顔はないのだ。勿論私も気を引き締めているので、自然と顔は険しくなってしまう。
でも、彼は……違う。
「有坂さんは……その、『堕落者』と戦う時も、よく、笑っていらっしゃるように思えて……」
どうしてだろう。
どうして、彼は……笑っていられるのだろうか?
少しだけ、ほんの少しだけど、気になってしまったから。
私の言葉に彼は少し驚きつつ、決まりが悪そうに後ろ手で頭をかいた。
「要するに俺って……その、絢芽ちゃん的には不謹慎ってことかな。確かによく締りがないとか言われるけどさー……」
「い、いえ、決してそういうわけではなくて……!!」
私は慌てて訂正する。今の私は、決して、いつものように彼の態度を非難したいわけではないのだから。
「その……考えても分かりませんでしたの。私は幼い頃から『雫』と接してきて、この剣をとって戦う時は自分の命をかけるものだと……そう、教わって……」
自分で言いかけて口ごもる。果たして私は、そういう教えを受けてきただろうか?
頭のなかで少し整理して……一度、ため息を付いた。そして、ぽかんとした表情で私を見つめている彼に、今度は私が苦笑いを返す。
「……訂正します、違いましたわ。私はそう、思い込んでいたんですの。私が『雫』を使うときは、絶対に失敗してはいけない。私の失敗が最悪、世界の破滅に繋がってしまうかもしれない……そう思って、緊張が途切れないようにしてきたつもりですから」
『雫』という、人外の力を引き出す刃。
雛菊さんという、人外の存在。
そして……それをずっと守り、今に伝えてきた、東原という底の知れない我が一族。
「ですが、香澄さんや有坂さんを見ていると……私との意識の違いを感じます。戸惑いも大きかったですが、最近は慣れてきて……私にも余裕が出てきたからだと思うのですけど、気になってしまうんです」
そう、最初は特に2人の存在と戦い方に戸惑いしかなかった。
状況を素早く理解して一歩引いたところからの立ち回りをする有坂さんは、遊んでいるかのように感じることもある。逆に状況を理解するより先に体が動く香澄さんは、予測不能なので非常に厄介だ。そう、あまりにも私とは違いすぎて、どうすればいいのか……本気で、雛菊さんに相談したこともある。
その時彼女に、こんなことを言われたのだ。
「絢芽さん、頭で少し考えすぎではないですかー? 確かに絢芽さんが対処しづらいのは分かりますし、あの2人は特殊だと思いますけど……ここはもう、しょうがないと思って諦めて頑張りましょう!!」
今、改めて思い返してみても、特にアドバイスにはなっていないのだけど……先日も少し頭で考えすぎて、奥村さんに話を聞いてもらったばかりだ。
だから私も、少しだけ、頭で考え過ぎないように気をつけた結果……周囲が少し、違う見え方をするようになった。
そして、表情をパッパと変えつつ、最後はいつも笑っている有坂さんに、気がついたのだ。
「有坂さん……『壇』を持って戦うことは、怖くないのですか?」
刹那、私達の間をひんやりした風が通り抜けていく。
そして……私の言葉を全て聞いてくれた有坂さんは、迷うことなく首を横に振った。
「怖くないわけないじゃん。すっげー怖いし、内心ではビビりまくってるよ、俺」
「そうなのですか……?」
「そ。俺はビビリでチキンで小心者なんだけどさ……でも、それ以上に現状が楽しいんだと思う」
「楽しい……」
それは、私にとって意外な答えだった。
戦いと表裏一体の現実を楽しいと言ってのけた彼は、その理由をどこか自嘲気味に教えてくれる。
「前に少し話したと思うけど、俺の実の親ってろくでもない人間でさ。邪魔になった俺を養護施設の前に棄てたんだ。まぁ、その施設で司や慎吾に会ったんだけど……でもやっぱり、俺の普通は普通じゃないんだって思ってた。家族で食事したり、旅行に行ったり……家族が揃って1つの家にいる、そういう普通の生活は出来ないんだって思ったら、急に開き直れたんだ」
それは、少し前に聞いた彼の過去にまつわるお話。
有坂さんは、私が思っている以上に、波乱万丈な人生を送ってきている。
大人に振り回され、不条理な現実に飲み込まれそうになりながら……歯を食いしばり、すんでのところで耐えてきたのだろう。
本物の修羅場をくぐり抜けた人間は、本当に強い。だからこそ、開き直る強さを持っているのだと私は思う。
決して口に出さない考察を進めている私に向けて、有坂さんは言葉を続けた。
「こうなったらとことん普通じゃないことをやってやろうって。人より多く普通じゃないことをやって、俺の人生は凄いんだぞー……って、自分に思わせたかったんだと思う」
「……普通じゃないことを、人より多く……」
「中学に上がって、今のじいちゃんとばあちゃんの家に引き取ってもらって……自分の小遣いくらいは稼ぎたくて新聞配達を始めたし、受験勉強そっちのけで『灰猫』の改革もやった。んで、高校生になった途端に『干渉者』だろ? 普通じゃないことが自分から来てくれたんだ、ワクワクして笑いが止まらなくなるってもんよ」
「……そうでしょうか」
私は自分が眉をひそめていることに気付いていた。それくらい、彼の思考は突拍子で、聞く分には面白いけれど……正直、同意しかねるというか、理解には苦しむというか。
彼の強さは認めたいけれど、その強さが見つけた彼の進む道は……やっぱり、私には分からないようだ。
私のそんな感想は有坂さんも気付いていて、苦笑いになりつつ、言葉を続けてくれる。
「絢芽ちゃんには多分理解出来ないと思うけど、要するに俺は、『壇』と一緒に戦えて楽しいし、俺に人とは違う経験をさせてくれたことを感謝さえしてるんだ。勿論、戦う時は本気でやってるぜ。でもこれは、俺が望んでいたことだから……だから基本的に笑っていられるんだと思う」
そう言って、彼は満面の笑みで笑う。
その笑顔に裏表はなく、本当に、今の現状を楽しんでいるように感じたから。
「……結局、私には理解出来ない世界と価値観で生きていらっしゃるということが分かりましたわ」
今度は私が苦笑いで肩をすくめた。そんな私をすっかり復活した彼が、意味ありげな笑みを浮かべて覗き込み。
「俺のこと……もっと、知りたい?」
こんなことを言うものだから、私は顔を能面にして返答するしかない。
「いいえもう十分ですわ。お構い無く、むしろ構わないでください」
次の瞬間、彼の顔に焦りが加わる。
「えー!? 何だよ絢芽ちゃん、もっと俺に興味を持ってくれていいんだぜ!?」
「この数分で一生分の興味を使いたはしましたわ。さて……それだけ喋れるということはもう大丈夫ですわね。ここからは休憩ナシです、遅いようならば置いていきますわよ」
そう言い残し、私は再スタートをきった。もう十分すぎるほど休憩したし、早く戻らないと、香澄さんたちに迷惑をかけてしまうかもしれないから。
「あ、ちょっ……待ってよ絢芽ちゃん!!」
慌てて追いかける彼の声を聞きながら……私は改めて、有坂椎葉という人物像を整理していた。
不幸という言葉では語れない経験をしながら、良い意味で開き直り、今は自分から非日常を求めているという……ちょっと、いや、大分変わっている男性。
「……分からないことが分かって、スッキリしましたわね」
そういうことだ。要するに……私と彼は相容れない。私はきっと、彼の気持ちを理解することは出来ないだろう。そもそも、彼の非日常が私にとっては日常だったのだから。
でも、そうやって色々と違う私達だからこそ……戦いの幅も広がるし、今後は彼に触発されて、人間的な幅も広がる、かもしれない?
……後者には過度な期待をしないことにして、私は残りの山道を淡々と進むのだった。