風が導くオンリーアンサー
あたしが『颯』の切っ先を亜澄に向けた瞬間、世界が一瞬だけ、静寂に包まれる。
そして感じるのは、慣れた場所にやってきた安心感。
それは、つまり――
「雛菊……!」
背後にいた稲月先輩の気配が完全に消えたのが分かった。そう、待っていた雛菊の『境界』が設定されたことを感じて、思わず口元をゆるめてしまう。
あたしのその態度が、亜澄の神経を逆なでしていくことなど……気づかないままで。
亜澄は『暦』の切っ先を地面に下ろすと、左足を後ろに引いて、少し、腰を落とした。
鋭い両目は、あたしをしっかり見据えたまま。
「あのさぁ香澄ちゃん、雛菊さんが『境界』を設定したからって、勝ったなんて思わないでね。雛菊さんはこの土地の『守護巫女』だから、影響力やバランスを考えて、あまり偏った『境界』を設定出来ないの。この間の蓮華みたいなことは出来ないんだから、亜澄と香澄ちゃんは互角の状況なんだよ」
その言葉を聞きながら、あたしも『颯』を正眼の位置に構えて、一度、深呼吸をした。
先ほど緩んだ口元を引き締める。そう、これは……ゲームでもお遊びでもないんだ。
だからこそ、玉砕してでも本気でぶつかっていかないと、亜澄は納得してくれないだろう。
それが、あたしが今まで避け続けたことに対する大きなツケならば、清算しなくちゃいけないよね。
あたしが、亜澄と一緒に前へ進むために。
『颯』を握る手に力を込めて、あたしはこう、言い返す。
「それでもいいよ。これで、稲月先輩を巻き込まずに済む。正々堂々、亜澄と……本気で喧嘩出来るんだからねっ!!」
刹那、二人同時にアスファルトを蹴って走りだしていた。
亜澄が『暦』を下から振り上げてあたしの脇腹周辺を狙う。しかしあたしも同時に『颯』を振り下ろして『暦』を受け止めると、そのまま力を解放する!
「――踊れ、颯!!」
「――紡げ、暦!!」
風が吹き荒れるため思って足を踏ん張った次の瞬間――確かに巻き起こったはずの風が一瞬で消え失せた。
そう、消えてしまったんだ。まるで、最初から何もなかったみたいに。
「このっ……!」
何が起こったのか分からないことが一番怖い。下から突き上げようとする『暦』を何とか受け流して、今度はあたしが彼女から距離を取っていた。
亜澄が力を使っているところを、初めて見たかもしれない。しかも、これだけじゃないかもしれないんだよね……あたしがまだ到達できていないレベルに達している可能性があるんだから、益々油断ならない。
そんな動揺を悟られたくはなかったのだけど、亜澄は『暦』を振り上げたまま、あたしをニヤニヤした視線で見つめる。
「香澄ちゃんの前では初めて使ったかな? 亜澄の力は、『暦』で触れたものの時間を戻すことが出来るの。だからさっきは、『颯』が術を使う前の状態に戻したってこと」
「時間を……戻す……」
術が発動する前まで戻した、ってことは……あたしの攻撃、下手したら亜澄に届かないんじゃないか? 届くまでに無効化されてしまう可能性が高い。
加えて、あたしの左足もまだ完璧な状態とは言いがたい。戦いが長引いて不利になるのはどう考えてもあたしの方だ。
と、なると……あの厄介な『暦』さえ、亜澄の手から離れてしまえば……!
あたしは『暦』をチラリと確認して、再び、亜澄に向き直る。
「術を無効化、って……そんな反則みたいなことされるの、困るんだけど」
「亜澄はちっとも困らないから安心してね。折角だから教えてあげる、さっきの術だと、せいぜい数十秒前くらいしか戻せないんだけど……」
笑顔の亜澄は、頭上に振り上げた『暦』をグルグル動かしながら、心底楽しそうに言葉を続けた。
「覚醒した力を使えば……亜澄が自由に、亜澄の好きな時間に戻すことが出来るんだ。さっき、絢芽ちゃんで試してみたけど、成功したよ。自分がどうして久那高校に入るのか分かってないみたいだったし。あのポカーンってした顔、面白かったなー」
「あんたねぇ……!」
「ま、さすがに『堕落者』を植え付けることは出来なかったけどさ。うーん残念、是非、絢芽ちゃんで実験してみたかったなー」
「――っ!!」
刹那、頭に血が登ったあたしは、感情のままに亜澄へ突っ込んでいた。
――がぎんっ!!
振り下ろした『颯』を『暦』で正面から受け止める亜澄は、激高するあたしをあざ笑うようにこう言う。
「香澄ちゃんだけ、覚醒してないんだよね。そんな状態で亜澄に勝てると思ってるわけ? 悠樹くんに助けを求めなくていいのかなー?」
「うるっ……さい! 先輩の手を煩わせるまでもないわよ!」
「じゃあ、勝ってみてよ! 一度も亜澄に勝てたことなんかないくせにっ!!」
中央で力は拮抗していたのだが、『暦』が『颯』を押し戻し、あたしが防戦になる。
白くて細い腕からは信じられないほどの力に、あたしは踏ん張る両足に力を入れた。
「ぐっ……!」
左足の違和感だけではなく、『颯』を握る両手にかすかな痺れを感じる。でもダメだ、ここで押し切られると――負ける!
「――滾れ、焔!!」
次の瞬間、炎の渦が亜澄の背後を狙い、亜澄が横に飛び退いてそれを回避する。
あくまでも牽制目的の攻撃なので、威力は弱い。弱いんだろうけど……。
「おっ踊れ、颯!」
咄嗟にあたしも『颯』を使って風を起こし、攻撃の軌道を変えて避けきることは出来ましたけど……正直、地味に熱いですし驚きが半端ないのでそういうことやめて欲しいです、奥村先輩。
渡り廊下の方から走ってきた奥村先輩は、あたしと亜澄の姿を確認して、目つきを険しくした。
亜澄は今、あたしと奥村先輩から挟まれたような位置にいるんだけど……特に動揺する様子はない、むしろ非常にご機嫌、楽しそう。
「悠樹くん、来たんだ。絢芽ちゃんは放っておいていいの?」
そう言いながらくるりと体を翻し、先輩と向き合う姿勢になる亜澄。
「東原は有坂と雛菊さんに任せてある。学内に詳しい俺が代表して来たわけだが……」
先輩の目線が、『暦』に向けられた。
「正直、君があの東原を負かしてココにくるとは思ってなかった。実力を過小評価していたみたいだ」
「それはどーも、上書き訂正しておいてね。で、何? 亜澄は今、香澄ちゃんに用事があるんだけどなー」
「この学内での揉め事は、俺を通して貰わないと困る。一応、生徒会長なんでな」
「ナニソレ、今は関係ないじゃん」
楽しそうに会話する亜澄だが、先輩がじわじわ距離を縮めていることには気づいているので、『暦』を下ろすようなことはしない。
そしてあたしもまた、亜澄の手から『暦』を叩き落とす機会を伺っていた。亜澄が先輩との会話を楽しんでいるのなら、今のうちに何とかしたい。
でも――どうしたものだろうか。あたしの位置から亜澄までは10メートルほど。遠くはないけど近くもない、あたしがこの場所から攻撃を仕掛ければ打ち消されるし、近づいても打ち消されるし……。
現に今、亜澄はあたしに背を向けていた。それは、あたしが奇襲を仕掛けても対応できる、そういう余裕の現れだと思っている。
可能であれば、亜澄がもっと隙を見せてくれて、その間に風の早さを活かして、亜澄の手から『暦』を叩き落とすこととか、出来ればいいんだけど……。
いや、そもそも風と時ってどっちが早いんだ? 目に見えない時間という概念を、どう攻略すればいいのだろうか。そもそも攻撃出来るのか? 下手をすれば向こうのほうが早いし、亜澄もあたしの行動パターンなんてある程度予測しているだろう。その上での余裕なんだと思うし。
彼女にはまだ、切り札がある。それを使わせたらあたしたちの負けだ。彼女が切り札を切る前に決着をつけなくちゃ。そのためには……!
――そんなこと、出来るの?
あたしがあたしに問いかける。
その問いかけに、あたしは、こう答えるしかないんだ。
そんなのやってみなくちゃ分かんないし、四の五の言わずやるしかない、って。
「――亜澄!!」
刹那、あたしは彼女の名前を大声で叫ぶ。
奥村先輩と向き合ってあたしに背を向けていた亜澄が、肩越しにチラリと振り返った。
見える表情には、明らかな不機嫌。折角先輩と楽しくおしゃべりしてたのに邪魔しないで、そう言いたそうに頬を膨らませている。
「何? そんなに大声出さなくても聞こえるよ」
「亜澄……さっき、あたしに聞いたよね? 奥村先輩のことを好きかどうか」
あたしは『颯』を握りしめて、一歩、足を踏み出した。
唐突に名前が出てきたことで奥村先輩が何か言おうとするが、あたしの表情を見て、口をつぐむ。
多分……今のあたしは、一切余裕のない表情をしているから。
対象的な亜澄は、何を言い出すのかと肩越しに笑みを浮かべている。
「うん、聞いたよ。でも、香澄ちゃんの答えは予想通りっていうか、相変わらず逃げてるっていうか……」
ため息混じりの彼女に、あたしはもう一歩、更に近づいて。
「……亜澄は、どうなの?」
彼女を真っ直ぐに見据えて問いかける。
刹那、亜澄の目元がピクリと動いた。
あたしはもう一歩踏み込んで……『颯』を空中へ放り投げる。
刹那、当然のように霧散する『颯』。亜澄が思わずあたしの方に向き直った。彼女越しに見える奥村先輩も目を見開いたのが分かる。
「香澄ちゃん……バカなの? 剣を一度消しちゃったら、次に出すにはすっごいパワーが必要になること、知らないわけないよね? これでもう、亜澄への攻撃手段は消えたってことだよ」
「……かもね」
少し自嘲気味に呟いて、丸腰のあたしは、数メートル先で『暦』を構えている亜澄へ、更にもう一歩近づく。
そして――意識してはっきりと言葉を紡いだ。彼女の奥底にまで届くように。
「確かにあたしは鈍感だと思う。そこは認めるしかないよ。稲月先輩のこと、あれだけ一緒にいたのに何も気付かなかったんだから……」
「香澄ちゃん……?」
亜澄の目があたしを見つめている。だけど、真意を掴みきれないその瞳には、不安の色が見え隠れしていて。
そんな彼女にこんなことを言うのは卑怯かもしれない、けど――!
「だけど、双子だからなのか分かんないけど……亜澄のことは見てれば分かるよ、気づいちゃうの、嫌になるくらい分かるの!」
叫び声に近い声でまくし立てるあたしに、亜澄も負けじと声を張り上げる。
「分かる? 亜澄の何が分かるっていうの!? 笑わせないで!!」
「だから、亜澄が奥村先輩のことを――!」
「――五月蝿い!!」
刹那、一気に踏み込んできた亜澄が、『暦』の切っ先をあたしの首元に突きつけた。
少し動けば、透明感のある刃があたしの血で染まることだろう。さすがに体が硬直して、言葉も続けられなくなる。珍しく余裕のない亜澄が、あたしを怖い目で睨みつけた。
「悠樹くんが来てくれたからって、調子に乗らないでね、香澄ちゃん。何のつもりで剣を片付けたのか分かんないけど……それ以上喋れないようにしてあげるから!!」
激高した亜澄が、感情に任せて『暦』を大きく振り上げる――!!
――あたしが待ち望んでいたのは、まさに、この瞬間だった。
亜澄が『颯』の間合いの中で『暦』を使う、願ってもないチャンス。
「――はやてぇぇっ!!」
叫んだあたしの声に応じて、『颯』が再び顕現する。それを右手でしっかり握ると、あたしへ向けて『暦』を振り下ろす亜澄の右腕を狙い、『颯』を突き出して――
大丈夫
貴女なら――今は向かい風でも、風を受け、追い風にして、自由に羽ばたくことが出来るから
だから、迷わないで
誰かの声が、あたしの背中を後押しした。
それが誰の声だったのか……今のあたしには分からないけど、でも、今は頭の中に確かに浮かんだこの言葉を口に出して――終わらせる!!
「――疾風怒濤!!」
次の瞬間、亜澄が手から『暦』を取り落とした。『暦』は地面に落ちる前に霧散して……消える。
そして、彼女の右腕……二の腕のあたりから、真っ赤な血が滴り落ちていく。
『颯』から繰り出された攻撃は、あたしの意思に従って亜澄の右腕だけを攻撃して、消えたのだ。
左手で傷口を抑えた亜澄は、両肩で呼吸を整えるあたしを驚いた目で見つめて、ボソリと呟く。
「……ちゃんと攻撃出来るんだ……しかも、もう一度剣を出すなんて、反則じゃないの……?」
その表情がどこか嬉しそうにも見えたのは……多分、あたしの気のせいだと思う。
「はっ……反則、でも……しなきゃっ……勝てなっ……」
言葉を最後まで紡げない。今のあたしは亜澄と同じくらいボロボロだった。短い時間で『颯』を呼び出したこと、そして、聞きなれない言葉による術の発動――辛うじて亜澄に『颯』を向けているけれど、呼吸は明らかに荒く、気を抜くと気を失いそうになる。わざと左足に体重をかけたり、唇を噛んだりして、感じる痛みでなんとか意識を繋ぎ止めていた。
「樋口!」
「せっ、先輩は動かないでください! 亜澄が……まだ、何をするかっ……!」
あたしへ駆け寄ろうとする先輩を大声で制止した。確かに彼女の手元から『暦』は消えたし、利き腕を負傷しているけれど……でも、ここで気を抜いて形勢逆転という展開だけは避けたかった。
あたしの声に従った奥村先輩は、『焔』を亜澄へ向けたまま、数歩、こちらへ近づいてくる。
そして、冷静に忠告をした。
「亜澄さん、これ以上戦うのならば……次は俺が相手をしなくちゃならない。ただ、個人的には、負傷した女性に全力を出せるほど、心を鬼に出来そうにないんだ」
亜澄は先輩の方へは振り向かず、背を向けたまま、ポケットからハンカチを取り出す。傷口に押し当てると、すぐに血が滲んでいった。
そして、すぐに役に立たなくなったハンカチを投げ捨てると、ふぅ……と、一度、大きなため息をつく。
「……あっそ。悠樹くんも甘いなぁ……ここで亜澄を殺しておくほうが、色々楽になると思うよ?」
「そんなことを言わないでくれ。俺は……君にも生きてほしい」
刹那、亜澄の両肩がビクリと震えた。あたしから見える彼女の表情は、まるで泣くことを我慢している子どもみたいで、危なっかしいというか、そんなに強がらなくてもいいのにというか……許されるなら、今すぐ駆け寄って抱きしめてあげたくなる。
ただ、今のあたしにそれは許されない。無意識のうちに『颯』を握る手に力を込めていた。
「……あーあ」
亜澄はもう一度息をつくと、不意に、先輩の方へ向き直る。
あたしには背を向けているので、彼女の表情は見えなかったけれど。
「……ありがと。その気持ちだけ受け取っておくけど、後悔しないでね」
そう言った彼女を見つめた奥村先輩の目は、悲しそうに見えた。
「終わっちゃったかぁ……亜澄も普通の高校生の放課後をエンジョイしたかったのに……まぁ、自業自得かな。ちょっとだけだったけど、楽しかったよ」
自嘲気味に呟いた亜澄は、再び肩越しにチラリとあたしを見やり、
「それに、香澄ちゃんが気づいてたなんて思わなかったし」
「は、へ……?」
刹那、あたしが間の抜けた声をもらす。その反応を見た亜澄の眉間が、苛立ちでピクリと動いたのが分かった。
「香澄ちゃんさぁ……念の為に聞きたいんだけど、さっき、亜澄のことを分かったみたいに言ったのは……ハッタリ?」
「ファッ!?」
ギロリと睨まれて、そして図星だったので、あたしは目を見開いて『颯』を落としそうになるくらい、そう、非常に分かりやすく動揺してしまう。
「そ、そっそっそんなそんなわけないでしょ!? あた、あたしと亜澄は双子なんだから、何でもお見通し……」
「やっぱり適当に言ったんだね!! 香澄ちゃんのそういう考えなしなところ大っ嫌い!!」
「かっ……! それは否定出来ないけど……でも、亜澄だって思いっきり動揺してたでしょ!? そうよ、ってことはやっぱり――!!」
「あーもー何も聞こえない聞きたくない傷が痛い!!」
大声であたしの言葉を遮った亜澄は、そのままスタスタと歩き始める。
自分の方に向かってくる彼女に、奥村先輩も一瞬警戒したけれど……すれ違った亜澄に戦う意志がないことを感じ取り、『焔』を空中へ放り投げる。
亜澄は振り返らないまま、体育館から渡り廊下へ――校舎の方へ向かう、あたしたちの位置から彼女が見えなくなったことを確認した瞬間、思わず膝から崩れ落ちてしまった。
『颯』が離れ、消える。
「樋口!!」
「ははっ……さすがに、限界っす……」
慌てて駆け寄った奥村先輩に、何とか顔だけ上げて苦笑いを作った。
「大丈夫か?」
両手をコンクリートの床につき、へたり込んだ姿勢で呼吸を整えるあたし。
「大丈夫……じゃ、ないですが……とりあえず生きてます……」
視線を合わせるように膝をついた奥村先輩は、はぁ、と、一度、大きく息をついて……こんなことを言う。
「とりあえず……無事で安心した。あと、良かったな」
良かった? 何が?
「良かった……ですか? 何のことでしょうか……」
あたし、結局亜澄と喧嘩別れなんですが。
顔に疑問符を浮かべるあたしの右肩に先輩は優しく手を添えて、言葉の真意を説明する。
「これで樋口も覚醒したことになるんだろう?」
「か、覚醒?」
「さっき、新しい力を使っていたじゃないか」
「新しい……力……」
先輩に言われて思い出した。確かにさっきのあたしは、新しい力を行使して亜澄を攻撃した。それは覚えているんですよ、今回はしっかり覚えているんですけど……。
……あー、駄目だ。またやってしまったらしい無意識の覚醒。確かに新しい力を使えたかもしれないけれど……でも、これじゃあ、ダメなんだよね。
嬉しそうな先輩に、あたしはゆっくり首を横に振る。
「……これじゃ、ダメです」
「樋口?」
そう、さっきは、あたしが無我夢中で偶然出すことが出来たものだ。「疾風怒濤」、確かにそう言ったことは覚えているけど……感覚的にはまだ、完全に掴みきれていない。
「何というか……掴みかけては、いるんですけど……完全じゃない、というか、もうちょっと何かが、足りない気がしていて……」
でも、もう少しで自分のものに出来そうな手応えは感じている。あと数回『堕落者』と戦えば、何とか出来そうな気がする!
ただ……今は、休みたい。
そう思ったあたしが肩で大きく呼吸をした瞬間、雛菊が近づいてくる気配を感じた。
「最近の香澄さんは満身創痍ですねぇ……」
へたり込んだあたしを発見した雛菊が、頬に手を当てて「困った人ですね」と言わんばかりの姿勢であたしを見下ろし、しみじみと呟く。
その後ろから続く絢芽と椎葉の姿を確認して、思わず安堵の息をついた。
良かった……亜澄に攻撃されたと聞いていたから心配していたけど、さすが絢芽、大丈夫そうだし。
ただ、絢芽は顔をしかめると、どこか悔しそうな声で一言呟く。
「香澄さんがその状態だということは……私、本当に亜澄さんの術に負けてしまったんですわね」
「絢芽……?」
彼女の言葉の意味が分からなかった。そんなあたしへ補足する椎葉。
「雛ちゃんの力を使っても、亜澄ちゃんの術をなかったことには出来なかったんだ。だから、絢芽ちゃんはどうして自分が久那高校にいるのか分からないままだったんだよ。勿論説明はしたけど、半信半疑ってところかな……今の香澄ちゃんを見るまでは」
椎葉の言葉を受けた絢芽が、無言で頷いた。
その言葉に、あたしは驚いて雛菊を見上げる。
「雛菊でも……ダメだったの……?」
あたしの問いかけに、彼女は申し訳無さそうに頭を下げて、
「本来ならば問題なく解決出来るはずなのですが……蓮華が予想以上に干渉していたようで、少しお時間を頂くことにしました。数日中には対応できるように準備しておきます」
そう言った雛菊の表情には、悔しさが滲み出ていた。
まさか、これまで一瞬で問題を解決してくれた雛菊でも時間がかかるなんて……ある意味、これが一番予想外だったかもしれない。
全員が言葉をつぐみ、場の空気が落ち込んだのを察した奥村先輩が、「ただ」、と、口火を切る。
「収穫がなかったわけじゃない。おかげで樋口も、新しい力を使うことが出来たんだから」
先輩の言葉を聞いた椎葉が一瞬で表情を明るくして、あたしに近づいた。
疲れでへたり込んでいるあたしと視線を合わせるようにしゃがむと、満面の笑みを向けてくれて。
「本当かよ香澄ちゃん! やったな!!」
切り替えて場の空気を明るくしてくれようとする、そんな彼の心遣いが素直に嬉しい。
でもね……。
「あ、ありがとう……でも、まだ、しっくり来なくて」
苦笑いでこう言うあたしの言葉に、椎葉が首を傾げた。
「しっくり来ない?」
「えぇっと、なんて言えばいいのかな……まだ、完全に押さえ込めてないっていうか……でもでも、開放するための言葉やコツは分かったから、後は……数をこなせば何とかなる、かなーって……」
「香澄ちゃんはスポ根だねぇ……ま、何にせよ良かったじゃん。これで、香澄ちゃんだけが狙われることもないわけだし」
心の奥底に燻ぶるあたしの不安を払拭するように笑顔を向けてくれる椎葉に、ようやく、肩の力を抜くことが出来た。
すると、ここまで何かを考えていた絢芽が、組んでいた腕を解いてあたしを見下ろす。
「香澄さん……今週末、何か予定はございますか?」
「予定? ううん、別に今のところは……」
唐突な問いかけに答えると、彼女は一度息をついて、こんな提案をしてくれた。
「今週末、ちょっと……個人的に修行をしようと考えていましたの。ご覧のとおり、私の実力では覚醒した亜澄さんに及ばなかった。今後の戦いを考えても、悠長に構えている場合ではないと思っています。よろしければ、香澄さんもご一緒しませんか?」
「修行、って……具体的にどこで、何を?」
「久那市郊外の山の中に、知り合いがペンションを持っています。私有地も広いので、毎年のように雛菊さんにご協力いただいて、仮想の敵を作っていただくつもりでいましたの」
「毎年……絢芽は、そんなことしてたの?」
改めて、彼女の置かれた立場に目を見開くしかない。この戦いが始まる前からずっと準備を進めてきたことは聞いていたけれど、まさか、そんなことまで……。
あたしを含めた驚きの反応に、絢芽は柔らかい笑みを浮かべた。
「もう慣れてしまえば、それが私の慣習ですわ。ただ、今年は香澄さんにご一緒していただけると……美味しいお食事を頂けそうなので、楽しみですわね」
「あ、あのねぇ……まぁ、別にいいけど」
イタズラに微笑む絢芽を見ていると、彼女の発言に反論する気にもならなかった。それに、正直今のあたしにはありがたい申し出だし。
両足に力を入れて立ち上がると、あたしは絢芽を真っ直ぐに見つめて。
「あたしからもお願い、一緒に連れて行って。遠慮せずに『颯』を使える環境なんて、願ったり叶ったりだしね。報酬は、絢芽が食べたい晩御飯でどう?」
「交渉成立、ですわね」
右手を差し出した絢芽に、あたしが手を差し伸べた瞬間――
「――俺も参加させてもらうぜ!」
刹那、あたしと絢芽が握った手の上に、椎葉が自分の手を置いた。
それに気づいた絢芽が至極冷たい視線を向けるけれど、椎葉はそんな彼女を真っ直ぐ見据えて、改めて自分の思いをぶつける。
「それ、俺も行かせてくれ。亜澄ちゃんに対して何も出来なかったのは俺も同じだし……一番強い絢芽ちゃんに修行が必要なら、それより弱い俺にはもっと必要なはずだ!」
「それはそうでしょうけれど……」
絢芽が一瞬視線をそらす。迷っている彼女へ、椎葉は更に言葉を続けた。
「俺と一つ屋根の下が嫌だって言うなら、俺は野宿でも構わないぜ。特殊な環境下でみっちり自分の力を使いたいだけなんだから」
「……」
絢芽は椎葉の手を払いのけることをせず、ただ、再び彼を真っ直ぐに見つめ返した。
すると、椎葉の反対側に奥村先輩が立ち、椎葉の上に自分の手を重ねる。
「その合宿、俺も参加させて欲しい」
「奥村さんまで……」
困ったような口調だが、その表情は……ちっとも困っているように見えないよ、絢芽。
とりあえず話を聞こう、無言の絢芽に促され、先輩は全員を見渡しながら続けた。
「力不足なのは全員同じだと思っている。ここで全員の力の底上げが出来るのが望ましいことだ。それに……万が一、有坂が不埒な真似をした場合は、俺の『焔』で責任持って燃やしておく」
先輩が手を離して腕を組み、椎葉にジト目を向けた。
「おい悠樹!? それは酷い仕打ちだと思うぜ!?」
椎葉が悲痛な叫び声をあげたが、それはとりあえず置いておいて。
あたし達3人の表情を改めて確認した絢芽が、一度、浅く息をついた。
「用意するお布団の数を増やすよう、お願いしておきますわ」
「さすが絢芽ちゃん、話が分かるようになって俺は嬉しいぜ!!」
興奮気味に椎葉が絢芽の手を握りしめた。そんな彼に彼女は綺麗な笑顔を向けて、
「そんな有坂さんにはテントが必要ですか? キャンプに必要な道具でよろしければ、ある程度用意できますわよ?」
「い、いやー……出来れば壁と屋根と床がある空間がいいんだけどなー……」
引きつった笑いを浮かべる椎葉に、今度はニヤリと、意味ありげな笑みを浮かべる絢芽。
「有坂さんは確か……工業高校に在籍していらっしゃいますわよね?」
「へっ? あ、まぁそうだけど。っていうか今更!?」
「確か、棚の立て付けが悪いところがありましたの。他にも色々気になるところがあったかと思いますので……対価として修繕等をお願いしてよろしいですわよね?」
「確定事項なの!? ふっ、まぁいいぜ……絢芽ちゃんからの頼みとあれば断るわけにもいかねぇからな。俺の超絶器用な手先で完璧にしてみせるぜ! 惚れるなよ!」
「ありえない未来への心配は杞憂です。あと、そろそろ……いい加減にその手を離してくださいませんか? 邪魔なので凍らせますわよ」
目がちっとも笑っていない氷の微笑に、椎葉は慌てて握っていた手を離した。
あたしと絢芽も握っていた手を離し、あたしは改めて、絢芽に軽く頭を下げた。
「週末までに左足を何とかしておくから……よろしくお願いしますっ!」
無意識のうちに握りしめていた右手、引き返すつもりなんてない、自分に再度、そう、言い聞かせながら。
「あのー、お話がまとまったようなので、そろそろ、この『結界』を解除してもよろしいですか?」
一歩離れた場所で事の成り行きを見守っていた雛菊が話に割り込み、この場の解散を指示した。異論はないため、全員が言われる前に目を閉じて……。
「……って、ちょっと待った!」
あることを思い出したあたしが、雛菊にストップをかけた。
案の定、雛菊が至極迷惑そうな視線を向けて、笑顔の口元を引きつらせる。
「あのー、最近の香澄さんはそんなに私の邪魔をするのがお好きですか? 何だったら一生、この空間にいらっしゃっても構わないんですよー?」
「そんな怖いこと言わないでよ! 雛菊に……その、お願いがあるんだけど」
「はぁ、またですか……まぁ、今回は香澄さんも頑張りましたから、寛大な心で傾聴いたしますので言うだけ言ってください。何ですか?」
何だか雛菊の態度がデカイように感じるのはあたしだけだろうか……ぐぬぬ、と、拳を握りしめたくなる衝動を抑えつつ、あたしはチラリと奥村先輩を見やり、自分の中で思っていた提案を口に出す。
「まず、奥村先輩はこの場に残して欲しいの。あたし達3人は生徒会室でいいから」
「俺だけ……?」
突然指名された奥村先輩が目を丸くする。他の二人も何か言いたそうだったが、あたしの言葉を待ってくれた。
「んで、次、稲月先輩なんだけど……記憶を操作するのは最低限にして欲しい。勿論、『颯』とか『暦』に関することはしょうがないんだけど、それ以外のことはなるだけ残した状態でいて欲しいの。ダメ?」
あたしの頼み事を聞いた雛菊は、一度、軽く目を閉じて。
「香澄さんは……それで、いいんですか?」
ある程度事態を察してくれている(んじゃないかと思う)雛菊の質問に、あたしは一度、無言で首肯する。
「あたしが、こうした方がいいと思ってるから、お願いしてるの」
「……了解しました。善処します」
その言葉を聞いたあたしは、静かに両目を閉じた。
あたしが次に目を開けた時、生徒会室の椅子に座っていた。
時刻は午後3時近く。校庭から部活動の声が聞こえてくる。扇風機がないと蒸し暑い、いつもの空間。
目の前の机には折りかけの資料が山積みになっている。そして、あたしの目の前には絢芽が座っていて……当然だけど、亜澄はいなかった。
椎葉の姿も見当たらない。おそらく、皆瀬くんと1階のコピー機のところにいるんだろう。
周囲をぐるりと見渡して気配を探しても、亜澄や蓮華の気配はない。
それを確認した瞬間、無意識のうちに大きく息をついていた。自分でも無意識のうちに気を張っていたらしい……とりあえず一安心。あぁ、今になってどっと疲れが……。
「香澄さん、本日はあまり無理をしないほうがよろしいのではないですか? 顔色が優れませんわよ?」
正確に資料を折っていく絢芽が、心配そうな声で気遣ってくれた。
確かに疲れは残っているし、眠気も襲ってきたけど、基本的に座り仕事だし……何より、他校の絢芽や椎葉に仕事を手伝ってもらっているのに、自分が抜けるなんて申し訳なかった。
あたしは意識して口角を上げ、絢芽にこう返答する。
「ありがとう。とりあえず、手を動かせばいい単純作業だから。やれるところまで頑張るよ。きつくなったら遠慮無く言うから、大丈夫」
「そうですか……」
ひとまずあたしの言葉を聞き入れてくれた絢芽は、手を動かしながらあたしを上目遣いで見つめ、
「あの、先ほど……雛菊さんにあのような提案をした理由を、教えて頂いてもよろしいですか?」
「へ? あ、あぁ……」
稲月先輩がこの部屋を飛び出した時、この場に居合わせた絢芽ならば、その理由を察してくれているんでじゃないかと思ったけれど……そうだ、絢芽は亜澄に時間を戻されているんだった。
絢芽になら説明しても問題ない、そう思っていたから、あたしは手を動かしながらその理由を説明した。
稲月先輩に、奥村先輩へ、自分の思いを告白して欲しいと思って……あの場に2人を残したことを。
「正直、お節介だとは思ってるよ。でも、涙を浮かべて後悔してる稲月先輩を見たら……放っておけないよ。今のあたしに出来ることは、環境を整えることだと思ったから」
あの場に先輩二人を残して、稲月先輩が奥村先輩へ告白するかどうかは分からない。ただ、何か行動を起こすキッカケになってもらえれば、それで、稲月先輩の後悔が1つでも減るのならば……あたしは、それでいいと思うから。
あたしの言葉を受けた絢芽が、口を開きかけた、次の瞬間。
「――ぐっへー……しんどい、しんどいよ香澄ちゃん……」
生徒会室の引き戸が開き、大量のコピー用紙を抱えた椎葉がへっぴり腰で入ってきた。
額には汗がにじみ、普段は軽妙な顔つきも完全に疲れきっている。
手を貸そうと思って立ち上がったあたしを絢芽が手で制した。立ち上がった絢芽はそのまま椎葉へ近づくと、彼が抱えていたコピー用紙の束の9割ほどを奪い取って。
「……この程度、重たいうちに入りませんわよ」
「ぐ、ぐぬぬ……!」
涼しい顔で移動し、コピー用紙を机上に置いた絢芽は、扉のところで悔しそうな表情を浮かべる椎葉に、勝ち誇った表情を向けた。
刹那、無言でツカツカと室内に入ってきた椎葉が、手元にある残りの束を絢芽に押し付ける。そして、ジト目を向ける絢芽をビシッを指差した。
「お、俺だってやれば出来るところを見せてやる! 絢芽ちゃん、勝負だ!!」
「面白いですわね、受けて立ちますわ」
長い髪をなびかせて、絢芽が颯爽と椎葉を追い越していく。
その背中を追いかける椎葉の後ろ姿を見送ってから……あたしは、自分が立ち上がったままだったことに気づいた。
「何、ボーっとしてるんだろ……仕事、仕事……」
とりあえず椅子に座り直し、手元の資料を二つ折りにする。
それだけなんだけど……手元がぼやけてきた。頭がガクガクと左右に揺れる。必死に意識を繋ぎとめようとするけど、急激に引っ張られていく錯覚。
あ、もう、ダメだ、これは……眠たい。
そう思ったのが、最後。
あたしの意識は……深く、沈んでいった。