2人が出逢えばオポジット
あたしは、目の前の現実を信じられなかった……否、信じたくなかった。
だって、亜澄が、久那高校に……あたしの場所に、いたんだから。
当然のように自分の足で歩き、Tシャツに膝丈のキュロットパンツという私服姿。首からカラフルなネックストラップをたらし、長い髪をポニーテールにまとめているその顔は、どこからどう見ても、あたしと瓜二つで……。
「あ、すみ……どうして、どうしてここにいるのよ!?」
生徒会室に入った途端ヒステリックに問い詰めるあたしに、亜澄は扇風機の前から離れることなく、こう言い放つ。
「そろそろ、亜澄が直接動こうと思って。あんまり時間もないしね」
「時間がない……?」
「そ。まぁ、香澄ちゃんには関係ないけど。とりあえず、香澄ちゃんの学校がどんなところか気になったから来ちゃった。亜澄も通ってたかもしれないんだし……ね」
そう言って、チラリとあたしに視線を向けた。反射的に逸らしてしまったあたしは……精神的に負けている。そんなこと、自分でもよく分かっている。
でも、亜澄に対して負い目があるあたしはそれ以上言い返せず、彼女と微妙な距離を保ったまま、立ち尽くしていた。
すると。
「こんにちはー……って、樋口さんここにいたの? 職員室前で会長が探してたよ」
あたしの背中に声を掛けたのは、皆瀬くんだった。
焦った表情で振り返るあたしだが、彼は顔に疑問符を浮かべたままあたしの隣をすり抜けてから。
「あ、亜澄さん、今日からよろしくお願いします」
亜澄に対して、笑顔でこんなことを言ってのける。
……って、ちょっとまってよ皆瀬くん……どうして君が、自己紹介もせず、何の動揺もなく、ごく自然に亜澄と会話してるわけですか!?
この世界ではあたしがおかしいのだろうか……混乱する頭を整理できないまま、何とか彼に問いかける。
「み、な、皆瀬くん……亜澄のこと、どうして知ってるの?」
長机にカバンを置いた彼は、笑顔であたしの疑問に答えてくれた。
「さっき、会長に紹介してもらったんだよ。夏休み期間中に文化祭の準備を進めるために、他校から特別に応援を要請したらしいけど、まさか、樋口さんと双子の姉妹だったなんて知らなかったよー」
あーなるほど、そういうことになっているのか……少しだけ冷静を取り戻した頭で、今の亜澄の立場を理解する。
亜澄は扇風機の前から皆瀬くんの隣に移動すると、彼が取り出したお弁当を後ろから覗きこんだ。
「皆瀬くん、お弁当なんだ。でも……小さくない? 食べ盛りの男子高校生がこのくらいで足りるの?」
「あはは……慣れちゃえばこのくらいで問題ないよ」
少し声を上ずらせた皆瀬くんが、接近している亜澄に笑顔を向けている。
亜澄はするりと相手の懐に入り込むのが得意だ。あたしでは決して真似できない処世術は天性の才能と言っていいだろう。羨ましくない……あたしには、あたしのやり方があるんだから。
そういえば、奥村先輩が職員室であたしを呼んでいるらしい? 先ほどの皆瀬くんの言葉を思い出したあたしは、「じゃあ、ちょっと職員室行ってくるね」と、一声かけてから生徒会室を後にした。
楽しそうに話している2人には、聞こえなかったかもしれないけど。
奥村先輩は、来客用の玄関前にいた。
あたしは、彼の姿を見つけるなり……安心して泣きそうになってしまう自分を必死で自制する。
「おっ、奥村先輩、亜澄が……亜澄が……!」
しかし、声はもう半泣き状態だ。動揺しまくって情けない姿のあたしに、彼は浅く息をついて一言。
「分かってるから落ち着け」
そう呟いてから、玄関の外に視線を移した。亜澄もつけていたネックストラップを2本持って、先程から誰かを待っている様子。
課外授業が終わり、帰宅する生徒、部活動を始める生徒等、校舎内は人が行き交っている。ただ、この玄関は来客用なので、生徒の姿はおろか、先生方の姿も見当たらなかった。
こんな場所で何をしているんだろう……あたしが尋ねるより早く、先輩が呟く。
「俺も正直、生徒会室にいた亜澄さんを見た時は……樋口が悪ふざけをしてるのかと思った」
「そ、そんなことしませんよ! それより奥村先輩……ここで、何を?」
誰もいない玄関の扉、その向こうを見据えた先輩が、その理由を説明してくれる。
「亜澄さんは、文化祭の準備の応援として来たことになってる。恐らく蓮華さんの手回しだと思うが……だったらコチラも、同じ手段を使わせてもらうことにしたんだ」
「同じ手段……?」
あたしの質問に答える前に、扉の向こうに人影が現れて……。
「――ごきげんよう。本日は宜しくお願いいたしますね」
「よーっす、香澄ちゃんに悠樹、俺が来たからもう安心だぜー」
それぞれの制服を着た絢芽と椎葉が、したり顔で久那高校の中に入ってきたのだ。
「絢芽に椎葉!? ど、どうしてここに……!?」
先程から全く理解が追いつかないあたしに、絢芽が答えてくれる。
「奥村さんから連絡を頂きましたの。妹さんが久那高校に現れた、と」
奥村先輩の仕事が早すぎる! さすがです!!
絢芽は脱いだパンプスを来客用の下駄箱に片付けてから、スリッパをはく。
椎葉もそれに習ってスリッパをはいたところで、奥村先輩が、手に持っていたネックストラップをそれぞれに手渡した。
「このストラップが、許可された外部生の証になっているんだ。煩わしいと思うが、身につけてくれ」
「分かりました。しかし……妹さんはどうやって入り込んできたのですか? この学校全員に何か術を使っているんですの?」
絢芽の問いかけに、奥村先輩は苦い顔で内情を告げた。
「建前は、通信制高校のサマースクールってことで……既存の高校で実習みたいなことをするカリキュラムがあるらしく、その一環だということになっている。学校同士のやりとりで生徒は介入出来ないから、俺が知らない間に話がついていたんだ。さっき、亜澄さんの書類を確認したんだが、どこにも不備はなかった」
「そういうことですのね……まぁ、相手が向こうから近づいてきてくれたのですから、好都合ですわ」
ニヤリと笑みを浮かべる絢芽の隣で、ネックストラップを下げた椎葉が周囲をぐるりと見渡して、ボソリと一言。
「とりあえず、誰の『境界』もないんだな……」
確かに、気づける範囲には雛菊も蓮華もいないみたいだ。ただ、だからといって油断するわけにはいかない。既に雛菊には奥村先輩が連絡をしてくれたらしく、万が一戦闘になったとしても対処できそうな感じだ。
……結局あたし、後手に回りすぎているではないか……もっとしっかりしないとなぁ……。
奥村先輩は意気消沈するあたしをチラリと確認した後、絢芽と椎葉に向き直って。
「いざとなったら剣を交えることになるが……無関係の皆瀬や稲月は巻き込みたくない。あの2人は単独行動をさせないよう、気がけてやって欲しい」
「分かっていますわ」
「了解」
2人が首肯したことを確認して、先輩は腕時計に視線を落とし、「行くか」と呟いて歩き出す。
その背中についていくあたし達だけど……あたしはさっきから、心臓が嫌になるくらい脈打っていた。
さすがに、絢芽や椎葉が来てくれたことで、ちょっと安心してしまったけれど、でも、先日から、亜澄が突然あたしの前に現れることが続いているから……。
……姉妹なんだから、今まで顔を合わせる機会が少なかった事のほうが異常なんだと思う。そう、思っているけど……。
無意識のうちに唇をかんでいたあたしの隣に、椎葉が軽い足取りで並び立って。
「そんな顔してると、亜澄ちゃんに付け込まれちゃうよ? スマイルスマイル」
自分の頬に人差し指をくっつけて、営業スマイルを見せる。
そんな彼なりの心遣いも、申し訳ないけれど、今のあたしにはあまり効果がなかった。
「分かってるけど……難しいよ。ゴメン、なるだけ迷惑はかけないようにするから」
亜澄の狙いがあたしだとすれば、あたしが率先して亜澄を引き受けなくちゃ。
でも……そんなこと、あたしに出来るの?
不安と緊張で強ばっていたあたしの肩に、椎葉は無言で手を添える。
「迷惑とか、そういうことは考えなくていいよ。ただ……香澄ちゃんが香澄ちゃんであることを見失わないでね」
その言葉に、あたしは一度だけ頷いてから……3階の生徒会室へ続く階段を登った。
生徒会室では、亜澄と皆瀬くん、そして、稲月先輩が、亜澄を中心に楽しく歓談していた。
そこに戻ってきたあたしと奥村先輩、その後ろに続く絢芽と椎葉。予想外の2人を確認した亜澄の目が、少しだけ細くなったけれど……。
「ふーん、総力戦なんだね。そんなに自信がないの?」
含み笑いを浮かべた表情で呟く亜澄に、奥村先輩が答える。
「申し訳ない。文化祭まで時間があまりないんだ。少しでも手伝ってもらえるのはありがたいよ」
「……ま、いいけどね」
そう言って、ふいっと視線を逸らした。お弁当箱を片付けていた稲月先輩が、あたしの後ろにいる絢芽と椎葉に訝しげな視線を向ける。
「奥村くん、そちらの方々にも……お手伝いを?」
「ああ。東原、有坂、自己紹介してくれ」
奥村先輩に促されて、絢芽と椎葉が一歩前に出た。
「お会いするのは2度目、ですわね。ごきげんよう、星霜学園1年の、東原絢芽と申します。本日は、綾小路先輩の名代で参りました。お役に立てるよう頑張りますわ」
そう言って、営業スマイルのままペコリと会釈。つられて頭を下げる皆瀬くんと稲月先輩。
「どうも、俺は有坂椎葉。今日は、久那工業の佐藤副会長に頼まれて手伝いに来たんだ。よろしく頼むぜ」
そして椎葉も、何だかもっともらしいこと言ってるし! 人懐っこい笑顔に、皆瀬くんと稲月先輩が安心した表情になる。確かに、パッと見たら金髪でチャラチャラしてそうな印象だもんね……。
場が何となく和んだところで、奥村先輩がまとめに入った。
「今日は資料の作成を終わらせたくて、俺が他校への応援を要請したんだ。わからないことがあれば、俺か稲月、皆瀬に聞いてくれ」
「分かりましたわ」
「了解。香澄ちゃんには聞いちゃダメなんだな」
椎葉がニヤリと笑みを浮かべてあたしを見やる。
久那高校の生徒として心外な気もするけれど、でも……残念ながら、それは正しいんだよねぇ。
「まぁ確かに……聞かれても分かんないから聞かないでね!」
「そこは胸を張るところじゃないぞ、樋口……」
奥村先輩にジト目を向けられて、あたしは慌てて明後日の方向を向くのだった。
「……ねぇ皆瀬くん、あの2人って、仲、いいの?」
少し離れた場所から見ていた亜澄が、皆瀬くんの背中に問いかける。
彼は肩越しに振り返ると、苦笑いを浮かべてこう答えた。
「んー、まぁ、いつもあんな感じかな。最近の奥村会長は特に樋口さんをいじっているというか、樋口さんが1人で玉砕しているというか……いいコンビだと思うよ」
「ふーん……そっか」
そう呟いた亜澄の口調は、それはもう素っ気ないものだった。
確かに、人手は足りなかった。
まだ7月下旬とはいえ、間もなく8月。文化祭は9月の3連休なので、8月中にも一度、各部活の代表などを集めた会合が行われることになっている。
そして、その場では、終業式までに提出された各部活の露店や出し物を全員で審議して、承認すすることになっているのだ。
各クラスごとの展示や出し物が、9クラス×3学年=27、加えて、運動部6、文化部17、同好会が4つ。当然、各企画の資料を、全員分配布する必要があるわけで……しかも、各部活には予備も含めて資料を3部づつ渡す算段になっているらしくて……。
「ちょっとまてよ悠樹! どうして俺が力仕事担当なんだよ!!」
奥村先輩に襟を掴まれている椎葉が断固抗議するが、先輩は椎葉を一瞥すると、ため息1つ。
「当然の配置だ。と、いうわけで、俺達3人は1階でコピーしたものを運搬するから、稲月達はそれを二つ折りにして、ページごとに置いてくれ」
長机には、昨日試しにコピーしたA3サイズの資料200枚ほど用意してある。この大きさで問題ないと判断したため、今日から本格的な量産体制に入るのだ。
しかし、コピー機は1階にしかないので、奥村先輩、椎葉、皆瀬くんという男性陣3人で、コピーしたものをここまで運搬することになったのだ。異論は認められていない。椎葉、頑張れ。
扉から出ていった男性陣3人を見送った女性陣4人は……それぞれ、無言で互いの顔を見つめてから。
「じゃあ……始めましょうか」
稲月先輩の一言で、あたし達も作業を開始する。
机上の資料を挟んで、2対2――あたしと稲月先輩が横並び、反対側に絢芽と亜澄――で着席して、後は地道な単純作業を黙々とこなすだけ、だ。
だけど。
「……ねー香澄ちゃんつまんなーい。学校探検してきてもいい?」
開始1分で愚痴をこぼす亜澄に、あたしは呆れ顔で返答した。
「ダメに決まってるでしょ。手伝いって名目で来てるんだから、しっかり働いて帰りなさいよね」
「ぶー……じゃあ、亜澄も悠樹くん達を手伝ってくるよ。香澄ちゃんと同じ作業なんか、やりたくないし」
刺のある言葉に、あたしよりも稲月先輩の方が動揺してしまった。
「あ、亜澄さん……一応、奥村くんの指示だから、彼が戻ってくるまではこの作業を手伝ってもらえないかしら?」
亜澄の隣にいる絢芽も、諫めるような視線を向けている。亜澄は不満そうに頬を膨らませ、
「むー……じゃあ、学校での悠樹くんってどんな感じなの? 生徒会長ってことは、人気あるんでしょ?」
彼女の正面にいる稲月先輩を見つめて尋ねる。既にもう、手は動かしていない。
稲月先輩も苦笑いを浮かべ、「そうねぇ……」と、少し思案してから。
「成績も優秀だし、運動も出来る。人望が厚い……こんなこと言うと嘘みたいだけど、それが奥村くんの評価なのよね。亜澄さんみたいな学校外の女性からの人気も高いみたいよ」
「そうなんだ……じゃあ、稲月さんも、悠樹くんのこと、好きなの?」
「……え?」
屈託のない亜澄の問いかけに、一瞬、稲月先輩の手が止まった。
しかし、彼女はすぐに作業を再開すると、亜澄に笑顔を作ってこう答える。
「うーん……尊敬はしてる、かな。第一、私のことなんて、奥村くんは何とも……」
刹那、亜澄が満面の笑みでこう言った。
「そっか、そうだよね。悠樹くんは香澄ちゃんと付き合ってるんだから、他の女性のことなんて見てないよねー」
真夏だというのに、その場の空気が凍りついた。
「あ、亜澄!? あんた、いきなり何を――!?」
あたしが声を荒げると、亜澄が悪魔のような笑顔でこう続ける。
「えー? だって亜澄見たんだよ、2人がプールでキスしてるところ」
「なっ……!?」
亜澄の言葉と、あたしの反応。さすがの絢芽も軽く目を開いてあたしを見つめた。
「香澄さん、今のお話は本当ですの?」
動揺して二の句が継げないあたしに代わり、絢芽が問いかける。そういえば、絢芽や椎葉にはあの時の詳細を説明していなかった。2人だけの事実として墓場まで持っていくつもりだったけど、まさか亜澄にも見られていたなんて……!
強烈な先制パンチを受けた頭が真っ白になりながらも、あたしは必死で言葉を取り繕う。
「え、えぇっと……た、確かに、そういう事故が発生したというか……事故、あれは事故だったから! だから別に付き合ってるとかそういうわけじゃなくて……!」
「でも、悠樹くんの家で何回もご飯食べてるよね?」
「あれは、先輩のお母さんが入院してて、あたしに料理を教えて欲しいって頼まれていたからで……絢芽だって一緒に食べたことあるよね!?」
「え? あ、まぁ、そうですわね……」
カレーを食べた時のことを思い出した絢芽が首肯するが、亜澄はあたしをニヤニヤした眼差しで見つめたまま、更に畳み掛けていく。
「じゃあ、悠樹くんのこと、好きじゃないんだ」
「好きじゃないっていうか……そんなこと、考えたことないし……」
「ふーん、そうやって逃げるの? 本当、逃げるの得意だよね、香澄ちゃんは」
「っ……!」
あたしが亜澄に言い返せず、乾いた唇をかみしめていると……。
「稲月、さん……? 大丈夫ですか?」
絢芽が稲月先輩に声をかける。何事かと思ってあたしも彼女の横顔を見て……その瞳から、涙が零れ落ちそうになっていることに気づいた。
「稲月先輩!? だ、大丈夫ですか!?」
隣で今にも泣きそうな稲月先輩に声をかけると、彼女は制服のポケットからハンカチを取り出して目元を拭いながら、あたしに精一杯の笑顔を向けてくれた。
普段から見慣れているはずの先輩の笑顔なのに……今の彼女は無理をしていて、痛々しささえ感じてしまう。
「ゴメンなさい、ちょっと目にゴミが入っちゃったみたいで……洗ってくるね」
そう言って立ち上がると、足早に生徒会室を後にする稲月先輩。
あんな彼女を見たのは、初めてだ。
その後姿を見送ることしか出来なかったあたしに、頬杖をついた亜澄が少しだけつまらなさそうにこう言った。
「あれくらいで泣いちゃうなんて弱いなぁ……もっと聞きたいことがあったのに」
「亜澄!? あんた、いい加減に――!!」
口が過ぎる亜澄を諌めようと立ち上がったあたしを、彼女は上目遣いで見つめ、臆することなく言葉を続ける。
「だって、香澄ちゃんも気づいてたんでしょ? 稲月さんが悠樹くんのこと好きだって」
「え……!?」
刹那、あたしは言いかけていた言葉を飲み込むことしか出来なかった。
その反応を見て確信した亜澄は、意地悪で、あたしの苦手な笑顔で言葉を続ける。
「あれ? もしかして気づいてなかったの? あんなの見れば一目瞭然じゃん。どんだけ鈍いのかな、香澄ちゃんってば」
「亜澄、何をさっきから、適当なことを……」
「適当かどうか、本人に聞いてくれば? 稲月さん……1人にしちゃっていいのかなぁー?」
「っ……!!」
亜澄の瞳の奥に何かを感じたあたしは、そのまま椅子を蹴って部屋から走りだした。
室内に残された亜澄は、隣で淡々と資料を折る絢芽に視線を移して、頬杖をつく。
「絢芽ちゃんは相変わらず、マイペースだねー」
絢芽は亜澄に視線を向けることもなく、ただ、きっちり資料を折りたたんでいた。
「私は自分の仕事をするだけですもの。他人の色恋沙汰に興味も関心もありませんわ」
「そっかー……でも、亜澄は興味があるから、香澄ちゃんの後、追いかけちゃおうかなー」
おどけた口調でそう言いながら立ち上がる亜澄を、絢芽は初めて眼鏡越しに一瞥して……折り目をつけた資料を机上に残し、静かに立ち上がる。
「――雫」
迷いなく『雫』を携帯すると、亜澄から視線を逸らさずに、こう、忠告した。
「残念ながらそれは無理ですわね。怪我をしたくなければ大人しくしておくべきですわ。私が……貴女をこの部屋から出すと、そうお思いですの?」
あたしはとりあえず、3階の手近なトイレから稲月先輩の姿を探すけれど……見当たらない。
既に部活動の時間なので、教室に残っている人はほとんどいない。しかもココ、知り合いなんて1人もいない3年生の教室だから、誰かに聞くという手段も使えないし……!
「稲月先輩……どこに……!?」
生徒会室からきっちり反対側、50メートルほど疾走して、美術室の前で呼吸を整えた。
先ほどの涙、そして、亜澄の言葉。色々なことが頭のなかでグルグル回って……。
「逃げてるわけじゃ……ないんだから……!」
亜澄の言葉を必死に打ち消した。あたしは逃げてない、奥村先輩への感情は、大切な仲間であり、尊敬できる先輩への憧れだ。決して、恋愛感情なんかじゃ……!
「って、今はそんなことどうでもいいよ! 稲月先輩を探さなきゃ……!」
亜澄の口ぶりと余裕綽々な態度から察するに、既に何かを仕掛けている可能性がある。このまま稲月先輩を1人にしておくわけにはいかない……!
……一度目を閉じて、息を吐いた。
そして静かに、風の音を聴く。落ち着いて、自分が今やるべきことは、焦って無駄に精神まで消耗することではないはずだから。
――目を開く。さぁ行こう、稲月先輩を探しに!
あたしはとりあえず、目の前の階段を2段飛ばしで駆け下りた。
階段を1階まで下って、体育館へ続く渡り廊下を走っていると……。
「――あ、いたっ!!」
体育館の入り口を通り抜けた突き当りに、自動販売機とベンチがある。
ココは、体育館の壁と武道場の壁に挟まれた、薄暗い空間。コンクリートの袋小路になっているので、トタン屋根の隙間から差し込む光が、妙に眩しい。
そのベンチに、稲月先輩は何かを両手で包んで、座り込んでいた。
迷わずあたしは近づき、彼女の近くで足を止める。近づく足音に気がついた彼女も顔を上げて、少しだけ驚いたような表情で、あたしを見つめた。
「いなっ……稲月先輩!!」
「香澄ちゃん……」
周囲に気を配りながら走ってきたので、思ったより息切れがヒドい。膝に両手をついて呼吸を整えながら、頭だけは上げて、稲月先輩を見据えた。
「さっ……探しました、よ……大丈夫ですか?」
「……うん、もう大丈夫。ゴメンね香澄ちゃん、わざわざ探しに来てくれて……」
手に缶紅茶を握っていた稲月先輩は、泣きそうな苦笑いをあたしに向けた。
呼吸を整えつつあたしは真っ直ぐに立ち、稲月先輩を見据えたまま……一度、頭を下げる。
「さっきは亜澄がごめんなさい! 急に変なこと言い出して、稲月先輩にも気を遣わせてしまって……」
「ううん、いいよ。私こそ……いきなり泣き出したりして、ゴメンね」
「稲月先輩……」
先ほど、やはり泣いていたことをあっさり認めた稲月先輩は、どこか吹っ切れたような表情で、あたしにこう、告げる。
「私……奥村くんのこと、1年生の頃から好きだったんだ」
「……」
亜澄の言った通りになってしまった。今まで一緒にいた自分が気づけなかったことが悔しくて、無意識のうちに右手を握りしめてしまう。
「1年生の時にクラスが同じで、2年になったらコースが別だから別れちゃったけど……生徒会で一緒に活動できることが、嬉しかった」
手元に視線を落とし、缶紅茶を見つめる稲月先輩。
あたしは呼吸を整えながら……彼女の言葉を待つ。
「奥村くんが副会長に香澄ちゃんを推薦した時は、正直、すっごく驚いちゃったなぁ……奥村くんが女性を推薦するなんて思ってなかったから。それに、最近……奥村くんがどんどん変わっていっちゃうのが分かって、少し、寂しかった。でもそれが、香澄ちゃんと付き合ってたからだっていうなら……納得するしかないなぁ……」
「だから違います、あたしと奥村先輩は、そんなんじゃありませんし……そもそも、万が一あたし達が付き合っていたとしても、公私混同みたいなこと、奥村先輩がそんなことするわけがないじゃないですか……」
それは、稲月先輩もよく知っていることだと思っていたのに。
あたしの反論に一瞬口ごもった稲月先輩だが、すぐに、こう、問いかけた。
「じゃあ、キスしたっていうのは、嘘なの?」
「それは……本当にちょっとした事故で……」
稲月先輩に本当の事情を説明できないのはもどかしい。キスが起こる事故ってなんだよ、と、思ってしまいそうな言い訳だもの。
でも、本当に違うんだ。あたしは、奥村先輩のことを――
あたしが釈明するより早く、稲月先輩は大きなため息をつくと、虚空を見上げる。
「あーあ……失敗したなぁ。こんなことなら、1年生の時に、もっとちゃんとアピールしておけば良かった……」
「――じゃあ、その時間、亜澄が戻してあげよっか?」
その声はあたしの背後から聞こえる。
あたしの背筋に……冷たい汗が流れ落ちた気がした。
「亜澄!?」
振り向いたあたしは、亜澄がその手に『暦』を握りしめていることを確認して、顔をしかめる。蓮華も雛菊も『境界』を設定していないのに、大胆かつ面倒なことを……。
……いや、ちょっと待って。生徒会室には絢芽も一緒にいたはずだ。あの絢芽を差し置いて、亜澄がここまで来ることなんて……!
あたしがその事実に思い当たった瞬間、背中を、本当に嫌な汗が流れ落ちていく。
「亜澄、絢芽はどうしたの?」
稲月先輩を守るために、亜澄と先輩の間に立った。そんなあたしへ、亜澄はニッコリ笑って答えてくれる。
「絢芽ちゃん? あぁ……打ち負かしてきたよ」
「嘘言わないで! 絢芽があんたに負けるわけないでしょう!?」
「事実だもん。まぁ、少しだけ卑怯な手段だという自覚はあるけど……勝てばいいんだよ、勝てば、ね」
笑顔のままそんなことを言う亜澄に、あたしは底知れぬ恐ろしさを感じていた。
しかし現実、今、絢芽はここにいない。追いかけてくる気配も、『雫』の気配も――ない。
信じられない。目の前にいるのは……本当に、あたしの双子の妹なの?
呆然と立ち尽くすあたしをとりあえず放っておいて、亜澄は悠々とコチラへ近づくと、あたしから10メートルほど手前で立ち止まり、ヒョコっと顔を右に傾けて、あたしの後ろにいる稲月先輩に笑顔を向けた。
「ねぇ稲月さん、戻したい時間があるの?」
「え? え……?」
先輩の位置から『暦』は見えていないのか、特に怯えた様子はないけれど……状況についていけず、戸惑っている様子だ。当然だけど。
しかし、亜澄は一切の説明を省略して、稲月先輩に選択を迫る。
「そのお願い、亜澄が叶えてあげることが出来るんだけど……代償として、亜澄の実験に協力して欲しいんだ。どう?」
「時間を……戻せるの? 本当に?」
半信半疑、何かにすがるような彼女の呟き。
そんな彼女へ、亜澄がこう、付け加える。
「大丈夫、殺したりするつもりないよ。ただ……もしかしたら死んじゃうかもしれないけどね」
「亜澄!!」
刹那、あたしは亜澄に向けて走りだしていた。
「――颯!!」
大声で相棒を呼ぶ。右手に『颯』を確認したあたしは、そのままの勢いで『颯』を大きく振りかぶり、亜澄に向けて容赦なく振り下ろした。
――きぃんっ!!
金属同士がぶつかり合う音が響く。あたしの攻撃を頭上に構えた『暦』で受け止めた亜澄は、そのまま『暦』を押し上げて後ろに飛び退き、あたしから一定の距離を取る。
ここで初めて、あたしと亜澄が2人して物騒な剣を持っていることに気がついた稲月先輩が、持っていた缶紅茶を取り落とした音が聞こえた。
でも、申し訳ないけれど……今のあたしはそれどころではなくて。
「亜澄、あんた……何が目的なのかさっぱり分かんないけど、気軽に死ぬかもしれないなんて言わないで! 人の命を何だと……何だと思ってるのよ!!」
『颯』を正面に構えたまま、あたしは声を震わせた。
情けなかったし、悔しかった。あたしの双子の妹が……こんな、ものの考え方をしているという事実が。
そして、その原因の1つが……あたしかもしれない、という、事実が。
あたしと同じ顔の彼女は、5メートルほど後ろで体勢を整えると、冷め切った眼差しであたしを見据えて、こう、言い返した。
「何も知らないくせに……香澄ちゃんばっかり、ズルい」
「あたし、ばっかり……ズルい?」
亜澄が何を言っているのか分からなかった。むしろあたしはずっと、亜澄に劣等感を抱いていたというのに……。
怪訝そうな顔になっていたのだろう。亜澄はため息をつくと、『暦』をすぅっと天に向けて掲げて、言葉を続ける。
「亜澄がどうしてこんなことをしているか? 教えてあげるよ。亜澄はね、この世界を創り変える。『確定事項』も含めて、全部、ひっくり返すんだ」
「『確定事項』……?」
「人の未来はある程度変えられる。例えば、今日の晩御飯に何を食べるとか、今日はどの道を使って変えるとか……その選択で、その人の人生はどんどん変化していくんだけど、亜澄が個人で頑張っても、歴史的にどうしても、変更できない『点』があるんだ。大雑把に言えば、恐竜が滅びるとか、一定の場所で文明が栄えるとか、歴史上の重要人物が死ぬとか、教科書に乗るレベルの出来事なんだけど、久那市的には『干渉者』のことなの。次の『干渉者』がいつ現れて、『堕落者』を何割掃討出来るか、とか、そういうことが変更できない『点』――『確定事項』なの。これを崩すと、日本の他の地域とのバランスが壊れちゃうみたい」
「それが何よ!? そんな歴史レベルの事件なんて……亜澄が変える必要なんかないじゃない!!」
亜澄が何を言いたいのか分からず、思わず声を荒らげてしまった。
そんなあたしを、彼女はキッと睨みつけて――
「――香澄ちゃんを覚醒させるために亜澄が事故に遭うことも『確定事項』なんだよっ!!」
刹那、激高した亜澄の声があたしに響いて……自分の耳を疑った。
どういう、こと?
あたしを覚醒させるために、亜澄は、必ず……事故に遭う?
大きく目を見開いたあたしに、彼女は感情を剥き出しにして言葉を続けた。
「初めて『暦』を握った時、怖かったけど……真っ先に自分を斬って、亜澄の時間を戻した。あの事故の直前まで戻して回避しようとしたよ! でも出来なかったの!! そこで回避したって、亜澄はいずれ必ず事故に遭う。香澄ちゃんを孤独にして、1人にして、『干渉者』にするために!!」
「あたしを1人にして、『干渉者』に、する……?」
「亜澄が側にいると、香澄ちゃんが1人で立てなくなる。亜澄が側にいると……香澄ちゃんが、仲間に頼らなくなる。多分、理由はそんなとこだよ。要するに、世界的には亜澄が邪魔なんだけど、亜澄を消しちゃうと『暦』を使える『干渉者』がいなくなっちゃうから、物理的に引き離すことにしたみたいだね。本当、意味分かんない……」
最後の方は吐き捨てるように呟いた亜澄が、天に向けていた『暦』の切っ先を、あたしの顔にピタリと向けた。
そして、強い意思を込めた口調で、断言する。
「だから、亜澄は……全部変えてやるんだ。『確定事項』では香澄ちゃん達が勝つことになっているかもしれないけど、そんなことさせない、絶対に」
「……」
「どうせ香澄ちゃんは甘いから、亜澄を傷つけずに終わらせたいとか思ってるかもしれないけど、亜澄は容赦しないよ。絶対に……負けないんだから!!」
亜澄がここまで感情を剥き出しにしている様子を、初めて見た。
決意を秘めた瞳の奥に涙が見えたような気がしたのは……あたしの気のせいかもしれないけど。
でも、あたしは――決めたんだ。
「……亜澄、ゴメン。それでもあたしは――止めるよ」
唇を噛み締め、両足に力を入れて。
あたしは、『颯』を亜澄に向けた。