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夏のプールでアバンチュール

 学生的には、夏休みに突入した。

 ……と、思っていました。

 実際に始まってみると、平日はほぼ毎日午前中が課外授業、午後は隔日で生徒会の仕事、と、要するに制服を着て毎日のように学校に通っているのが現状だ。

 あ、あれ……? 夏休みに突入したのはあたしの錯覚!? でも、家の勉強机にある大量の宿題は夢じゃないっ!!

 結局のところ、あたしはほぼ毎日、奥村先輩を顔をあわせている。

 今日だって、本当は生徒会活動がないから(生徒会活動は月水金、今日は木曜日)、午後からはじっくりゆったり録り溜めているドラマを一気に見ようと思っていたのに!!

 午前中の課外授業を終えたあたしと奥村先輩は、久那セン近くのカラオケボックスの入り口で、彼らを待っていた。

 手にはそれぞれコンビニの袋を持参。中身は本日の昼食である。

 しっかし……暑い。あたし達が今いる場所は大通りから一歩入ったところにあるので車の通りは少ないし、人に至っては誰も歩いていない。今も、建物の影になるところ――カラオケボックスの入口付近で待っているんだけど、暑い。鼻の頭に汗をかいている感覚がはっきりある。

 空は高く、すっかり真夏の様相。雲ひとつない青空が、今は妙に憎たらしい。

 天気予報では、日中の気温が30度を超えるとか……まだ8月にも突入していないのに、早くも夏バテしそうだ。

 出来ることならは涼しい室内で先に待っていたいところなのだけど……『灰猫』の誰か来ないと入れないんだよね、あの部屋。

 というか、今日だって呼び出したのは『灰猫』側のはずなのに……せめて椎葉、早く来いよぉぉっ!

「奥村先輩……暑いです」

 隣に立つ先輩を見ずに呟いた。

「分かってる。それ以上言うな」

 嫌々と言葉が返ってくる。最早、会話を続けるもの面倒くさい。でも、このまま立っていてもひたすら暑いだけなので、あたしはもう少し、奥村先輩に絡むことにした。

「奥村先輩の力で何とかしてください……」

「俺の力だと逆効果になるぞ。むしろ、樋口の力で涼しい風を発生させるべきだ」

「なるほど。出来るでしょうか……やってみていいですか?」

「ダメに決まってるだろう。捕まるぞ」

 互いの顔を見ないまま、不毛な会話だけが熱風に混じって消える。

 携帯電話で時間を確認した。集合は午後1時30分、現在は午後1時20分……距離が一番近い学校なので、集合よりも早くついてしまうのはしょうがないけど! 5分前、いや、10分前行動を心がけるべきだよみんな!

 と、あたしがそんなことを考えていると、久那センの方からこちらへ歩いてくる人影が2つ。

「ごきげんよう。お早いですわね」

 半袖とはいえ星霜学園の黒いセーラー服に身を包んでいるのに、帽子なんてかぶっていないのに、涼しげな表情で汗1つかいていない絢芽と、

「……お疲れ様です」

 久那商業の制服に身を包み、前髪を額にはりつかせて、ペコリと頭を下げる山岸さん。

 あたしと奥村先輩もそれぞれに会釈を返すと、山岸さんが待望の提案をしてくれた。

「……こちらから呼び出したのに、お待たせしてスイマセンでした。あの2人は放っておいて、先に始めてしまいましょう」

 そう言って、カラオケボックスへ続く階段を下り始める。やっと涼しい場所に移動出来る……あたしが意気揚々と彼女の後に続こうとして、一歩、足を踏み出した次の瞬間。

「いぃっ……!」

 不用意に体重をかけた左足に痛みが走る。先日の怪我から間もなく1周間が経過しようとしているが……鈍い痛みは健在。完治にはもう少し時間がかかりそうだった。

 幸い、『堕落者』も大人しくしているし、他のメンバーが気を遣ってくれているので、あたしが戦うことはないんだけど、そろそろ前線に復帰したい今日このごろ。

 その場で立ち止まって顔をしかめるあたしに気付き、心配そうな奥村先輩がコチラを覗きこんだ。

「大丈夫か?」

「大丈夫です……迂闊でした」

 気をつけなければいけないことは、あたしが誰よりもよく分かっているはずなのに。

 自分の軽率さにため息をついた次の瞬間、奥村先輩が少し強引に、あたしが持っていたコンビニの袋を奪いとったではないか。

「……え?」

 あれ、奥村先輩、お腹すいてるんですかー?

 ……というわけはない。でも、何だろう。

 呆気にとられるあたしに、彼は空いている左手を差し出して、

「階段を降りるのに手すりを使ったほうがいい。そうなると邪魔だろ? 鞄は肩掛けだけど……持ったほうがいいか?」

「へっ!? あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます……」

 まさか、鞄には教科書だけで、参考書や辞書は入れていないので見た目より軽いんですー……なんてこと、言えるわけもなく。

 申し出を丁重に辞退したあたしは、そういえば最近、奥村先輩が妙に優しいよなぁと思いながら……恐る恐る階段を下った。


 山岸さんの先導で、毎度おなじみの部屋へ通してもらう。

 全員が横並びでは話が進まないので、絢芽と山岸さんが隣り合わせになり、机を挟んだ向かい側に、あたしと奥村先輩が座る。

 あたしと奥村先輩は今からお昼ごはんだけど、2人は既に済ませてから来たらしい。と、いうのも。

「えぇっ!? 2人でランチしてきたーっ!?」

 コンビニのおにぎりを両手に握りしめたまま、思わず大きな声を出してしまった。

 隣の奥村先輩も、目を軽く見開いたままペットボトルのフタを取り落としている。

 いやまぁ、別にいいんだよ、いいんだけど……意外な組み合わせに思わず目を丸くするあたし。

 鞄からマイボトルを取り出した絢芽は、足を組み替えてこう言う。

「山岸さんには、先日の一件でも色々とフォローして頂きましたの。その御礼と……あと、三木先生を完全に追い詰めるための打ち合わせですわ」

「……もうすぐ、証拠が出揃います。二学期が始まる前に、いなくなっている算段です」

 手元のタブレットを操作しながら、涼しい顔の山岸さんが言葉を続けた。

「……あの録音が非常に良い仕事をすると思います。勿論、コチラに不利なところは編集いたしますのでご安心ください」

 雛菊の力を使っても、三木先生が引き起こしたことを完全になかったことにはしなかった。

 何しろ、外部の関係者が多い。全員があの時星霜学園にいたわけではないし、関わった人間を探すのも一苦労。

 その辺は『灰猫』に任せれば上手くやってくれるかもしれないけれど……あたし達の総意は、『堕落者』に関係なく加担した人物に、それ相応のバツを受けてもらうこと、だったのだ。

 結果として、星霜学園の数学研究部に在籍して被害にあった女子生徒の記憶は操作してもらったけれど、それ以外の人物――例えば、椎葉の力が覚醒した時に出会った、援助交際を斡旋していた久那商業の女子高生とか――は、いずれ補導されるだろう。

 全てが『堕落者』のせいではない。自分の意思で道を外れた人には、相応の償いをしてもらう。『灰猫』は今、そのあたりの調査で東奔西走しているとか。その過程で、もしも記憶を消した女子生徒が不利になる証拠が見つかった場合は、隠蔽してもらうようにお願いしている。

 まぁ……三木先生が捕まったら、芋づる式に加害者が出てきそうな気がするけどね。でもまぁ、そこから先は……正直、知ったこっちゃない。

 おにぎりを咀嚼しながらそんなことを考えていると、ワンドリンクで運ばれてきたドクター・ペッパーに目を輝かせている絢芽が、机上に置いた携帯電話を見やり、口をへの字に曲げた。

「有坂さんと佐藤さんは何をしていらっしゃるのでしょうか……とっくに時間は過ぎていますわ」

 この場に現れない2人への文句を呟くと、山岸さんが無言でタブレットの画面を見せてくれた。

 LINEのやりとりが表示され、2人が補講の再テストに引っかかって、1時間ほど遅れる、というメッセージが届いている。

 刹那、絢芽の眉間にシワがよった。

「……2人への返信をどうしようか考えていました。東原さんなら、なんと返しますか?」

 山岸さんの言葉に、絢芽は間髪入れず即答する。

「1時間後にはこの会合も終わっていますし、山岸さんお一人で十分ですので、本日はいらっしゃらなくて結構です。勉学に勤しんでくださいませ……そう、お伝え頂けますか?」

 目が笑っていない彼女の言葉に、山岸さんは無言で頷いた。


「……本日、皆さんをお呼びしたのは、あることをお願いしたいからです」

 絢芽の言葉を一文字違わず返信した山岸さんが、タブレットの画面を切り替え、あるホームページを表示させる。

 3人で覗き込み、首を傾げた。

 代表してあたしが問いかける。

「久那市市民プール、オープンのお知らせ……これがどうしたんですか?」

 それは、久那市にある大型のレジャープールが今年もオープンしたら遊びに来てね! という、ごくごくありふれたお知らせ。

 あたしも小学生の時に行ったことがあるけれど、ウォータースライダーや流れるプール等があり、楽しく遊んだ。ただ、全体的に設備が古くて、少し昭和の雰囲気が残った印象だったっけ。

 そんなプールも、2年前に設備が一新されてからは、市外からも多くの人が訪れているとか。

 今や、久那市としても夏の重要な観光拠点である。さて、そんな場所で何が行われているというのか。

「……まだ、公にはなっていないのですが……というか、久那市的にも公にしたくないような問題が発生しています」

「公にしたくない問題、ですか?」

「……端的に言いますと、プールに訪れたカップルの一部が、非常に情熱的になってしまうそうです」

「情熱的……まぁ、外は暑いですからねー」

 まぁ、そんなもの見せられる側の立場にもなってほしいところだけど。

 顔をしかめるあたしを横目に、山岸さんは説明を続ける。

「……そうなんですけど、人目も憚らずにキスをしたり、ドラマのようなセリフをささやき合ったり、あまつさえ、水着を脱いでしまうような場合もあるとか」

 うわー、夏のせいにするにはちょっとダメな気がする。あたしは2個目のおにぎりを開封しながら、ため息混じりに呟いた。

「そんなカップル、出入り禁止にすればいいだけの話ですよね」

 そんなあたしに、山岸さんは顔を曇らせ、言葉を続ける。

「……問題なのは、カップルの片方のみがそうなってしまうことです。そして、時間が経過すると自分が何をしていたのか覚えていない、でも、一緒に来た相手は全てを見ているから、幻滅してその場で別れてしまう……ということが、先週のオープンから昨日までの6日間で12組」

 1日2件ペース、地味に多い数字だ。職員の人はさぞかし困っていることだろう。

 と、ここまで話を聞いていた奥村先輩が、神妙な面持ちで山岸さんに尋ねる。

「その原因を何とか出来るのは、俺達しかいない……山岸さんはそう思っているんだな」

「……その通りです。夏のせいで頭がおかしくなったとしても、数が多すぎます。ここは、私達ではどうにも出来ない何かが介入しているとしか思えません。私達によくしてくれている久那市の担当の方も、ノイローゼ寸前になるくらい追い詰められているので、何とかしていただきたいのです」

 そりゃあ、毎日毎日無作為に色ボケが暴走したものを見せられたら……嫌になるよね。本当、お疲れ様です。

 ドクター・ペッパーを堪能している絢芽が、ふぅ、と息をついて尋ねる。

「犯人の目星はついているんですの?」

 山岸さんは首を振るでもなく、でも、肯定するわけでもなく……淡々と、説明を続ける。

「……正直、怪しいのはスタッフだと思っています。ただ、ほとんどのスタッフがこの夏だけに雇われたアルバイトなので、具体的に絞り込めたわけではありませんが……お客が多くなる今週末、何か動きがあるはずだと睨んでいます」

「なるほど……これは、実際にその場で確かめるしかありませんわね」

 少し面倒くさそうな表情を浮かべている絢芽だが、『堕落者』が関わっている可能性が高い以上、放っておくわけにもいかない。

 あたしと奥村先輩が頷くのを確認した山岸さんが、タブレットの画面を切り替えた。

 そこには、市民プールの全体マップが表示されている。

「……ただ、発生時間が午後1時以降だということが分かっています。プールの営業は午前9時から夕方6時まで。そうなると、朝から張り込むのは得策ではありません。加えて、一昨年の改装で敷地面積も広くなっていますので、皆さん4人と私、佐藤の6人が、3組に分かれて警戒するのが良いと思います」

 画面を覗きこむ奥村先輩が、静かに首肯した。

「なるほど。それは明後日……土曜日だと思っていいのか?」

「……そうです。お疲れの所申し訳ありませんが、早めに対処するべきだと考えています。久那市の名誉のために、ご協力いただけないでしょうか?」

 ペコリと頭を下げる山岸さんに、誰も異論はなくて。

 かくして、プールでの怪しい事件を調査することになったのだった。


 そして、土曜日の午後1時過ぎ。

 本日もカラッと晴れた真夏日。プール遊びには持ってこいのお天気だ。

 市民プールの入り口は1箇所なので、とりあえず6人全員がここで待ち合わせをして、中に入ることにしていた。

 こうしている間にも、家族連れやカップル、友人同士の団体が、吸い込まれるように中へ入っていく。中からは楽しい声しか聞こえてこないから、今のところ問題は発生していないようだ。

 しかし、暑い。

「いやー、先日は申し訳なかったっす。勿論、追試はバッチリだったっすよ!」

 黒いTシャツに迷彩色のチノパン、足元はビーチサンダルという格好の佐藤先輩が、あっけらかんとした表情で釈明した。

「しかし、絢芽ちゃんも冷たいよなー。あのまま待っててくれれば、カラオケ大会が開催出来たんだぜ?」

 英語がプリントされた黄色のTシャツにグレーのサルエルパンツ、足元はスニーカーの椎葉が、絢芽に不満そうな口調で話しかけるが、

「申し訳ありません、私、有坂さんのカラオケには一切興味がありませんの」

 白いレースの日傘で日差しをシャットダウンして、同じく白い膝丈のワンピースの上から水色レースのカーディガン(長袖)、足元はミュールというお嬢様スタイルの絢芽から、笑顔で言い返される。

「……絢芽さんの歌声が聞けなくて、残念だったね。すっごく上手だったのに」

 白黒ボーダーのチュニックに七分丈のジーンズの山岸さんが、珍しく、ニヤリと口元に笑みを浮かべて椎葉と佐藤先輩を見やる。

 刹那、椎葉が驚きで目を見開いた。

「えぇっ!? 絢芽ちゃん歌ったの!? 何を、何を!?」

 ニヒルな笑みを浮かべている山岸さんが、一瞬、絢芽と視線を交錯させて……首を横に振る。

「……それは秘密、そういう約束だし。でも、本当にお上手でした。今度、別の曲も聞かせて欲しいくらい」

「イメージだけで避けていましたが、ああやって声を出すのは気持ちいいですわね。私でよければ喜んで」

「……わぁい」

「くっ!? 司……いつの間に絢芽ちゃんと仲良しこよしになっているんだ!? それは本来、俺のボジションのはずだったのに」

「それはありえませんわ」

「絢芽ちゃん俺には冷たすぎるぜーっ!」

 ……絢芽と椎葉の漫才に、山岸さんという新たな要素が加わった。見ていて面白いけれど、椎葉はどこまでも不憫な役回りである。

「話は終わったか? とりあえず着替えてから更衣室の前に集合だ」

 と、ここまで付き合っていた奥村先輩が、ため息混じりに割り込んだ。

 襟付きの白いシャツに濃紺のジーンズ、という、この中では一番カチッとした格好。しかし、そのジーンズは暑そうですよ……。

 かくいうあたしは、某夢の国のキャラクターがプリントされた白いTシャツに膝丈のデニムパンツ、左足には動いても支障がないようにテーピングを施していた。

 こうして見ると、どこにでもある高校生の集まりなんだけど、あまりレジャー気分を味わえそうにないなぁ……。

 かくして、引率の先生のような奥村先輩の先導により、男女に分かれて着替えることとなった。


 15分後、女性陣の姿を見た椎葉が、悲痛な叫び声を上げる。

「ちょっ……絢芽ちゃんはともかく、香澄ちゃんと司の格好は何なんだよ! 水着はどうした水着は!!」

「有坂さん、今日は特に最低ですわ」

 絢芽が氷よりも冷たい視線を向けるが、椎葉の嘆きは収まらない。

「俺さー、女の子とプールってことで地味に楽しみにしてたんだぜ。慎吾と2人であれやこれやと想像してワクワクしてたっていうのに……香澄ちゃん、どういうことか説明してくんない!?」

「なんであたしに聞くの!? っていうか、遊びにきたわけじゃないから当たり前でしょう!?」

あたしのもっともな主張に、女性陣と奥村先輩が首肯、佐藤先輩は苦笑いを浮かべている。

 と、いうのも、今日の目的は遊ぶことではなく、あくまでも潜入調査。いつどこで何が起こるのか、最悪戦うことになるのか分からないので、椎葉を除く全員が、水着の上から濡れてもイイTシャツやパーカー、短パンを着用している。プール施設内での運動靴の着用は認められていないので、足元はビーチサンダルか裸足だけど。

 要するに、このままプールから出て行っても問題ないような、先ほどとあまり代わり映えしない格好なのだ。レジャー用の水着を着ているメンバーは椎葉のみ、オレンジと黄色がマーブルに混じった派手な水着を着用。上半身は裸である……別にいいけど。

 先程から冷め切った視線を向ける絢芽が大きなつばのある麦わら帽子をかぶりなおして、わざとらしくため息をついた。

「私、有坂さんとは同じグループになりたくありませんわ」

「そんなー! カップルじゃないと狙われないんだよ絢芽ちゃん!」

「私達が囮にならなくても構わないのではありませんか? 周囲を警戒して、騒動が起こる前に黒幕を潰してしまえば、何の問題もありませんもの」

「確かに……東原の言う通りだな。俺達は未然に防ぐために集まっているんだ。と、いうわけでグループ分けについてだが……」

 どうしてもまとめ役になってしまう奥村先輩が、椎葉にジト目を向けながらこの場を取り仕切ることになった。

「俺達4人の分かれ方が重要になってくるが、今の樋口はあまり戦わせたくない。そうなると、樋口と残り3人のうち、誰かがベアになって、残りの2人が佐藤くんと山岸さんのフォローを受けながら警戒するのがいいと思う」

「ですわね」

「異論はないっす」

「……了解です」

「俺も最初は、可能な限り男女ペアで行動したほうが敵をおびき出せるんじゃないかと考えていたが、付け焼き刃のカップルよりも標的が多いこの場所では、あまり意味がないだろう。むしろ、ストレスなく自然体で行動して、敵に警戒させないことが重要だ。出来る限り今日中に決着を付けたいからな」

「ですわね」

「異論はないっす」

「……了解です」

「そうなると、東原と山岸さん、樋口と有坂、俺が佐藤くんと一緒に回ろうかと思っていたんだが……先ほどの有坂の態度で考えが変わった。佐藤くん、悪いが有坂を任されてくれ。樋口は俺と回る」

「ですわね」

「異論はないっす」

「……了解です」

 あたしと椎葉以外の3人が素直に首肯する。

 そして、当然のように椎葉が不満の声を上げた。

「えぇーっ!? どうして俺が慎吾とペアなんだよー! 悠樹、ずりーぞ! 1人だけプールを楽しむつもりなんだろ!?」

 しかし、奥村先輩は椎葉にジト目を向けると、普段よりも更に低い声で尋問した。

「その言葉、そっくりそのまま返してもいいか? 樋口とペアを組んだら、樋口が怪我しているのをいいことに、彼女を残して1人で楽しもうなんて……1ミリも考えてなかったよな?」

「え?」

 刹那、椎葉の目が思いっきり泳ぐではないか。それが答えだ。

 全員の、冷たい視線が、突き刺さる。

 これはさすがにあたしもフォロー出来ないぞ、椎葉……。

 奥村先輩がため息を付いて、椎葉に引導を渡した。

「樋口の状況は有坂も分かっているだろう? 今回は、俺が樋口を守らせてもらう。主な実戦は東原と有坂に任せたからな」

「分かっていますわ」

「へいへい、分かりましたよ」

 凛とした表情で頷く絢芽と、諦めた表情で頷く椎葉。

 今回は戦力外のあたしなので、何も言えないまま苦笑いでことの成り行きを見守っていると、いつの間にかあたしに近づいていた佐藤先輩が、ニヤニヤした表情で問いかけてきた。

「樋口ちゃん、奥村会長と何かあったんすか? 守らせてもらう、とか言っちゃってるっすよ。随分過保護になっちゃってるっすよ」

 そりゃあ、今の言葉だけを第三者が聞いたら、色々勘ぐってしまうかもしれないけれど、残念ながら、彼が期待するような答えではない。あたしは苦笑いのまま、自嘲気味に呟いた。

「いやー……あたし、レベル不足の足手まといなので……」

 これが事実であり、全てだ。この中で剣の……『颯』の力を引き出していないのは、あたしだけ。そのせいで、蓮華や亜澄のターゲットになりそうだから、奥村先輩や綾芽が少しだけ、ピリピリしているのだ。

 今日だって、あたしは自宅での留守番でも良かったんだけど、この場に雛菊の力が必要になる以上、家に1人でいるよりも、誰かと行動を共にしたほうがいいと説得されたんだっけ。

 まぁ、『颯』は使えるのだから、少しくらい役に立てる……と、いいんだけど。せめて邪魔にならないようにしておこうっと。

 あたしの態度に何かを感じた佐藤先輩は、それ以上詮索しなかった。

 と、奥村先輩が全員にプールの案内図を配り、この場をまとめる。

「何かあったら、LINEのグループで連絡を取り合おう。早く終われば後は自由行動だから、短時間で終わるよう、協力してくれ」

 その言葉に、全員が頷いた。


 数年ぶりに訪れた久那市市民プールは、あたしの過去の記憶にあるプールではなかった。

 まず、広い。以前は隣に市の古い公民館があったのだが、老朽化に伴う移転で取り壊され、その分の広さがプラス。更衣室を出てすぐのところに流れるプールがあり、その内側にはテントが設置され、休憩したり、食事をとったりしている人々が陣取っている。(プールの外周は移動の邪魔になるので、座ったりすることは禁止されている)

 更衣室から出て右に行けば、子ども向けの浅いプールと小さな滑り台があるエリアがある。ひときわ大きな歓声が聞こえていた。

 左に行けば、ウォータースライダー等の大人向け遊具があるエリアになる。っていうか、あのスライダー高すぎはしないだろうか……面白そう、ちょっとやってみたいかも。椎葉がはしゃぎたくなる気持ちも分かるなぁ。これは遊びたくなるよ、うん。

 それぞれの持ち場は、椎葉と佐藤くんがウォータースライダーがある左エリア、絢芽と山岸さんが流れるプールのある中央エリア、そして、

「奥村せんぱーい……せめて、せめて水に足をつけるくらいダメですか!?」

「今は我慢しろ。俺だって我慢してるんだ」

「奥村先輩は修行僧みたいな生き方が出来るかもしれませんけど、あたしは無理なんですよ!」

「……ちょっと待て、今、非常に聞き捨てのならないことを言われたような気がするんだが……」

 向かい合わせに座っている奥村先輩が、顔をしかめてあたしを見つめた。

 そう、子ども向けプールと遊具が整った右エリアの担当が、あたしと奥村先輩。大人の膝上くらいの大きなプールに、一定時間が経過すると滝みたいに上から水が落ちてくる仕掛けや、傾斜のゆるい滑り台等が大人気。プールの水がぬるくなるんじゃないかってくらい、子どもの姿であふれていた。

 飲み物や軽食を販売している露店の周辺に設置された、パラソル付きのテーブルを1つ陣取って、とりあえず互いに冷たい飲み物を購入してから、そりゃーもうキラッキラと水しぶきをあげながら、キャッキャウフフと遊んでいる子どもたちの姿を眺めつつ、周囲を警戒している。

 机上に置いた携帯電話には、どのグループからも連絡がない。調査を開始してからもうすぐ1時間が経過するけれど、久那市市民プールは至って平和だった。

 このエリアには親子連れしかいないので、高校生二人組のあたし達は妙に浮いているけれど……しょうがない。華奈ちゃんでも連れてきてあげればよかったかな。

 いや、ダメだよ、危険なことに巻き込んじゃう可能性が高いんだから。

 奥村先輩のジト目を受け流しつつ……でも、目の前にプールがあるのに遊べない現実は、ちょっと悲しい。

 しかし、今のところ怪しい気配も動きもない。雛菊もどこかにスタンバイしてくれていて、何かあればすぐに『境界』を設定してくれることになっているんだけど……どこにいるだろう。探したら負けな気がするから、別にいいけど。

「奥村先輩は、改装前のプールって来たことありますか?」

「改装前も改装後もあるぞ、っていうか、毎年来てるな」

「え? 毎年?」

 何となく尋ねたあたしに帰ってきたのは、意外な答えだった。

 奥村先輩って、外でプールよりも図書館で読書、というイメージだったから。

「華奈に頼まれるんだよ。多分、今年ももう1回くらい来ることになるだろうな」

 ため息をつきながら、でも、どこか嬉しそうな表情を隠しきれていない。

 そうか、華奈ちゃんはちゃんと遊びに連れて行ってもらっているんだね! 良かった!

 しかし、何かを思い出したのか、彼の表情が曇った。

「華奈はウォータースライダーが好きみたいで、去年までは身長制限で引っかかってたんだが、今年は多分、大人向けのやつも滑ることになるんだろうな……」

「あれ、奥村先輩はああいうの苦手ですか? 面白そうなのに」

「一度なら構わないんだが……何度も何度も同じものを滑らされるんだぞ」

「えー? いいじゃないですか。1回目は怖くて余裕がなくても、何回も滑っているうちに楽しめるようになるんですよ」

 だから、許されるなら今すぐにスライダーへ走って行きたい!!

 ……とは口に出さずスライダーの良さを語ってみると、あたしをじっと見ていた先輩が、どこか疲れた表情でこんな提案をしてくれた。

「そこまで言うなら……樋口の都合がつけば、華奈に付き合ってやってくれないか?」

「喜んで! ご連絡お待ちしてますっ!」

 鼻息荒く答えるあたしに、奥村先輩が無言で頷く。やったー、華奈ちゃんとプールだー! 絶対に都合つけてやんよーっ!

 あたしが脳内で華奈ちゃんとキャッキャウフフする未来を妄想していると、飲み物を口に含んだ奥村先輩が、少しだけ、神妙な表情になった。

 何だろう。あたし、はしゃぎすぎた?

「奥村先輩?」

「足の具合は……まだ悪いままか?」

「え? あ、まぁ……でも、大分元通りになってきましたよ。さすがに走ったりすると痛いですけど」

 今日はテーピングのおかげもあり、普通に歩くだけならばほぼ問題ない。ただ、『颯』を構えて戦ったら……どうなるか分からないけど。

 苦笑いで返すあたしだが、奥村先輩は硬い表情のままだ。

「そうか……無理するなよ。俺でよければ力になるから」

「ありがとう……ございます」

 そう言われて、少し拍子抜けしてしまった。奥村先輩は、あたしの怪我に妙な責任を感じているのか、ここ最近は特に優しい……いや、勿論今までも優しかったよ!?

 慣れない優しさに焦ったあたしは、奥村先輩の「変化」に、気がつくことが出来なかった。

「樋口の怪我は、俺の責任だと思ってる。あの時に俺がもっと気をつけていれば……樋口を1人にすることもなかったのに」

「その話はもうやめましょうよ。あの時はまさか、綾小路さんが伏兵だったなんて誰も気づいてなかったんですから」

「それは分かってる、分かってるんだが……俺は自分が許せない。香澄1人が辛い思いをすることはないはずなのに……!」

「そこまで言ってくださってありがとうござ……あれ?」

 ん? 何だか今、強烈な違和感を感じたのはあたしだけだろうか?

 あたしが違和感の正体を必死に考えていると、彼は無言でその場に立ち上がった。

 このテーブル、本来ならば5つ椅子があるはずなのだが、周囲の家族連れが持って行ったりして、今座っているものを含めて3つになっている。丸いテーブルに対して正三角形の配置になっていたんだけど、彼はあたしの左隣になるように場所を移動して、椅子ごと、体を近づけていらっしゃる!?

 何かおかしい、何かがおかしい!

「あの、奥村先輩……どうかしましたか?」

 あたしも椅子ごと体を動かして、何となーく彼から距離をとってしまった。横目でチラリと見てみると、先程まで精悍な顔つきだった彼はどこにもいない。まるで眼の奥にハートが見えるくらい、あたしを熱い視線で見つめていらっしゃる!?

 刹那、左手が捕まった。彼は掴んだあたしの左手を自分の頬に押し当てると、とろんとした表情でこんなことを言う。

「俺が……ずっと側にいて香澄を守るから。香澄ももっと、俺に甘えてくれていいんだぞっ☆」

「ダウトーっ!!」

 奥村先輩が壊された! いつの間に、っていうかどうやって!? ただ、座って話をしていただけなのに!

 しかし、彼から『堕落者』の気配は感じなかった。『堕落者』が入り込んでいないということは、不用意に『颯』で攻撃できないってことだ。地味に厄介な状況だ。

 とりあえず、あたしは右手で机上の携帯電話を引っ掴んだ。メッセージを作る余裕はない、手っ取り早く、着信履歴から絢芽に電話をかける。

 呼び出し音が妙にもどかしく感じた。早く、早く、早く――!!

「――もしもし、香澄さん?」

「あやっ、あや……絢芽ぇっ! 助けて!!」

 あたしの切羽詰まった声を聞いた絢芽が、電話の向こうで息を呑む。

「!? 落ち着いてくださいませ、どうなさったのですか?」

「奥村先輩が……先輩がっ……!」

「いいから落ち着いて説明してください、奥村さんに何かあったのですか?」

「気持ち悪い!!」

「……はい?」

 電話の向こうの絢芽が、心の底から怪訝そうな声を出した。


 とにかく連絡はついた。後は他のメンバーがこっちに回って来てくれるだろう、けど……。

「あ、あのー奥村先輩、手を離してください。恥ずかしいというか気持ち悪いというか生理的嫌悪感というかその……な、何というか……」

 あたしの左手は相変わらず、奥村先輩が掴んで離さないわけで。

 周囲の人達がは異変に気づいているけれど、ただの恋人同士のキャッキャウフフ程度にしか思われていないので、誰も近づこうとしない。むしろ、子どもの手を引っ張って遠ざかっていく。

 さて、雛菊にはどうやって知らせればいいのだろうか……ここで大声を出せばいいのか? そろそろ異変を察知して駆けつけて欲しいところなんだけどな!!

 『颯』を呼び出したくなる衝動を必死に抑えながら、何とか穏便に事を運びたいあたしは、ドン引きした笑顔で何とか言葉を絞り出す。

 勿論、あたしの言葉など、今の奥村先輩に通じるはずがなくて。

「こうしていると落ち着くんだ。ダメかな?」

 普通の女子ならば一発で恋に落ちるような笑顔だったけれど、普段を知っているあたしには、違和感以外の何ものでもなくて……スイマセン、受け入れられません。

「ダメですよ! むしろなんで良いと思ってるのか聞きたいくらいです!」

「香澄と一緒にいると、楽しいね。こんな日々をずっと積み重ねていきたいよ」

「話聞いてます!?」

「勿論だよ。俺は香澄のことを心から思っているから……香澄の考えていることも手に取るように分かるよ。俺のことが大好きだ、って、ね♪」

「……誰でもいいから早く来て……!」

 この、寒くもないのに鳥肌が立つ感覚……どんな罰ゲームなの!? 一種の拷問だよ!

 あたしの顔が極限まで引きつった、次の瞬間――世界の音が、一瞬、消える。

 そして……戻ってきたのは水が流れる音のみ。今まであたしたちを白けた目で見ていた大人も、遊びに夢中になっている子どもも、全て、いなくなっていて。

 よし、ここから……思いっきり抵抗出来る!


「――颯!!」


 雛菊の『境界』を確認した瞬間、あたしは『颯』の名を呼んだ。

 久しぶりに現れた相棒は、あたしの右手によく馴染む。

 『颯』に気づいて彼が動揺した隙を見計らい、掴まれていた左手を振りほどいて距離をとった。そして、周囲を見渡す。もしも黒幕がこの空間内に取り残されているのだとすれば――!

「――見つけた!! そこから動かないでよね!」

 子ども用プールの奥、飲み物や軽食を販売する売店の店員が、突然の状況にアタフタしている様子を確認した。

 この場に残る『干渉者』以外の人間は、あの人だけだ。

 あたしがその人の元へ向かおうと、奥村先輩に背中を向けた次の瞬間。


「――来い、俺の焔!」


 彼が……何だか聞いたことのない口上と共に『焔』を握り、あたしに満面の笑みを向けている。

 その笑顔、いや、ドヤ顔に、大変申し訳ないけれど……背筋が寒くなってしまった。だって、あんな顔見たことないし、想像すら出来なかったから。

 真夏の暑さも忘れてすっかり硬直してしまったあたしへ、彼は『焔』の切っ先を向けると、こう言う。

「香澄は恥ずかしがり屋サンだね。もっと正直になっていいんだよ♪」

「うわぁぁぁっ! 奥村先輩戻ってきてーっ!!」

 思わず『颯』を取り落としそうになってしまった。あたしの中にあった「奥村先輩」のイメージが、強烈な勢いで壊れていく音が聞こえてくる……いや、奥村先輩はむしろ被害者なんだけど……でも、これって強すぎる精神攻撃なんですけど!?

 この状況に動揺したあたしの反応が鈍くなってしまい、我に返った時、彼は完全にあたしの射程距離に入っていて――


「――滾れ、焔!」

「うわっ!?」


 振り下ろされた『焔』から炎の渦が解き放たれ、寸でのところで体を捻って回避して何とか直撃を回避したものの、着ていたTシャツの裾が黒く焦げてしまった。

 加えて、無理に体をひねったこと、『颯』を持っていたことで勢いもついてしまったこと、しかも軸足を本調子ではない左足にしてしまったことで、あたしの体は完全にバランスを崩してしまい――


「ひゅうわぁっ!!」


 ばしゃんっ!!


 尻餅をつくようにして転んだ先は、子ども用のプールだった。

 水のお陰で衝撃は少し緩和された気もするけれど、今まで歩くことが出来た左足に、動かしたくなくなるような痛みを感じる。

 しかし、気を緩める暇はない。なぜなら、

「はははっ、香澄は俺とプールで遊びたいのかなっ☆」

「いやぁぁっ! そんな爽やかな笑顔で来ないでーっ!!」

 白い歯を輝かせながらあたしに迫る奥村先輩がプールに侵入してきたかと思えば、座り込んだまま動けないあたしと視線を合わせるように膝をつき、ニコニコした表情で見つめている。

 攻撃してくるわけではない、のか……? でも、この笑顔で精神的なダメージが相当なんですけど……。

 そこへ、ようやく。

「香澄さん、大丈夫ですか!?」

「悠樹、お前が敵の術中にはまってどーすんだよ!!」

 『雫』と『壇』をそれぞれ持った2人が現場に到着。佐藤先輩と山岸さんの姿がないということは、2人は安全な場所であたし達の帰りを待っているんだろう。

 2人の姿を確認した奥村先輩は、笑顔からいきなり不機嫌そうな表情になり、

「東原も椎葉も邪魔をしないでくれないか? 俺は香澄と二人っきりがいいんだ」

「は、はぁっ!? 悠樹テメェ……お前が俺に女の子と遊ぶなって忠告したんじゃなかったのかよ!?」

 憤慨する椎葉に、奥村先輩は「可哀想な子」を見るような視線を送る。

「有坂、いくら俺と香澄がラブラブで相思相愛なのが羨ましいからって、嫉妬は見苦しいぞ」

「ふんがーっ! お前と香澄ちゃんがいつラブラブになったんだよ!」

「俺と香澄は出会った時から互いに惹かれ合っていたんだ。そして、その想いはようやく結ばれた……そしてこれから、更に激しく燃え上がる!」

「ねぇ香澄ちゃん、そいつ殴ってイイ? いいよね!?」

 奥村先輩へ『壇』を振り上げようとする椎葉を、半歩後ろから見ていた絢芽が『雫』で諌めた。

「落ち着いてくださいませ。あんな奥村さん、どう考えても敵の術にはまってしまっていらっしゃいますわ」

「そんなの見れば分かってるよ! だから、俺の『壇』で正気に戻してやる……!」

 そう言いながら再度『壇』を振り上げようとする椎葉に、今度はあたしが待ったをかけた。

「椎葉、ちょっと待って! 奥村先輩からは『堕落者』の気配がしないの! ここは大丈夫だから、2人は黒幕を何とかして!」

「黒幕? 香澄ちゃん、そいつがどこにいるか分かってるの?」

「ほらあそこ、売店の……あぁっ! あっちに逃げようとしてる!!」

 あたしが指さした先、売店から出てきた人影が、コチラとは反対方向へ走って行く後ろ姿が見えた。

 事態を把握した絢芽が『雫』を持ち直し、椎葉に目線を移す。

「有坂さん、挟み撃ち致しましょう。私は後ろから追いかけますわ」

「了解! じゃあ香澄ちゃん、この場は任せた!」

 2人がそれぞれの方向に走って行く後ろ姿を見送りつつ……2人がいなくなって満足そうな奥村先輩をどうしようかと、途方に暮れるあたし。

 今の奥村先輩の状況って、逃げた黒幕が何とかなれば元に戻ってくれるんだろうか……雛菊、そのへんも何とかしてくれるのだろうか?

 顔を引きつらせつつ彼を見上げると、満面の笑みの奥村先輩と、視線が交錯する。

 ……うわぁぁゴメンナサイ奥村先輩! やっぱり、あたしにその表情は受け入れられませんっ!!

 水の中で『颯』を握りしめたあたしは、奥村先輩を真っ直ぐに見据えて、


「威力は弱くします本当にスイマセン! 踊れ、はや……」



 ――風は、起こらない。

 


「――明鏡止水!」

「――撼天動地!」


 椎葉と絢芽の声と、何が重たいものがいくつも落下したような音が、少し離れたところからほぼ同時に聞こえてきて。

 刹那、不意に意識を失った奥村先輩がプールに膝をつき、あたしに向かって倒れこんでくる。

 何とか彼の顔が水につかないように支えながら……あたしは、今しがた自分の身に起こったことを、まだ信じられずにいた。

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