それが彼女のスタイル
あたしが自分で話に区切りをつけたことを見計らった先輩が、無言でハンカチを差し出した。
地面を照らす自動販売機の明かりが眩しい。周囲には人の気配もなく、車の音が時折遠くに聞こえ……木々の葉を揺らす風が、優しく吹き抜けていく。
無言でそれを受け取って広げると、とりあえず顔を覆った。
何というか……こんなボロボロの状態をあまり見られたくなかったんだ。
涙とか鼻水とか汗とか……多分、色んな液体がついてしまったことだろう。
「……洗濯して、返しますから……」
「気にするな。そういう使い方をするもんだ」
先輩の声に、一度頷く。
そして……ハンカチを顔から離したあたしに、もう、涙は残っていなかった。
感傷にひたるのは、ここまで。
「あたしは……確かに、亜澄に恨まれていると思います。だけど、今回のこととは別問題です。彼女がやろうとしていることは違う、そう思うから、あたしは亜澄と戦います」
ハンカチを折りたたんで、自分のポケットに入れた。
いや、このまま返せる度胸はありませんってば!
今度から忘れずに自分のハンカチを持ち歩こう、こんな決意もしたところで……ずっと正面を向いて話を聞いていた先輩が、そのままの状態で一言。
「そうか……分かった」
「奥村先輩にも、迷惑をかけました。その……あたしの楯になったばかりか、亜澄の楯にもされちゃって……」
先日のことを思い出し、肩を落とすあたし。
そんなあたしに、先輩はふと、正面からあたしの方へ視線を向けた。
その眼は、何やら驚きに溢れている。
「俺は、自分が刺されてからのことをあまり覚えていないんだが……そんなことになっていたのか?」
「は、はい。何だか色々悲惨なことに……」
亜澄に2回も貫かれた挙句、絢芽の攻撃を受けるわ、自分の首に『焔』を突きつけるわ……。
「樋口、念のために確認しておきたいんだが、今日までの俺は、ちゃんと高校に通っていたのか?」
「あ、はい。ただ……」
「ただ?」
これは伝えていいのか一瞬迷うが、言わなければ今の先輩が困ってしまうだろう。
雛菊に関係者の記憶操作を頼み損ねたと思いながら、あたしは苦笑いで事実を告げた。
「ただ……先輩、誰に対してもそっけなくて、正直、みんな怖がってましたよ」
刹那、先輩の目が大きく見開かれて、
「そ、そうか……」
あたしから視線をそらすとがくりと肩を落とし、落ち込んでしまった。
「だ、大丈夫ですよ先輩! 雛菊に隠ぺいを頼みましょう、隠ぺいを!!」
「隠ぺいしなければならないレベルなのか……」
「はっ!? そ、それはぶっちゃけその通りなんですが……でも、先輩の本意じゃないですし、あたしもフォローします!!」
どうにか励まそうと胸の前で両手を握って、ガッツポーズっぽいものを作ってみた。
先輩が、ちらりとあたしを見る。
そして……顔をあげて暗い虚空を見上げ、疲れたような溜息。
「……ひとまず、明日の反応次第だな。最悪、雛菊さんを頼る」
「そうしましょうそうしましょう! こんな時だからこそ、雛菊を有効活用しないと!!」
雛菊本人が聞いたら眉をしかめそうな言葉だが、本人がいないから問題なし!(多分!)
再度、先輩が横目であたしを見た。
その口元に、苦笑いを浮かべて。
「前の樋口がどうだったか知らないけど……俺は、今の樋口でいいと思うぞ」
予想外の言葉に、あたしは目を見開いて身を乗り出す。
「ほ、本当ですか?」
「嘘をつく理由がないな。俺は、今の樋口が……」
刹那、先輩が耳を赤くして口をつぐんだ。
こちらを見ていた目線も急に反対方向へ移動し、今はあたしに背中を向けている状態。
「……奥村先輩?」
首を傾げるあたしに、先輩は数回咳き込みながら「……何でもない」と気を取り直して、ベンチに座りなおした。
先輩が見上げた先、薄雲に覆われた夜空が見える。
星は見えないけれど……空気が流れ、雲の隙間に満月が見え隠れしていた。
「最初は演じていたかもしれないが、そこまで出来れば上出来だと思う。俺は……その、ここにいるのが今の樋口で良かったと思っただけだっ!」
「……」
最後が何となく雑だったけど……褒められたんだよね、これ。
認めてもらえたのかな、今のあたしを。
気恥かしいのか、先輩はずっと正面を見たままだけど……あたしはそんな先輩の横顔を見上げ、自然と、笑顔になっていた。
「ありがとう、ございます……」
初めて、今の自分でいて良かった……心からそう思った。
「奥村先輩は……『堕落者』が入り込んでた時のことって、覚えていないんですか?」
あたしの素朴な疑問に、奥村先輩は首をひねりつつ、
「正直なところ、はっきりは覚えていないんだ。あの時、亜澄さんに刺されて、その次に意識が戻った時は、樋口がぶっ倒れていて……」
「そうなんですか……」
もしも先輩が亜澄や蓮華に関する何かをつかんでいれば、と、思ったのだけど……そんなに甘くはないってわけだ。
……ん?
「奥村先輩は、亜澄のことを名前で呼ぶんですね」
しかも「さん」付け。ここまでは言わないけど。
「え?」
あたしの言葉に、先輩が訝しげな表情で首をかしげ、肩越しにこちらを見下ろした。
「何か問題があるのか? 二人とも樋口だと分かり辛いだろう?」
「それは……そうなんですけど……」
奥村先輩の言い分はもっともだ。もっともなんだけど……。
「……ずるいです」
精一杯顔に悔しさをあらわして先輩を見上げた。
見下ろす彼の眼は……うぅ、完全に呆れているように見えるんですけど……。
いつの間にか腕組みしている先輩が、心なしか疲れた声音で尋ねる。
「意味がわかないな。何がずるいんだ?」
「何となくそんな気がするんです! あたしのことは苗字をぶしつけに呼び捨てなのに!!」
「ぶしつけって……じゃあどうすればいいんだ? 今度から俺は樋口を名前で呼べばいいのか?」
「た、試しにやってみてくださいよ! 自分で聞いてから判断します。まぁどうせ……あたしの名前なんか覚えてないと思いますけどね!」
その気はないのに喧嘩腰で売り言葉に買い言葉。話が変な方へずれてしまった。
でも、奥村先輩には前科がある。常日頃からあたしを名字で呼んでいるから、久しぶりに登場した下の名前なんて、うっかり忘れているに違いない!
ちなみにあたしは、先輩の下の名前――悠樹は、すっかり覚えてしまった。だって、亜澄がそう呼んでいるから。(雛菊や椎葉もだけど)
どや、と、挑発するあたしへ、奥村先輩は一度ため息をついて、
「じゃあ聞くが、樋口も俺の下の名前を覚えているんだよな?」
「当然です!」
「じゃあ、呼べるよな。俺のことを名前で」
「へっ!?」
まさかの展開。普段は名字で呼んでいるから気にしないけれど……改めて名前を意識すると、無駄に照れしまうのはどうして!?
「せ、先輩は年上ですから、下の名前で呼ぶなんて失礼です! 苗字で呼ぶのは当たり前だと思いますけど!」
「椎葉は呼び捨てだぞ」
「椎葉は学校も違うし、何よりそういうキャラだからいいんです! あたっ……あたしは、一応先輩は生徒会長だし敬意を払って……!」
「分かったよ。樋口は俺の下の名前を知らない、そういうことだな」
「違いますっ!! 悠樹って名前くらい知ってますよ!」
はっ!?
挑発にまんまと乗せられたあたしは、奥村先輩の名前をあろうことか呼び捨てにしてしまったのだった。
失礼なことをしてしまった、背中に冷や汗を感じる。
「あ、あの……すいません……悠樹、先輩……」
消え入りそうな声だけど、何とか訂正した。慣れない。普段は何の躊躇いもなく苗字+先輩で呼んでいるというのに、苗字が名前に変わっただけでどうしてこんなにハードルが高くなってしまうのかっ!
でも、私は頑張った。頑張ったんだから!!
「ほ、ほら呼びましたよ下の名前でっ! 忘れるわけないじゃないですか、椎葉とか雛菊とかが呼んでるの聞いてますから!」
奥村先輩の顔を見ることが出来ないまま、何とか言葉を絞り出した。心臓が急に早くなる。絢芽や椎葉、雛菊には何ともないことなのに、奥村先輩に対しては、呼び慣れてない感が半端ないせいもあって、予想以上に動揺してしまった。
「あ、ああ……そう、だよな」
その空気が奥村先輩にも感染してしまい、まるで付き合いたてのカップルかと言わんばかりのぎこちなさになってしまっている。
「あたしは……呼びましたよ、悠樹先輩」
「……分かってる」
「また忘れてたら本当に怒りますよ。あたしだけじゃなくて、絢芽や椎葉にもラーメンくらいおごってもらいま――」
「――あんまり一人で無茶するなよ。香澄」
刹那、2人して耳まで赤くなって黙り込んだ。
「……奥村先輩、本当に申し訳ございませんでした。やはり通常営業で参りましょう」
「……同感だ」
反省して頭を下げるあたしに、先輩も静かに同意したのでした。
と、いつの間にかそんな雑談を続けていたあたし達は……自分たちの方へ近づく気配に、直前まで気が付けなかった。
あたしより早くに反応した先輩が、不意に体をひねってその場で立ち上がる。
先輩の影になったあたしには、何が起こったのか全く分からなかった。
「奥村先輩?」
「――よぉ、邪魔するぜ」
先輩の向こう側から聞こえてきたのは、聞き覚えのない男声。割とガラも悪そうな気配。
何事かと思ってあたしも立ち上がって……気がついた。
あたし達の周辺を、見たことない男どもが取り囲んでいたのだ。
目線だけ動かして、大まかな人数を確認する。
6,7人というところだろうか……屈強そうだったりガリガリだったり、共通点は全員があたし達に敵意を持っていることくらいしか見当たらない。
先輩に声をかけた、リーダー格の男が、一歩前に踏み出した。
年齢は、あたし達より少し年上だろうか? 身長は先輩と変わらないけれど、体格がいいのでTシャツがピチピチ。迷彩柄のカーゴパンツにも余裕が見当たらないからどういう鍛え方をしたのか教えてほしい。
髪型はモヒカンで耳と唇にピアス、という、あたしにしてみれば何が良くてそんな姿で外を出歩けるのか教えてほしい風貌だ。
周囲が暗いのでその他の外見はよく分からないけれど……な、何だろうこれ。ひょっとして絡まれてる?
こんな状況に遭遇するのは初めてなので……心臓が早く動いているのが自分でも分かった。
まさか、普通の『繁栄者』相手に、『颯』は使えないし……無意識のうちに先輩の背中に隠れられるような場所で、事の顛末を見守ることにするあたし。
「こんな早い時間からお盛んなことだなぁ……俺達も混ぜてくれよ」
下品な言葉で低く笑うリーダーに、周囲の取り巻きもつられてはやし立てる。
「俺達『サンダークロス』に目をつけられたのが運のつきだったな……まぁ、いちゃついてるお前らが悪いんだよ」
「リーダー、どうします? ひとまずお得意の雷で遊んでやりますか?」
お得意の、雷?
『サンダークロス』とかいうダサいネーミングよりもあたしと同じ言葉に反応した先輩が、一切臆することなく、リーダーと呼ばれた正面の男を見やり、
「雷、だと?」
リーダーは口角をあげて、醜悪な笑みを浮かべて答えた。
「おう。なんてったって……俺達は選ばれた存在なんだよ」
自信満々に胸を張るリーダーが、不意に……自身の右腕を高々と掲げ、握りこぶしを作る。
振り下ろすのかと思って身構えるが、彼は腕を虚空へ掲げたまま、朗々と言葉を紡いだ。
「見せてやるぜ、俺の力を!」
その言葉が引き金らしく、刹那――握られた右手を中心に、バチバチという物騒な音と、黄金の光の筋が飛び交い始めた。
「お前……!」
状況を確信した先輩が、すっと、腰を低く落とした。
間違いない、このリーダーにも『堕落者』が入り込んでいる!
視線を外さない、そんな先輩をリーダーは笑みを浮かべたまま見つめて、
「ほぅ……俺のこれを見ても動揺しねぇとは、お前ら『灰猫』か?」
「残念ながら外れだな」
刹那、先輩が口の端で笑った。
そして――息を大きく吸いこんで、
「――焔」
「先輩!?」
あたしの方が驚いて声を上げるが……奥村先輩の声に導かれて現れた『焔』は、刀身にうっすらと炎をまとい、完全に戦闘態勢。
突然空中から現れた日本刀に、右手をおろしてしまったリーダーを含めて全員がざわつき、無意識のうちに後ずさりをしていた。
「て、てめぇ……どのチームの奴だ!?」
「どのチームでもない。ただ……俺達が本物ってことを教えておこうと思ってな」
先輩はそう言って、剣の切っ先をリーダーに向けた。
本物の威厳と輝きに、リーダーの顔が思いっきり引きつり……右手の雷の威力が弱まっていく。
雛菊がいないのに、どうしよう、この奥村先輩……ノリノリである。
いつの間にか形勢が逆転していた。
人数的には圧倒的にこっちが不利だけど……でも、
「しょうがないなぁ……颯っ!」
あたしの言葉に応じて現れたもう一本の剣に、今度こそ全員が士気を奪われた。
しかし、ここで終わりではない。もうひと押し!
「ひとまずいきます! 踊れ、颯!!」
あたしの声に応じて巻き上がった風が、周囲にいた全員の足元をすくって、地面にごろごろ転がす。
不意に目に見えない力で攻撃される恐怖を植えつける。
そう、その力が使えるのはこちらも同じ――って、ね。
「よく加減したな、樋口」
「一応。まぁ……次は無理でしょうけどね」
あたし達の会話に、最早誰も口を挟まない。
リーチが長いのはこっち、得体のしれない能力を持っているのもこっち。精神的な揺さぶりをかけるには十分すぎるだろう。
あたしの手に『颯』があることを確認した先輩が、一歩、前に踏み出して、
「さて……この中で不思議な能力を持っているのは誰だ? 該当者は前に出ろ」
周囲に聞こえるように言い放ったが、全員の足がすくんでいるので、誰も自分の位置から動こうとしない。
その様子を確認した先輩は……リーダーへつきつけていた『焔』を一度引くと、ため息をつきながら呟く。
「しょうがない……樋口、ここにいる全員を斬るしかなさそうだな」
その言葉にはあたしも素直に同意して、
「そうですね。可能性は全部つぶさないといけませんから」
「ちょっ……! ちょっと待てよお前ら! お、俺達を斬るって……人殺しだぞ!?」
取り乱した取り巻きの1人が金切り声をあげる。多分、他人からこうやって凶器を向けられたことがないんだろう。(あるはずないとは思うけど)
しかし、先輩は一切動じることなく、声がした方へ『焔』を向けながら、
「悪いな。俺達は……それくらいの覚悟で、お前らのリーダーが遊びで使ってる力と共にあるんだ。だからこそ、悪用する奴には容赦しないことにしてるんだよ」
その言葉に、先輩の本音があった。
そして……それにはあたしも思わず同意してしまう。
今のあたしに、『颯』をゲームや遊び感覚で使うという意識はない。
言うならば……壮大で本気な姉妹喧嘩を終わらせるための、必要不可欠な相棒だ。
「さて……じゃあ、半分任せたぞ、樋口」
「了解っす!」
あたしは先輩と背中合わせに立ち、ベンチの背後、草むらの中で挙動不審に立ち尽くす数人と対峙した。
軽く全員の顔を見渡して……全員の目が怯えていることを確認する。
刹那、その中の1人がリーダーを指さして絶叫した。
「お、俺達は誰もそれを使えない! 使えるのはリーダーだけだぁぁっ!!」
「てめぇ!?」
身内の裏切りにリーダーが目を見開くが、その声を合図に全員が逃げ出した。
1人、その場に取り残されたリーダーは……がくりとその場に崩れ落ちて、
「ちくしょう……ちくしょう……!」
悔しそうに何度も呟く。
しかし……1人になっても攻撃してくるかと思ったのだが、案外折れるのが早かったなぁ、と、すっかり小さくなったリーダーを見下ろして、正直な感想を胸にとどめる。口に出して逆上されたら厄介だし。
「仲間が逃げたぞ、リーダー」
先輩の嫌味に、リーダーは崩れ落ちたまま頭を振った。
「うるせぇ! 俺達はもともと寄せ集めなんだよ。俺がリーダーなんて呼ばれてるのも、この力を持っていたからだ」
「そうか。だったら……今度はちゃんと、自分の実力でリーダーになってくれよ」
何やら真面目に語った先輩が、リーダーの頭上に『焔』をかざした瞬間、
「……すいません。そこまでにしていただけませんか?」
不意に聞こえた声と、近づいてくる足音。
何事かと思って2人して声の方に向き直ると、左手の散歩コースを曲がってきた彼女が、ペースを変えずにあたし達の前に歩いてきた。
帽子を深くかぶっているので顔は見えないが、首が隠れるくらいのショートカットに、眼鏡をかけている様子。ブラウスにスキニジーンズというシンプルな格好が似合う、すらっと背の高い女性。
顔を隠すように帽子が邪魔をしているけれど……この状況に一切動じない精神力の持ち主のようだ。
「君は……」
奥村先輩はこの人を知っているらしく、軽く会釈をしたではないか。
しかし、先ほどからあたしも頑張って脳内検索をしているのだが……ダメだ、声と身長だけじゃヒットしない。
「あのー先輩、こちらの方は……?」
「は、『灰猫』……!!」
先輩が答えるよりも早く、座り込んだまま顔をひきつらせたリーダーが彼女を指さして呟いた。
え? この女の人が『灰猫』!?
指を差された彼女は、あたし達をすり抜けてリーダーの前に立つと、苦々しくため息をついた。
「……約束が違うのではないですか? 貴方が力を悪用しないという誓いを立てたから、一度見逃したんです」
「そ、それは……」
見たところ、彼女は武器など何も持っていない。それなのに……リーダーは完全に委縮して、顔を真っ青にしている。
「た、頼む、俺はまだこいつらに手をだしてないんだぜ? むしろ、こいつからこんな――!」
「――言い訳は見苦しいだけ。それに私はもう、貴方を許しません」
凛として言い放った彼女に、彼はがくりとうなだれた。
何が起こったのか分からないあたしに、くるりと振り返った彼女が、しげしげとあたし達を見つめて、
「……それが、『干渉者』が持つという剣ですね」
「ああ」
躊躇いなく首肯する先輩から、彼女がこちらの事情を知っていることが伺える。
帽子を取らないまま、彼女は「ふむ」と、納得するように一度首肯してから、
「……可能であれば、それを片づけていただけますか? もうじき、ここには警察が来ます」
「警察?」
先輩の言葉に、彼女は一度だけ頷く。
「……この人を引き渡すよう手配しておきました。後は、大人に任せましょう」
「分かった」
素直に同意した先輩が、『焔』を空中へ放り投げる。
霧散した剣に彼女は少し驚いたような表情になったが……すぐに、冷静さを取り戻して、
「……樋口さんも、よろしければそれを片づけていただけませんk?」
「へ!? あ、はいっ!!」
彼女に促され、あたしも慌てて『颯』を空に放り投げる。
バタバタと、何やら騒がしい足音が……遠くから段々近づいていた。
あたし達が座っていたベンチから数十メートル先、市営グランドの敷地から出て、コンビニの駐車場まで移動してきた。
奥村先輩は飲み物を買いに中へ入ってしまったので、必然的に2人っきり。隣に並んでいるけれど……ええ、予想通り会話が弾みませんとも!
問題の彼女は先ほどからスライド式の携帯電話を取り出し、何やらメールを打っている様子。だから余計に話しかけづらいっ!
そ、それに、何やらざわついた空気を後ろに――あたし達がもといた方向から――感じるが……だ、大丈夫なんでしょうか、コレ。
あたしが隣にいる彼女をびくびくしながら見上げると、彼女もふと手を止めると、こちらを見下ろして、
「……これは、失礼しました。
ぺこりと頭を下げると同時に、帽子を取って素顔を見せてくれた。
眼鏡越しの猫目が印象的な女性。絢芽とは違うクールな雰囲気がある。あたしよりも年上だと思うけれど……ううん、やっぱり誰だか分からない。
「……樋口さんとは初めまして、でしたね。山岸と申します」
「山岸、さん……」
どうやら向こうはあたしのことを知っている様子だ。まぁ、『灰猫』らしいから椎葉から聞いたのかもしれないけれど……でも、奥村先輩が山岸さんのことを知っているということは、『灰猫』でも上の方の立場なんだろうか。
ん、まてよ、そういえばこの間、椎葉と絢芽から話を聞いた時、絢芽と2人で話していればいいんじゃないと思った人って、この人のことか……?
あたしが脳内で必死に情報を整理していると、山岸さんはぺこりと頭を下げて、
「……今回は、お手数をおかけしました」
「い、いえ、こちらこそ騒ぎを大きくしてしまって……警察だなんて……」
慌てて謝罪するあたしに、山岸さんは「……いいえ」と首を横に振って、
「……あの人は、以前も同じ騒ぎを起こしています。親御さんが立場のある方なので、警察沙汰は困ると懇願されて、一度見逃したんです」
「へっ!? そうなんですか?」
「……父親が県議会議員なんです。本人も、市外の私立高校で空手部のキャプテンをしていますけれど……もう、無理でしょうね」
淡々と呟く山岸さんからは、リーダーに対する同情は一切感じられない。
これがきっと、『灰猫』の戦い方なんだろう。
相手の情報を仕入れて、相手が一番望まない方向へ持っていく。正直、武器を行使するより効き目が強そうだ。
「……ここは私のエリアですから、仲間から連絡を受けて現状を確認しに来たのですけれど……」
と、不意に彼女があたしをしげしげと見つめて、
「……『干渉者』というのは、あんなに堂々と自分の武器を振りかざして大丈夫なのですか? 私はもっと隠れたところでやっているのかと思っていました」
一番痛いところをつかれた。ええ、その通りでございますけど……。
「う、それは……奥村先輩に言ってやってください……」
信じてもらえないかもしれませんが、先に剣を取り出したのは奥村先輩なんですっ!
――と、そこへ、中から3人分の飲み物を調達してきた奥村先輩が合流。
「お待たせしました、山岸さん」
「……いえ、お疲れ様です」
それぞれに会釈を返し、入口付近は邪魔なのでひとまず店舗の端まで移動する。看板の明かりが何とか届く位置で、先輩がビニール袋の中が見えるように開き、
「どれか、好きなものを選んでください」
何やら爽やかな対応にあたしとの差を感じずにはいられないけれど……山岸さんはしばし、その袋の中身を覗き込んで、
「……では、これを」
そう呟き、紙パックの野菜ジュースを取った。
「……栄養は、大事です」
何やらじんわりと笑顔を浮かべて、ストローを刺す。
「樋口はどれがいい?」
「えーっと……じゃあ、これ」
あたしはお茶のパックを手に取った。ミルクと砂糖たっぷりの紅茶は、間違いなく奥村先輩のものだと思ったから……。
最後に残った紅茶の紙パックにストローを突きさしながら、先輩は密かにご満悦の山岸さんを見やり、
「それにしても助かりました。あの場所には山岸さん一人だったんですか?」
この質問に、彼女はストローをくわえたまま、首を横に振った。
「……いいえ、そんな無謀なことはしません。女だと相手が油断するので私が先に出て、通常は仲間を周囲に配置しているのですが……今回は最初から私一人で大丈夫そうだったので、仲間は先に撤収しています」
まぁ確かに、女性だと相手は油断するかもしれないけれど……危険じゃないんだろうか?
あたしの視線から抱いた疑問を感じ取ったのか、山岸さんは右手に携帯電話、左手にジュースを持ち、
「……勝算のない場所へ飛び込むようなことはしません。それに、私も多少は危機回避の方法を心得ています。ご安心ください」
「は、はぁ……」
何だか心を読まれたような気がして、生返事しか出来なかった。
そんなあたしを特に気にするわけでもなく、山岸さんはメールを打ち終わったのか、親指でスライドを下げると、
「……先ほどのような輩が、この久那市で異常に増殖しているのが現実です。私たちに出来ることは、大人数で抑え込んで警察に引き渡すこと……でも、お2人は根本的な対処法が使えると思いますので、今後も遠慮せずにその力を行使していただければ助かります」
山岸さんのクールな眼差しが、あたし達を真っすぐ見据える。
その言葉に、あたしと先輩は無言で首肯した。
……以下余談。
「香澄さん、以前もお伝えしたはずなんですけど……私の知らないところで、多くの方に『颯』をさらすのはやめていただけませんか? あの激戦の後に待っていた私のとてもとてもきめ細やかなフォローが、どぉっれだけ大変だったか徹夜で切々とお話したい衝動に駆られていますっ!!」
「あ、あたしが先じゃないのにーっ!!」
帰宅したあたしを待っていたのは、雛菊のお説教でした……。
……あたし、元凶じゃないのに……。