過去からのオブスタクル
「ようやくお目覚めですわね、樋口さん」
頭の痛みにうずくまるあたしの頭上から、絢芽の呆れた声が聞こえる。
「あ、あやめぇ……」
顔だけあげて彼女を見上げると、腕を組んだ彼女が、そりゃーもう心底呆れた表情でこちらを見下ろしていた。
「……痛いのは先ほどの音だけで十分伝わっていますわ。ですけれども、不幸な事故とは言え、半分は樋口さんのせいなのですから……奥村さんへ謝罪されたらよろしのではなくて?」
「はっ!? そうだ、先輩は!?」
我にかえって立ち上がり、周囲を見渡すあたしに、絢芽が静かに指さした先、
「……随分な出迎えだな、樋口……」
唇の端に滲んだ血を手でぬぐいつつ、地面に座り込んだ奥村先輩が……あたしを見上げていた。
顔は、いつも通りの呆れた苦笑い。
その眼差しには、優しい光が宿っている。
「奥村……先輩……?」
「ああ」
「元に、戻ったんですよね……?」
「ああ」
嬉しいとか、良かったとか……胸の奥から込み上げる熱い思いがあった。
でも、それを言葉にして口に出した瞬間、感情の歯止めが利かなくなるような気がして。
だから……あたしは言葉が続かず、どうしたものかと途方にくれて口ごもってしまった。
絢芽のニヤニヤした視線が痛いけれど……だ、だって、だって!
そんなあたしを見かねた奥村先輩が……不意に、あたしへ手を伸ばした。
先輩の手があるのは、あたしが手を伸ばせば簡単に届く距離。
「……ただいま」
ぽつりと呟いた言葉に、あたしが返すのは一言でいい。
あたしは自分の手を伸ばして、先輩の手を握った。
「おかえりなさい、奥村先輩!」
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一方その頃、会場の外。
入口の扉の前で立っていた雛菊に、彼女がゆっくり近づいた。
誰もいないアスファルトの歩道に、下駄の乾いた音が響く。
「終わったようじゃな」
「ええ。問題なくこちらが勝ちました」
雛菊は彼女――蓮華の方を見ることなく、一言、冷静に言い放つ。
「そもそも、私達が負けるはずがないでしょう? 自分自身の役割を放棄し、己の私利私欲に走る『監督者』とその『干渉者』に、好き勝手な真似は許しません」
突き放すように言い放った雛菊に、蓮華は「やれやれ」を肩をすくめて両手を上げた。
「怖くなったものじゃ……東原の末裔の成長に敬意を表して、今日は大人しく帰ることにするよ」
そのまま後ろに下がる蓮華に、雛菊はちらりと目線を向けて、
「蓮華、1つ教えてください。貴女が時間を戻して歴史を変えたいのは……あの結末を変えるためですか?」
刹那、蓮華の口元がつり上がった。
そのままくるりと踵を返し、雛菊に背を向ける。
「……さて、一体何の事じゃ? わしの目的は、この堕落しきった世界を正すことじゃ。まぁ、その過程で……『確定事項』が揺らぐことも、あるかもしれんがな」
「れんっ……!」
刹那、猛烈なつむじ風が吹き荒れ……雛菊は自身の顔を腕で覆った。
着物の裾がはためき、木の葉が舞い踊る。
雛菊が腕を下ろしたとき……彼女の姿は、どこにも見当たらなくて。
「……姉さん、それは無理なんです……分かっているでしょう……!?」
悔しそうに呟いた雛菊の独白が、残った風に紛れて消えた。
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立ちあがってズボンの泥汚れを簡単に払い落した奥村先輩は、不意に、あたしの隣でニコニコ笑っている絢芽にジト目を向けて、
「東原……少し会わないうちに、キャラが変わったんじゃないのか?」
「あら、それは奥村さんにも同じことが言えるのではありませんこと?」
一切態度を変えずにしたり顔で言い返す絢芽は、隣でひりひりする後頭部を抑えているあたしから離れた場所にいる椎葉へ視線を向けて、
「ひと先ず、あちらと合流しませんこと? 妹さんもあのままでは、さすがに可愛そうですわ」
ずどーんとそびえ立っている土の塔を指さし、ため息。
椎葉も、「おーい!」と豪快に左手を振っている。右手に『壇』が残っているということは、まだ、亜澄に対して予断を許せない状況なのかもしれない。
あたしは両手でメガホンのように口の周りをおおい、
「椎葉! 今そっちに行くから、そのままで待っててねー!」
彼へ一声かけてから、地面を蹴って走り出す。
そんなあたしの背中を見つめながら、絢芽が長い髪を翻して歩きだした。
そして、隣に並んで歩く奥村先輩を、眼鏡越しの瞳でちらりと見上げ、
「……お疲れ様でした。またこうやってお話が出来て、嬉しいですわ」
「東原には特に世話をかけたな。まぁ、全く歯が立たなかったわけだが……精進するよ」
「宜しくお願い致しますわ。奥村さんにも努力していただかないと……」
言葉を区切り、前方を見つめた。
既に椎葉の元へ辿り着いたあたしの姿に、絢芽は一瞬、目を細めて、
「香澄さんに置いて行かれますわよ」
絢芽には確かに聞こえていた。
あたしが、普段とは違う言葉で『颯』の力を解放したこと。
そして……その力が、的確に奥村先輩だけを攻撃して、消えたこと。
現に、地面には風で出来たくぼみはない。普段はその影響で地面に大穴があきそうなものだが、今回は芝生が舞い散るだけにとどまっているのだ。
力の無駄な拡散をおさえ、的確に標的物だけを攻撃する。
それはまだ、2人の到達していない地点。
絢芽の言いたいことが分かっている奥村先輩は、地味に痛む顎をさすりながら……ぽつりと、呟いた。
「……分かってる。樋口は多分、俺たちより辛いはずだからな……フォローしてやらないと」
あたしが椎葉に近づくにつれて……そびえ立つ土の塔(仮)の大きさが分かってきた。
そして、
「むぅ……どうせ亜澄の負けなんでしょ? 分かったから、分かったからいい加減にここから出してよーっ!!」
土壁をげしげしと削る音と、甲高い亜澄の叫び声が聞こえてくる。
思わず訝しげな瞳で見上げてしまうあたしに、製作者である椎葉は、あっけらかんとした様子だ。
「よっす香澄ちゃん、お疲れ様」
「うん、お疲れ……っていうかこれ、何?」
あたしが軽く土壁を叩くと、椎葉は自信満々に胸を張って答えてくれる。
「ふっ……名づけて御仕置き部屋! ルールを破った亜澄ちゃんに、あーんなことやこーんなことをやっちゃうって空間さ!!」
「いや、そんな名称いらないし……第一、亜澄に対して何を考えてるのよあんたはっ!」
今は敵対しているといえ、一応、彼女はあたしの身内なのだ。ここは彼に突っ込んでおこう。
本気とも冗談とも取れない発言に、あたしの頭は再びズキズキと痛みだす。
……本当、どうして仲良く出来ないんだろう、あたし達ってば。
「亜澄、決着はついた。奥村先輩は返してもらうからね」
「言われなくても分かってるよーっだ! いいもん、亜澄は亜澄で頑張るから!!」
「頑張るって……」
どうやら亜澄が敵対する現状までは変えられないらしい。
ため息をつくあたしを横目で見つめながら、椎葉は不意に、持っていた『壇』を空へ放り投げた。
霧散する刃。そして……跡形もなく消える土壁。
「うひゃぁっ!!」
恐らく壁に寄り掛かっていたのだろう。バランスを崩した亜澄の背中が、あたしに向かって倒れてきた!
「うわっ!!」
咄嗟に彼女の体重を支えきれず、2人してバランスを崩して……その場に尻もちをついてしまうあたし。
うぅ……何だか今日はこんなのばっかり……。
「あ、亜澄……大丈夫?」
あたしと重なるように座り込む姿勢になった彼女へ、無事を確かめるために反射的に手を伸ばした。
――ぱんっ。
乾いた音、時間差で襲ってくる痛み。
あたしから亜澄に伸ばした手を、彼女自身が叩いて否定したことに気がつくまで、数秒かかった。
「あ、あの……亜澄……」
戸惑うあたしとは対照的に、彼女は静かに立ち上がると、
「……これくらい大丈夫だから。ごめんね」
先ほどのテンションからは想像出来ないほど冷たい口調で、あたしの方を振り向かずに言った。
そのまま数歩前に歩き、あたしと一定の距離を取る。
あたしは一人で立ち上がって……人知れずため息をついた。
……目も合わせてくれないことで、まだまだ、あたし達には越えるべき壁があることを痛感する。
あたしと椎葉に合流した奥村先輩と絢芽も、人を寄せ付けようとしない亜澄の背中を見つめていた。
「……今日は、帰る。次は負けないから、絶対に」
それだけ言い残し、歩き始める亜澄。
夜風が彼女の長い髪の毛を舞い上げ、そのまま……姿を消した。
あたし達が4人でグラウンドから外に出ると、出入口の所にいた雛菊が、あたし達に向かって深くお辞儀をした。
「お疲れ様でした。そして……お帰りなさい、悠樹さん」
「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
奥村先輩も律義に一礼して、真っすぐに彼女を見据える。
その様子から、『堕落者』が残っていないことを確認した雛菊は、「では」と、ぴっと人差し指を立てて、
「設定していた『境界』を解除したりしますので……皆さんは目を閉じていてくださいね」
その言葉に、全員が目を閉じる。
あー、こうすると「終わった」って実感するなぁ……。
風に揺れる木々の音を遠くに聞きながら、あたしはそんなことを考えていた。
だけど。
今日のあたしはここで終わりじゃない。
雛菊が『境界』を解除したとき、手元の時計は午後7時を指していた。
さて、地味にお腹がすいている。男性陣は数歩前で立ち話をしていて、雛菊は周囲を確認してくると言ってこの場にはいない。これから全員でどこか食事でも……そんな提案をしようとしたあたしに、絢芽が横から声をかけた。
「樋口さん、よろしいですか?」
「もー……香澄でいいのに。んで、何?」
やっぱり名字で呼ぶ絢芽に寂しさを感じつつ……あたしが彼女に向けて首をかしげると、
「奥村さんにも、その……貴女と妹さんのことを、お話した方がよろしいのではないでしょうか?」
刹那、きっとあたしの表情が固まったんだろう。絢芽が少し焦った様子で話を続けた。
「さ、差し出がましいことは十分承知していますの。ですが……」
「……うん、分かってる。ありがとう」
絢芽はいつも、こうやってきっかけをくれる。
それが、臆病なあたしにとってどれだけ助けになっているか……彼女はきっと知らないと思うけれど。
「――奥村先輩」
だから、ここはあたしが勇気を出そう。
先輩の名前を呼ぶと、椎葉と雑談をしていた先輩が振り向き……神妙な面持ちのあたしに、眉をひそめた。
「樋口?」
嫌われるかもしれない、そんな恐怖を拭い去ることが出来ないけれど。
これがきっと、あたしへの贖罪なんだろう。
そうでしょう、神様?
あたしは一度息を吐いてから、言葉を続けた。
「絢芽や椎葉にはもう話をしたんですけど……奥村先輩にも話しておきたいことがあります。お時間、いただけませんか?」
誰にも言えなかった。
打ち明けることで軽蔑されるのが何よりも怖くて……要するに、自分を守ることばかりを考えていて。
だから、あたしは自分を変えることにした。
誰も……今のあたしから、過去のあたしを想像出来ないように。
絢芽と椎葉をその場で見送ってから……あたしは改めて、隣にいる先輩を見上げた。
あたしの視線に気がついた先輩もまた、視線だけこちらを見下ろして、
「さて……どこで話を聞けばいいんだ?」
「そ、そうですね、どうしましょうか……」
正直、場所など考えていなかったので、どうしようかと思案するあたしに、先輩がある方向を指さして、
「ひとまず、あそこに座って何か飲まないか? 俺がおごるからさ」
指の先に見えるのは、街灯の下にある自動販売機と……その脇のベンチ。
日曜日の夜、夕食時でもあるので、トレーニングや散歩をする人影は見当たらない。
あたしも喉が渇いていたし……おごりという言葉に一本釣りされて、首を縦に振ったのだった。
リクエストしたオレンジ味の炭酸飲料を受け取り、掌に感じる冷たさに肩が震えた。
並んで隣に座る先輩の手には、カフェオレの缶。
「……寒いんですか?」
確かに風は少し冷たいけれど……動き回った反動もあって、あたしは冷たい飲み物を欲していた。
問いかけるあたしに、先輩は缶を開けながら返す。
「これは冷たい方だ。一口飲むか?」
「結構です……今は炭酸が飲みたい気分なので」
先輩の飲むカフェオレだもの……きっと、恐ろしく甘いに違いない!
あたしも手に持った缶を開け、中身を喉へ流し込む。
ぴりっと刺激のあるのどごしに、そういうものを欲していた全員が震えた。
「ん~っ! この瞬間のために生きてるって感じですね!」
「ビールを飲む親父みたいなこと言うな」
横でカフェオレをすすりつつ、あたしを見る目が冷たくて仕方ない。
「だ、だって……先輩も飲んでみてくださいよ! あたしの気持が分かりますから!」
半ば強引に先輩へ缶をおしつけると、先輩は眉をしかめながらあたしの缶を取り、一口。
期待を込めて見つめをあたしへ、缶を渡しながら感想を一言。
「……ん、炭酸だな」
「そんなつまらない反応はいりません! あーもう……先輩に期待したあたしがバカでしたっ!」
先輩から缶をもぎ取り、再度、自分の口へ中身を流し込んだ。
……こんなに美味しいのに。
そんなあたしの反応を、先輩はしげしげと見つめながら、
「まぁ……樋口だからな」
一人で何か納得。
何だろう。分からないのでしかめっ面で首傾げるあたし。
「何事ですか?」
「いや、何でもない。話したくなったら始めてくれ」
「……分かりました」
あたしのタイミングを待ってくれる、それが、先輩からの気遣い。
いつまでもそれに甘えるわけにはいかない。あたしは口の中のものを全て飲み込んで……一度、息を吐いた。
そして、唇を噛んで――覚悟を決める。
「あたしと亜澄は……見ての通り割と似てる双子なんですけど、性格は全然違うんです。亜澄の方が人懐っこくて、自分の意思をはっきり言えて……あたしは、どちらかと言えば人見知りで、泣いてばかりで……内気でした」
先輩の顔を見ていないけれど、きっと、驚いた表情になっているんじゃないかと思う。
絢芽と椎葉、雛菊に話をした時も、最初は信じてもらえなかったのだから。
でも、それは……それだけ、あたしが過去の自分と違うあたしになったってことだ。
「勉強も、運動も、友達も……いつも、亜澄の方が上手で。あたしは亜澄の後ろを付いて回る「おまけ」だったんです」
惨めだった。
そして、羨ましかった。
あたしと同じ顔、同じ声、同じ洋服……それなのに、あたしにないものを沢山持っている彼女が。
「両親はわけ隔てなく育ててくれました。亜澄とあたしを比べたりなんかしなかった……だけど、あたしはどうしても比べてしまったんです」
敵わなかった。
眩しかった。
そして、きっと、
「その時はちょうど、小学生になったばかりの頃で……環境の変化にすっと順応している亜澄が、羨ましくて、自分が惨めで……」
あたしは、彼女のことが、
「あたしが、亜澄のせいで貧乏くじを引いてるって……思い始めちゃって。亜澄のこと、嫌いだったんです」
亜澄のことが、嫌いだった。
先輩は何も言わず、黙って話を聞いてくれる。
「あの日……確か今日みたいな日曜日で、2人で家の前の道路で遊んでいたんです。布製のラケットとゴムボールで、テニスみたいな感じで打ち合ってて……」
そう、それは……今から約10年前、平和な日曜日の昼下がり。
両親が仕事で夕方まで帰らなかったので、2人で時間を潰していたんだ。
「やっぱり、あたしの方がミスが多くて、亜澄に笑われて……あたし、ついカッとなっちゃって……」
亜澄はきちんとボールを返してくれていた。あたしがただ、ちゃんと返せなかっただけ。
それなのに……あたしは、亜澄に対して怒りの感情を抱いてしまった。
「亜澄が返してくれたボールを、力いっぱい飛ばしたんです。そ、そしたら……ゴムボールだから思ったより遠くまで転がっちゃって……T字路の壁にぶつかってようやく止まったみたいなんですけど、ボールを取りに行った亜澄に、宅配便のトラックが突っ込んできて……」
忘れられない。
ボールを取った小さな体が、横から突っ込んできたトラックに吹き飛ばされたのだ。
「亜澄の……亜澄の泣き声が聞こえてきて、近所の人が出てきてくれたんですけど……あた、あたし……怖くて、その場から動けなくて……」
聞こえなかったことにした。耳をふさいだ。
亜澄の悲鳴、「助けて、助けて香澄ちゃん」と泣き叫ぶ声を。
思い出すだけで胸が締め付けられる。
ごめんなさい。心の中で何度も謝った。
泣きながら、泣きながら……何度も、何度も。
あたしは、喋り続けている自分が泣いていることにも気がつかなかった。
「あたしは……動け、なくて。両親が職場から戻ってくるまで、家の前で立ち尽くしていたみたいです……」
母親が病院で付添い、仕事の都合で父親も病院にいる。
あたしは一人、家に取り残されて……罪悪感と戦い続けた。
「後から、聞いた話なんですけど……はねられて道路に倒れた亜澄の両膝に、止まりきれなかったトラックのタイヤが乗り上げたんだそうです。主にそのせいで、亜澄の足は……自由に動かせなくなりました」
次にあたしが彼女と会ったのは、1ヶ月後。病室で無邪気に笑う彼女に安心した。
だけど、何かの偶然であたしと2人きりになったとき……ベッドの上の彼女は、どこまでも無邪気にこう言ったのだ。
「あの時、香澄ちゃんがボールをあんなに飛ばさなきゃ良かったのに。香澄ちゃんのせいで、亜澄の足、動かなくなっちゃったんだよ」
まるで……あたしの行動が故意だったことに気が付いているような発言。
亜澄は誰にもそのことを話していなかった。だけど、気が付いているんだよとあたしにだけ伝えてきたように思えたんだ。
「それから、あたしは……罪を犯した自分を忘れたくて、自分を変えることにしたんです」
お手本は過去の亜澄。最初は怖かったけれど……あんな感情を抱いてしまう自分が嫌いで、自分を変えてしまうことで過去のことを思い出さないようにしてきたんだ。
その結果、今のあたしがいる。
元気で明るく、社交的に。
それは……あたしがあたしとして壊れずに生き残るための苦肉の策だったんだ。
誰にも知られないように、あたしは、見えない何かと必死で戦い続けている。
「先輩はきっと、今のあたししか知らないから……こんなこと言われても、ぴんと来ないかもしれませんけど……」
香澄ちゃんは明るくてムードメーカーだね。
樋口さんは誰とでも仲良くなるね。
当然だった。
あたしは、そういう自分を常に意識して、周囲と接してきたのだから。
涙が、頬を伝った。
「本当のあたしは……弱くて、泣き虫でっ……人に嫌われないことばかりを意識して生きてきたんです。こんなことで、あたしの……あたしの罪は、何ひとつ、消えな、い、のに……」
あたしが変わったところで、それは自己満足に過ぎない。
亜澄の足の回復とは、何も関係ないのだから。
それに、亜澄もきっと、そうやって過去を忘れるように生きているあたしを見るのが……嫌だったに違いないのに。
亜澄のところへお見舞いに行っても、彼女はたまに、あたしに対して笑顔で辛辣なことを言うようになった。
その度に、昔のあたしが戻ってきて……あたしは、亜澄に強く言えなくなってしまったんだ。
だから、蓮華が現われて「時間を戻す」と言われたとき……正直なことをいえば、その誘いの手を取りたかった。
「お主も、時間を戻したくなることはあるだろう? わしと一緒に動いてくれれば、その願いなど……簡単に叶えてやるぞ?」
「『暦』を使えば、今のお主の意思のままで時間を戻すことができる」
「それでいいのか?」
保健室での蓮華の言葉が、脳裏をかすめる。
蓮華も間違いなく、過去のあたしを知っているから、あんなに揺さぶりをかけてきたんだと思う。
ひと通りの事情は話した。
これで――終わりだ。
あたしはここで初めて、自分が泣いていることに気が付いて……腕で涙をぬぐって、口にたまった唾を飲み込んだ。
「これが……あたしと亜澄の根底にある事です。あたしは、亜澄に恨まれて……しょうがないんです」