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真剣勝負のヘッドライナー

 そして――日曜日。時刻は午後6時過ぎ。

 週末にかけて少しぐずついた天気が回復し、茜色の空が眩しい。

 周囲で運動していた人たちも帰宅する中……あたし達は、久那市営グラウンドの真ん中にいた。

 以前、椎葉と一緒に巨大トカゲと戦った場所。陸上トラックの内側に生い茂る芝生の上に立ち、一度、呼吸を整えた。

 夜を誘う風が、あたし達の間をすり抜けていく。寒気を感じて一度身震いをしてしまった。

 そんなあたしの左右には絢芽と椎葉。まだ誰も剣は持っていないけれど……すぐに戦闘態勢は取れるようにしている。

 薄い青がかかったレース付きのブラウスに、黒いロングスカート。足元はローヒールのパンプスという、どこまでもぶれない服装の絢芽。これで誰よりも強く戦えるのだから凄いと思う。

 椎葉も椎葉で、「地底人」と書いてある黄色いTシャツに、白いパーカーを羽織、濃紺のジーンズにスニーカーというラフな格好。

 そんなあたしは、グレーの7分丈のチュニックにカーゴパンツ、足元は勿論スニーカーです。

 既に周囲は雛菊の『結界』を設定しているので、何が始まっても大丈夫! 多分!!

 本人は会場の外で、あたし達が戻ってくるのを待っていると言う。

「奥村さんと一緒に出てくることを、期待しています」

 そう言った雛菊の笑顔が、脳裏をかすめた。

「な、何だか緊張してきた……」

 深呼吸を繰り返すあたしを、左にいる絢芽がジト目で見つめて、

「今更何をおっしゃっているんですの? 奥村さんを取り戻せるかどうかは、貴女の働きにかかっているんですのよ」

「わ、分かってるよ……だから1人で緊張してるんじゃない……!」

「……始まるまでには落ち着いてくださいませ」

 あきれ顔の絢芽がふいと視線をそらした瞬間――前方が、一瞬だけ、揺らぐ。

 何事かと思って目を細め、前方に焦点を合わせると……人影が2つ、ぼんやりと浮かび上がった。

 遠目に見ると身長差があるなぁ、と、どうでもいいことを考えてしまうけど……なびく髪の毛とそれぞれが持つ剣のシルエットに、否応なく緊張感が高まっていく。

 2人は足音も立てずにこちらへ近づき……あたし達の5メートルほど前で足を止めた。

「亜澄……」

「やっほ、お待たせしました」

 ノースリーブで桃色のワンピースに、足元は病院のスリッパ。どこかアンバランスな格好だが、突っ込むのはやめておこう……きっと寒くないんだろうし。

 からっとした笑顔の亜澄とは対照的に、隣に立つ奥村先輩は、白と紺色のボーダーポロシャツに細見の黒いジーンズ。相変わらず自分の意思がない表情で、隣の彼女の指示を待つように立ち尽くしていた。

「……っ!」

 反射的に奥村先輩の名前を呼ぼうとした自分を、思いとどまらせる。

 口に出したら、動揺が広がってしまう気がしたから。

 ……集中するんだ、集中。自分に言い聞かせてしっかり前を見据える。

 それにしても、2人だけとは思わなかった。あたし達が無意識のうちに蓮華を探していることに気がついたのか、亜澄が楽しそうな口調で言う。

「あ、蓮華はセコンドっす。そちらの雛菊さんが変なことしないよーに、ねっ♪」

 ということは、雛菊のようにこの外にいるんだろうか。もしかしたら雛菊自身が、蓮華が介入しないよう、『境界』に設定してくれたのかもしれない。

「了解。じゃあ、今日の戦いについて説明してもいい?」

「うん、いーよ」

 どこまでも楽しそうな亜澄に、あたしは努めて冷静に話を始まる。

「今日は……奥村先輩と絢芽の一騎打ちにしてほしい」

 こちらから条件を告げた瞬間、亜澄の目が一瞬だけ細くなった。こちらの意図を掴もうとする、無意識の行動。

「悠樹君と……そちらの絢芽さんだけ? じゃあ、亜澄や香澄ちゃんはどうするの?」

「観客、ってところじゃない? 人数的にもそっちが不利なんだし……決着がつくまでは手を出さないってことで、どう?」

「……」

「公平にするために、万が一外野が手を出したらペナルティーもあり」

「……ふーん……」

 あたしの提案が予想外だったのか、しばし絢芽を見つめてから、うつむいて考え込む亜澄。

 いつの間にか日が落ちて、ナイター用の明かりがあたし達を照らしていた。

 数十秒の沈黙の後……亜澄は顔をあげてこう言った。

「ん、分かった。香澄ちゃん達の条件に合わせるよ。ただし、もしも絢芽さんが悠樹君に負けた場合は……大人しくこっち側についてもらうからね」

「分かってる、じゃあ……決まりね!」

 その声を合図に、絢芽が一歩前に出た。

 奥村先輩もまた、亜澄の前に出て……握りしめた『焔』を、自身の正面に構える。

 あたし達は審判のように少し離れた場所で一ヶ所に集まった。2人の邪魔をしないように注意しなければ。


「――雫」


 絢芽の澄んだ声に導かれるように、彼女の右手に『雫』がおさまった。

 風が、吹き抜ける。


「奥村さん……まさか、貴方にこの剣を向けることになるとは、思っていませんでしたわ」

「……」

 絢芽の言葉にも、奥村先輩は眉ひとつ動かさない。

 だが、その反応は予想済みだろう。絢芽は眼鏡の奥の瞳を細めると、射抜くような瞳で奥村先輩を捉えた。

「そう、これは本来、あってはならないことなのです……ですので、『暦』なんてものを使わなくても、私が修正して差し上げますわ!」


 言い終わった瞬間、絢芽の足が地面を蹴った。

 あっという間に数メートルの距離を詰めると、『雫』の切っ先が届く距離でそれを振り上げ、振り下ろしながら力を解き放つ!


「――散れ、雫!!」


 至近距離からの攻撃にも一切焦るそぶりがなく、奥村先輩は『焔』を地面と水平にして、


「……滾れ、焔」


 低い声で呟き、解き放たれた炎が……先輩を守るドームのように彼の周囲を覆った。

 火と水がぶつかり合い、白い煙となって水蒸気が立ち込める。周囲の温度が上がり、視界が著しく悪い状態の中、10メートルほど離れたところから見ているあたし達のところにまで、夏を思わせるような蒸し暑い空気が届いた。

 しかし、絢芽はその靄の中を突っ切り、奥村先輩へ『雫』を振り下ろす!


 ――がんっ!!


 金属同士がぶつかる鈍い音が響いた。

 靄が晴れ、その中央で……互いの剣をぶつけたまま、激しく睨みあう2人。

 奥村先輩の横顔からは、動揺をうかがい知ることが出来ない。絢芽は水蒸気でぬれた髪を服や腕にまとわりつかせたまま、眼鏡も曇っているはずなのに……体格差のある奥村先輩に一歩も引かない。むしろ、力で圧しているようにも見えてしまう。

「……火は水に弱い、誰もが知っていることですわよ。そのハンデを背負っているというのに、この程度で私に勝てると……お思いですの!?」

 刹那、奥村先輩から後ろへ大きく飛び退いた。間髪入れずに迫る絢芽の『雫』を無表情でさばいているが……どう見ても後手に回っている。


 その様子を目の当たりにしたあたしは、『颯』を取り出すことも忘れて茫然と事の成り行きを見守っていた。

「絢芽……今更だけど何者なの?」

「さ、さぁ……凄いな」

 椎葉もまた、適切な言葉が見つからずに……彼女の戦いを見つめていた。

 状況は完全にこちらが有利。絢芽が奥村先輩をしとめるのは時間の問題だろう。

 亜澄はおそらく、絢芽の実力を読み誤ったはずだ。かつての仲間だから躊躇してしまうと思ったのか、お嬢様だからと侮ったのかはわからないが……残念無念、絢芽にはそのどちらも当てはまらない。むしろ真逆かもしれない。

 この3人の中で……誰よりも、私情を挟まずに冷静な戦いが出来るのだから。

 あたしは、自身の左延長線上、腕を組んで戦況を見つめる亜澄を見やった。

 足をパタパタ動かして、完全に落ち着きがない様子。額には汗、表情には焦りが浮かんでいる。

「くぅっ……悠樹君、もっと頑張って! 絢芽さんなんか燃やしちゃえ!!」

 何だか過激なことを叫んでいるが、実戦経験が圧倒的に違うためなのか、『堕落者』が入り込んでいても、先輩の炎が絢芽に届くことはなかった。

「つまんない……こんなの、ちっとも面白くないっ!!」

 駄々っ子のように不満を叫ぶ亜澄。表情が怒りに侵食されていることが嫌でも分かる。

 しかし、戦況は一向に変わらない。

 代わりに、『雫』の切っ先が、奥村先輩の髪の毛をかすめる。寸でのところでしゃがんで直接攻撃は回避したものの、体勢を変えたことで体の軸が一瞬だけぶれた。

 そこを見逃す絢芽ではない。膝を曲げた姿勢の奥村先輩をどう見ても華奢な右足で蹴り、大きく後方へ吹っ飛ばす!

「うわ……」

 痛そうだったので思わず声がでたのはあたしです。

 湿った芝生にスライディングした先輩の周囲で、雫が舞い踊った。

「がはっ……!」

 肺から強引に息を吐き出すと共に、全身の力が抜けてしまったのだろうか。『焔』が先輩の手を離れ、少し離れた場所に転がり――消える。


「……こんなの、やだ」

 亜澄がぽつりと呟いた。


「これで……終わりです!!」

 転がって起き上がれない奥村先輩の頭上で、絢芽が『雫』を大きく振りかぶる!!


「――そんなの、させないからっ!!」


 刹那、『暦』を握りしめた亜澄が、絢芽に向かって突進した!

「亜澄!?」

 批難じみたあたしの声など、何の抑止力にもならない。

 人間業とは思えない速度で一気に距離をつめた亜澄が、大きく腕をあげて無防備な彼女の脇腹へ向けて、躊躇なくその切っ先を突き出す!

「絢芽さんの時間も……止めてあげる!!」

 ルールを破った彼女に怖いものなどあるはるもなく、絢芽を横から串刺しにするために腕を精一杯伸ばして――貫く!


「――散れ、雫!!」


 絢芽が『雫』を自身の左横へ――亜澄へ向けて振り下ろしたのは、『暦』の切っ先が絢芽にあと数センチで届く、という、間一髪のタイミングだった。


 刹那、『雫』から解き放たれた水流が、問答無用で亜澄を後方へ吹っ飛ばす!

「きゃぁっ!」

 亜澄の手から『暦』が離れ、水と共に消えた。

 勢いを殺す間もなく正面からぶつかった彼女は、そのまま数十メートル後方、陸上トラックの向こうまで吹き飛ばされ……何とかずぶぬれの体を起したが、立ち上がれずにその場でがくりと膝をついた。気を失っていないのが信じられないけれど、もう、戦うだけの能力は残っていない様子。

「げほっ……ど、どうして……」

 呼吸を整えながらこちらを睨む彼女は……無意識のうちに目を見開いていた。

 倒れている奥村先輩の足元で――あたしが、『颯』の切っ先を向けていたから。


 さかのぼること数日前、カラオケボックスで作戦会議を行ったときのこと。

「皆さんさえよろしければ……私が、参りますわ」

 絢芽の言葉に、あたしと椎葉が反対する理由がなかった。

 それは、彼女の運動能力や『焔』との相性を考えれば当然のこと。

 あたしの『颯』では、火の勢いを増してしまう可能性があるし、椎葉の『壇』では互角になってしまう。

 だけど、絢芽の『雫』ならば……水は火を消すことができる、単純に考えて相性がいいのは疑いようがない事実だ。

「絢芽に任せられるなら、あたしたちも安心だよ」

 笑顔でそういうあたしに、彼女はなぜか、表情を曇らせて、

「正直、私は奥村さんに負けないと思っています。だけど……妹さんがこちらの約束を破って介入してくる可能性がゼロではありません。ですので、万が一の場合に備えて、保険をかけておきたいんです」

「保険?」

 コーラを飲みながら尋ねると、絢芽は一度、首を縦に動かして、

「はい。もしも……妹さんが私を攻撃しようとしたら、私は躊躇いなく妹さんを攻撃します。その際、奥村さんがどのような状態か分かりませんので、樋口さんにフォローしていただきたいのですわ」

「あたしに!?」

 まさか彼女から指名されると思っていなかったので、思わずコーラを吹き出しそうになってしまった。

 そんなあたしをジト目で見ながら……絢芽が説明を続ける。

「理由は単純です。有坂さんよりも樋口さんの力の方が、速度が圧倒的に速い。がら空きになった私を遠くからフォロー出来るのは、『颯』だと思いますわ」

 その意見に、椎葉もうんうんと頷いて、

「なるほどな……俺の『壇』だと、攻撃力が高い分、重くて遅いからなー」

「勿論、有坂さんには、妹さんが攻撃してきた場合のフォローをお願いします。土壁で囲うなり、穴に落とすなり……動きを封じていただければ結構ですわ」

「了解。まぁ、そうならないことを祈るわ」

 あっけらかんとした口調で首肯した椎葉は、ジンジャーエールを飲み干し、中の氷をがりがりと噛み砕きつつ、

「じゃあさ、決戦の場所は市営グラウンドに出来ねぇかな。あそこならだだっ広いから、周囲を気にせずに俺の力を使えるんだ」

 その言葉に、絢芽が意地悪な目線を向けた。

「あら……今まで気にしていらしたのですか?」

「ひどいぜ絢芽ちゃん! 不用意に建物を壊さないように、とか、一応気を使ってたんだぜ!?」

「申し訳ございません。ちっとも気づきませんでしたわ」

「絢芽ちゃ~ん……」

 ふいっと視線をそらしてドクターペッパーを味わう絢芽に、がくりと肩を落とす椎葉。

 何だか板についてきた2人のやり取りを見つめながら……あたしは内心、亜澄が約束を破らないようにと、願わずにいられなかった。


 そして――今。

 絢芽の懸念は現実になり、亜澄が絢芽に向けて走りだしたことを確認して、あたしも地面を蹴っていた。

 あたしの目的は亜澄ではない。

 絢芽の前で倒れている――奥村先輩だ!

「――颯!!」

 名前を呼び、右手に『颯』を握る。

 刹那、足が軽くなったような感覚。亜澄は絢芽に気を取られているのであたしに気づかない。

 そして……あたしが絢芽の隣に並んだ瞬間、


「――散れ、雫!」


 絢芽が亜澄に攻撃を仕掛けた。

 思ったよりも強い水流に驚きつつ……あたしは絢芽の反対側、先輩の足元で『颯』を構えていた。

「はぁっ……はっ……!」

 無我夢中で走ってきたので、呼吸が乱れそうになる。

 攻撃を終えた絢芽は、『雫』についた水滴を振るい落とすようにそれを一度上下に振って、あたしの方をにやりとした表情で見据える。

「さて……後はお譲りしますわ、香澄さん」

「っ!? お、オッケー! どーんと任せて!!」

 絢芽に名前で呼ばれたことに一瞬動揺してしまったけれど……すぐに頭を切り替えて、余力を振り絞って上体を起こした奥村先輩に、『颯』の切っ先を向けた。

 先輩と……目が合う。

 躊躇いがないと言ったら嘘にしかならないけれど……あたしは、奥村先輩を取り戻す!

 無言で『颯』を振り上げるあたしに、彼は……目を細めて、ぼそりと呟く。


「……頼む」


 その言葉に、確かな意思を感じた。

 だから、あたしも躊躇わない。

 振り上げた『颯』に風が渦巻き、そして――あたしの言葉で解放する!!


「――疾風怒涛!!」


 ……あれ?


 何だか言い慣れない言葉と共に振り下ろした『颯』から、猛烈な竜巻が発生して……奥村先輩の間をすり抜け、芝生を舞い上げる。

 ひらひらと落ちてくる緑を見つめながら……あたしの意識は、ぷつりと途切れた。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


「ちょっと……出しなさいよー! 何も見えないじゃないのーっ!!」

「はいはい亜澄ちゃん、君の超人的な体力はよく分かったから……少し落ち着きなよ。ペナルティなんだからさ」

 周囲を土壁で囲まれた中、空に向って叫び、じたばたと暴れる亜澄に……外側にいる椎葉が、ため息をつきながら壁をべしべしと『壇』で叩く。

 最初の約束通り、先に約束を破った亜澄が、椎葉によって土壁の中に閉じ込められているのである。

 上が空いているので呼吸は問題ないが、壁の高さは3メートルほど。よじ登れる高さではないし、『暦』で壊されないように中を狭く、壁をぶ厚くしておいた。椎葉が『壇』を消さない限り、この牢屋から亜澄が解放されることはないだろう。

「あーもーっ! 『暦』で斬れない削れないーっ! むかつくー!!」

 ……多分。

 しかし、絢芽の攻撃をまともに受けたにも関わらず、もうこんなに動けるとは……先ほど『壇』で叩いたときに、壁の厚さを補強したのは椎葉だけしか知らないこと。

「約束を破ったのは亜澄ちゃんだろ? だから、ここで大人しくしててね」

「う~っ!! だってだって、絢芽ちゃんがあんなに強いなんて反則だよ!! 何あれ、何あれーっ!!」

 駄々っ子のように(いや、実際そうだとも思うが)ぐずる亜澄は放っておいて……椎葉は、風の落ち着いた方に視線を向けた。

 立っている絢芽の傍ら、上体を起こしている悠樹と、彼に抱きつくような形で崩れ落ちている香澄。

 それぞれの手に剣はない。決着がついた様子だ。

「やれやれ……ようやく落ち着いたってわけか」

 椎葉も安堵の息をついてから、『壇』を消すために放り投げようと腕を振りかぶったが、

「ねぇねぇ、外はどうなってるの!? 悠樹君は? ねぇ悠樹君は勝ったの!?」

「……」

 亜澄がうるさいので、投げ損ねた『壇』で土壁を叩き……更に補強しておいた。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 ……何だろう。温かいものに包まれて、落ち着く空間をふんわり漂っているような感覚だ。

 戦いとか、戦いとか、戦いとか……そんなことが一切どうでもよくなるような。


「……口、おい、樋口……」


 名前を呼ばれている気がした。

 でも、今はそれに応えたくない、もう少しだけ、のんびりほっこりしていたい……。


「呼吸をしていますから、命に別状はないと思いますわよ。それに……今までとは違う言葉で『颯』を使っていらっしゃいましたもの。慣れないことをして、その反動ではないでしょうか」

「そうなのか……しかし、このままだと俺が動けないんだがな……」

「では、私が頭から水をかぶせて差し上げた方がよろしいでしょうか?」

「……いや、俺がもう少し努力する」


 聞き覚えのある声が、頭上から降ってくる。

「樋口、起きろ、もう夜だぞ」

「お気づきになりませんわねぇ……そうですわ、こういうときは童話のように、奥村さんが王子様になって樋口さんに目覚めのキス的なことをして差し上げればいいと思いますわ」

「そんなこと出来るわけないだろう!?」

「あら、情けない。樋口さんは奥村さんの変貌ぶりに心を痛めて、毎晩泣いて過ごしたと仰っていましたわ」


 ……ん?

 今、事実と異なる話が聞こえてきたような……。


「樋口さんはあんなに奥村さんの身を案じて、思いを寄せていらっしゃるというのに……当の本人がこれですもの。お可哀そうなこと」

「……そう、なのか?」

「そりゃーもう。私も毎晩お電話で相談されましたのよ……」


「――って、好き勝手に話をねつ造するなぁあいだっ!!!」


 がつん。


 何か、固いものと固いものが遠慮なくぶつかった鈍い音が響き、


「い、いた、い……!!」

「っ……!!」


 あたしは頭、奥村先輩は口元を押さえてその場にうずくまり……痛みで体を震わせた。

 急に起き上がったあたしの後頭部と、先輩の胸に倒れこんでいるあたしに困り果てていた彼の顎がぶつかった音だということに気がつくまで……数分、時間がかかることになる。

「……やれやれ、ですわね」

 絢芽のため息が、夜の空気に溶けた。


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