別視点のエピソード
病院からバスを乗り継いで絢芽の家へ辿り着いたとき……時刻は午後8時間近、周囲はすっかり暗くなっていた。
暗がりの中に浮かび上がる東原家の門には……日中より5割増しの迫力がある。
絢芽が躊躇なく門をくぐり、遠慮を知らない雛菊がその後に続く。あたしと椎葉は顔を見合せながら……ここで立ち尽くしても意味がないので彼女たちの後に続いた。
門を抜けた先、母屋には明かりが灯っている。そして、あたし達が使わせてもらう離れからも、明るい光が漏れ出ていた。
「ねぇ絢芽、こんな時間にお邪魔していいの? それに、食事もまだだからファミレスとかでも……」
「夕食なら用意してもらっていますわ。皆さんのお口に合うかどうか分かりませんが」
「えぇ!? そ、そんな、手土産も持ってきてないのに!!」
何と! 東原家の夕食が食べられるというんですか絢芽さん!!
気がつけば、後ろを歩く椎葉も、どこかうっとりした目つきになっていて、
「絢芽ちゃん家の晩御飯……刺身かな、茶碗蒸しかな、いっそ全部かな~……」
等と、自分が食べたい物を延々と呟いていた。
そんな彼を放っておいて、あたしは2人の後を追いながら……ちょっとした違和感を感じる。
絢芽って、こんなに大きな家に住んでて星霜学園にも通っているお嬢様なのに……夜間に出歩くことはお咎めなしなんだろうか。
星霜学園でもちょっとした噂になるくらいだ。あたしが参入してからは明るい時間に戦うことばかりだったけれど……。
聞こうとしたが、離れに到着したので聞けずじまい。靴を脱いで部屋に入り、扉の向こう……豪華に4人分の夕食がお膳に用意されていた。
2対2で向かい合うように用意された食事は、ここはどこの高級旅館かと思わせるほど。
そして、入口の脇でおひつに入った白米を混ぜる女性が一人。
白い割烹着が恐ろしく似合い、長い黒髪をバレッタで止めている。絢芽が大人になったらこうなるんだろうなと思うほど、顔立ちがよく似ていた。
あたし達に気がついた女性が、正座をしたまま、顔を上げて優しい笑顔を向ける。
「お帰りなさい、絢芽。お疲れ様」
絢芽もまた、学校とは違う、自然の笑顔になって、
「只今戻りましたわ、お母さん」
「お母さん!?」
まぁやっぱりと思うところはあるけれど……この親の遺伝子が入っているのであればしょうがない。
椎葉があたしの後ろから覗き込み、「ほぉー!」と、感嘆の声を上げた。
「ヤバいよ香澄ちゃん、あのオーラ……あんな母親なら俺も黒髪にするぜ!」
「その気持ちは分かるけど……」
絢芽と雛菊が入って右側の席に並んで座ったので、あたしと椎葉は反対側に腰を下ろす。
と、お母さんがあたしと椎葉の方へそのままの姿勢で向き直って、
「初めまして。絢芽の母です。いつも絢芽がお世話になってます」
そのまま深々と頭を下げる。
「はっ、初めまして! 樋口香澄です!」
「有坂椎葉です。今日はお世話になります」
緊張して慣れない正座のまま頭を下げるあたしとは対照的に、あぐらをかいている椎葉はリラックスした笑顔で挨拶。
そんなあたしの様子に気づいたのか、「足は崩してくださいね」と、優しく声をかけてくれて、
「以前いらっしゃっていた方が今日はいませんね……絢芽、『焔』の方はどうしたんですか?」
……え?
今、このお母さん、『焔』って言った……?
完全に目が点になるあたしと椎葉を放っておいて、絢芽が悔しそうな顔で説明する。
「『暦』の使い手に連れて行かれてしまいましたの。今日は、その対策会議ですわ」
「そうだったの……今日は空気が荒れていると思ったら、そういうことだったのね」
お母さんは納得して、しばし目を伏せた。
って……ちょっと待って!
「ちょっとちょっと! それ、親子の会話じゃないと思うんですけど!?」
さすがに突っ込むあたしに、目の前にいる雛菊が補足。
「香澄さん、梅子さんは大丈夫ですよ」
梅子さんとは、お母さんの名前らしい。
「いや大丈夫って……何が大丈夫なの!?」
目を見開いて問い詰めるあたしに、絢芽が一度咳払いをして、
「説明しますわ。私たち東原家は……代々、『雫』を使う一族なんです」
「え? 『雫』を、使う?」
「そうです。もっとも、使うのは『監督者』が現れた代の者ですけれど……恐らく、樋口さんや有坂さんにも、ご先祖がその剣を使っていたとか、もしくはそれに関わった方だと思われますわ」
そ、そうだったのか!? 少なくとも我が家にそんな言い伝えはないけれど……。
無言で椎葉の方を向くと、彼もふるふると首を横に振る。
「ってことは……絢芽のお母さんも『雫』を使っていたってこと?」
その質問に、絢芽は首を横に振った。
「いいえ、お母さんの時は『監督者』が現れませんでしたの。私の前は雛菊さん……ですから、私と雛菊さんは同じ一族ということになりますわね」
「えぇぇ!?」
本日何度目かの衝撃。あたしと椎葉が無言で雛菊を見つめると……当の本人は緑茶をすすりつつ、
「香澄さんや椎葉さんのように、ある日突然、『干渉者』の役割を任されたとしても、戦いに慣れないうちに『堕落者』にやられてしまうかもしれません。そこをフォローするために、最初からレベルの高い状態で『干渉者』になる……東原の家は、代々、その役割を与えられています。ですので、『監督者』と会わない世代の者であっても、『雫』や『干渉者』のことは知っていますし、幼いころから常に鍛錬を欠かしません。この久那市でも特異的な存在なんです」
「はぁ……」
ため息をつきながら、涼しい顔で茶碗を受け取る絢芽を見つめた。
あたしはようやく、絢芽の底知れぬ強さの秘密や、高い使命感の理由を知った気がした。
そりゃあ、いつか『雫』を使うときのためにって訓練してれば……あたし達とは格が違うってわけだ。
そんなあたしの視線に気がついた彼女が、ちらりとこちらを一瞥して、
「私にとって、特別なことではありません。お気になさらずに」
「いや、まぁそうかもしれないけど……まぁいいや」
これ以上深く追求するのはやめることにした。これが、絢芽の生きる世界であり、彼女の宿命だと思ったから。
空の茶碗を持った絢芽のお母さんは、椎葉の方へ笑顔を向けて、
「有坂君、どれくらい食べる?」
「そっすねー……ひとまず大盛りでお願いします!」
びしっとピースサインをする椎葉に、お母さんは笑顔で頷いて、
「足りなかったらお代わりして頂戴ね」
と、茶碗一杯に白ご飯をついでくれる。
「樋口さんは?」
「へっ!? あ、えぇっと……絢芽と同じくらいでお願いします」
「はい、分かりました」
緊張して声が裏返りそうになるあたしを、椎葉がニヤニヤした表情で見つめていた。
「な、何よ椎葉、あたしの顔に何かついてる?」
「いやー、香澄ちゃんが猫かぶってるんじゃないかって心配になっちゃってさ。俺と同じくらい食べてもいいんだぜ?」
「そんなに大食いじゃないわよ! 大盛り仲間が欲しければ奥村先輩に――」
……あ。
自分で言葉を止める。
そうだ、この場に先輩は……いないんだ。
全員の視線があたしに集まっていた。
それぞれに複雑な思いを抱えた目が、今はあたしを気遣ってくれている。
だからこそ……あたしは、普段通りのあたしでいなくちゃいけない。
ここでしんみりしちゃったら……勝てる勝負も勝てなくなっちゃいそうな気がするから。
あたしは一度呼吸を整えると、自分の意思で笑顔を作って、
「大盛り仲間が欲しければ、さっさと奥村先輩に戻ってきてもらわなきゃ。椎葉、あんまり食べ過ぎて、動きが鈍くなったりしないでよね」
その言葉に、椎葉もまた、歯を見せて笑う。
「そこは心配しなくても大丈夫。俺、常に動き回ってるからさ」
そう、椎葉は常に動き回っている。『干渉者』としてだけではなく、『灰猫』としても。
今日の夕方、そのメンバーに会って話をしているはずだから、あたしにも現状を聞かせてほしいところなんだけど……。
「ちょっ……絢芽、何この味噌汁! 合わせ味噌ならではの味とコクがある! 具の玉ねぎも甘くて美味しい!」
「香澄ちゃん、それよりもこの焼き魚を見てくれよ! 鯛の尾頭付きだぜ! 弾力のある白身が最高だ!!」
「いやいや椎葉、このおひたしも捨てがたいわよ。ホウレンソウにしっかり味がついてる。すりごまの風味もいいし……あぁもうタッパーに入れて持って帰りたい!」
「おぉっと忘れちゃならねぇな、この白米! 艶と噛んだときの甘味がモンドセレクション金賞ものだぜ!!」
「……お2人とも、うるさいですわ」
絢芽のため息さえも、今のあたしと椎葉には届かない届くはずもない。
お膳の上に用意されていたのは、豆腐と玉ねぎ、わかめの入ったみそ汁と、鯛の焼き魚にホウレンソウのおひたし、プラス白米。
純粋な和食ではあるが、一品ごとの品質が異様に高い。(ように思う)
こ、こんな機会、そうそうあるもんじゃないんだぜ……と、一口一口噛みしめるように食べるあたしと椎葉。冷たい目で見つめる絢芽と、いつも通りの笑顔でせっせと骨をどける雛菊。
お母さんは母屋に戻ってしまったので、この空間には4人だけだ。
そして、数十分後、
「あー……もう無理、お腹いっぱい……」
デザートの白玉団子まで完食したあたしは、げふっと息をついて天井を見上げる。
か、体が重たいような気もするけど……どうせそのうち運動するからいいの!
全員分のお膳は下げられ、目の前には冷たいお茶の入ったガラスコップ(雛菊だけ湯のみ)と、4人の中央に、おせんべいやおかきの入った器がある。
誰かに言い訳をしながら、おせんべいに手を伸ばす前に……隣でお茶を飲む椎葉を見やり、
「ねぇ、そろそろ今日のことを教えてもらえないかな。『灰猫』さん達と会ってきたんでしょ?」
「オッケーオッケー。まずは俺達の成果から話すぜ」
椎葉は軽くウィンクをしながら、今日のことを話し始めた。
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「……私達が持っている情報は以上ですわ」
カラオケボックスにて、絢芽が話を終えて正面の二人を見ると……真悟は目を輝かせて、司は表情に一切の変化がなく、いつの間にか膝の上にオレンジのミニノートPCを取り出し、キーボードを叩いていた。
絢芽がわざと呆れた目で真悟を見るが、彼は目を爛々と輝かせて、
「凄いっす! じゃあ、椎葉も不思議な力を使えるってことっすね!」
「え? あー、まぁ、一応」
「凄いっす! いずれ見せてもらいたいっす!」
「いやー佐藤先輩、あんまり俺の力を使うようなことが起こっちゃダメなんだけどなー……」
椎葉も苦笑で、興味津々の真悟をなだめる。
そんな彼を横目で見た司は、キーボードを叩く手を止めて、
「……ごめんなさい。彼、こんなのだから」
「いえ、気にしていませんわ。重要なのは佐藤さんの反応ではありませんから」
「……助かります」
司は絢芽にぺこりと会釈すると、不意に、膝の上のPCをくるりと反転させ、画面を絢芽達へ見えるようにする。
覗き込むと……そこには、エクセルで作られた表と棒グラフがあった。
表には、年齢や場所が書き込まれ、棒グラフは年齢ごとの数をあらわしている様子。
「これは?」
「……ここ一か月以内に発生した、不可解な現象をまとめたものです。私達が確認しただけでも、発火や氷づけ、感電に陥没……バリエーションは様々です」
「全部で何件ありますの?」
「……18件です」
「そんなに……」
単純計算でも約2日に一度、絢芽や椎葉の知らないところで事件が発生していることになる。
自分たちはもしかして、悠長に構え過ぎていたのではないか……『堕落者』が狙うのは『干渉者』である自分たちだけ、そう思っていたことは否定できない。
「……幸い、死人は出ていませんが……時間の問題だと思っています」
「警察は動いていますの?」
「……状況が状況なので、正式には動けないようです。若者の喧嘩から発展した器物破損、ということで片づけられています」
その言葉に絢芽は安堵の息をつき、お茶を一口すすった。警察が介入すれば、どれだけ雛菊がフォローしてくれても動きにくくなるだろう。それに以前、久那スポでの一件で雛菊が後処理をした時は、「なんかもー人数が多すぎて非常に疲れましたので、あまり大事にしないでくださいね」と、香澄にくどくどお説教をしている姿があった。
「……そして、もう一つ特筆すべきことがあります」
不意に呟いた司が、表の隣りの棒グラフを指さして、
「……彼らの年齢です。圧倒的に、15歳から19歳までの未成年が突出しています。もしかしたら彼らが集団を作って動いているのかと思いましたが、そのような形跡はありませんでした」
「そうでしょうね。彼らは恐らく通り魔的に襲われて、自分でも信じられないような力を得ていると思われますわ」
「……面倒」
司がぼそりと呟き、ストローからジュースを一口。
「……なぁ椎葉。俺達って必要ないんじゃないっすか?」
「そんなことはない、と、思いたい……」
話に置いて行かれた男性陣は、寂しくジュースをすするしかない。
そんな中で……絢芽は、鞄の中の携帯電話を取り出した。
着信もメールもない。香澄からも、悠樹からも。
ため息交じりにそれを戻しながら、視線を再び司へ向ける。
「1つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「……どうぞ」
「皆さんはこの久那市を3つのエリアに分けていらっしゃるということですが……具体的にはどこがどのエリアなのか、あと、それぞれのエリアに何人配置されているのか、教えていただけますか?」
「……分かりました。では有坂君から」
「俺から!?」
話をふられた椎葉は、どこか嬉しそうな表情で立ち上がって――
刹那、机の上に置いていた椎葉の携帯電話が振動する。
サブディスプレイに表示された差出人が見えた絢芽は、先ほど片づけた自分の電話を引っ張り出した。
椎葉も言葉を区切り、自分の電話を開く。
差出人は2人とも同じ。雛菊から。
そして――メールの内容を確認した2人は、無言で顔を見合わせていた。
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「ほぉー……そんなに不可解な事件が、むぐ……発生してたんだ……」
2人の……というか、基本的に椎葉が喋って、絢芽が補足する、という説明が始まって20分弱。
外はすっかり暗くなり、母親からも「あまり迷惑をかけちゃダメよ」というメールが届いた午後8時過ぎ。
しかし、話はまだ半分しか終わっていないので帰るわけにもいかない。
あたしは手元に引き寄せてしまったおせんべいをかじりながら、椎葉と絢芽を交互に見つめて、
「絢芽と、その……司さん、だっけ、2人だけで話をしてもらった方がスムーズなんじゃない?」
「香澄ちゃん俺が傷つくからそれは言っちゃダメ!」
椎葉が焦った表情で首を横に振った。絢芽からのジト目も痛いのだろうが……いや、だって客観的な事実だし。
椎葉は周囲からの視線に耐えながら、右手をぐっと握りしめて、
「お、俺の活躍はこれからなんだぜ!」
何やら期待させる前置きの後に、その続きを話し始めた。
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携帯電話に届いたメールの内容を確認した絢芽も、その場に立ちあがる。
「あれ? どしたんすか?」
突然の2人の行動に首を傾げる真悟に、椎葉が苦笑で手を合わせて、
「すんません! 呼び出しなんです」
「呼び出し? そのー……『干渉者』ってやつっすか?」
「そうなんだよねー……ちょっと総合病院まで」
総合病院、聞こえた司もパソコンから顔を上げる。
「総合病院っすか。司、その辺で異常の報告は上がってるっすか?」
真悟が司のパソコンを覗き込むが、司は無言で首を横に振った。
「……ない。でも、こちらが後手に回っている可能性もある」
「そっすね、相手は不思議な力を使うっすからね。と、いうわけで椎葉、俺達では今のところ何も掴んでいないっす。さっさと現場に急行すべきっすね。ただ、病院は司の管轄っすから……」
「分かってるって。ちゃんと報告しますよ」
笑顔でピースサインを作る椎葉は、前にいる絢芽の両肩に手を添えて、
「と、いうわけで絢芽ちゃん、俺達は現場に急行するのだ!」
「分かってますわ。あと、馴れ馴れしく触らないでくださいな」
「えーひどい、俺と絢芽ちゃんの仲なのにー!」
絢芽は無言で椎葉の手を払い落すと、こちらを見つめる真悟と司へ一度頭を下げて、
「不可抗力とはいえ、中途半端になって申し訳ございません。改めて……今度は全員でお話させていただければと思いますわ」
頭をあげた絢芽に、『灰猫』の2人はそれぞれの笑顔を向けていた。
「了解っす」
「……お待ちしています」
「ありがとうございます。あと……」
ドアノブの手をかけながら、絢芽はふと、後ろからついてくる椎葉を指さし、
「次の話し合いの際は、有坂さんをそちら側で面倒みていただけますか?」
「それは無理っす」
「……お断りします」
「ちょっと全員ひどいんですけど!?」
半泣きの椎葉には特に目もくれず、絢芽はその部屋を飛び出した。
雛菊がメールで指定したのは、久那総合病院のバス停だった。
連絡から約20分後にバスを降りた2人を、ベンチに座っていた雛菊が出迎える。
「突然お呼び立てして申し訳ないですね……」
日が落ちて、街灯や車のヘッドライト、病院からの明かりが周囲を照らす。
面会時間も終わっているので、バス停にいるのは3人だけだ。
苦笑いの雛菊に、絢芽はにべもなく言い返す。
「構いませんわ。樋口さんも奥村さんも勝手な行動ばかりですもの」
「そうですね……せめて、香澄さんが一言私に伝えてくれれば、彼女の行動を抑制することが出来たかもしれませんが……過ぎたことを言ってもしょうがありません。こちらへお願いします」
雛菊の案内で、2人は、バス停から最も近い白い建物、その裏口にいた。
上半分がすりガラスになっている扉から、中の様子をうかがい知ることは出来ない。『時間外入口』という明かりと電信柱についた街灯のみが照らす、薄暗い空間。
砂利を踏みしめる音だけが、寂しく……どこか不気味に響く。
周囲の窓に明かりはなく、当然のように人影もない。
椎葉が周囲をきょろきょろ見渡しながら、一歩先にいる雛菊に問いかけた。
「雛ちゃん、ここって……」
「蓮華の『境界』の近くです。この建物から向こう側……正面の入口とその周辺に、蓮華が『境界』を設定しています。香澄さんと悠樹さんもその中にいるはずです」
「と、言われてもさー……俺達、どこから侵入すればいいわけ?」
『監督者』が設定する『境界』に、見た目で判断できるつなぎ目などあるはずがない。
周囲は当然のように特別な変化はなく、暗いから余計に変化が分かり辛く……不気味な空気を駄々漏れさせていた。
そんな椎葉に、立ち止まった雛菊が一点を指さす。
それは、『時間外入口』という明かりが知らせる、この病棟の裏口だ。
「雛ちゃん、その扉が何なのさ?」
「このような扉は、本来の目的が外と内をつなげるものですから……蓮華が厳重に事前の対策をしていない限り、一番破りやすいところなんです。今回のことは恐らく亜澄さんの独断でしょうから、蓮華もそこまで気が回っていない……はずなんですけどね……」
最後は言葉を濁しながらも、雛菊は扉の数メートル後方に立ち、両手をかざした。
絢芽は雛菊の隣に立ち、扉をじっと見つめている。
「お2人で力を合わせて、突破口を作っていただけませんか? 少しの亀裂でも綻びでも構いません。私がそこから強引に侵入して……打ち破ります」
既に準備を整えている様子の雛菊に、困惑した表情の椎葉が、薄暗い扉を見つめて首をひねった。
「突破口を作れって言われてもなぁ……目に見えないものをどう判断すればいいのか……」
そんな彼に笑顔を向け、雛菊はこう言った。
「お2人はただ、この扉を攻撃して破壊してください。それだけで構いません」
「なーんだ、最初からそう言ってくれよー」
すぐに納得した椎葉が、悠々と扉の前に立って、
「――『壇』!!」
その名を呼び、右手に剣を携える。
そして、その剣を扉の正面に構えて、
「いくぜ……唸れ、壇!!」
勢いよく扉に斬りかかった!
普通ならば間違いなく壊れるか、最低でもガラスが吹き飛ぶであろう衝撃を、
「うどわぁっ!!」
「有坂さん!?」
その扉は椎葉の放った力全てを、まるで鏡が反射するように、彼に向けて弾き返したのだ。
予想していなかった力に椎葉の体が吹き飛び、、砂利を舞い上げて地面にめり込む。
絢芽が慌てて駆け寄ると、くぼみにすっぽり体がはまっている椎葉が、足をバタバタさせながら悔しそうな表情で扉を睨みつけていた。
「あ、あの野郎……ガラスのくせに砕けないのかよ!?」
歯ぎしりする椎葉に、絢芽は頭上からため息をついた。
「無鉄砲すぎますわ。それに、雛菊さんは私たちの力を合わせるようにと仰いました。少しは私の話も聞いていただけないでしょうか?」
何も言えない椎葉は、少しむくれた表情でそっぽを向き、
「……どうも、すいませんでした」
明らかに感情のこもっていない謝罪。だけど……絢芽は、くぼみにはまっている椎葉へ手を差し伸べて、
「私こそ、有坂さんを止めずに静観して申し訳ありませんでした。ですが……今の様子で、何となくわかりましたの」
「分かった? 何が?」
椎葉は絢芽の手をかりながら脱出し、自分の穴を足で埋めながら尋ねる。
絢芽は椎葉の質問に答える前に、自分の剣を呼んだ。
「――『雫』」
凛とした声に導かれて、絢芽の右手に『雫』が握られる。
そして……絢芽は、その切っ先を扉へ向けて、
「小細工なしです。私達の全力をぶつけるしかないようですわね」
左手で肩にかかった髪の毛を払いのけ、にやりと笑みを浮かべた。
それから10分後――2人は両肩で呼吸を整えながら、一向に姿を変えない扉を見据えていた。
跳ね返ってきた力によって受けた傷が、体のいたるところに見受けられる。
相変わらず薄暗い空間。木々を薙ぐ風の音が、不気味に響いていた。
周囲の地面は陥没したり隆起したり、水浸しにもなっていて不安定な状態。2人は最初の位置からじりじりと後退しつつ、諦めずに立ち向かっている。
雛菊はその様子を後ろから見つめながら、何も言えなかった。
自分の今の仕事は、この2人に助言をすることではない。2人が作ってくれる一瞬のタイミングを無駄にしないよう、神経を研ぎ澄ませることだから。
椎葉が額ににじんだ汗をぬぐい、左足を奥に下げて腰を落とす。
「いやー、しぶといわこの扉。でも……俺達の息も割と合ってきたと思わない?」
「当然ですわ……私が合わせていますもの」
『雫』を握り直し、椎葉の隣に並ぶ絢芽がしたり顔で言い放つ。
目に入る汗が痛いし、眼鏡のレンズは汚れているし、頬に出来た傷がじんわり痛いけれど……今はそんなこと、気にしていられなかった。
ようやく、彼の呼吸が分かってきたのだ。ここで休憩を挟んで感覚をリセットするわけにはいかない。
一度、その場で目を閉じる。
風の音が聞こえた。空気の流れが分かる。
今、その風は……扉に向かって吹いていた。
まるで、扉を叩くように。
「……これ以上遅くなると、彼女がこの建物ごと破壊してしまうかもしれませんわね」
絢芽はぽつりと呟くと、改めて扉を見据えて、
「有坂さん、次で決めましょう」
その言葉に、椎葉もまた、正面だけを見つめて叫ぶ。
「オッケー! じゃあ……いきますぜ!」
そして、2人は地面を蹴った。
一歩、二歩と前に踏み出し、助走をつける。
泥水が跳ね、踏み出した足がくぼみにはまるが、2人は足を止めない。
そして――全く同じタイミングで、絢芽は『雫』を上に振り上げ、椎葉は『壇』を後ろに引く。
「――散れ、雫!!」
「――唸れ、壇!!」
絢芽は『雫』を上から下へ振り下ろし、椎葉は『壇』を下から上へ振り上げる。
タイミングと距離が少しでも狂えば、それぞれの剣同士がぶつかってしまいそうだが……2人の軌跡は扉の中央で綺麗に交差して、直線状の傷跡を残す。
水飛沫が舞い、地面が僅かに震えた。
刹那、今までぶれなかった扉が……陽炎のように大きく揺らぐ!
「お2人とも、伏せてください!」
後ろからの声に、条件反射でしゃがみ込んだ。
その頭上を一筋の光が通り抜けて……次の瞬間、扉が建物の方へ倒れる音が、静寂を打ち破って騒がしく響く。
恐る恐る顔を上げると……今まで頑として動かなかった扉の姿はなく、先の見えない闇へ続く入口が2人の前に現われていた。
その闇を見つめながら……。
「雛ちゃん、そんなことするなら、事前にもっと詳しく教えてほしかったぜ……」
「同感ですわ……」
泥だらけの2人がぼそりと呟いていると、後ろから雛菊が近づいてきた。
「ありがとうございます。この周辺は私の『境界』を設定し直しました。あの通路の先に香澄さん達がいますので……お疲れのところ申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「分かりましたわ」
「了解」
2人は休む間を惜しむように、剣を杖代わりにして立ち上がり、
「少々手こずりましたが、これで中へ入れますわね」
「ああ。早いところ加勢して、感謝してもらおうぜ!」
疲れなど微塵も感じさせない様子で、扉へ向かって走り出した。