表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/55

最悪のシチュエーション

「せ、んぱ、い……?」

 頭が真っ白になる。

 現実が理解出来なかった。

「まずは1人……『焔』、いただきっ!」

 亜澄が先輩へつき立てた『暦』を引き抜く。

 不自然なことに血は流れず……ただ、先輩はその場で膝をついた。先輩の手を離れた『焔』が霧散する。

「奥村先輩!」

「来るな!」

 駆け寄ろうとするあたしだが、先輩の鋭い声に一括されてしまう。

「まだ終わってない……警戒を、解くな……!!」

「でも!!」

「樋口まで巻き込まれたら終わりだ阿呆!! 俺の行動を、無駄に……しないで、くれ……」

 呼吸が荒く、言葉がそれ以上続かない。何かに抵抗するように、その場で両腕を抱えで体を小刻みに震わせる先輩。

 あたしは何もできず……ただ、唇をかみしめて警戒を続けた。

 ここで彼女に斬りかかったところで、蓮華の横やりが入るかもしれないし……亜澄の力が未知数である以上、あたしが返り討ちにされてしまう危険もある。ここで二人して潰されるのを誰よりも望まないのは……今、一番辛い奥村先輩だ。

 無意識に奥歯をかみしめていた。

 亜澄はそんなあたしを横目でちらりと見やり、

「うん、いいよ。見せてあげる……いずれ香澄ちゃんも同じことになるんだからね!」

 そう叫んで、先輩から抜いた『暦』をもう一度、動きを止めた先輩に突き刺す。

 剣の切っ先が先輩の背中から見えた。完全に貫かれているのに……血も出ないし、先輩は先ほどからぴくりとも動かない。

 まさか、これが……。

「そう、今、悠樹君の時間は止まってるの。だから、何をしたって平気なんだよ、こんな風にね」

 亜澄は目の前の先輩に刃を深く突き立て、正気とは思えない笑顔で笑う。

 おかしい、こんなの……あたしが知ってる亜澄じゃ、ない……!

「――フィニッシュ♪」

 歌うように言葉を紡ぎ、一気に『暦』を引き抜いた。先輩の体が崩れ落ちて――

「でーきたっ! やったぁ、蓮華、亜澄でも出来たよっ!!」

 両手を上げて無邪気に喜ぶ姿は、何か一つのことを成し遂げた達成感に溢れている。

 何事かと思ってあたしが顔をしかめると、

「――ほう、よくやったな。上出来じゃ」

 夕闇から下駄の音が響き、ポニーテールをなびかせた蓮華が颯爽と現れる。

 2対1……今まで人数的に不利になったことがないあたしなので、全身が一気に緊張する。

 彼女は、地面に伏せた先輩と、『颯』を構えたままのあたしを交互に見やり、

「無様じゃな、『颯』。お主の力はこの程度だったか……わしはお主を買いかぶり過ぎていたようじゃな」

「……!」

 言い返す言葉もなかった。無言で『颯』を握りしめるあたしに、蓮華は楽しそうな口調で言う。

「安心しろ。『焔』は殺していないよ。ただ……」

 そう言って彼女が指さす先、あたしが目を向けると、

「え? 奥村先輩……!?」

 先ほど『暦』に貫かれたはずの先輩が、静かに起き上がっている。

 血も流さず、背中に傷跡もなく、こちらへ背を向けてゆっくり立ち上がる先輩。

 ただ、

「奥村先輩!」

 あたしの声に反応した先輩がこちらを向いた。

 曇りきった双方に、かつての強い意思は微塵も感じられない。

 焦点の合わない瞳で、ぼんやりとこちらを見つめ……ぼそりと呟く。

「――『焔』」


 その声に導かれて現れた刃を握り、その剣を……あたしに向けた。


「え……?」

 意味が分からない。

 だけど、現実は容赦なくあたしに襲いかかる。

 その様子をご満悦に眺める亜澄が、勝ち誇った声で説明してくれた。

「香澄ちゃん、無理無理。悠樹君にはちょっとだけ『堕落者』を埋め込んだの。だからもう……亜澄の操り人形なんだよ!」

「なっ……!?」

 『堕落者』を埋め込んだ、って……いつの間に!? 2回目に『暦』を刺した時だろうか、それとも、最初から?

 あたしの脳裏を、今までのことがよぎる。

 最近多発している、『繁栄者』に『堕落者』が入り込んだ一連の事件は……!

「まさか、亜澄……今までののことも……」

「そう、このために練習してたんだよ。亜澄の力が足りなかったせいもあると思うけど、他の人は妙に相性が悪くてさ、すぐに暴走しちゃったから放置しちゃうことばっかりで……うん、悠樹君には成功して良かったー♪」

「……!」

 ダメだ、色々事態が動き過ぎていて訳が分からなくなりそうになる。

 ただ……どれだけ視線をそらしても、目の前の先輩があたしに敵意を向けていることは変わらない。

 そうだ、先輩の中に『堕落者』が入ってこうなちゃったってことは……!

「奥村先輩をあたしが斬れば……!」

「香澄ちゃん、それでもいいけど……そんなことしたら、悠樹君殺しちゃうよ? 忘れないでね、ここは蓮華の『境界』なんだから」

「……!」

 今の状態であたしが先輩に勝てば、そのまま命はない……そう言ってるってことか。

 あたしが勝つには、自分に有利なフィールド――雛菊の『結界』で戦え、そう言っているんだ。

 今のあたしが望んでも叶わない願い。それを知っているからこそ、亜澄は声高に告げる。

「そうだね、悠樹君……ひとまず香澄ちゃんの相手をしてあげて。殺しちゃダメだけど……意識があれば何やってもいいよ」

 亜澄の言葉に、先輩が無言で『焔』を構える。

 背中を冷汗が流れた。今まで味方だったから、先輩の戦闘スタイルや強さなんか、気にしたことなかったから……。

 刹那、先輩が地面を蹴った。『焔』を地面と水平に構え、あたしに向かって直進してくる。

「ぐぬっ!!」

 咄嗟に『颯』で受け止めたが、根本的な力の差もあり、バランスを崩して地団駄をふむあたし。

 弾き飛ばされそうになった『颯』を力いっぱい握ることで何とかつなぎ止めたが、それがあたしの動きを止めることになってしまった。

 腰を落としてこちらを見据えた先輩と、一瞬、視線が交錯する。

 ……泣きそうになる自分を必死に制御して、あたしは頭を完全に切り替えた。


「滾れ、焔」

「踊れ、颯!!」


 あたしの風と、先輩の炎が至近距離で激しくぶつかり、

「きゃぁっ!!」

 爆風に吹き飛ばされたあたしは、数メートル飛んだ後に地面へ叩きつけられた。

 芝生の上だけど、クッションの効果など全くない。肺から一気に空気が抜けて、目の前が真っ白になる。それでも『颯』を離さなかったことはささやかな抵抗だけど、それでも……全身が痛い。すぐに起き上がって戦闘体勢をとれるような訓練は受けていないので、立ち上がれという命令が全身に届かなかった。

「かはっ……げほっ……!」

 全身で呼吸して、何とか意識を繋ぎ止めていた。足音が近づく、でも……起き上がれない。

「せ、んぱい……」

 霞んだ視線の先、こちらを冷たい目で見下ろす奥村先輩。あたしの首に『焔』を向けて、彼女の命令を待っているように見える。

 優しくて頼りになる、そんな先輩の面影を探しても……見つかるはずがない。

「なーんだ。あっけないね、香澄ちゃん……もう終わりなの?」

 亜澄の声が、少し遠くに聞こえる。

 奥村先輩はぴくりとも動かない。

 あたしは『颯』を持っていない手で、芝生を握りしめた。

「そうだなー……香澄ちゃんにも亜澄と同じ痛みを味わってほしいから……悠樹君、香澄ちゃんの足、斬り落としてくれない?」

 身の毛がよだつ命令に何の抵抗もなく首肯した先輩は、『焔』の切っ先をあたしの首から膝に移した。

 そしてそのまま、『焔』を高く振り上げて――


「――踊れ、颯!!」


 あたしは寝転がった姿勢のまま声を張り上げると、自分が握っていた芝生を引きちぎり、先輩の顔めがけて投げつけていた。

 風に乗った草が先輩の眼前で舞い上がり、彼の体が大きく後ろへよろめく。

 その隙に気力だけで起き上がったあたしは、突然の攻撃にうろたえた先輩の懐へ入り込んだ。

 姿勢を崩しながらも『焔』を振り下ろす先輩。

 あたしは頭上に構えた『颯』でその攻撃を受け止めると、そのまま全身で先輩にタックルして……もう一回!!


「お、どれ……踊れ、颯!!」


 至近距離からの避けられない一撃。先輩の手元から『焔』が吹き飛んで、消える。

 そのまま二人して地面に倒れこみ、空中に芝生の緑が舞い上がった。端から見るとあたしが先輩に抱きついているような姿勢になっている。

 ただ、あたしはすぐに上半身を起こして……転がったままの先輩に馬乗りになると、その顔の右横に『颯』を突きさす。

 顔を動かしただけでも切れそうな距離。こちらを見上げる先輩の横顔が『颯』に映し出された。

「はぁっ……はぁっ……!」

 あたしは両肩で呼吸して、つばを飲み込む。

 満身創痍だった。でも、ここまで追い詰めて……あたしはこれから、どうすればいいのだろうか。

 今すぐに『颯』を引き抜いて先輩を元に戻したかった。でも、それをやって先輩が無事だという保証が一切ない。危なすぎる賭けに賭けるつもりはないからこそ、ここから何も出来ない。


 悲しかった。

 どうしてあたしは、この人と戦わなきゃいけないんだろう。

 先輩は、あたしを探し出してくれたのに。

 先輩は……いつも、あたしの隣で支えてくれていたのに。


「奥村先輩……奥村先輩……!」

 何度名前を呼んでも、先輩の口があたしの名前を告げることはなかった。

 代わりに、


「――はい、お疲れ様」


 その声に全身が緊張する。

 至近距離からの攻撃を感じて、あたしは体を動かせなかった。

 あたしの頭に『暦』を突きつけた亜澄が、笑顔で結末を告げる。


「香澄ちゃん……バイバイ」


 亜澄の声と共に、『暦』が降り上げられて――


 その瞬間、何かが砕ける音が周囲に響いた。

 薄いガラスが粉砕されたような、耳の鼓膜が震える細かい響き。

 刹那――風が、あたしの真横を吹き抜けていく。


「ぐぬっ……!」

 これまで少し離れた場所から事態を傍観していた蓮華が、急にうめき声をあげてがくりと膝をつく。

 手で押さえた右のわき腹から、とめどなく血が溢れているのが遠目でもはっきり分かった。

「蓮華!?」

 何かが起こったことに動揺した亜澄の剣がぶれる。

 ――今だ!

 あたしは地面にささったままの『颯』から手を離し、その場から飛びのいた。

 『颯』は消えてしまったけれど、2人と十分な距離を取ることに成功。

 そして、蓮華の後ろ、呼吸を整えながら剣を構える人影を見つけて、泣きそうになった。

「ふぅ……しっかし、『境界』って厄介だなー。雛ちゃんに感謝感謝だね」

「全く、世話が焼けますわね……」

 全身かすり傷だらけの椎葉と絢芽が、蓮華の背後でそれぞれの剣を構える。

 その後ろから、声。

「お待たせしました、香澄さん」

「雛菊……!」

 周囲に新たな『境界』が設定されていく気配を感じた。あたしが遠慮なく全力を出せる空間を感じて、疲れ切った体に力がわいてくる。

 ただ、今は『颯』を再び取り出す余力はなかった。だからせめて、気を失わないようにしっかり立っていよう。そう決めて、両足に力を入れる。

 初めて亜澄と『暦』を見た絢芽と椎葉が、一瞬言葉を失ったが……彼女の近くで倒れている先輩に視線をうつして、

「奥村さんの様子が、おかしいですわね……」

「だね。完全に倒れてるけど……まさか、やられちまったのか?」

 身じろぎしない姿に、2人の表情が曇った。

 ただしこれはチャンスだ。だって、雛菊の『境界』内である今なら――!

 距離的にはあたしが一番遠くにいるのだが、二人に聞こえるように声を張り上げた。

「絢芽、椎葉、奥村先輩を攻撃して!」

「樋口さん!? 何を――」

「その先輩は違うの! 『堕落者』が入り込んでるから……お願い、先輩を助けて!!」

「なっ……!」

 絢芽が目を見開く。

 今のあたしでは、対処するための力が残っていない。だから……お願い!

 あたしの言葉を受けた絢芽が、見開いた目を一度閉じて、

「分かりましたわ……有坂さん、ここはお任せします」

「りょーかいっ」

 再び目を開いた瞬間、前方へ力強く駆け出していた。

「させるか!」

 片膝をつきながらも、絢芽へ向けて左手を突き出す蓮華。左手から生まれた光が一本の筋となり、レーザービームのように絢芽へ迫る!

 しかし――椎葉がレーザービームと絢芽の間に入り込み、

「それを阻止するのが俺の役目だよっ!」

 両手で握った『壇』を、地面に突き立てる!


「――唸れ、壇!!」


 椎葉の言葉に応じて地面が隆起し、楯の役割を果たした。

 ビームは絢芽に届くことなく霧散し、椎葉の術の反動で、地面が大きく揺らぐ!

「くっ……!」

 バランスを崩した蓮華がその場でよろめいたが、すぐに空中へ舞い上がって、

「……傷が深いな……随分雑に扱ってくれるものだ、『干渉者』よ……」

 地上で見上げる椎葉を、苦々しい瞳で見下ろした。


 一方、悠々と亜澄へ距離を詰めた絢芽は、転がっている先輩の前に立ちはだかる亜澄を、値踏みするような視線で見つめていた。

「……本当、樋口さんとよく似ていらっしゃいますね」

 ぽつりと呟いた言葉に、亜澄は笑顔でこたえる。

「ありがとう。ちっとも嬉しくないや」

「あら、それは失礼致しました。私の率直な感想ですので、お気になさらずに」

 絢芽も笑顔で応じながら、戦力が未知数である亜澄の動向を観察していた。

 と……不意に、亜澄と先輩の体が宙に舞い上がり、ぐんぐん空へ舞い上がっていく。蓮華と共に逃げようとしていることは一目瞭然、絢芽は『雫』を奥に引いて亜澄を見据え、

「逃がしませんわ! 散れ、雫!」

 下から上へ『雫』を振り上げた瞬間、氷の粒が無防備な二人へ襲いかかる!

 しかし――亜澄はその氷を見下ろし、口元に笑みを浮かべた。

 そして、迫りくる氷を指さして、

「悠樹君……亜澄を守ってほしいな」

 動かない先輩に向けて一言呟いた瞬間……彼が、大きく目を見開いた。

 そしてすぐさま亜澄と氷の間に立ちふさがり、その攻撃を一身に受ける! 氷の細かな粒が、容赦なく先輩を切り刻んだ。

「ちょっ……奥村さん!? やめ……やめてください!!」

 放たれた攻撃は止められない。絢芽の悲痛な叫びが響いた後……空中で全身から血を流す先輩が、無機質な瞳で虚空に佇んでいた。

 一言も発することなく、ただ、亜澄の声にのみ従う。その姿にはさすがの椎葉も絶句して、力なく虚空を見上げるのみ。

「させません!!」

 雛菊が目を閉じて、両手で印を組んだ。『境界』を強めている様子で、そのままの姿勢でぶつぶつと何かを呟いている。

 それに気づいた亜澄が、地上の雛菊を指さして叫んだ。

「悠樹君、雛菊さんを攻撃して!」

 その言葉を受けた先輩が静かに地上を見下ろして、

「――焔」

 静かに呟いた手元に、見なれた刃。そして、


「滾れ、焔」


 雛菊目指して『焔』を振り下ろした瞬間、炎の渦が無防備な雛菊へ襲いかかる!

 しかし、既に雛菊の前でスタンバイしていた椎葉がこの攻撃を見据え――にやりと笑みを浮かべる。

「驚異の防御力! 唸れ、壇!!」

 『壇』を突き立てた地面を隆起させ、防御壁を作った。

 土壁を貫通できずに、炎が周囲に拡散して……芝生に煤を作る。

「へへっ! どーだ悠樹!! 恐れ入ったか!!」

 先輩に向かって叫ぶ椎葉の横顔が、どこか寂しそうに見えた。

 そんな彼の言葉に……先輩は表情一つ変えない。

 そして……不意に手を動かしたかと思えば、自分の首筋へ『焔』をあてたのだ。

 さすがの椎葉も余裕を見せていた表情を崩して、空へ叫ぶ。

「ちょっ……悠樹、お前何してるんだよ!!」

 椎葉の声も届かず、首筋にあてた『焔』を更に近づける先輩。

「やめろよ! おい、悠樹!!」

「無駄だよ! 悠樹君は亜澄の言葉しか聞いてくれないんだから!」

 彼の隣りにいる亜澄が、目を見開いて叫んだ。

 そして、椎葉の後ろにいる雛菊を見下ろして、

「ねぇ雛菊さん、悠樹君を殺したくなかったら……この『境界』を解除してくれないかな。大丈夫、彼の怪我は蓮華が治療してくれるから」

 雛菊は呟いていた言葉を区切り、目を開いて彼女を見上げる。

「亜澄さん、貴女……」

「『干渉者』が減って困るのはお互い様でしょう? 亜澄だって、悠樹君を殺したりなんかしたくないんだけど……ねぇ、お願い。亜澄に再戦のチャンスをくれないかな?」

 狡猾な彼女の提案に、怒りが湧き上がってくる。だけど、今、亜澄を攻撃したところで……そのダメージは全て先輩のものになってしまうのだ。

 何も出来ないあたしは、空に浮かぶ3人を見上げて……ただ、唇を噛みしめるだけ。

「亜澄……!」

「ほら、香澄ちゃんも含めて、みんなボロボロだもん。ここは一度解散したいんだけど……どうかな?」

 亜澄の提案に、雛菊は数十秒考えてから、

「条件が、あります」

 いつも通りの笑顔を作ると、人差し指をぴっと立てた。

「条件?」

「はい。まずは悠樹さんの身の安全を保障してください。怪我の手当てと命の保障です」

 その言葉を受けて、亜澄は蓮華を見た。

 蓮華が無言で首を縦に振る。

「うん、蓮華がやってくれるみたいだから大丈夫だよ。それだけ?」

「もう一つあります。次回、再戦を行うときは……私が『境界』を設定した場所で行います」

 刹那、亜澄の目がすぅっと細くなる。完全に雛菊を疑っている眼差しだ。

「それって、香澄ちゃんたちに有利な条件ってこと?」

「少し違います。今、この久那市の『監督者』は私です。『干渉者』の関わることは、基本的に私の監視下で行っていただきます。『境界』の設定については、当日にそちらの要望も伺ってから決定しましょう。これで、いかがでしょうか?」

 亜澄は宙に浮いたまま、しばし、黙り込んで……。

「……分かった。こっちは逃がしてくれって言ってるんだもんね。それくらいの要望は受け入れるよ」

「ありがとうございます。では、『境界』を解除して『修復』を行いますので……皆さん、いつものように目を閉じていただけますか?」

 雛菊の言葉に、あたしは黙って目を閉じた。

 目を開けば、今までのことが夢だったらいいのに……そんなことを、考えながら。


 そして、目を開くと……周囲はすっかり真っ暗で、病院の窓から漏れる明かりが、妙に眩しかった。

 あたしは芝生の真ん中で立ち尽くし、少し離れた位置に絢芽と椎葉、雛菊がいる。

 傷はない。雛菊が治療してくれたみたいだけど……心が、痛い。

 そして、奥村先輩は……いない。


 助けられなかった。

 あたしをかばってくれた先輩を、助けられなかった……。


 一言で言うならば、悔しかった。

 自分は力を得たと思っていたのに、あっさり隙をつかれて、助けに来てくれた先輩に一番辛い役割を背負わせてしまったんだ。

「あたしが……あたしが、もっと強ければ……!」

 自分の無力さをこんなに呪ったことなどない。無意識のうちに両手を爪が食い込むまで握りしめていた。

 そんなあたしへ……絢芽が静かに近づくと、そっと、肩に手を添えて、

「そんなに力を入れても、空回りするだけですわ。落ち着いてくださいな」

「分かってる……分かってるけど……!」

 あたしが怒りに身を任せて行動しても、いいことなんか何もないことくらい……分かっていた。

 だけど、モヤモヤした気持ちが離れない。

 無力な自分が情けなくて、悔しくて……どうすればいいのか分からなかった。

 絢芽はそんなあたしを真っすぐ見つめると……不意に、ジト目を向けて、

「いつまでご自分の無力を嘆いていらっしゃるのですか? そろそろ切り替えていただかなくては困りますわ」

「ちょっ……!」

 遠慮のない物言いにあたしが目を見開いた先、常に嫌味なお嬢様は悠然と腕を組んで、

「雛菊さんが、私たちに有利な条件をつけてくださったのですもの。このチャンスを無駄にするような真似は、私が許しませんわ」

「絢芽……」

「今は辛いでしょうが、それに耐えることも樋口さんにはいい勉強ですわ。何の成長もなければ、戻ってきた奥村さんを再び疲れさせるだけですもの」

「うぅ、もうちょっと優しい言葉をかけてくれてもいいじゃない……」

 容赦を知らない絢芽の言葉に、あたしの心は大号泣だ。

 だけど……それが今のあたしに必要だって事も分かる。

 己の無力を嘆く前に、怖くても目の前の問題を見つめるんだ。

 同じ失敗を繰り返さない……それはあの時、亜澄に怪我をさせてしまった時から、心に強く誓うことだから。

 いつの間にかこちらへ近づいていた椎葉もまた、親指をぐっと突き出して、

「とりあえず……作戦会議でしょ。俺達も報告したいことがあるし、香澄ちゃんにも聞きたいことがあるからさ」

「では、私の家で行いましょう。よろしいですか?」

 絢芽の申し出に、あたしと椎葉は順に頷き、

「絶対取り戻すから……待ってなさいよ、亜澄」

 明かりのついていない亜澄の病室を見上げ、再度、決意を固めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ