迫りくる隠密者
あたし達が星霜学園へ行ってから数日後、妙に平和な土日が終わって……色々だるい月曜日。
午後の授業の合間、教科書の出し入れを行っているあたしへ、クラスメートの男子が近づいてきた。
最初は彼の目的地があたしじゃないと思っていたけれど、あたしの机の脇で立ち止まったので、反射的にそちらを見上げる。
えっと……名前……。
特に接点も目立つ要素もなく、名前もすぐに思い出せないほど希薄な関係。
「樋口さん」
「ん?」
えぇっと……名前名前……。
あたしが必死に名前を検索している間に、彼はポケットから二つ折りの紙を2枚取り出す。
「これ、1枚は奥村先輩にも渡してもらえないかな。もう1枚は樋口さんのだから」
「へ? あ、うん、いいけど……」
「ありがとう。よろしくね」
彼はそれだけ言って、自分の席の方へ戻っていく。
透けて見える内容は、同じ内容がプリントアウトされたもののようだ。ご丁寧な地図らしきものが見えるんですけど……何これ。
奥村先輩には生徒会で会ったときに渡せばいいので、ひとまず1枚を鞄のポケットに入れて。
自分用ということで、手元の1枚を開く。
そして……その内容に、思わず息をのんだ。
「先輩先輩! 大変です!!」
放課後、生徒会室へやってきた奥村先輩を部屋の前で待ち伏せしていたあたしは、その姿を見つけるなり駆け寄った。
「樋口?」
階段を登ってきたところで唐突に現れたあたしに、奥村先輩が目を丸くする。
しかし、あたしはそれどころではない。ひと先ず階段の踊り場まで、奥村先輩の制服を引っ張ってから、
「大変なんです、大変なんですよ!」
取り乱すあたしは、気がつけば奥村先輩のネクタイを掴んでぐいぐい引っ張っていた。
「ちょっ……苦しいだろう、落ちつけ。何があったんだ?」
あたしの両肩を掴んで距離を取りつつ、顔をしかめる。
「樋口、何があった?」
「そ、それが……クラスメートからこんな紙をもらって……!」
慌てて鞄から問題の紙を取り出すと、先輩の目が冷たくなる。
「ラブレターをもらった報告か?」
「違いますよ! とりあえず読んでください!!」
二つ折りの紙を先輩に押しつけ、読めと目力で訴える。
奥村先輩は「やれやれ」と言いたそうな表情で紙を開き……文字を読み進めるにつれて、あたしと同じ反応を示す。
そして、全て読み終わった後……深く、ため息をついた。
「いつかこうなるかもしれないとは思ったが……『灰猫』に尻尾をつかまれたってことか。厄介だな」
その手紙の内容は、以下の通り。
『樋口香澄様
書面にて失礼いたします。我々は『灰猫』と呼ばれている組織です。
久那高校生徒会所属の樋口様なら、この名称と、メンバーの一人である佐藤のことはご存知かと思いますので、我々に関する説明は省略いたします。
さて、我々は久那市を中心に活動をしているのですが……最近になって、樋口様とはじめとする複数名の方が、我々の予想を遙かに超える活動をしてらっしゃるという情報を掴んでおります。
そして、ここ最近、久那市内でも、奇怪な事件が相次いで発生している現状を、ご存知でいらっしゃいますでしょうか。
我々としても、樋口様に情報提供等の協力したいところではございますが、樋口様がわれわれの味方であるという保証がない状況ですので、それも叶いません。
そこで、大変お手数ではございますが……一度、我々と会っていただけませんでしょうか。
こちらとしてもリスクが多いことを承知でご提案させていただきます。
日時は2日後の水曜日、午後5時より、下記の場所でお待ちしております。
尚、奥村悠樹様、東原絢芽様、有坂椎葉様にも同様の内容でお手紙を渡しております。
皆様ともお話合いの上、お越しいただければ幸いです。』
とりあえず感想……雛菊、仕事して。
でも、相手は『灰猫』だから……『境界』の外側で発生している事件や情報から、あたし達のことにたどり着いたのかもしれない。
「奥村先輩……どうしますか?」
手元の手紙を一読した先輩は、それを折りたたんでズボンのポケットにしまい、
「ひと先ず、今日か明日にでも全員で集まる必要があるな。俺がメールで連絡するけど……樋口はどっちでも大丈夫か?」
「大丈夫です。宜しくお願いします」
特に予定はないので、奥村先輩に任せることにしよう。
「分かった。じゃあ、ひと先ず生徒会だ。今日は文化祭の準備会だからな……樋口、頼むぞ」
「分かりました……って、何をあたしに頼むんですか?」
「……盛り上げ役?」
「そんなの準備会に必要ないじゃないですか!?」
夏休み後の文化祭に向けて、1学期から準備するとは大変だけど……さすが高校。あたしは初めてなので、当日も楽しめればいいなと思いながら……初回から手元に広がる資料に、冷汗が出た。
生徒会室に長机を4本横に並べて、周囲を椅子で取り囲む。あたし達生徒会メンバーと、各部活動の部長が20人くらいだろうか……4人で使うには広すぎる室内も、20人以上集まると狭く感じる。
しかし、文化祭って、文化部だけのお祭りじゃないんだなぁ……運動部からも出し物が豊富に予定されているみたいだけど、ラグビー部の「米俵争奪戦(仮)」って何だろう……。
他にも色々気になる部はあったけれど、今のあたしはそれどころではない。
人口密度が一時的に高くなった会議終了後、自分の席に座ったままこっそり鞄内の携帯電話をチェックすると……絢芽と椎葉からそれぞれメールが届いていた。
絢芽からは既に先輩からのメールを確認した後らしく、明日の会合を希望する内容。
椎葉からは……どっちでもいいという内容。
これは……明日だろうな。確かに、今日いきなりっていうのは難しいだろうし。
携帯電話を再び鞄の奥に滑り込ませて、今日の夕食はどうしようかと、シャーペンをくるくる回しながら思案するあたし。
すると……机上の余った資料を回収していた皆瀬君があたしの方へ近づき、
「お疲れ様です、樋口さん」
「お疲れ様……当たり前だけど、何だか大事なんだね、文化祭って」
「そりゃあそうですよ。生徒会は人数少ないですから、色々と忙しいみたいですけどね」
4人しかいないのに……どれだけやることがあるんだろうか。
でも……奥村先輩にばかり負担をかけないように頑張らなきゃ!
あたしが一人で気合いを入れると、皆瀬君が急に声を潜めて、
「そういえば樋口さん……この高校の文化祭の伝統、知ってる?」
「伝統?」
「うん。どうやら先生方と生徒会が取り仕切るらしいけど……校内のカップル率が著しく上がるイベントみたいだよ」
カップル率が上がる? 何だろう……先生も含まれているってことは、合コンみたいなことじゃないと思うけれど……分からない。
まぁ、生徒会も関わるのであれば、いずれ分かるだろうけどさ。
ふと……視線の先、入口のところで、稲月先輩と奥村先輩が話をしている姿が見えた。
何というか……絵になる2人だなぁ……改めて思う。
あたしの見ている場所に気づいたのか、皆瀬君も同じ方を見て、
「奥村会長って、確か彼女いないんだよね……勿体ないなぁ。告白され放題だろうに」
「そうだよねー……もうちょっと若者らしく遊び心を持てばいいのに……まぁ、そんな奥村先輩は違う気もするけど」
もしも奥村先輩が友好的に話しかけてきたら、それだけで拒否反応を起こしそうだ。
落としたシャーペンを拾い上げ、もう一度前方を見る。
「稲月先輩みたいな人だと……釣り合うんだろうなぁ」
ぽつりと呟いた言葉に、皆瀬君は何も言わないでくれた。
やはり『干渉者』の会合は翌日の夕方、以前も集まった絢芽宅の離れで行われることとなった。
生徒会を早めに切り上げてくれた先輩と一緒に、再度、このどっしりした門の前に立つ。
あー……やだ、緊張する。初めてじゃないのに緊張する。
呼び鈴を押す先輩の背中に隠れ、離れに通されるまで周囲をきょろきょろと見渡すあたし。
「樋口さん……はしたないですわ」
離れに入ったところで、絢芽が呆れた顔で呟いた。
「だ、だって、しょうがないじゃない! 庶民なの、こういう場所は慣れてないの!!」
靴をそろえながら反論するが、彼女はふいと視線をそらして部屋の奥へ。
「おー、2人とも来たなー」
既に胡坐をかいてくつろいでいた椎葉が、あたしと先輩を見つけて右手を振った。
「これで揃いましたね」
その隣には雛菊もスタンバイ。両手で湯呑をつつみ、にっこりと笑顔を浮かべている。
座布団が円の形でぐるりと5人分要因されているので、とりあえず雛菊の隣りに座った。その隣に先輩が腰を下ろす。
あたし達の分のお茶を運んでくれた絢芽が最後に腰を下ろし……全員が揃った。
「さて皆さん、何だか大変なことになっていますねぇ……」
既にあたしが例の手紙は雛菊に見せている。昨日の彼女は何も言わなかったけれど……手元のお茶を一口すすってから、湯のみを畳の上に置き、
「正直、私も油断をしていました。久那市に諜報機関があることは知っていましたが……まさか、今の時代まで続いていたなんて」
「え? 今の時代まで続いていた?」
まるで彼らのことを知っているような口ぶりだ。
驚くあたしに、雛菊は一息ついて続ける。
「恐らく、この方々のルーツは……『干渉者』に協力するサポート機関として組織されていたものだと思われます。私の時にもそういう役割の方がいて、情報提供を受けていたことがありました」
雛菊がさらりと語った言葉に、あたし達は絶句していた。
そ、そんなに伝統のある組織だったとは……つながりがあるとも思っていなかったので、急展開なんですけど……。
と、絢芽が湯呑を畳に置いて片手を上げる。
「では、この胡散臭い方々は、私達の仲間ということになるのですか?」
胡散臭いって……まぁ、絢芽はおそらく『灰猫』に会ったことがないだろうけれど、そんな正直に言わなくてもいいじゃないか……本人たちの前で言っちゃダメだよ。
絢芽の言葉に、雛菊は迷いのある表情で尋ねる。
「正直……今は昔と時代が違いますので、仲間と呼んでいいのか私も分かりかねます。実際に接触したことのあるのは、香澄さんと悠樹さんですわね。どう思われますか?」
「え!? うーん……あたしも一人しか会ったことないから何とも言えないけど……悪い人たちじゃないと思うんだけどなぁ……」
佐藤君の軽薄な態度は気になるが、あれも芝居かもしれないし。
少なくとも、久那市を悪い方向へ導こうとする集団には思えない。
「悠樹さんはいかがですか?」
「そうだな……俺も正直、ほとんど接触したことがないんだが……」
先輩も考え込みながら、不意に、先輩の正面にいる椎葉を見据え、
「ここは、実際に所属している本人にも聞いてみればいいんじゃないのか?」
「へっ!?」
あたしは思わず間抜けな声を上げてしまった。
いや、だって……実際に所属してる本人!? 誰が!?
先輩の爆弾発言に、女性陣は一斉に、先輩の視線の先――椎葉を見つめた。
見つめられた当の本人は、胡坐をかいたまま……苦笑でひらひらと右手を振って、
「いやー、悠樹も何を言い出すんだよ。俺が『灰猫』? どうしてそうなるわけ?」
普段の視線を崩さず否定する彼に、先輩もまた、普段の調子で淡々と……語気に少し力を込めて続ける。
「生徒会長の権限を馬鹿にしてもらっちゃ困るな。各学校の会長は、『灰猫』メンバーのリストを閲覧する権利があるんだ。自分の学校にいるメンバーを把握するためなんだが……お前の名前を見つけた時はさすがに驚いたよ」
「……へぇ、そうなんだ」
椎葉が口の中で呟いた。その口元に、にやりと笑みを浮かべて。
まぁ確かに、椎葉は物知りというか情報通だと思うことは何度もあったけれど……まさか、『灰猫』の一員だったなんて。
絢芽も軽く目を見開いて、隣にいる彼を見つめる。
「有坂さん、貴方は……」
「いやぁ……おみそれしましたよ奥村生徒会長」
手を左右にあげ、おどけるような仕草でため息をついた。
「確かに俺は『灰猫』の一員だぜ。だけど、今回のことで……ちょっと、集団から孤立してるんだよね」
「孤立、だと?」
「そ。俺もさすがに『干渉者』のことは話せないと思って誤魔化してたら、いつの間にか裏切り者扱いでさー……今回の呼び出しも、マジでこの手紙で知ったんだって」
そう言って、学ランのポケットから手紙を取り出し、ひらひらと顔面にかざす。
しかし、先輩は彼から目をそらさず、問いかけた。
「でも、この組織に一番詳しいのはお前だ。椎葉、お前は……今回の呼び出し、どう思っている?」
先輩の問いかけに、椎葉は数秒考えて、
「あっちの情報を聞いた後、雛ちゃんに誤魔化してもらうのが一番だと思うさ。だけど……それをやったところで、『灰猫』が久那市で活動する以上、また俺達とぶつかる。その度に誤魔化してもらうのは簡単だけど……面倒だろう? それに……」
こんなに饒舌な椎葉は初めて見たので、あたしは口が半開きのまま、黙って話を聞いていた。
椎葉は一度お茶で喉をうるおしてから、言葉を続ける。
「それに……『灰猫』も蓮華ちゃん絡みの『堕落者』に接触してるから、余計に俺達を不審に思ってるぜ。ここは一度、信じてもらえない前提で俺達の目的を話して……味方に出来るなら味方に、ダメなら雛ちゃんに誤魔化してもらってもいいんじゃない?」
「反対ですわ」
椎葉の意見に、絢芽が厳しい声で自分の意見を告げる。
「確かにこの方々の能力は優れているかもしれません。ですが……彼らは『繁栄者』です。私達のような『干渉者』とは違う。部外者にこちらの事情を話すなんて、正気とは思えませんわね」
絢芽の言いたいことも分かる。
あたし達が片足を突っ込んでいるのは……非日常の世界だ。
『堕落者』と戦う、危険と隣り合わせの日々。
彼らが情報だけ集めて渡してくれればいいけれど、もしも、その最中に戦いに巻き込まれたら―ー雛菊がいるから負傷しても大丈夫だと思うけれど、最近は蓮華のせいで雛菊がすぐに干渉出来ないケースもある。
それまで、彼らを守って戦えるだろうか?
「対抗する術のない方を巻き込むのは、得策だと思えませんわね」
これは、彼女なりの配慮であることに全員が気づいていた。
だからこそ、椎葉も彼女の意見にうんうんと頷き、
「うん、俺もそう思う。だから、俺達のことを話すのは、『親猫』だけにしたらいいんじゃないかと思うんだよね」
「お、『親猫』……?」
知らない言葉に首を傾げる絢芽。
椎葉は人差し指を立てて、得意気に説明を続ける。
「簡単に『灰猫』の組織図を説明すると、トップに立つ一人っていうのはいなくて、久那市を3つのエリアに分けて、そこに一人、『親猫』って呼ばれてる地域リーダーがいるんだよ。その下に他のメンバーがいるんだ。ちなみに俺も、第2エリアの『親猫』やってるんだぜー」
「そうですか。とてもリーダーの器には見えませんわね」
「絢芽ちゃん、それはきついぜ……」
歯に衣着せぬ絢芽の言葉に、椎葉はがっくり項垂れつつ、
「とにかく、まずは俺以外の二人に話をしてみて、相手の出方を伺ってもいいと思う。俺が言うのもあれだけど、真悟と司は味方にすると役に立つと思うぜ」
「……そうですか」
絢芽は一言呟くと、雛菊の方へ視線を移し、
「『監督者』として、力を持たない『繁栄者』に事情を説明することは、どう思われますか?」
この質問に、雛菊は……珍しく真顔で答える。
「正直、得策ではないと思っています。しかし、情けない話ですが……我々には情報が少ない。蓮華が接触していると思われる、『暦』を使う『干渉者』も、また全容が掴めずにいます。『灰猫』という彼らが我々に接触をしてくるということは、こちらのリスクに見合った情報を持っている可能性があると思っています。最悪、彼らの記憶を私ならば操作することが出来ますので……私という最終手段は伏せて、皆さんだけで接触してみてはいかがですか?」
「随分狡猾ですわね。こちらの手の内は全て見せないけれど、相手の情報は全ていただこうなんて……」
「申し訳ありません。私もあまり手段を選べないものですから」
苦笑を浮かべる雛菊に、絢芽はそれ以上何も言わなかった。そして、
「『監督者』である雛菊さんがそう言うのであれば、私が頑なに反対する理由はありませんわね」
そう言って、口元に笑みを浮かべた。何やら状況を楽しんでいる様子だ。
やはり、あたし達にとっては「雛菊」というのが最終的な切り札になるんだな、と、今更にように再確認。
「香澄ちゃんはどう思う?」
「え? あたし?」
椎葉から話を振られて、我に返った。
「あたしは……うーん、味方は多い方がいいと思っちゃうから、ものは試しで話をしてもいいんじゃないかな?」
仮に一緒に戦えなくても、彼らの情報網は久那市全体のはずだ。あたし達や雛菊がカバーしきれない細やかな変化も知ることが出来れば、それはあたし達にとって十分なプラスになる。
「香澄ちゃんは賛成派ね。んじゃ、悠樹は?」
椎葉がビシッと指さすと、先輩はしたり顔でお茶をすすりながら、
「ここで俺が反対したところで、結論は変わらないだろう?」
この言葉で、あたし達の意見はまとまった。
そして、翌日。決戦の水曜日。
今日は生徒会活動がない日なので、放課後開始から5時まで、1時間半ほどの時間の余裕がある。
集合場所は久那センのドーナツ屋前だと聞いているけれど……そこから移動するんだろうなぁ。まさか、久那市のど真ん中であの話をするわけにもいかないし……。
ホームルームが終わり、教室がざわめきだしてから、あたしはこれからの時間をどう過ごそうかと思案していた。
と……鞄の奥、携帯電話が振動している音が聞こえる。
奥村先輩だろうか。担任教師がいないことを確認して、あたしは机に鞄を置き、チャックを開けて中をごそごそと散策。ストラップを手繰り寄せ、本体を引っ張り上げた。
小窓に、新着メールを告げるアイコンが点灯している。何だ、やっぱり先輩からだろうか……あたしはそう思って、鞄の中で携帯電話を開き、
「――え……?」
刹那、心臓が大きく跳ね上がった。
呼吸を忘れる、それくらいの衝撃。
見間違いかと思って何度も見返すが、画面に映し出されたメールの差出人と内容は変化しない。
当たり前だ、当たり前だけど……でも、どうしてこのタイミングで?
あたしはすぐに荷物をまとめて教室を飛び出す。
途中、奥村先輩に呼び止められたことに……全く、気づかなかった。
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「……樋口?」
1年生と2年生の教室をつなぐ階段、その途中で彼女とすれ違った悠樹は、自分に気がつかず階段を駆け降りる彼女の姿に、違和感を感じていた。
何をそんなに急いでいるのだろうか。まだ、約束の時間まで1時間以上あるのに。
何か用事でもあるのか、昨日はそんなこと言っていなかった。
それに、あの様子には普段の彼女と違う何かを感じる。何かに追い立てられているような切迫感、普段の明るくて行きすぎることもある彼女とは真逆で……嫌な予感が、する。
ただ……どうせ5時にはあの場所に来るだろう。彼女は決して約束を破ったりはしないのだから。
悠樹は心の中でそう結論付け、時間をつぶすため図書館に向かおうと、踵を返した。
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久那センからバスに乗って15分。
あたしは、お年寄りや親子連れに混じってバスを降りた。
久那市総合病院前。
文字通り、久那市にある大きな総合病院の前である。
久那市だけではなく、周辺の地域のカバーする非常に大きな病院で、ドクターヘリも常駐しているとか。
広大な敷地には緑も豊富に植えられ、白を基調にした建物が点在している。バス停から直結している通路で敷地内に入ると、パジャマ姿で散歩する人、ベンチで看護師と談笑する人、花束を持って病院へ向かう人……色々な人がそれぞれの時間を過ごしていた。
芝生の間にある道を抜けて、いつもの場所を目指す。
ここに来るのは久しぶりだった。それこそ、『干渉者』になってからは一度も訪れていない。
そして彼女は、そんなあたしの現状を知っているかのように……今まで、メールをよこしてこなかった。
それなのに、どうして今日、このタイミングで……嫌な予感が消えない。胸の動悸が治まらない。
一人で来るしかないのに、誰かについてきてほしかった。先輩でも絢芽でも椎葉でも雛菊でもいい……誰か、隣にいてほしかった。
「……何を甘えてるんだか」
呟いて、その思いにふたを閉める。
だってこれは、あたしの戦いだ。病院に入る前に携帯電話の電源を切って、あたしは……自動ドアをくぐる。
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そして、1時間半後――時刻は5時前。
帰宅する学生が多く往来する、久那センのドーナツ屋前にて。
「樋口さんはまだいらっしゃっていませんの!?」
腕を組んだ絢芽が、苛立った声で彼に詰め寄る。
「奥村さん、樋口さんはどこで何をしていらっしゃるのですか?」
「俺に聞くなよ。さっきからメールもしてるし、電話もかけてるのに……電源が切れてるみたいなんだ」
悠樹が肩をすくめた。この場にいるのは、悠樹と絢芽のみ。椎葉はひとまず『灰猫』側のメンバーと接触するために別行動を取っているのだ。
絢芽は髪をかきあげると、呆れたような表情でため息をつき、
「全く……見損ないますわ」
「そう言うなよ。もしかしたら、何かに巻き込まれているかもしれないだろう?」
「それは……では、どうして誰にも連絡がないのでしょうか。今までの樋口さんならば、電話一本くらいよこして応援を頼むはずですもの」
確かにおかしい。悠樹の中でも腑に落ちない香澄の行動だった。
そういえば、先ほど校内ですれ違った時も……少し、様子がおかしかった。
「もしかしたら俺の携帯がダメなのかもしれない。東原も一度、かけてみてくれないか?」
「分かりましたわ」
絢芽が鞄から携帯電話を取り出し、タッチパネルを操作して、本体を耳元へ。
「……ダメですわ。電源が入っていない様子です」
「そうか……」
嫌な予感が渦巻いていく。ここにきて、蓮華が何か仕掛けたのか――
悠樹がそう思った刹那、
「おう、お疲れ……って、香澄ちゃんは?」
後ろからやってきた椎葉に声をかけられ、二人はそちらを向いた。
椎葉の一歩後ろに、男女が一人づつ。男性は椎葉と同じ久那商業の制服を着て、女性はまた、誰とも違う灰色のブレザーを着用していた。
茶髪にピアスという立ち姿の男性と、眼鏡で短髪、物静かな印象の女性。この二人が並んで歩いているだけで違和感がある。
「君は……」
男性の方に見覚えがあった悠樹が、軽く目を見開く。
「お久しぶりっす」
彼は、以前と変わらない飄々とした口調で、悠樹に頭を下げた。
椎葉はキョロキョロ周囲を見渡しながら、一人足りない彼女を探す。
「ねぇ、香澄ちゃんは?」
「樋口さんはまだいらっしゃっていませんわ。携帯電話も通じませんの」
「マジで?」
「私が嘘をつく理由がありませんわ」
ふん、と、不機嫌に腕を組む絢芽。
しかし、その話を聞いた椎葉を含む『灰猫』メンバーが、苦い表情になって顔を見合わせていた。
「椎葉、どうした? 何か心当たりがあるのか?」
「いやー、正に香澄ちゃんの話をしようと思ってたわけなんだけど……まいったね、向こうが先に動いたのか」
「どういうことだ?」
話を急かす悠樹を、椎葉は「まあまあ」と制しながら、
「ここじゃ話せない。俺達が使ってる場所があるから、ひとまずそこに移動しようぜ。自己紹介もしたいからな」
椎葉の提案に、悠樹と絢芽は無言で頷いた。
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「あら香澄ちゃん、久しぶりね」
ナースセンターの前で、見知った看護師の女性に声をかけられる。
愛想笑いを返して、あたしは彼女の病室を目指した。
クリーム色の壁に、各個室への引き戸が点々と続く。
この廊下の一番奥、そこが……彼女の病室だ。
その前に立って、自分の呼吸が荒くなっていることに気がつく。でも、今更引き返せない。
何度も息を吸って、吐いて――消毒のにおいが混じる空気を、何度、肺にとりこんだだろうか。
「……よし」
自分の中でタイミングを決めて、ドアを2回、ノックする。
「――どうぞ」
中から、あたしより高い声が返ってきた。
その声に身がすくんでしまうあたしがいる。ダメだ、落ち着いて、いつものあたしで――!
引き戸を開き、中に入る。
個室なので、窓際にベッドが一つ。扉近くには洗面所とクローゼットがあり、二人掛けの椅子とテーブルが脇に折りたたまれていた。
ベッドの近くには、車椅子。
ここは3階なので、開け放たれた窓からの風が心地よいのだけど……バタバタとはためくカーテンが、今は不気味な音に思えて仕方ない。
そして、ベッドの上で上半身を起こしていたこの部屋の主が……あたしの方を向いた。
長い髪の毛がはためく。そして……あたしと同じ顔で、笑顔を作った。
「久しぶりだね、香澄ちゃん。最近はちっとも来てくれなくなっちゃったから……結構寂しかったんだよ?」
「ご、ごめんね亜澄……ちょっと忙しくて」
扉を閉めて、あたしは彼女に近づいた。
彼女は――亜澄は、あたしの知っている笑顔で、容赦なく言葉を続ける。
「へぇー……『干渉者』ってそんなに忙しいんだ。正義の味方気取ってるんだって? 大変そうだねぇー」
「っ……!?」
亜澄の口からさらりと出てきた、『干渉者』という言葉。
ずっと嫌な予感はしていた。会合の時、佐藤君から、あの言葉を聞いてから、特に……。
「俺達『灰猫』のメンバーは、当然この久那高校にもいるんすよ。で、そのメンバーが現場に居合わせた時にその人物の横顔をみたらしいんすけどね……髪を長くした副会長が立ち去ったって、つまり、樋口ちゃんに似てるらしいっす」
そう、それはやはり……亜澄のことだったんだ。
「亜澄、あんた、やっぱり……!」
「やっぱり? ってことは、これ以上隠す必要がないんだね?」
亜澄は嬉しそうに笑う。そして、
「じゃあ、見せてあげるよ――『暦』!」
その言葉を、聞きたくなかった。
そして……あたしの双子の妹が『暦』という日本刀を持っている姿も……見たくなかった。