迷えぬ当事者
傷が、ない。
先ほどの温泉(?)効果は、どうやら本物だったらしい。
半信半疑のまま立ち上がり、腕や足を動かしてみる。
違和感は……ない。
「この空間では、その程度の外的損傷では死なない。むしろ、精神的に倒れたやつが負けだ」
先輩の言葉が、今になってようやく実感できた。
「でも……どうして? 何がどうなってるの……?」
傷が治ったところで、あたしが不思議体験をしたことは変わらない。
そして、事の詳細を知っていそうな人物が、あたしの目の前には二人もいるのだ。
雛菊さんは、あたしのことを「最後の『干渉者』」だと言っていた。全く意味は分からないが、敵対している様子はないから、邪険に扱われることはない、だろう……多分きっと。
……あたしは、事情を知ったことで文字通り斬り捨てられる可能性を必死で否定した。
「奥村先輩、雛菊さん、説明してもらえるんですよね?」
先ほどの名前事件から、決まりが悪そうに視線をそらす先輩。
そんな彼に代って、雛菊さんが変わらない笑みを向けて、答えた。
「勿論です。むしろ、私から協力をお願いします。香澄さん」
それから、個人的にはすぐに事情を聞きたいところではあるけれど……稲月先輩のこともあり、一旦、奥村先輩を連れて生徒会室へ戻ることにした。
雛菊さんは、「では、用意ができたら呼んでくださいね」と言い残し、教室から出て行って……行方知れずである。
ただ、そのことに先輩が動じている様子は全くなかった。だからこそ、あたしもあえて深く突っ込まないことにしよう、そうしよう。
中央棟へ繋がる渡り廊下を歩きながら、隣にいる先輩を見上げる。
あたしの頭一つ分高い身長で、切れ長の目にサラサラの短髪、横顔だけでも整ったイケメンであることが分かる。生徒からの人気が高いのも納得。たまにすれ違う女子生徒の視線を集めているのに、本人は歯牙にもかけていない。
あまり近くでまじまじと見たことはなかったので見てみよう……うん、勿論実力があって生徒会長を務めている人格者ではあるが、見てくれがいいこともポイントは高かったと思うぞ。本人は不本意かもしれないけれど。
これでもう少し愛想がよくなればいいと思うのはあたしだけじゃないと思うが、ここは意見が分かれるところだ。
対するあたしと言えば、先輩の隣を歩くのは今でも慣れない小市民。容姿も勉強も平均点(だと思いたい)、運動は人並み以上(だと思いたい)。
髪の毛は肩につかない高さのボブ、身長はようやく160センチに届いたところ。キャップを少し深くかぶってジーンズで街を歩けば、今でもたまに男性に間違えられることがある。
稲月先輩みたく、もう少し女性らしくなれればいいのだけど……あと1年であんなになれるだろうか。無理だな。
諸先輩方と自分を恐れ多くも比較して、やっぱり自分は自分らしく生きよう!……と、渡り廊下から階段へ移動する中で、新たな決意を固めたのだった。
と、
「……樋口」
「はい?」
歩きながら名前を呼ばれ、何事かと内心構えてしまう。
もうすぐ生徒会室にさしかかる、そんな階段の途中で、
「さっきは、悪かった」
悪かった?
「何がですか? 怪我ならすっかり大丈夫ですけど」
「いや、その……名前」
……ああ。
先輩が蒸し返さなければ、すっかり忘れていたのに。
でも、こういう妙に律義なところが、この人の特製なんだろうなぁ……。
結果的に助けてくれた恩もあるので、これ以上意地悪に突っ込むのはやめておこう。
だから、これだけ。
「気にしてませんよ。それに……あたしも先輩の下の名前、ちゃんと覚えていませんから」
うん、ごめんなさい。お互い様なんです。
それから、生徒会室に置いてあった暗幕をチェックした先輩が、一言。
「……稲月には、もう1サイズ大きいものを頼んだはずなんだがな」
「稲月せんぱーい!! いーなーつーきーせんぱーい!!!」
今度はあたしが稲月先輩を探すために、再び生徒会室から飛び出す羽目になったのだった。
何とか稲月先輩と皆瀬君を生徒会室に呼び戻し、暗幕の件を伝える。
次の瞬間、稲月先輩が口元に手をあてて、
「やっぱり……ごめんね皆瀬君、もう一度付き合ってもらえるかしら?」
暗幕は重たいので、稲月先輩だけでは不安とのことだ。
「いいですよ。お安いご用です」
生徒会総務・皆瀬君が、眼鏡越しの笑顔で力強く頷く。
あたしと同じ1年生で総務を務める彼は、クラスも同じで頼れる仲間。
しっかりものでまとめ上手という典型的な学級委員長タイプ。眼鏡が似合う知的な印象なのに、話してみると割と砕けている。今話題のアイドルやテレビのバラエティー番組が好きみたいだし。
本当は彼が副会長をやるはずだったが、色々あって、今のあたしが任されている。
「奥村君、他に違うものはあるかしら」
長机に並べられた、暗幕以外の細かい雑貨を確認した奥村先輩が、首を横に振る。
「大丈夫だ。今日は他の仕事もないから、暗幕は明日にでも学校へ送ってもらうよう手配してくれ」
予想外の言葉だったのか、稲月先輩と皆瀬君が目を見開く。
そりゃあそうだ。暗幕は二人がかりで運ぶほど重たい。その分の配送料が高いからこそ、二人で頑張って持ってきたはずなのに。
「え? でも奥村君、配達料金が……」
「領収書を見ると、今の暗幕の価格が規定値を超えているから、これより大きなサイズならば無料配送してくれるはずだ。一度聞いてみてくれ。ダメならその分の予算をひねり出す。その方が……二人にとっても負担が少ないだろう」
その言葉に、稲月先輩が黙って頭を下げた。
そして、皆瀬君と一緒に大きな荷物を抱えて生徒会室を後にする。
あたしは会計のことをほとんど知らないけれど(これはこれで問題なのか?)、会計の稲月先輩が配送せずに持って帰ってきたくらいだ、もしも予算からひねり出すとなれば、他に割りを食うところが出てくるような気がする。
でもまぁ……稲月先輩なら、その辺の帳尻合わせはお手の物かもしれないなぁ。
二人の後ろ姿を見送るあたしは、他の仕事がないならば自分も帰ろうかと思って、
「……いや、それダメだから」
自分で自分に突っ込みを入れた。
奥村先輩の配慮は、単に二人への優しさだけではない。
その証拠に、雑貨を段ボールに入れて机の下におろした先輩が、一言。
「さて、と……樋口、悪いが君はもう少しだけ、残ってもらっていいかな」
その質問に対する答えは、もう決まっている。
扉から先輩の方へ向き直り、その双方をしっかり見据えた。
笑っていないことで、真剣さが嫌でも伝わる。
今ならまだ戻れる、あたしの中の誰から優しく囁いた。
今ならまた、逃げられるよ。
甘い誘惑、ついついそちらへ行きたくなるけれど。
このときのあたしは、その誘惑よりも好奇心が勝っていた。
それに……事情を知らなければ、先輩を見る目がどうしても怖くなってしまう。
何も知らないのに、結果として助けてくれた先輩に偏見を持ちたくはないのだ。
だからこそ、
「ええ、そのつもりです。受けて立ちますよ、奥村先輩」
それに、
「それに――雛菊さん」
「はい。ありがとうございます……って、呼び捨てでいいんですよ、香澄さん」
いつの間にか先輩の後ろでほほ笑む雛菊さん。
今までの常識が通用しない世界へ、足を突っ込もうとしていることはよく分かっていた。
今更、恐怖だろうか、背中を冷汗が伝うのを感じる。でも……それと同じくらいワクワクしているあたしもいる。
さて――覚悟をきめようか。
自分に出来る精一杯の強がりで、あたしは口元に笑みを浮かべたのだった。
夕日が沈もうとする午後6時過ぎ、生徒会室にも西日が差しこみ始めた。
校庭からの声も、心なしか小さくなっている。
夜の静寂への入り口時間、奥村先輩が無言で室内の電灯をつけて、近くにあった椅子に腰を下ろした。
雛菊さんも近くの椅子へ腰掛けて、あたしは雛菊さんの正面になるよう椅子に座る。
位置としては、あたしと雛菊さんが向かい合うように、奥村先輩があたし達から少し離れた位置、扉近くに陣取った。
「さて、と……どこからお話を始めましょうか」
ゆったりと口を開く雛菊さん。
そして、
「とりあえず……悠樹さん」
にっこりと、
「暖かい緑茶が飲みたいので、どんな方法を使ってでも準備していただけますか?」
脅迫に近いことを口にした。
唐突な要求に、さすがの先輩も考え込む。
「緑茶、ですか……缶でも構わないなら買いに行けますけど」
「しょうがないですね。今回はそれで我慢してあげます」
あ、あれ?
なんだか雛菊さんって……笑顔を盾にしたきつい性格なのか?
先輩を堂々とパシリに使おうとする彼女だが、現金を差し出す様子はない。
しかし、先輩が逆らわないのは、既にそういう上下関係が出来ているからなのだろうか。
あたしがそんなことを悶々と考えていると、
「樋口は何か飲みたいものあるか?」
「へっ!?」
部屋を出て行こうとする先輩に尋ねられる。急だったので返事をした声が上ずった。
「あ、えぇっと……缶紅茶でお願いします」
「分かった」
軽く頷いて部屋を出ていく後姿を見送りながら……一切表情を変えない雛菊さんに、別の怖さを感じずにはいられないあたしなのでした。
先輩が戻ってくるまで話が進まないかと思っていたけれど、雛菊さんは問答無用で喋り始める。
「さて、樋口香澄さん……単刀直入で申し訳ありませんが、私たちは貴女を探していました。力を貸してほしいのです」
力を貸してほしい、頼んでいる言葉の向こうに、断れない威圧感を感じてしまう。
負けない、よく分からない対抗意識で、あたしは怪訝そうな表情を作った。
「本当に単刀直入ですね。探していたって言われても……あたしに一体どんな用事ですか?」
あたしには全く心当たりがなかった。だから、尋ねるしかない。
「まずは説明してください。さっきのあれはなんですか? 動く人体模型も先輩の剣も……雛菊さんのことも、現実離れしすぎていて、訳が分かりません」
「当然の反応ですね。そんなに焦らなくても説明させていただきますよ」
焦りがみえるあたしとは対照的に、笑顔を全く崩さない雛菊さん。
「香澄さんがご覧になった先ほどの人体模型は、それを操っていた根源があります。私たちはそれを、『堕落者』と呼んでいます」
「だらく、しゃ……?」
「ええ。呼称はお好きに変えていただいても構いませんが……『繁栄者』だった頃にきちんと役割を果たさなかった魂のなれの果てですよ」
「はんえいしゃ……」
また、聞きなれない言葉が出てきた。
「『繁栄者』とは、私たち『監督者』が、香澄さんたちのいう『人間』を呼ぶときに使う言葉です」
「かんとくしゃ……」
また聞きなれない言葉が出てきたっ!!
混乱寸前のあたしだが、雛菊さんは容赦なく話を進めていく。
「香澄さんのような『繁栄者』だけが、この世界に存在する知的存在ではないのですよ」
「じゃ、じゃあ……雛菊さんは宇宙人なの?」
「宇宙人……ちょっと違いますね。言葉を選ばずに言えば、『神様』でしょうか」
「かっ……!?」
話が大きくなってきた!!
さらりと自分は神様なんて大層な言葉を口にした彼女は、呆気にとられるあたしをとりあえず置き去りにして、
「ほら、この世界にもその土地土地の『神様』っていう存在がいるでしょう? 私たち『監督者』は、地上の『繁栄者』が慢心して暴走しないよう、優しく見守る役割なんですよ」
胡散臭い。そして、何となく神様からずれている気がする。
あたしはここで、雛菊さんに感じる威圧的な空気の理由が分かったような気がした。
だって、あたし達を監督する役割なんでしょう? 最初から上から目線なんでしょう?
「でも、ご安心ください。私たち『監督者』は、『繁栄者』を支配したいわけではありません。主な役割は、発生する『堕落者』をひっそりと消し去ることなのです」
「その『堕落者』ってやつが、さっきの元凶?」
「そうです。彼らは主に、地上にある無機物に入り込み、仮初めの命として実体化します。最終的にはこの世界のものに成り替わろうとしますね。本当は『繁栄者』の体内に入り込んで精神ごと入れ替わりたいのでしょうけれど……彼らはこの世界の物を通さなければ、『繁栄者』に触れることが出来ない。てっとり早く魂を持たない無機物からこの世界に入り込もうとするのです」
精神ごと、入れ替わる。
抑揚のない口調で説明する彼女の言葉に、何度背筋を寒くさせられればいいのか。
「じゃあ、もしもあたしがさっき、あの人体模型に触れていたら……」
「あの状況でその可能性は低いですが、貴女はもう、樋口香澄さんではなくなっていたかもしれませんね」
だから、そんなこと平然と言わないで……。
と、扉が開く音が聞こえた。
立っていたのは、各々がリクエストした飲み物を3本持った先輩。
「奥村先輩……」
不利な状況の中であたしと同じ立場の人を見つけると、思わず安心してしまった。
……同じ立場? 待てよ?
「あ、あの。奥村先輩……」
「何だ?」
缶紅茶を受け取るついでに、ふっと湧き出た疑問をぶつけてみることにした。
「先輩は、そのー……雛菊さんと同じ、その、『監督者』ではないですよね? あたしと同じですよね?」
質問というよりも、願いに近い。
お願いだから、この中で非常識なのがあたしの存在でありませんように――と。
きっと、そんな表情で問いかけてしまったのだろう。
先輩の表情が、いつもよりふっと柔らかくなった気がした。
「安心しろ。俺は『繁栄者』側だから」
その答えは、あたしが求めていたもの。
「ですよね……ありがとうございます」
紅茶の暖かさもあって、ようやく、強張っていた肩の力が抜けた。
先輩は雛菊さんに緑茶を配ると、自分の手に残ったコーラのプルタブに指を引っかけながら問いかける。
「雛菊さん、樋口にどこまで話を進めたんですか?」
「はい。この世界に存在する、3種類の立場について、です」
お茶の缶を開けた雛菊さんは、笑顔で一口すすった。
「うん……76点ですね」
微妙な点数までつけた。
その割にぐびぐび飲んでいるようにも見えるが……あまり深く突っ込むのはやめよう、そうしよう。
しかし……先ほどから話は進んでいるが、肝心な部分が全く見えてこない。
それは、
「あの、すいません雛菊さん」
「はい、なんでしょうか香澄さん」
「それで結局……あたしは何をすればいいんでしょうか?」
馴染みのない言葉を自分なりに理解するまでには、もう少し時間が欲しいから。
あたしの問いかけに、雛菊さんはさも当然と言わんばかりの笑顔で答えてくれる。
「勿論、悠樹さんたちと協力して、『堕落者』を討伐していただきます」
その語尾がお願いではなく確定だったことに、あたしはもっと早く突っ込むべきだったのかもしれない。