休息する責任者
様々な事実が発覚した週末が終わると、いつも通りの学校生活が待っている。
月曜日の憂鬱さと言ったら計り知れないもので、今日もうっかりバスに乗り遅れそうになった……。
「香澄さんももう少し早起きすればいいんですよ。この私のようにね」
涼しい顔で緑茶をすする彼女の脇を走り抜けたのは言うまでもない。
授業中に襲いかかる眠気と戦いながら午前中を終え、友人と机を並べてお弁当を食べていた(まぁ、今日のあたしはコンビニのパンだけど……)昼休みのこと。
「香澄ー、会長が呼んでるよー」
「ふぇ?」
思いっきりパンを口に詰めた瞬間、扉の近くで食事を取っていた別のグループの子が、窓際にいるあたしに笑顔で手を振っていた。
その笑顔はきっと、憧れの先輩に話しかけられたからだろう、多分。奥村先輩は人気ある人だし。
しかし……何でしょうか奥村先輩。せめて食事が終った頃に呼んでいただけないでしょうか?
……という不満を表情に並べて、野菜ジュース片手に重い腰を上げるあたし。
「ふぁい、はんでひょうかせんばい」
「飲み込め」
ジト目を向けられ、右手に持っていた野菜ジュースでパンを流し込んだ。
「ふぅ……はい、何でしょうか会長。今日の昼に定例会の予定はなかったと思いますけど」
自信満々のあたしだが、先輩のジト目は消えない。
「定例会はないが、次の総会のための話があるから生徒会室に来てほしいと言わなかったか?」
……え?
そうでしたっけ?
野菜ジュース片手に目を丸くするあたしに、先輩がこれ見よがしのため息をつき、
「放課後残ってくれ。目を通してほしい資料があるんだ」
「……了解しました」
がくりと項垂れるあたしに再度ため息をつきながら、用事の終わった奥村先輩は踵を返して自分の教室の方へ戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら……あたしは一人で首をかしげた。
「そんなこと、いつ言われたっけなぁ……」
そして、放課後。
いつもの生徒会室に、いつもの4人。
長机を3本縦に並べて、銘々に作業中である。
会長である奥村先輩は、入口から左の奥でパソコンを置き、何やら書類を作成している様子。
会計の稲月先輩は、奥村先輩の反対側で領収書と電卓を片手に作業中。
そして、総務の皆瀬君と副会長のあたしは、
「皆瀬君、次はどこ?」
「次は……はい、高校裏のT字路です」
「えぇっと……ここね、ハイ、OK」
入口に一番近いところで、この高校周辺の地図を大きく広げている。
その中で、先ほど彼が読み上げた場所に、あたしが赤いマジックでバツ印をつけていた。
「はい次、どこ?」
「次は校門脇だそうです。大胆ですねー……」
手元にある資料を読み上げた彼が、目を丸くして呟いた。
あたし達が行っているのは、ここ2か月ほどに出没した、不審者の位置をマーキングする作業。
職員室からの依頼で、これらを元に警戒する場所を決めるとか決めないとか……。
でも、改めて見事に発生場所がバラバラであることが分かる。これを警戒するとなると大変だぞ。
それくらい、赤いバツ印は広範囲に及んでいた。
「はい次ー」
「次は……久那センに抜ける細道の入り口です。ここは2回目ですね。以上です」
「あ、本当だ。でもやっぱり、どう見てもバラバラなんだよね」
ちょっとずれた所に印をつけながら、客観的な事実を呟く。
先日、雛菊からあんなことを聞いてしまったので……この変質者事件も、『暦』が絡んでいるような気がしてしまうのは、あたしだけだろうか。
そんなあたしの不安など知る由もなく、皆瀬君は手元の資料を一つにまとめつつ、
「でも、最近は発生してないみたいですね。これで収まるといいんですけど……」
「そうだね。あたしは変な仕事が回ってこないことも祈るよ」
広げた地図を片づけて、あたしは数メートル先でパソコンに向かう先輩の横顔に呼びかける。
「奥村先輩、終わりましたよ」
「ああ」
「これ、どこかに提出するんですか?」
「ああ」
「どこですか?」
「ああ」
……聞いてるのか聞いていないのか。多分答えは後者。
皆瀬君と無言で顔を合わせる。
そして、
「奥村先輩!!」
声のボリュームを上げて呼びかけると、先輩の両肩がびくりとすくんだ。
数秒の沈黙後、体をあたし達の方へ向けて、
「悪い……どうしたんだ?」
申し訳なさそうな表情を向ける。
どうやら最初から聞こえていなかったらしい。珍しいこともあるものだと思いながら、再度尋ねる。
「この地図、どこに提出するんですか?」
「あ、ああ……資料と一緒に職員室の松本先生のところに持って行ってくれないか」
松本先生とは、生徒会を担当してくれている女性教師のこと。ちなみに担当教科は国語。関係ないけど独身。
「じゃあ、僕が行きますよ」
手早く地図と資料を手元にまとめた皆瀬君が立ち上がり、そのまま部屋の外へ。
取り残されたあたしは……とりあえず手元のペンを指でくるくる回すしかない。
「奥村先輩、あたしが見る資料って、今ありますか?」
「資料?」
再度こちらを向いた先輩の顔に、疑問符が浮かんでいる。
あんな顔を向けられると、こっちが狼狽してしまうじゃないですかっ!
「いえあの、今度の総会の……」
「あ、ああ、このクリアファイルの中にあるから、一部取ってくれ」
自分の横のあるクリアファイルを指さす先輩。
その場所まで手が届かないので、椅子を立って先輩に近づく。
座っている先輩の隣に立って横から手を伸ばしつつ……何だか今日は調子が狂う先輩の横顔を見つめて、
「奥村先輩、割と顔が赤いように見えますけど……熱でもあるんじゃないですか?」
何だか額に汗がにじんでいるようにも見える。
あたしの指摘に、目の前にいた稲月先輩もこちらへ近づいてきて、
「奥村君、大丈夫?」
「大丈夫だ、問題ない」
自分で断言しながら、視線が定まっていないように見えるのはあたしだけだろうか。
「奥村先輩、ちょっと失礼します」
あたしは無造作に、先輩の額へ自分の右手をあてた。
そして、
「ひとまず保健室です。付き添いますので立ってください」
あたしの判断に、先輩が真っ赤な顔を向けた。
その表情には、不満しか感じ取れないけれど……ここで引くわけにもいかない。
「大丈夫だ」
「じゃあ、あたしの思い違いを証明するために、保健室で体温を計ってください」
「……」
反論せずに口を噤む奥村先輩。
そこに、優しく諭す稲月先輩。
「奥村君、ひとまず保健室に行ってみてくれないかしら。悪くなければそれでいいし、もしも本当に具合が悪かったら……早いうちに対処した方がいいと思うわ」
「……分かった」
稲月先輩には素直に従い、よたよたと立ち上がる奥村先輩。
一人では歩ける様子なので、ひとまず動向を見守ることにする。
「香澄ちゃん、私はもうちょっと作業が残っているから……会長のこと、お願いしてもいいかしら?」
「分かりました。ほら先輩、行きますよ」
ひとまず先輩の半歩前を歩き、障害物になる椅子をどけたり、扉を開いたりする役割を請け負うあたし。
ちらちらと先輩の様子を見守りつつ……珍しいこともあるものだと、驚くしかないあたしなのでした。
1階の職員室の隣に、久那高校の保健室はある。
保健室にいるはずの養護の先生は……あれ、いない?
引き戸を開いて見渡しても、白衣が似合う恰幅のいい40代のオカン先生(と、生徒の間では呼ばれてる)は不在。室内はがらんとしている。
窓も閉まっているみたいだけど、部活中だから、帰ったってことはないと思いたい……ひとまず先輩を何とかしなきゃ。
「ひとまずここに座ってください。あ、これ体温計です」
とりあえず入口近くのソファに奥村先輩を座らせて、その側にある3段ボックスの上、ペン立てにある体温計を手渡す。大人しく受け取ってジャケットを脱ぎ、ネクタイを外した先輩は、ブラウスのボタンを上から3つあけて、脇に体温計を挟んだ。
その間にベッドチェック! 白いパーテーションで仕切られた空間が3ヶ所あり、それぞれにベッドが1つあるので合計3つ、全部空いていることを確認。
しっかし、先生はどこに行ってしまったんだろう……薬とか熱さまシート的なものとか、勝手に物色しちゃいますよ?
ペン立てがある3段ボックスには、怪我をした時の応急処置用の消毒液や脱脂綿や包帯、シップ等はあるけれど、さすがに飲み薬は……あ、熱さまシート的なものがあったので1枚拝借。
と、物色するあたしの背後で、体温計が測定が終わったと電子音で自己主張。
体温計を取り出した先輩が、先にその結果を見て……無言。
「はい、ください」
振り向いて立ち上がったあたしが手を差し出すと、先輩は嫌そうな表情で従う。
結果……38度7分。
はい、アウトです。
「とりあえず……これ、貼りますから。じっとしててください」
あたしは手元の熱さまシート的なもののフィルムを半分はがして、左手で先輩の前髪をかきあげ、右手で額にシートをはりながら、残りのフィルムをはがす。
至近距離で初めて先輩の感想……まつげが長い。
もはや、抵抗する気力もないらしい。ネクタイも外したままでボタンもそのまま、あたしになすがままの姿は……ダメだ、弱り始めてるなぁ。
とりあえず先生を探すか、水分補給が先か……隣の職員室で情報を仕入れるしかないなぁ。
あたしがそんなことを考えていると、
「樋口……近い」
「はい?」
先輩の言葉の意味が分からず、あたしは首をかしげた。
気がつけば、先輩は何やらあたしから視線をそらしつつ、
「だから……顔が、近い」
へ?
何を言っているんだろう先輩は。
確かに今のあたしは、座っている先輩の前に膝をついた状態で向かい合い、左手で先輩をオールバックにした挙句、まじまじと観察してしまったけれど……。
「それがどうかしましたか? シートを貼るんですからあたしが近づかなきゃダメじゃないですか」
「……それは、その……」
「はいはい、うるさい奴は離れますよーっと」
あんまり他人に触れられたくないんだろうか。前はあたしの頭を撫でてくれたっつーのにさー……。
立ち上がったあたしは、そのまま扉の前まで進んで、
「とりあえず、先生を探してきますから。先輩はベッドに寝ててください」
指示を出した後、一度、保健室を後にする。
「……近いだろ、だから」
先輩の独白など、当然、あたしには届かなかった。
オカン先生、こと、養護の三森先生は、隣の職員室で、仲良しの松本先生とコーヒーを飲んで世間話をしていた。
髪の毛をおだんごにまとめ、メイクはばっちり、だけどおばちゃん。少し小太りで身長も高くないが、怒った時の迫力はすさまじく、特に部活でふざけて怪我をしたりすると……顧問よりもこっぴどく怒られる。
でも、決して理不尽な理由で怒ったりはしないし、相談にものってくれる、心強い先生だ。
「オカン先生、いた!」
こう呼ばれることにも全く怒らない。隣の松本先生は何か言いたそうだけど。
その場にあたしが乱入して、オカン先生を保健室まで連行。扉から見て一番奥のベッドに寝ている先輩の前まで連れてくると、
「奥村会長がここにくるなんて珍しいねぇ……明日は嵐でも来るんじゃないの?」
まさかの珍客にさすがの先生も目を丸くして、先輩に自覚症状を尋ねる。
「熱は高いね……でも、鼻水も出ていないし、喉や関節は痛くないんだね。とりあえず熱さましがあるけど、のむ?」
先生の質問に、先輩は首を縦に動かした。
薬を取りに、先生がパーテーションの向こうへ消える。
あたしは……とりあえず、ベッドの上に置いてあった先輩のジャケットとネクタイを、近くのハンガーにかけた。
「とりあえず……鞄取ってきます。生徒会室ですよね?」
先輩が首肯したことを確認して、あたしもその場から離脱。
と、パーテーションパーテーションから出たところで薬とスポーツドリンクを持ったオカン先生とはち合わせ。
「樋口、あんた、会長に何か無理させてるんじゃないのかい?」
先生は、あたしを苦笑いで見つめていた。
「無理?」
「そうさ。多分今回のは過労だと思うよ。極度の緊張が体調不良になったのかもしれないし……イイ男だからって、あんまり頼っちゃ可哀そうだよ」
「はぁーい……」
生返事をしつつ、あたしは再び保健室を飛び出した。
過労、か……そりゃあ疲れるわ。思い当たり過ぎる理由に、心の中でため息をつきながら。
生徒会室に戻ると、パソコンの前の稲月先輩と、職員室から戻ってきた皆瀬君が、一斉にあたしを見た。
「香澄ちゃん、奥村君は……?」
「何だか疲れがたまってたみたいです。とりあえず今日は保健室で休んだ後に帰った方がいいと思うので……奥村先輩の鞄って、どこにありますか?」
稲月先輩が、机の下にある奥村先輩の鞄を机上へ。
机の反対側でプリントの仕分けをしていた皆瀬君も、あたし達の方へ近づき、
「疲れがたまってたって……僕達が負担をかけすぎたんでしょうか」
彼の言葉に、稲月先輩の表情が沈んだ。
「そうね……つい、頼りすぎちゃったかしらね……」
部屋の空気が否応なしに重くなってしまう。
それは……確かに、あたしも思うところがあるけれど、今はそうやって沈んでいる場合じゃない!
「ひとまず、奥村先輩に荷物届けてきます。稲月先輩、今日中にやらなきゃいけないことって……何か分かりますか?」
稲月先輩に聞きながら、先輩の鞄を持つ……お、重たい。
先輩ってば、教科書をロッカーに置いたりしてないの!? 自転車だから関係ないのかもしれないけど毎日持って帰ってたら万年肩こりになっちゃうよ!!
……なーんてことは本人の前で言いませんよ、ええ決して。
「そうねぇ……奥村君が作ってた資料は、私がどこまで手を入れていいのか分からないし、内容が文化祭だから、特に急ぐようでもないみたいね……ええ、今日は特にないかな」
「分かりました。じゃあ、皆瀬君の作業が終わったら、今日は解散にしませんか?」
あたしの提案に、2人が目を丸くした。
そりゃあ、奥村先輩の負担を減らそうって話をした直後に、この作業が終わったら帰りましょう、だからなぁ……2人とも、もう少し残って何かやりたいんだと思う。
だけど、
「言いたいことは分かります。でも……奥村先輩の負担を減らすには、当事者を入れた話し合いが必要だと思うんです。稲月先輩も、奥村先輩の作業にどこまで手を加えていいのか分からないって言ってましたし……全員揃ってから、改めてどうするのか決めても、遅くないと思いました。それに……」
それに、奥村先輩。
被害者だけだと思わないでくださいねっ!
「あたし達にもっと頼ってくれない奥村先輩にも、皆瀬君からガツンと言ってもらいたい!」
「えぇ!? それは僕じゃなくて副会長である樋口さんの役割りだよね!?」
突然のとばっちりに、皆瀬君も慌てて釈明しつつ……肩をすくめた。
「会長不在の際は、副会長の判断に従うべきだと思います、稲月先輩」
稲月先輩も、優しい笑みを浮かべている。
「分かりました。今日の作業を終わらせたら解散にしましょう。私たちまで倒れるわけにはいかないものね」
生徒会の話をまとめたところで、あたしは再び保健室へと階段を下る。
荷物を届けたら、もう一度3階まで戻って、総会に必要だという書類を……持って帰って家で見よう。うん、あたしだけ残らなくてもいいよね!
今日だけで何回通り抜けたか分からない踊り場を抜け、1階に到着。
手前にある職員室の向こうなので、もう少し先になるけれど……。
……何だろう、この違和感。
『境界』じゃない、現に廊下は体操服の生徒や教材を持った先生が行き交っているから……それに、物騒な発想だけれど、悲鳴や爆発音は聞こえないから、誰かが『堕落者』に乗っ取られているわけでもなさそうだ。
でも、どうしてだろう……保健室に近づくにつれて、違和感が大きくなっていく。
いやでも、この違和感の正体に思い当たるものがない。
首をかしげながら、ずり落ちそうになる鞄を正して……本日3度目、保健室の前へ。
「失礼しまーす……って、オカン先生?」
扉を開くと、奥の机に座っていると思っていた先生の姿はなく……空いた窓から入る風で、レースのカーテンが揺れていた。
先生、先輩が寝たからまた職員室にいるのかな……などと思いながら、先輩が寝ているベッドを目指して……。
「おう、その声は……『颯』だな。やっと来たか」
部屋の奥から聞こえてきた声に、思わず全身が硬直した。
その声に、聞き覚えがある。
あたしは先輩のバッグをその場に落として駆け出すと、部屋の奥のパーテーションを乱暴になぎ倒した。
がしゃんっ!!
金属の支柱が倒れて、周囲にけたたましい音が響くが……あたしは、それどころではなかった。
だって、あたしの目の前には……予想通りの人物が、先輩が寝ているベッドに座っている。
今日は赤い7分丈のTシャツに、細身のジーンズで長い足を組んでいる。しかし足元は素足に下駄という、何だかよく分からない服装。
長い黒髪をポニーテールにして、挑戦的な切れ長の瞳があたしを見据える。
「雛菊から、わしのことは聞いておるじゃろう?」
足を組み替え、口元ににやりと笑みを浮かべた。
「だから、わざわざ挨拶に来てやったというのに……もっと歓迎しようという気持ちはもてんのか?」
その態度は、どこまでもあたし達を馬鹿にしているように見えて、
「歓迎なんか出来るわけないじゃない、蓮華!」
目の前に悠然と現れた彼女の名前を呼んだあたしは……無意識のうちに、唇をかみしめていた。