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放課後の迷走者

「樋口!!」

 聞こえたのは、先輩の大声。

 意外だった。あんなに大きな声を出す人だとは思っていなかったから。


 いや、今の問題はそこじゃなくて。


「……え?」

 現実を受け入れられない脳内で必死に現実逃避を試みるけれど、全て失敗に終わっていた。

 自分の右足、太もも部分を凝視する。

 鋭利な刃物で真一文字に切り裂かれた肌から、真紅の血が滴り落ちているところだった。

 


 どうしてこんなことになったのか。

 さかのぼること、約5分。



「重たい……ったく、どうしてこんな日に限ってあたしだけ……」

 ぶつぶつ一人で愚痴をこぼしながら、あたしはプリントがどっさり入った紙袋を両手に持って、3階の生徒会室へ階段を上っていた。

 時間は放課後、ようやく2階の踊り場までたどり着いたところだ。グランドの方から運動部の掛け声が聞こえてくるし、どこからともなく吹奏楽部の楽器音も聞こえてくる。

 部活動ではなく、生徒会に所属しているあたしは、そろそろ本格的に準備が始まる文化祭の下準備に精を出していた。

 そう、各部活への説明等の資料作成が大詰めを迎え、今日もこれでコピー機との間を3往復目。生徒会室にもコピー機が設置されるよう、もう一度会長を通して先生方に掛け合ってもらわなくては。

「ったく……紙だって重いっつーのに……あの冷血生徒会長め……!」

 会計と総務が校外へ買い物に出かけてしまい、会長はパソコンで資料作りの真っ最中。コンピュータが扱えない無能な副会長――要するにあたし――が、単純作業を任せられるのは当然なのだけど……腑に落ちない!

 まぁ、だからって会長の仕事に立候補する予定も決意もないけどさ。

 でも、でも……!

「あ、香澄ちゃん!!」

 3階への踊り場で、不意に上から呼びかけられた。

 首だけを上に向けると、買い物に出ていたはずの会計・稲月先輩が、少し慌てた様子で駆け下りてくる。

 セミロングの髪の毛を二つに結い、ほんわかした印象。その印象を裏切らず、面倒見がよくて誰に対しても優しい先輩だ。

「稲月先輩、どうしたんですか?」

「奥村君、知らない? 買ってきたものを確認してもらいたいのに、生徒会室にいなくって……」

「奥村先輩、ですか?」

 奥村先輩とは、生徒会室で資料を作成していたはずの生徒会長だ。

 真面目な型物、文句も愚痴も言わずに何でも堅実にこなす姿は、堕落を覚えた現代人が忘れさってしまった何かを思い出せるような気分になる、気がする。

 ……まぁ、たまに融通がきかなくてイラっとすることもあるけど。

「トイレじゃないんですか?」

「そうだと思って15分近く待っているんだけど、ちっとも帰ってこなくて。今、皆瀬君と手分けして探しているところなのよ」

 ちなみに皆瀬君とは、生徒会総務、あたしと同じ1年生である。

「何か急ぎの用事ですか?」

「買ってきた暗幕のサイズが正しいかどうか不安なの。間違っていたら交換してもらわなきゃいけないんだけど、お店には交換ならば今日中って言われてて……香澄ちゃん、何か知らない?」

「あたしが職員室に行く前は、何の問題もなくパソコンに向かっていましたけど……」

 背中に向かって職員室へ向かう旨を伝えると、「分かった」というぶっきらぼうな返事が返ってきたことを思い返した。

 ちょっとは愛想よく見送ってくれてもいいのに、そう思って部屋を出たことも思い出す。

「あたしも探した方がいいですか?」

「お願いできる? 見つかったら生徒会室にある暗幕を確認するよう頼んでね」

 それだけ言い残し、稲月先輩は下の階へ。

 その様子から、彼女が非常に急いでいることがわかった。

 なので、あたしも急いで残りの階段を上り、生徒会室へ両手の荷物を下ろす。

 がらんとした室内で、つけっ放しのパソコンが妙に寂しい。

 普段の先輩なら、トイレに行くときもディスプレイの電源は切るはずなのに。

 ……そんなに急いで、一体どこへ?

「ったく、こんな時にどこ行っちゃったのよ……!」

 一言毒づき、あたしも先輩捜索隊の一人として、校内を走り始めたのだった。


 走り始めてから約3分後、あたしは生徒会室から離れた棟にある、化学実験室近くにいた。

 この高校は、上から見ると「川」の字型になっていて、1年生から3年生までの教室や職員室が中央にあり、右側に体育館や武道場等の体育系施設、左側に音楽や化学、美術等の特別教室が集まっている。

 化学実験室の近くには、これまた科学室、と、この階には理系の特別教室が集まっている。

 しかし、この学校に理科系の部活はないようなものだった。唯一の天文部は屋上で活動しているので、この時間、周囲に生徒の姿はない。

 準備室にいるはずの先生方も、今は職員会議中のはずだ。さっき、コピーをとっている時に先生方が続々と集まっていて、その中に化学の先生がいたことを覚えている。

 それなのに。

「……何でだろ、妙に蒸し暑いなぁ……」

 走ってきたからだろうか。廊下が妙に蒸し暑く感じたあたしは、ジャケットを脱いで左腕に持った。

 まぁ、こんなところに先輩がいる理由はないけれど、念の為、右手の化学実験室に誰もいないことを確認して踵を返そう……とした、次の瞬間、


「――え?」


 一瞬、見間違いだと思った。だから瞬きをしてもう一度その方向を見つめる。

 視力はいい方だと自負しているし、あの制服に髪型、間違いないはずなんだけど……。

「奥村、先輩?」

 何かがおかしい。あたしがそう感じた理由は、先輩の持っている物騒な一物にあった。

「あれ……包丁じゃない、よね……日本刀?」

 視線の先、化学実験室の中にいる先輩が、日本刀を持っているように見えて、何度も瞬きを繰り返す。

 あたしの存在など勿論気が付いていない先輩は、次の瞬間、実験台の上に飛び乗って左右へ移動。

 まるで、敵の攻撃をかわして冷静に反撃の機会を伺っているようだ。

 ……いやいや、まさか。演劇部でもあるまいし。

 ガラス越しに声は聞こえないが、時折、両手に持った剣を振り下ろしている、ように見える。

 まぁ、何はともあれ、あんなことをやっちゃいけませんよ。誰であってもね。

 何度瞬きしても現実が変わらないので、とりあえず一呼吸ついたあたしは、冷静に、冷静に対処することを決める。

 だって、普通に考えて……放課後の特別教室で暴れまわるなんて、やっちゃいけないことだからね。

「先輩なら呼び戻すし、無断使用ならば注意しなきゃ」

 この教室は部活用に開放していないし、そんな報告を受けていないはず。とりあえず事情を聞くために、あたしは扉に手をかけて一気に引き戸を開け放った。

「ちょっと奥村せんぱーい、稲月先輩が探してま……」

 明るく声を出すことで、注意を自分に逸らそうとしたのだ。


 刹那、


「樋口!?」


 先輩の慌てた声が突き刺さり、室内へ踏みだそうとした足がすくんだ。

 そして、あたしの目の前には……椅子や実験器具がボロボロに積み重なり、所々壁がすすけている化学実験室が飛び込んできたのだ。

 窓の外から見えていた景色とまるで違う、現実離れした光景に、言いかけた文句を最後まで吐き出すことも出来ない。

「なっ……ゲホっ、ゲホッ……」

 そして、周囲は異常な熱気と砂ぼこりに包まれていた。何の抵抗もなく吸った空気は砂だらけなので、思わずその場で体を曲げてむせ返ってしまう。

「どうしてここに入って来れるんだ!?」

 こんなに感情的な先輩の声は、初めて聞いた。

 ただ、聞かれたところで一番理由を知りたいのは間違いなくあたしである。

「へっ……あ、いや、そんな……ゲホっ……」

 涙を拭きながら体を起こして……再び絶句した。

 あたしが探していた奥村先輩は間違いなく日本刀を握っているし、教室の向こう、黒板に、人体模型が張り付いてこちらを見ていたのだから。

 そう、黒板に、蜘蛛のように張り付いている。

 思わず、釘づけになった。

「え……!?」

「だめだ樋口! 目を合わせるな!!」

 先輩が走り出すことと、人体模型が片腕を伸ばすのは、ほぼ同時。

 しかし、風速で迫ってくる何かの方が、あたしに到達するのは早かった。


 そして、


「樋口!!」

 聞こえたのは、先輩の大声。

 意外だった。あんなに大きな声を出す人だとは思っていなかったから。


 いや、今の問題はそこじゃなくて。


「……え?」

 現実を受け入れられない脳内で必死に現実逃避を試みるけれど、全て失敗に終わっていた。

 自分の右足、太もも部分を凝視する。

 鋭利な刃物で真一文字に切り裂かれた肌から、真紅の血が滴り落ちているところだった。


 傷を認識すると、じわじわと痛みが襲ってくる。

 片足に力が入らず、その場にしゃがみこんだ。


 何が起こった?

 どうして、こんなことになった?


 分からない。


「はぁっ……」

 額に脂汗がにじんでいる。砂ぼこりの中、必死で呼吸を整えた。

 痛い。

 傷は足だけではない。制服が切り裂かれ、所々で血が滲んでいるのだ。

 痛い。

 目に涙が浮かんでいるのが分かる。泣き叫びたい。でも、あまりにも非現実的すぎて声を上げることも出来ない。


 何かが近づく足音が聞こえる。

 顔を上げることが、出来ない。


「何なのよ……一体、何だっていうのよ……!」

 とりあえずポケットからハンカチを取り出し、傷口に押し当てた。

 すぐに血がにじむ。非現実的な現実に興奮しているからなのか、赤い面積が広がっていくスピードも早い。あたしはこのまま、絶望的な未来へ誘われているんだと思った。


 ――死ぬんだ、あたしは。

 

 そうか、ようやくあたしが報いを受ける番なんだ。

 

 そう、思った。

 楽になれるんだ。

 逃げられるんだ。

 ……安心してしまった。


 刹那、


「しっかりしろ!!」


 先輩の怒号に意識が覚醒する。

 気がつくと先輩はあたしの隣りにしゃがみこんで、何かをつなぎ止めようと両腕であたしの肩を掴み、揺さぶっていた。

 しかし、出血している人間に対しては荒療治である。

 ぐらつく頭を必死で制御するあたしを、先輩は真っすぐに見据えた。

 寡黙なイケメンで評判の顔だが、状況が状況なので残念ながらドキドキ出来ない。

「意識を持っていかれるな。思うつぼだ」

「え……?」

「この空間では、その程度の外的損傷では死なない。むしろ、精神的に倒れたやつが負けだ」

「あの、すいません、何を……」

 その程度って……何を言っているのか理解できなかったけれど、地味にヒドイことを言われたような気がして、ムッとした表情になってしまう。

 そんなあたしの心情など、目の前の先輩は1ミクロも理解していないんだろう。

「とにかく、気をしっかり持てってことだ」

「そんな、無茶苦茶な……」

「分かったな」

 あたしの言い分はひとまず無視して、先輩が立ち上がる。

 その右手に、物騒な日本刀を携えて。

「あ、の……奥村先輩、それ……」

「動くな、すぐに終わる」

 振り向かずに告げた次の瞬間、先輩の足は教室の床を勢いよく蹴っていた。

 そのまま、黒板に張り付いた人体模型へ真っすぐに迫っていく。

「奥村先輩!?」

 正気だと思えなかった。だって、いくら武器を持っているとはいえ、あの刀は完全に接近戦じゃないか。相手は得体のしれない飛び道具(?)で攻撃してくるっていうのに!!

 案の定、人体模型が片腕を伸ばし――先ほどと同じ何かを解き放つ!

 先輩はぴたりと動きを止めると、低い声で、一言。


「――たぎれ・焔」


 声と共に、日本刀を横一線に薙いだ。

 次の瞬間、先輩の周辺に火の玉がいくつも発生して……床に落ちる。

 その火の玉が、こちらへ迫っていた攻撃だということにあたしが気がつくのは、もう少し冷静になってからなのだけど。


 そして。

 あたしの位置からははっきり見えなかったのだが……先輩が、剣を上から下に振り下ろして、人体模型が床に半分こで崩れ落ちたってことは……先輩が、勝ったのだろう、多分。


 結局、あたしは自分の意識を保つことが精一杯。

 何も出来ずに、先輩の言いつけどおり、その場で邪魔にならないよう、じっとしていることしか出来なかった。


「あらあら……貴女、大丈夫ですか?」


 不意に。

 聞いたことのない声が響き、びくりと肩をすくませてそちらを見やる。

 いつの間にかあたしの背後に、紫の和服を身にまとった女性が立っていたのだ。

 艶やかな黒髪は長く、腰の近くで結っている。明らかにあたしや先輩より年上で、外見だけで判断すると20歳を超えたくらいだろうか……にっこりと笑顔を向けているのに、どこか、胡散臭い。初対面で申し訳ないけれど。

 女性は、警戒心むき出しのあたしにどこまでも笑顔を向け、

「うーん……覚醒していないのに飛び込んでくるとは、さすがですねー」

 褒められ、た、のか? あたしが? どうして?

 更に状況が分からなくなる。見たところあたしの敵ではなさそうなんだけど……勿論、心から信じることも出来ない。

 あたしがジト目を向けること数十秒。

「雛菊さん、終わりました」

 先輩がこちらに戻ってきた。その手に……あれ、物騒な日本刀はない。

 先輩に「雛菊さん」と呼ばれた彼女は、「お疲れ様でした」と、笑顔のまま言葉を返し、

「悠樹さん、こちらの女性が最後の「干渉者」のようです。是非、私に紹介していただけませんか?」

 干渉者?

 聞きなれない言葉の説明もなく、先輩が座り込んだままのあたしを見下ろし、

「彼女は、樋口……樋口……」

 ……あの、先輩?

 もしかして、あたしの名前……。

「先輩……あたしの名前、覚えてないんですね」

「……」

 あたしの指摘に、先輩は黙り込んでしまったではないか。

 おい生徒会長、確かに名字でしか呼ばれていないけど、同じ仲間の名前を忘れるとは失礼じゃないでしょうか!?

 雛菊さんも、「あらあら」と苦笑いで見守る中、先輩は珍しく眉をひそめ、あたしを見つめる。

「樋口……かなみ?」

「違います」

「……かずこ」

「違います」

「…………かずのこ」

「先輩、慣れないお茶目は結構です。地味に傷つきます」

 3戦全敗。不甲斐無い先輩に代わって、あたしから雛菊さんを見上げ、

「樋口香澄です。雛菊さん」

 刹那、彼女と目が合った。

 相変わらず笑顔だけど……一瞬、背筋が寒くなる。そんな気がした。

 気のせい、かな?

「ありがとうございます。香澄さん、ですね。私のことは雛菊とお呼びください。親しみを込めて呼び捨てで結構ですよ」

 あたしの思いすごしだろうか、やっぱり笑顔の雛菊さんは、「では、ひとまず……」と、前置きをして、

「この空間を修復します。刺激が強いので、お二人は私が良いというまで目を閉じていただけますか?」

 修復、また分からない単語が出てきたが、とりあえず彼女の指示通り、目を閉じることにした。

 その間……体に暖かい光がまとわりついたような感覚。

 温泉のようにじんわり染み込んで、まるで傷を治していくような錯覚におちいる。

 気持ちいい……。


「はい、目を開けてください。ご協力ありがとうございました」


 そして、次にあたしが目にしたのは、

「え……? ええぇぇぇぇ!?」

 思わず大声をあげてしまった。

 先ほど確かに破壊されていた化学実験室は、まるであんなことがなかったかのように以前の姿を取り戻している。

 加えて……あたしの体にあった無数の傷が、制服の擦り切れも含めて、奇麗さっぱりなくなっていたのだ。

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