9話 小さな変化
夕刻、焔は祠の影から花蓮の様子を見守っていた。
彼女が町から戻ってくる時の表情が、日を追うごとに沈んでいることに気づいていた。
今日の花蓮も、いつものように疲れた様子で祠に近づいてくる。しかし、その足取りには以前のような弾みがない。肩を落とし、時折ため息をついている。
「また人間どもに何か言われたのか……」
焔は小さくつぶやいた。自分でも驚くことに、その声には苛立ちが込められていた。人間のことなどどうでもよいはずなのに、なぜ花蓮が傷つけられることに腹が立つのか。
「焔様、ただいま戻りました」
花蓮が祠に着くと、いつものように丁寧に挨拶をした。しかし、その声には元気がない。
「遅い」
焔は冷たく言ったが、内心では花蓮の様子が気になっていた。
「申し訳ございません。町で少し……」
花蓮の言葉が途切れた。何を言おうとしたのか、焔には察しがついた。
「人間どもが何か言ったのだな」
「いえ、そのような……」
花蓮は否定しようとしたが、その表情は隠し切れていない。焔の鋭い瞳は、彼女の心の動きを見抜いていた。
「我の花嫁であることを恐れ、貴様を避けているのだろう」
焔の声に、わずかな怒りが混じった。それは花蓮に向けられたものではなく、彼女を傷つけた人間たちに向けられたものだった。
「焔様……」
花蓮が驚いたような顔を見せた。焔が自分のことを気にかけてくれているのだろうか。
「気にするな」焔は素っ気なく言った。「人間など、所詮その程度の存在だ」
しかし、その言葉の奥には、花蓮への気遣いが隠されていた。
「焔様は昔から、この祠にいらしたのですか?」
花蓮が掃除をしながら何気なく尋ねた。いつものように焔は返事をしないと思っていたが、意外にも口を開いた。
「封印される前は……各地を転々としていた」
「そうなのですね。どのような場所でしょうか?」
花蓮の純粋な好奇心に、焔は困惑した。誰かに自分のことを聞かれるなど、何百年ぶりのことだった。
「山奥の洞窟、古い神殿、時には人里の近くにも……」
「人里の近くにも? では人と接することもおありだったのですね」
「あったが……」焔の声が暗くなった。
「結果は常に同じだった」
「同じ?」
「恐れられ、忌み嫌われ、最後には封印される」
焔の言葉に、花蓮は胸を痛めた。どれほど長い間、彼は孤独を味わってきたのだろう。
「でも私は、焔様を恐れてはおりません」
花蓮の言葉に、焔の表情が微かに変わった。
「最初は確かに怖うございました。でも今は……」
「今は?」
焔が身を乗り出すようにして聞いた。
「焔様はお優しい方だと思います」
「優しい?」焔は嘲笑を浮かべた。「我が優しいだと? 笑わせるな」
「でも、父の病気を治してくださったし、私にも害を加えられたことはありません」
花蓮の純粋な言葉に、焔は返す言葉を失った。確かに彼は、花蓮を傷つけたことはない。それどころか、気づかぬうちに彼女を守ろうとしている自分がいた。
「それは……契約だからだ」
焔の言い訳は弱々しく響いた。
「そうでしょうか?」花蓮が微笑んだ。「私には、焔様の本当のお心が見えるような気がします」
その笑顔に、焔の心は激しく動揺した。
夜、花蓮は桃色吐息の花に水をやっていた。祠の前に小さく植えた花は、不思議と枯れることなく美しく咲き続けている。
「この花、とても強いのですね」
花蓮が独り言のように言うと、暗闇から焔の声が聞こえた。
「桃色吐息は……特別な花だ」
「ご存じなのですか?」
花蓮が振り返ると、焔が月光の下に姿を現した。いつもより穏やかな表情をしている。
「昔、その花を愛した者を知っていた」
焔の声に、珍しく懐かしむような響きがあった。
「どのような方だったのでしょうか?」
「美しい女だった。心も……美しかった」
焔の瞳に、遠い記憶が宿る。
「でも、その方も焔様を……」
「恐れていたさ。最後には」
焔の声が再び冷たくなった。しかし、花蓮は諦めなかった。
「きっと誤解だったのです。本当の焔様を知れば、誰も恐れなどしません」
「本当の我?」焔が苦笑した。
「貴様は我の何を知っているというのだ?」
「まだ少ししか知りません」花蓮が素直に認めた。
「でも、もっと知りたいのです」
焔は言葉を失った。もっと知りたい――そんな言葉を向けられたのは、いつ以来だろう。
「愚かな小娘だ」
しかし、その言葉に非難の響きはなかった。むしろ、愛おしさに似た感情が込められていた。
花蓮はそれに気づき、胸の奥が温かくなった。少しずつでも、焔との距離が縮まっているような気がする。
翌日の午後、花蓮が熱を出して倒れた。町での疲れと、慣れない祠での生活が重なったためだった。
「花蓮?」
いつもの時刻に彼女が現れないことに、焔は困惑した。祠の前を何度も行き来し、そわそわと落ち着かない。
「遅いではないか……まさか」
焔は花蓮の家の方角を見つめた。何かあったのではないか。そんな不安が胸をよぎる。
しかし、すぐに首を振った。
「何を考えている。人間の小娘一人、どうなろうと……」
言葉とは裏腹に、焔の足は花蓮の家の方向に向いていた。
結局、焔は人目につかないよう影の姿となって、花蓮の様子を見に行った。床に伏せる彼女を見て、胸の奥がざわめくのを感じる。
「病気か……」
焔は迷った。神の力で治してやることもできる。しかし、それでは自分の気持ちがばれてしまう。
「契約上、妻に死なれては困る」
自分に言い聞かせながら、焔はそっと手をかざした。温かい光が花蓮を包み、熱が下がっていく。
「これは……契約のためだ」
焔は自分に言い聞かせ続けた。しかし、花蓮の安らかな寝顔を見つめる自分の瞳には、明らかに優しさが宿っていた。
素直になれない自分への苛立ちを覚えながら、焔は祠に戻った。
翌日、体調の回復した花蓮が祠に現れた時、焔はいつもより早く彼女を迎えた。
「体調はどうだ?」
思わず出た言葉に、焔は驚いた。なぜそんなことを聞いたのか。
「おかげさまで、すっかり良くなりました」
花蓮が微笑むと、焔の胸の奥が温かくなった。
「昨夜、不思議な夢を見ました」花蓮が続けた。「温かい光に包まれて、とても安らかな気持ちになる夢を」
焔は動揺を隠そうとした。まさか自分が治療したことがばれたのだろうか。
「夢など、所詮夢だ」
「でも、とても現実的な夢でした」花蓮の瞳が焔を見つめる。
「まるで誰かが見守ってくれているような……」
焔は視線をそらした。この小娘の直感の鋭さは、時として恐ろしい。
「妄想だ」
「そうでしょうか」花蓮は優しく微笑んだ。
「私には、焔様がお心配してくださったような気がします」
「心配など……」
焔の否定は弱々しかった。そして花蓮は、その弱々しさの意味を理解していた。
この神は、思っているよりもずっと優しい心を持っている。ただ、素直に表現することを恐れているだけなのだ。
「ありがとうございます、焔様」
花蓮の感謝の言葉に、焔の心は大きく揺れた。ありがとう――その言葉が、胸の奥深くに響いている。
「何のことだ」
焔は背を向けたが、その肩が微かに震えていた。
花蓮はそっと微笑んだ。少しずつでも確実に、二人の心の距離は縮まっている。氷のように冷たかった焔の心に、小さな温もりが宿り始めていた。
夜風が祠を吹き抜け、桃色吐息の花びらが舞い散る。その美しい情景が、変わりゆく二人の関係を祝福しているかのようだった。
焔もまた、自分の変化に困惑していた。この小さな人間の女に対して、なぜこれほどまでに心を動かされるのか。それは彼にとって、何百年ぶりの感情の変化だった。