8話 町の噂
数日後、花蓮は父の薬草を求めて町の市場を訪れた。焔の約束通り父の体調は劇的に改善していたが、完全な回復のためにはまだ薬草が必要だった。
市場に足を踏み入れると、いつものように人々の視線が集まった。しかし今度は、以前とは明らかに違う種類の注目だった。
「いらっしゃいませ……神様の奥方様」
八百屋の主人が丁寧すぎるほど腰を低くして挨拶した。その態度には、恐れと敬意が入り混じっている。
「いつものように、どうぞお気軽に……」
しかし主人の声は上ずっていて、自然な接客とは程遠い。花蓮が野菜を手に取ると、主人は慌てたように別の品を勧めてくる。
「こちらの方がお値打ちで……いえ、神様の奥方様には無料で……」
「いえ、そのようなことは……」
花蓮は困惑した。対価を払わずに品物を受け取るわけにはいかない。しかし主人は首を振る。
「神様にお仕えする方から、代金など頂戴できません」
結局、花蓮は半ば強引に野菜を押し付けられる形となった。他の店でも同様で、どこでも商人たちは遠慮がちに、しかし恐る恐る接客してくる。
昔のような気軽な会話はもうない。人々は花蓮を「神の花嫁」として見ており、一人の人間としては見てくれなくなっていた。
「ありがたいことだけど……」
花蓮は心の中でつぶやいた。確かに経済的には助かるが、この疎外感は思っていた以上に辛いものだった。
市場からの帰り道、花蓮は叔母の園子と出会った。園子の表情は、以前の冷淡さとは違う、明らかな怒りに満ちていた。
「花蓮! あなた、一体何をしでかしたの?」
園子が声を荒げた。通りを歩く人々が振り返るほどの大きな声だった。
「叔母様……」
「神などと契りを結ぶなんて、正気の沙汰じゃないわ!」
園子の声には、恐怖と憤りが込められていた。
「松下の家名に泥を塗るつもり? 先祖様がお嘆きになるわ」
「父をお救いするために……」
「康政さんのためですって? だからといって、得体の知れない神と結婚するなんて」
園子は扇子を振りながら続けた。
「町の人たちがどれだけ怖がっているか、わかってるの? 神喰いですって? 人を喰らう神なのでしょう?」
花蓮は返事に詰まった。確かに焔は恐ろしい神だが、悪い神ではないと信じている。しかし、それを説明するのは難しい。
「そんな恐ろしいものの花嫁になって、町に災いをもたらすつもり?」
「そのようなことは……」
「ないとは言い切れないでしょう?」園子の声がさらに厳しくなった。「あなたのせいで、何か起これば責任を取れるの?」
花蓮は言葉を失った。確かに自分は焔のことをよく知らない。もしも本当に災いをもたらすとしたら……。
「とにかく、今すぐその契約を解きなさい。まだ間に合うかもしれない」
「それはできません」
花蓮の答えは即座だった。
「父の命がかかっています。それに……」
「それに、何?」
花蓮は迷った。焔への想いについて話すべきか。しかし、叔母には理解してもらえないだろう。
「約束は約束です」
「愚かな子ね」園子は呆れたように首を振った。「もう知らないわよ。何が起ころうとも、私たちを巻き込まないでちょうだい」
そう言って、園子は立ち去っていく。その後ろ姿を見送りながら、花蓮は深いため息をついた。
親族からも理解されない。これが神の花嫁になるということなのか。
午後、花蓮は偶然に幼馴染みの美佐子と、もう一人の友人である千鶴と出会った。二人は立ち話をしていたが、花蓮を見つけると表情を変えた。
「花蓮……」
美佐子が戸惑いがちに声をかけた。千鶴は一歩後ずさりしている。
「お久しぶりです」
花蓮が笑顔で近づくと、二人はさらに距離を取った。
「あの……本当に神様と……」
千鶴が恐る恐る尋ねた。その声は震えている。
「はい」花蓮は素直に答えた。「神喰い様と契約を結ばせていただきました」
「神喰い……」美佐子が青ざめた。「あの恐ろしい……」
「恐ろしくなんてありません」花蓮が弁護する。「確かに厳しい方ですが、悪い神様ではないのです」
しかし、二人の表情は変わらない。むしろ、さらに恐怖の色を深めている。
「花蓮、あなた……正気なの?」
千鶴の声に心配と恐怖が混じっていた。
「もしもその神様が怒って、町に災いを……」
「そんなことはありません!」
花蓮は強く言った。しかし、友人たちの表情は変わらない。
「ごめんなさい、花蓮」美佐子が申し訳なさそうに言った。
「でも、私たち……あなたと一緒にいるのが怖いの」
その言葉は、花蓮の心を深く傷つけた。
「もしもその神様が現れて……私たちまで……」
千鶴の言葉は最後まで続かなかった。しかし、その意味は十分に伝わってきた。
「そうですか……」
花蓮は静かに言った。心の奥が冷たくなっていく。
「理解いたします。お体に気をつけて」
花蓮は一礼して、その場を立ち去った。背後から、二人のほっとした息遣いが聞こえてくる。
昔からの親友たちも、もう花蓮を恐れていた。神の花嫁となることで、彼女は人間社会から切り離されてしまったのだ。
家に帰ると、花蓮は一人で昼食を取った。父は体調が良くなったとはいえ、まだ床に伏せっている。会話する相手は誰もいない。
かつては友人たちと楽しく食事をしたこともあった。市場では商人たちと世間話をし、親戚の家でも温かく迎えられていた。
しかし今では、すべてが変わってしまった。
「神の花嫁……」
花蓮は自分の手の甲の印を見つめた。赤い文字が、まるで烙印のように見える。
この印があるせいで、人々は自分を恐れるのだろうか。それとも、焔という存在そのものが恐ろしいのだろうか。
「焔様は……本当に恐ろしい神様なのでしょうか」
花蓮は自問した。確かに焔は冷たく、威圧的だ。神喰いという名の通り、恐ろしい力を持っている。
しかし、花蓮には焔の優しさも感じられた。父の病気を治してくれたし、自分に害を加えようとしたことはない。
「きっと誤解なのです」
花蓮は自分に言い聞かせた。
「焔様の本当のお姿を知れば、皆さんも理解してくださる」
しかし、その機会が訪れるかどうかはわからない。焔は人前に姿を現すことを好まないし、人々も彼に会いたがらないだろう。
静寂な昼食を終えて、花蓮は再び祠へと向かう準備を始めた。人間社会では孤独でも、焔の元では妻としての役割がある。それが今の彼女にとって唯一の居場所だった。
夕方、花蓮は祠に向かう道すがら、改めて自分の決断について考えていた。
確かに人々からは恐れられ、親族からは非難され、友人からは避けられている。しかし、それでも後悔はしていない。
父の病気は確実に良くなっている。家の借金も、焔の力によって解決されるかもしれない。何より、父を失う恐怖から解放された。
「お母様……」
花蓮は胸の桃色吐息に向かって語りかけた。
「私の選択は正しかったでしょうか?」
風が吹いて、花びらが舞い散る。それは母からの答えのように感じられた。
「きっと正しいのです。家のため、父のため……そして」
花蓮は言葉を止めた。最後に浮かんだのは、焔の顔だった。
恐ろしくも美しい神の顔。冷たい言葉の奥に隠された、深い孤独。
「焔様のためにも……」
花蓮は小さくつぶやいた。
人々が何を言おうとも、焔は悪い神ではない。ただ長い間一人だったために、人との接し方を忘れてしまっただけなのだ。
「私が焔様のお心を開いて見せます」
花蓮は決意を新たにした。
たとえ人間社会から孤立しても、焔との絆を深めることができれば、きっとすべてがうまくいく。そう信じて、彼女は祠への道を歩き続けた。
月が昇り始め、花蓮の影が長く伸びている。神の花嫁としての孤独な道のりが、まだまだ続いていくことを暗示するかのように。
しかし花蓮の心には、小さな希望の灯火が燃え続けていた。焔への想いと、いつかきっと理解し合える日が来るという信念を胸に。