7話 冷たい拒絶
翌朝、花蓮は昨日よりも早く祠に着いた。今度は握り飯ではなく、丁寧に作った朝食を持参していた。焔がどのような食事を好むかはわからないが、少しでも気に入ってもらえるものをと、朝早くから準備していたのだ。
「焔様、おはようございます」
祠の前で待っていると、焔が現れた。朝日を浴びたその姿は、夜とは違った威厳を放っている。
「今朝はお食事を変えてみました。蒸し物と、お吸い物もご用意いたしました」
花蓮は嬉しそうに風呂敷を広げた。蒸した野菜、丁寧に出汁を取った吸い物、そして母から教わった煮物。心を込めて作った料理が、美しく並べられている。
「何度言えばわかるのだ」
焔の声は昨夜よりもさらに冷たかった。
「我は人の食い物など口にせぬ。そのようなもの、ただの腐った物質に過ぎん」
「でも昨日、少し興味をお持ちになったご様子で……」
「勘違いするな」焔が一歩近づく。「我が手を触れれば、あらゆるものが穢れる。人の食い物など、腐臭しかせぬわ」
そう言うと、焔は花蓮が用意した料理の一つに指先を向けた。その瞬間、美しく盛りつけられた蒸し野菜が黒ずみ、見る間に腐敗していく。
「あ……」
花蓮は言葉を失った。心を込めて作った料理が、目の前で台無しになっていく。
「これが現実だ。我と貴様の間には、これほどの差がある」
焔は興味を失ったように踵を返した。
「二度とこのような無駄なことはするな。我には人間の心遣いなど不要だ」
花蓮は崩れた料理を見つめながら、涙をこらえていた。せっかく早起きして作ったのに。焔に喜んでもらいたい一心だったのに。
しかし、諦めるわけにはいかない。きっと他に方法があるはずだ。
午後、花蓮は祠の周囲を掃除していた。手には母の形見である桃色吐息の花を持っている。せめて祠を美しく飾って、焔に気持ちよく過ごしてもらおうと考えたのだ。
「焔様、この花を祠にお供えしてもよろしいでしょうか」
花蓮は美しく咲いた桃色吐息を差し出した。朝露に濡れた花びらが、陽光にきらめいて見える。
「花だと?」
焔が振り返った。その瞳に、一瞬何かが過ぎったように見えたが、すぐに冷たい表情に戻る。
「無駄だ、すぐに枯れる」
「でも、少しの間でも美しく……」
「花などという脆弱なものに、何の意味がある」焔は嘲るように言った。「我の力の前では、あらゆる生命は無に帰す」
そう言いながら、焔は花蓮の手にある桃色吐息を見つめた。不思議と、この花だけは彼の力で枯れることはなかった。それが焔をさらに苛立たせる。
「その花は何だ?」
「桃色吐息と申します。母の……」
「母の形見か」焔の声に軽蔑が込もった。「死んだ者への執着など、愚かの極みだ」
花蓮の胸が痛んだ。母への想いを否定されることほど辛いことはない。
「お母様は愚かではありません」
思わず言い返してしまった。焔の瞳が鋭く光る。
「何だと?」
「お母様は……お母様は優しくて、美しくて、誰よりも愛情深い方でした」
花蓮の声は震えていたが、母を守ろうとする意志は揺らがない。
「フン」焔は鼻で笑った。「それで今、どこにいる? 貴様を一人残して、あの世に逃げたではないか」
その言葉は花蓮の心を深く傷つけた。しかし、焔の表情には微かな苦悩も見えた。まるで自分の言葉に苦しんでいるかのように。
「お母様は……病気で……」
「言い訳をするな」焔が背を向けた。「死んだ者は死んだ者だ。花で飾り立てたところで、何も変わらぬ」
焔が立ち去った後、花蓮は一人で祠の掃除を続けた。涙を拭いながら、丁寧に石段を磨き、古い落ち葉を集めていく。
祠は長年放置されていたため、苔や汚れがこびりついている。しかし花蓮は根気よく清めていく。少しでも焔が快適に過ごせるよう、心を込めて。
「何をしている」
いつの間にか焔が戻ってきていた。花蓮の掃除する姿を、無表情で見つめている。
「お掃除をしております。少しでも美しく……」
「無駄なことを」
焔は興味なさそうに言った。しかし、その視線は花蓮の一生懸命な姿から離れない。
「神である我に、人間の清潔観念など通用せぬ」
「でも……」
「しかし」焔が言葉を続けた。「勝手にやるというなら、止めはせん」
それは許可とも取れる言葉だった。花蓮の心が少し軽くなる。
「ありがとうございます」
花蓮は微笑んで掃除を続けた。焔は何も言わず、ただ彼女の働く姿を見つめている。その瞳の奥に、わずかな困惑があることに花蓮は気づかなかった。
なぜこの小娘は、拒絶されても諦めないのか。なぜ笑顔を見せることができるのか。焔にとって、花蓮の行動は理解し難いものだった。
長年の孤独の中で、誰かのために何かをする人間を見るのは久しぶりのことだった。そして、その姿に心を動かされそうになる自分が、焔には許せなかった。
夕方、花蓮は祠の前で焔を待っていた。今日は食事ではなく、お茶を用意していた。焔が人間の食べ物を受け付けないなら、せめて飲み物はどうだろうかと考えたのだ。
「焔様、お茶をご用意いたしました」
焔が現れると、花蓮は丁寧にお茶を淹れた。湯気が立ち上り、良い香りが祠の周囲に漂う。
「また無駄なことを」
焔は相変わらず冷たかったが、お茶の香りに一瞬鼻をひくつかせた。
「お嫌でしたら、無理にとは申しません。ただ……」
花蓮は自分でお茶を飲んで見せた。美味しそうに飲む姿を見て、焔の表情に微かな変化があった。
「焔様も、昔はどなたかとお茶を飲まれたことが……」
「ない」
焔の答えは即座だった。しかし、その声には微かな寂しさが込められていた。
「そうですか……」
花蓮は少し残念そうな表情を見せた。その無邪気な悲しみに、焔は動揺を覚える。
なぜこの小娘の表情が気になるのか。なぜその悲しそうな顔を見ると、胸の奥が痛むのか。
「貴様は……」焔が口を開きかけたが、すぐに口を閉じた。
「はい?」
「……何でもない」
焔は背を向けてしまった。しかし、その肩が微かに震えているのを、花蓮は見逃さなかった。
この神にも、人間らしい感情があるのではないだろうか。そんな直感が、花蓮の心に芽生えていた。
夜が更け、花蓮は祠の床で横になっていた。今日も焔に冷たく拒絶されたが、心が折れることはなかった。
「お母様……」
花蓮は桃色吐息の花を見つめながら、母との会話を思い出していた。
『困った時は、諦めずに愛を示し続けなさい。きっと相手の心にも愛が芽生える』
母がそんなことを言っていた記憶がある。焔は確かに冷たく恐ろしい神だが、その奥には傷ついた心が隠されているような気がしてならない。
「私は諦めません」
花蓮は小さく誓った。
「焔様がどれほど拒絶されても、私は妻として尽くし続けます。きっといつか、お心を開いてくださる日が来る」
祠の奥から、かすかに気配を感じた。焔がそこにいるのだろう。彼も眠れずにいるのかもしれない。
「おやすみなさい、焔様」
花蓮が小さく声をかけると、祠の奥から微かな音が聞こえた。焔の返事だったのか、それとも風の音だったのか。
しかし花蓮には、それが焔からの小さな反応のように思えた。わずかな希望を胸に、彼女は眠りについた。
一方、祠の奥では焔が壁にもたれて座っていた。花蓮の「おやすみなさい」という言葉が、胸の奥で響いている。
「愚かな小娘め……」
つぶやく声に、いつものような冷たさはなかった。むしろ困惑に満ちていた。
数百年ぶりに聞く、人からの優しい言葉。それがなぜこれほど心を揺さぶるのか、焔には理解できなかった。
しかし、確実に何かが変わり始めていた。氷のように冷たかった心の奥で、小さな温もりが芽生えようとしていた。
月が祠を照らし、新婚夫婦の初々しい日々が静かに過ぎていく。表面的には冷たい関係だが、その下では確実に絆が育まれつつあった。