6話 神様の花嫁
夜が明けた頃、花蓮は祠で目を覚ました。
固い石の床に横になった身体は痛みを訴えていたが、不思議と安らかな気持ちだった。
昨夜のことは夢ではなかった。手の甲にはまだ、契約の印が鮮明に残っている。赤い文字は時間が経っても消えることなく、むしろ昨夜より鮮やかに見える。
「焔様……」
花蓮は小声でその名前を呼んでみた。しかし返事はない。神喰いの姿は、祠のどこにも見当たらなかった。
祠の外に出てみると、朝の清々しい空気が頬を撫でていく。昨夜の恐怖が嘘のように、祠の周囲は平穏に見えた。しかし注連縄は切れたまま、お札も地面に散らばったままだ。封印が解かれた証拠は、確実に残っている。
「本当に神様と結婚したのですね……」
花蓮は自分の手を見つめながらつぶやいた。契約の印は、彼女が神の妻となった証だった。
これから自分はどうすればいいのだろう。焔は明日の夕刻に戻って来いと言ったが、それまでの時間をどう過ごせばいいのか。
まずは父の様子を見に帰らなければならない。焔は父の病気を治すと約束してくれた。もしかしたら、もう効果が現れているかもしれない。
花蓮は希望に胸を膨らませて、家路についた。
町に足を踏み入れた時、花蓮は人々の視線が昨日とは違うことに気づいた。ただの同情や好奇心ではない、もっと複雑な感情が込められた視線だった。
「あの……松下のお嬢さんじゃない?」
八百屋の女将が声をかけてきた。その声には驚きが含まれている。
「おはようございます」
花蓮が挨拶をすると、女将は首を傾げた。
「何だか……雰囲気が変わったわねえ。昨日までとは別人のよう」
確かに花蓮自身も、何かが変わったような気がしていた。絶望的だった昨日までとは違い、心に希望の光が宿っている。それが表情にも現れているのかもしれない。
「そ、そうでしょうか」
「ええ。なんだか……光って見えるわ」
女将の言葉に、花蓮は驚いた。光っているとは、まさか契約の影響だろうか。
道行く人々も、花蓮に注目している。昨日までの憐れみの目とは明らかに違う、畏敬に似た視線だった。
「神の花嫁……」
誰かが小さくつぶやいた声が聞こえた。花蓮は振り返ったが、誰が言ったのかはわからない。
しかし、その言葉は瞬く間に広がっていく。
「神の花嫁が現れた」
「松下のお嬢さんが、神様とご結婚されたそうよ」
「本当に? あの落ちぶれた……」
ひそひそ声が町中に響いている。花蓮は困惑した。なぜ皆が知っているのだろう。昨夜のことは、誰にも見られていなかったはずなのに。
市場では、女たちが集まって熱心に話し込んでいた。花蓮が近づくと、皆が振り返って彼女を見つめる。
「まあ、本当に松下のお嬢さん!」
「神様の花嫁になられたって本当なの?」
「どんな神様なの? お姿は?」
質問が矢継ぎ早に飛んでくる。花蓮は戸惑いながらも答えようとしたが、何と言えばいいのかわからない。
「あの……なぜ皆様がそのことを……」
「今朝から町中の話題よ」
一人の女性が興奮気味に言った。
「神の花嫁の印が現れたって」
花蓮は慌てて手を袖の中に隠した。しかし遅かった。
「あら、本当に印がある!」
「見せて見せて!」
女たちが花蓮を囲んだ。彼女は逃げ場を失い、仕方なく手を差し出す。
「まあ、美しい……」
「神様の印ね、間違いないわ」
「これで松下家も安泰ね」
女たちの反応は、恐怖ではなく羨望だった。神の花嫁となることを、皆が羨ましがっている。
しかし花蓮には、その視線が重荷に感じられた。自分はただ父を救いたい一心で行動しただけなのに、いつの間にか町の注目の的になってしまった。
「お嬢さん、これからお幸せになりますわね」
「神様のお力で、きっと何でも叶いますわ」
期待に満ちた声が聞こえてくる。しかし花蓮は、焔の冷たい言葉を思い出していた。『我の所有物に過ぎん』『喰い殺してやる』――あの恐ろしい神との結婚が、本当に幸せをもたらすのだろうか。
夕刻、花蓮は約束通り祠に戻った。手には握り飯と野菜の煮物を包んだ風呂敷を持っている。神の食事がどのようなものかはわからないが、まずは人間の食事を用意してみることにした。
祠に着くと、焔が石段に座っていた。月光に照らされたその姿は、昨夜よりもさらに威厳に満ちて見える。
「遅いではないか」
焔の声は相変わらず冷たい。しかし昨夜のような殺気は感じられない。
「申し訳ございません。お食事をご用意いたしました」
花蓮は風呂敷を広げ、握り飯を差し出した。しかし焔は一瞥もしない。
「我が人間の食い物を口にすると思うか?」
「で、では……何をお召し上がりになられるのでしょうか」
「我は神だ。魂を喰らい、生命力を吸い取って生きている」
焔の言葉に、花蓮は震え上がった。魂を喰らうとは、そういう意味だったのか。
「しかし」焔が続けた。
「久方ぶりに人間の食い物を見るのも悪くはない」
そう言って、焔は握り飯に手を伸ばした。しかし、その手が触れた瞬間、握り飯は黒く変色して崩れ去った。
「やはり腐臭しかせぬ」
焔は興味を失ったように手を引っ込めた。
「申し訳ございません……」
花蓮は謝りながら、崩れた握り飯を片付けた。焔の食事を用意することの困難さを、改めて思い知らされた。
「気にするな。貴様が我の世話をしようという気持ちは……」
焔の言葉が途切れた。まるで自分の言葉に驚いたかのように。
「理解できん」
最後の言葉は、ぶっきらぼうだった。しかし花蓮には、焔が本当は感謝の気持ちを示そうとしたのではないかと感じられた。
「今夜はここで休め」
焔が立ち上がった。
「明日も同じ時刻に来い。我の世話をするのが貴様の役目だ」
「はい」
花蓮が返事をすると、焔は祠の奥へと歩いていく。しかし数歩歩いたところで立ち止まった。
「花蓮」
「はい」
「父親の病気だが……明日には快方に向かうだろう」
その言葉に、花蓮の心は躍った。本当に父が治るのだ。
「ありがとうございます!」
花蓮は深々と頭を下げた。焔はそれ以上何も言わず、闇の中に消えていく。
一人残された花蓮は、祠の床に座り込んだ。固い石の感触は不快だったが、心は温かかった。父が治る――それだけで、どんな苦労も耐えられる気がする。
手の甲の印を見つめながら、花蓮は決意を新たにした。焔がどれほど冷たく接しようとも、自分は妻として彼に尽くそう。それが契約の内容であり、父を救ってもらった恩返しでもある。
「お母様……」
花蓮は胸の桃色吐息の花に向かって語りかけた。
「私、神様の花嫁になりました。きっとお母様が導いてくださったのですね」
風が吹いて、花びらが一枚舞い散る。それは母からの祝福のように感じられた。
「焔様は怖い方ですが……でも、きっと優しいお心をお持ちです。私にはそれがわかります」
花蓮の直感は正しかった。焔の冷酷さの下には、長年の孤独に苦しむ心が隠されていた。しかし、それに気づくまでには、まだ時間が必要だった。
夜が更け、花蓮は石の床で眠りについた。明日からの新しい生活への不安と期待を胸に。
月が祠を照らし、神の花嫁となった少女の寝顔を優しく見守っていた。焔もまた、闇の中から花蓮を見つめていた。その表情には、これまでになかった複雑な感情が宿っていた。
新しい夫婦生活が、静かに始まろうとしていた。