5話 契約成立
「私と……私と結婚してください」
花蓮の言葉が夜の静寂に響いた瞬間、神喰いの動きが完全に止まった。血のように赤い瞳が、信じられないものを見るかのように見開かれている。
長い沈黙が流れた。風すら止んだかのような、完全な静寂。花蓮は自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえるのを感じていた。
「今……何と言った?」
神喰いの声は、先ほどまでの威圧的な響きとは違って、困惑に満ちていた。まるで言葉の意味を理解できないでいるかのように。
「結婚してください……と申しました」
花蓮は震える声で繰り返した。自分でも何を言っているのかわからない。しかし、なぜかこの言葉が正しいような気がしていた。
「結婚……だと?」
神喰いが一歩後ずさった。数百年の封印を破って現れた恐ろしい神が、一人の人間の少女の言葉に動揺している。その光景は、どこか滑稽でもあった。
「貴様は……我に何を求めているのだ? 我は神喰い。人を喰らい、神をも喰らう存在だぞ」
「存じております」花蓮は桃色吐息の花を胸に抱きしめた。「でも……でも、お一人では寂しくありませんか?」
神喰いの表情が凍りついた。寂しさ――それは彼が長年封じ込めてきた感情だった。
「寂しい……だと? 我がそのような人間らしい感情を抱くと思うのか?」
「長い間、お一人で封印されて……きっと辛かったでしょう」
花蓮の声に、純粋な同情が込められていた。神喰いは言葉を失った。この小娘は、自分を恐れているはずなのに、同情を示している。理解し難い存在だった。
「それで……結婚だと? 愚かな……」
神喰いの声は弱くなっていた。威圧的な響きは消え、困惑と動揺だけが残っている。
しばらくの沈黙の後、神喰いの口元がゆっくりと歪んだ。そして、低い笑い声が響き始める。
「クク……ククク……」
最初は小さな笑いだったが、やがて大きな声となって夜空に響いた。
「ハハハハハ! 愚かさの極みだな!」
神喰いの笑い声は嘲笑に満ちていた。花蓮は身を縮めたが、その場から逃げ出しはしなかった。
「人間の小娘が、神喰いに結婚を申し込むだと? これほど愚かな話があるか!」
神喰いの赤い瞳が、再び冷酷な輝きを取り戻した。先ほどまでの動揺は嘘のように消え去っている。
「我を何だと思っている? 貴様ら人間と同じ存在だとでも?」
「いえ……でも」
「でも、何だ?」神喰いが威圧的に近づく。「我は神だ。貴様のような虫けら同然の存在と、対等な関係など結べるわけがない」
花蓮の心が沈んだ。やはり無謀だったのだろうか。しかし、引き下がるわけにはいかない。
「私は……私はただ」
「ただ、何だ? 言ってみろ」
神喰いの声は再び冷たくなった。しかし花蓮は、先ほどの動揺を見逃してはいなかった。この神にも、人間らしい感情があるのではないか。
「あなたにも、心があるのではないかと思ったのです」
「心?」神喰いが鼻で笑った。「我に心などない。あるのは力と誇りだけだ」
しかし、その言葉には微かな迷いが込められていた。花蓮はそれを感じ取った。
「本当にそうでしょうか? さっき、私の言葉に驚かれたのは……」
「黙れ!」神喰いが怒鳴った。「生意気な小娘め!」
神喰いの怒声が響いた瞬間、何かが起こった。突然、花蓮の手に強烈な光が走ったのだ。
「あっ!」
花蓮は痛みで声を上げた。手の甲に、見たことのない文字が浮かび上がっている。それは炎のように赤く、まるで焼き印を押されたかのような痛みを伴っていた。
「これは……」
神喰いも驚愕していた。光は花蓮の手から始まり、彼女の全身を包み込んでいく。そして不思議なことに、その光は神喰いにも届いていた。
「契約の光……まさか」
神喰いの声に動揺が戻った。彼も自分の手を見つめている。そこには花蓮と同じ文字が刻まれていた。
「何が起こって……」
花蓮は痛みに耐えながら神喰いを見上げた。神の表情には、明らかな困惑があった。
「貴様の純粋な想いが……契約を成立させたのか」
光がさらに強くなる。花蓮と神喰いの間に、見えない絆が結ばれていく。それは強制的なものではなく、むしろ自然な流れのように感じられた。
「これが……結婚?」
花蓮は自分の手の文字を見つめた。痛みは引いていたが、文字は消えない。まるで永遠に続く約束の印のように、そこに刻まれている。
神喰いも同じように手を見つめていた。数百年生きてきた彼にも、これは初めての経験だった。
「まさか……本当に契約が成立するとは」
光が次第に収まっていく。そして最後に、二人の間に小さな光の糸が見えた。それは魂を結ぶ絆の象徴のように、美しく輝いていた。
契約の光が完全に消えた後、神喰いの表情は再び冷酷になった。しかし、そこには先ほどまでなかった複雑な感情も混じっていた。
「フン……愚かな小娘め」
神喰いは手の甲の印を見つめながら言った。
「契約は成立した。貴様は今日から我の妻ということになる」
花蓮は胸の高鳴りを感じた。本当に結婚が成立したのだ。これで父を救うことができる。
「しかしな」神喰いの声が急に冷たくなった。「これは対等な契約ではない。貴様は我の所有物に過ぎん」
その言葉に、花蓮の心は沈んだ。
「我に従い、我に仕え、我の言うとおりにするのだ。それができねば……」
神喰いの瞳が不気味に光った。
「喰い殺してやる」
恐怖が花蓮の背筋を走った。この神との結婚は、予想していたものとは全く違うものになりそうだった。
「父のことは……」
「治してやる。約束通りにな」神喰いは興味なさそうに言った。「しかし、それ以外に温情を期待するな。我は慈悲深い神ではない」
花蓮は頷いた。父が救われるなら、それでよかった。自分がどうなろうとも。
「明日から祠に住め。我の世話をするのが貴様の役目だ」
「はい……」
「返事が小さい。我は貴様の夫だぞ?」
神喰いの声に皮肉が込められていた。花蓮は震え声で答えた。
「はい……夫様」
「よろしい」
神喰いは満足そうに頷いた。しかし、その表情の奥には、まだ困惑が残っていた。
「せいぜい後悔するがいい、花蓮」
神喰いが花蓮の名前を呼んだ。それは初めてのことだった。冷たい声の中にも、何かしらの親しみが感じられる。
「我の名は焔だ。忘れるな」
焔――燃える炎の名前。神喰いにふさわしい、力強い名前だった。
「焔様……」
花蓮がその名前を口にすると、焔の表情に微かな変化があった。しかし、それはすぐに消える。
「今夜は家に帰れ。明日の夕刻に戻って来い」
「はい」
花蓮は深く頭を下げた。桃色吐息の花を胸に抱きしめたまま。
「そして花蓮」
振り返りかけた花蓮を、焔が呼び止めた。
「その花は……母親の形見だと言ったな」
「はい」
「桃色吐息の花言葉は知っているか?」
花蓮の心臓が跳ね上がった。なぜ焔がそのことを知っているのだろう。
「『あなたと一緒なら心が安らぐ』……でございます」
焔は何も言わなかった。ただじっと花蓮を見つめているだけだった。その瞳の奥で、何かが揺れているようだった。
「……去れ」
短い言葉だったが、そこには先ほどまでの冷酷さはなかった。むしろ、戸惑いのような響きがあった。
花蓮は一礼して、祠を後にした。山道を下りながら、手の甲の印を見つめる。まだ痛みが残っているが、不思議と嫌な感じはしなかった。
これで父を救うことができる。そして自分は、神喰い焔の妻となった。どんな運命が待っているかはわからないが、もう後戻りはできない。
月が雲間から顔を出し、花蓮の道筋を照らしている。新しい運命が、今まさに始まろうとしていた。
祠では、焔が一人佇んでいた。自分の手の印を見つめながら、複雑な表情を浮かべている。
「まさか……本当に契約が成立するとは」
彼の声に、これまでになかった困惑が込められていた。数百年の孤独の後に現れた、一人の人間の少女。
「花蓮……」
焔がその名前をつぶやくと、胸の奥で何かが動いた。それが何なのか、彼にもわからなかった。
夜風が祠を吹き抜けて行く。新しい物語が、静かに始まっていた。