4話 神食いの目覚め
花蓮が祠に近づくと、石扉の隙間からかすかな光が漏れ始めた。それは月光とは違う、冷たく青白い光だった。
ギシリ、ギシリと重い石が軋む音が響く。長年動かなかった扉が、まるで内側から押されているかのように、徐々に開き始めていた。
「な、何が……」
花蓮は後ずさりしそうになったが、必死に踏みとどまった。ここで逃げるわけにはいかない。父を救うためには、どんな恐ろしいことが起ころうとも耐え抜かなければならない。
注連縄がパチンと音を立てて切れた。古いお札が風に舞い散り、封印の力が次々と失われていく。花蓮は息を呑んだ。何百年も続いた封印が、今まさに解かれようとしているのだ。
祠の内部から、低くうなるような音が聞こえてくる。それは風の音でも、動物の鳴き声でもない。もっと深く、もっと重く、そして何よりも恐ろしい声だった。
石扉がさらに開き、闇の向こうから何かが現れようとしていた。空気が重く、圧迫感が花蓮の全身を包み込む。呼吸すら困難になりそうな、異様な威圧感だった。
「神様……本当に神様がいらっしゃるのですね」
花蓮は震える手で胸の桃色吐息を握りしめた。母の形見が、今の彼女にとって唯一の支えだった。
突然、祠の奥から巨大な影が立ち上がった。それは人の形をしていたが、普通の人間ではない。背丈は花蓮の二倍はあろうかという巨躯で、全身が暗い影に包まれている。
最も異様だったのは、頭部から生えた二本の角だった。黒曜石のように黒く、鋭く尖った角が月光を反射して不気味に輝いている。
「久しぶりだな……外界の空気は」
低く響く声が、花蓮の全身に震撼を走らせた。それは人間の声ではない。もっと深く、もっと重々しく、まるで大地の底から響いてくるような声だった。
神喰いがゆっくりと祠から出てくる。その姿が月光の下に完全に現れると、花蓮は息を呑んだ。
影のような暗い肌、筋肉質で威圧的な体躯、そして何よりも恐ろしいのは、その顔だった。美しいと言えば美しいが、人間離れした美しさ。高い鼻筋、引き締まった口元、しかしその表情には慈悲のかけらも見当たらない。
「ほう……人間の小娘が一人か」
神喰いの視線が花蓮を捉えた。その瞬間、花蓮は体中の血が凍りつくような感覚に襲われる。これが神の威圧というものなのか。人間とは次元の違う存在からの圧倒的な力を感じていた。
神喰いの周囲には、黒い靄のようなものが渦巻いている。それは闇そのもののようでもあり、死の気配のようでもあった。花の香りすら消し去ってしまう、絶望的な存在感。
「この封印を破ったのは……貴様か?」
神喰いが一歩近づく。その足音は大地を震わせ、花蓮の心臓は激しく鼓動を打った。
「い、いえ……私は何も……」
「嘘をつくな」神喰いの声に怒気が込もった。
「貴様の絶望と願いが、封印に綻びを作ったのだ。人の負の感情ほど、封印を弱める力はない」
花蓮は言葉を失った。自分の絶望が、この恐ろしい神を解放してしまったというのか。
神喰いがさらに近づくと、その瞳の色が明らかになった。血のように赤く、まるで炎のように燃えている瞳。その奥には、人を喰らう獣の本性が隠されているように見えた。
「久方ぶりに人間を見るが……やはり愚かで脆弱な生き物だな」
神喰いの赤い瞳が、花蓮の全身を舐め回すように見つめる。品定めでもするかのような、冷酷な視線だった。
花蓮は身動きができなかった。恐怖で足がすくみ、声も出ない。神喰いの威圧感は想像を遥かに超えていた。これが本当に神なのか。それとも悪魔なのか。
「小娘よ、貴様の名は何という?」
やっとのことで花蓮は答えた。
「花蓮……松下花蓮と申します」
「花蓮か。美しい名だが……」神喰いは嘲るような笑みを浮かべた。
「その名前に似合わぬ、みすぼらしい姿だな。落ちぶれた人間の臭いがする」
その言葉は花蓮の心を深く傷つけた。しかし反論することはできない。実際に松下家は没落し、彼女自身も貧しい身なりをしている。
「貴様が手にしているものは何だ?」
神喰いの視線が、花蓮の胸に抱いた花に向けられた。
「桃色吐息という花です……母の形見で」
「桃色吐息……」
神喰いの表情に、一瞬だけ何かが過ぎった。しかしそれはすぐに冷酷な表情に戻る。「愚かな母親の愚かな娘か。花などという美しいものを持っていても、貴様の運命は変わらぬ」
花蓮は母を馬鹿にされた怒りを感じたが、神喰いの前では何も言えなかった。この存在の前では、人間の感情など取るに足らないもののように思えた。
神喰いの瞳が、じっと花蓮を見つめている。その赤い瞳の奥で、何かが渦巻いているようだった。
沈黙が長く続いた後、神喰いが口を開いた。
「愚かな娘よ……我に何を望む」
その問いは、花蓮が予想していたものだった。神に願いを託すために、彼女はここまで来たのだから。
しかし、いざ神喰いを前にすると、言葉が出てこない。あまりにも圧倒的な存在感に、頭が真っ白になってしまった。
「答えよ」神喰いの声に、苛立ちが混じった。
「封印を破るほどの願いを抱いていたのではないか? それとも、単なる好奇心でここまで来たのか?」
「そ、そうではありません」
花蓮はやっとのことで声を絞り出した。
「私には……どうしても叶えたい願いがあるのです」
「ほう、言ってみろ」
神喰いが腕を組んだ。その動作一つにも、圧倒的な威厳があった。
「父が病に伏せており……薬代も払えず、もう長くは……」
花蓮の声は震えていた。
「どうか父をお救いください。そして私たちの生活を……」
「金が欲しいということか?」
「はい……いえ、金だけではありません。父の病気を治していただきたいのです」
神喰いは鼻で笑った。
「人間とはいつもそれだな。金と健康。欲深く、愚かで、自分のことしか考えない」
その言葉に、花蓮は反駁したくなった。自分は父のことを思っているのであって、自分勝手ではない。しかし神喰いの前では、その思いも小さなもののように感じられた。
「しかし……」神喰いが続けた。
「久方ぶりに面白い人間が現れたということか」
花蓮は神喰いの真意を測りかねていた。この恐ろしい神は、自分の願いを叶えてくれるのだろうか。それとも、喰い殺してしまうのだろうか。
神喰いは花蓮をじっと見つめ続けていた。その赤い瞳の奥で、何かを考えているようだった。
「小娘よ、貴様は我が何者か知っているのか?」
「神喰い様……人を喰らう神だと聞いております」
「そうだ。我は神々をも喰らう存在。人間など、虫けら同然よ」
神喰いの声には、絶対的な力への確信があった。
「貴様のような小娘など、一息で灰にできる」
花蓮は全身が震えた。しかし、今更怖じ気づくわけにはいかない。
「それでも……」花蓮は勇気を振り絞った。
「それでもお願いがあります。父をお救いください。私は何でもいたします」
「何でも、か」神喰いが興味深そうな表情を見せた。
「貴様の魂を差し出すというのか?」
「はい」
即答だった。父を救うためなら、魂など惜しくない。
「ほう……」神喰いが一歩近づく。
「面白い。ならば聞こう。貴様は我に何を差し出すというのだ? 魂か? 命か? それとも……」
神喰いの言葉が途切れた。花蓮は必死に考えた。この神に何を差し出せばいいのか。お金もない、地位もない、美貌も取り立てて言うほどではない。
しかし、突然ひらめいた。母の言葉を思い出したのだ。『本当に心安らぐ人を見つけることができれば、どんな辛いことも乗り越えられる』
花蓮は桃色吐息の花を握りしめた。そして、自分でも驚くような言葉が口を衝いて出た。
「神喰い様……」
恐怖に震えながらも、花蓮は決意を込めて言った。
「私と……私と結婚してください」
神喰いの表情が凍りついた。そして次の瞬間、祠の周囲に響いたのは、神喰いの驚愕に満ちた声だった。
夜の静寂を破って、花蓮の運命を変える言葉が響いた。この瞬間から、すべてが変わり始める。
月が雲に隠れ、二人の周囲は再び闇に包まれた。しかし花蓮の心には、小さな希望の光が宿り始めていた。