3話 祠への道
翌日の昼下がり、花蓮は父の薬を求めて町の薬師を訪ねていた。しかし足を向けるのは、いつものように気が重い。町人たちの視線が、痛いほどに突き刺さるからだ。
「あら、松下のお嬢さんじゃない」
市場で野菜を選んでいると、後ろから聞こえてきた女たちのひそひそ声。花蓮は振り返らずに、手にした大根の値段を確かめる振りをした。
「可哀想にねえ。あんなに良いご家庭だったのに」
「でも康政様、お酒がお好きになられてから……」
「お母様がお亡くなりになってから、ご家運も傾いたしねえ」
声は小さいが、確実に花蓮の耳に届いている。彼女の肩がわずかに震えた。
「お嬢さん、この大根はいかがです?」
商人が愛想よく声をかけてくる。しかしその笑顔は表面的で、同情と憐みが混じっていた。昔なら丁寧に頭を下げて接客してくれた商人も、今では施しを与えるような態度だ。
「ありがとうございます。でも今日は……」
花蓮は大根を置いて、足早にその場を離れた。買い物かごは空のままだったが、もうこれ以上この場にいることに耐えられなかった。
「松下さんちも大変ねえ」
「借金があるって話よ」
「お気の毒だけど、仕方ないわよね」
背後から聞こえてくる会話が、花蓮の心を刺し続ける。かつては「旦那様」「お嬢様」と呼ばれていた一家も、今では町の話題のネタでしかない。
薬師の店に着くと、店主は困った顔をした。
「お嬢さん、申し訳ないのですが……」
「お代が払えないということですね」
花蓮は店主の言葉を先取りして言った。予想していたことだった。
「いえ、そういうわけでは……でも、正直なところ……」
店主の歯切れは悪い。信用のない客に薬を渡すのは商売上リスクが大きいのだ。
「分かりました。失礼いたします」
花蓮は頭を下げて店を後にした。父の薬も手に入らない。もう打つ手がないという現実が、重くのしかかってくる。
薬師の店を出たところで、花蓮は思いがけない人物と出会った。
「花蓮? 花蓮じゃない!」
振り返ると、幼馴染みの美佐子が立っていた。美しい着物に身を包み、髪も丁寧に結い上げている。商家の娘として嫁いだ彼女は、今では立派な奥方様だった。
「美佐子さん……」
花蓮は慌てて頭を下げた。自分のみすぼらしい身なりが、急に恥ずかしくなる。
「元気にしてた? 最近全然お会いしないから心配してたのよ」
美佐子の声は明るいが、どこかよそよそしさも感じられる。昔のような親しみやすさは、もうそこにはなかった。
「はい、おかげさまで……」
「お父様の体調はいかが? あまりお良くないと聞いたけれど」
気遣うような言葉だが、花蓮には詮索されているような感覚があった。美佐子の視線が、花蓮の擦り切れた着物の袖を見ている。
「父は……少しずつですが、回復に向かっております」
嘘だった。しかし本当のことは言えない。
「そう、良かった」
美佐子は微笑んだが、その笑顔には距離感があった。
「私も忙しくて、なかなかお邪魔できなくて申し訳ないの」
「いえ、そんな……」
沈黙が流れる。昔なら何時間でも話し続けていた二人だが、今ではほんの数分の会話でも気まずい空気が漂う。
「それじゃあ、お体に気をつけて」
美佐子は軽く会釈をして、立ち去っていく。その後ろ姿を見送りながら、花蓮は深いため息をついた。
友人たちも、もう昔の関係ではない。松下家の没落と共に、すべての人間関係が変わってしまった。孤独感が、また一層深くなる。
家に戻ると、花蓮は父の様子を見に行った。康政は相変わらず床に伏せており、顔色もすぐれない。薬がないことを告げるのが辛くて、花蓮は黙って父の枕元に座った。
「花蓮……薬は手に入ったか?」
弱々しい父の声が、花蓮の胸を締め付ける。
「はい、明日には……」
またしても嘘をついてしまった。しかし父に心配をかけるわけにはいかない。
夕食を済ませた後、花蓮は一人で庭に出た。桃色吐息の花が夕日に照らされて、美しく輝いている。しかし花蓮の心は、もはや花の美しさを素直に感じることができなかった。
「お母様……」
花蓮は花に向かって語りかけた。
「もう、人に頼ることはできません。親戚も友人も、誰も助けてはくれません」
風が吹いて、花びらが舞い散る。それは母からの答えのようにも、諦めを促すささやきのようにも聞こえた。
「神頼みしかありません。どんなに恐ろしいことが起ころうとも……」
花蓮は決意を固めた。町外れにある神喰いの祠。そこには恐ろしい神がいるという言い伝えがある。人を喰らう神、願いを叶える代わりに魂を奪う神──そんな恐ろしい話が語り継がれている。
しかし、もう他に選択肢はない。人間に見放された今、神に縋るしかない。たとえそれが恐ろしい神であろうとも。
「お父様をお救いください。そのためなら……」
花蓮は手を合わせて祈った。夜が祠へ向かう時だ。月のない闇夜を選んで、人目につかないように。
母の形見の桃色吐息を一輪摘み取って、花蓮は家の中に戻った。今夜が運命の夜になる。
夜も更けた頃、花蓮は密かに家を抜け出した。父は薬草を煎じた湯薬の効果で深く眠っており、起きる気配はない。
町を抜けて山道に入ると、辺りは完全な闇に包まれた。月は雲に隠れており、道しるべとなる明かりはほとんどない。
「怖い……」
花蓮は思わずつぶやいた。山道は昼間でも人通りが少なく、夜ともなれば獣の住処同然だ。時折、草木の擦れる音や、夜鳥の鳴き声が響いて、花蓮の心臓は高鳴る。
足下の石に躓いて、危うく転びそうになる。暗闇では道の状況がよくわからない。それでも花蓮は歩き続けた。引き返すという選択肢は、もう彼女の中には存在しない。
「お母様、どうかお守りください」
胸に抱いた桃色吐息の花に向かって祈りながら、花蓮は足を進める。母の愛が込められたこの花が、きっと自分を守ってくれる。そう信じて。
途中、狼の遠吠えが聞こえた時は、花蓮は立ち止まって身を震わせた。もしも狼に襲われたら……そんな恐怖が頭をよぎる。
しかし父の顔を思い浮かべると、恐怖よりも決意の方が勝った。父を救うためなら、どんな危険も冒す覚悟ができている。
「お父様……必ずお救いします」
花蓮は足音を忍ばせながら、暗い山道を登っていく。祠まではあと少しのはずだ。
ついに花蓮は祠のある場所にたどり着いた。雲間から月が顔を出し、古い祠の姿がぼんやりと浮かび上がる。
石造りの祠は、長年の風雨にさらされて苔むしていた。しかしその佇まいには、言いようのない重苦しさがあった。まるで何かが封じ込められているかのような、禍々しい雰囲気が漂っている。
「これが……神喰いの祠」
花蓮は祠を見上げながらつぶやいた。昼間でも薄気味悪い場所だが、夜ともなればその不気味さは倍増する。
祠の前には注連縄が張られ、お札のようなものが数多く貼られていた。封印を示すものだろう。古い文字で何かが書かれているが、花蓮には読むことができない。
風が吹くたびに、注連縄が不気味に揺れる。その音が、まるで祠の中から響いてくるうめき声のように聞こえた。
「本当に……ここに神様がいらっしゃるのでしょうか」
花蓮は不安になった。もしも神などいなかったら、この恐ろしい夜道を歩いてきた意味がない。しかし今更引き返すわけにはいかない。
祠の奥から、かすかに音が聞こえてくる気がした。石が擦れ合うような、重いものが動くような音。花蓮の背筋に冷たいものが走る。
「もしかして……」
祠の石扉に細い隙間ができているのに気づいた。長年の封印で固く閉ざされていたはずの扉が、わずかに開いている。まるで花蓮の訪問を待っていたかのように。
恐怖で足がすくんだが、花蓮は意を決して祠に近づいた。これが最後の希望なのだ。どんなに恐ろしくても、引き下がるわけにはいかない。
「神様……どうか、お姿をお現しください」
花蓮の声が、静寂な夜に響いた。その瞬間、祠の奥から何かの気配を感じ取る。冷たく、重く、そして圧倒的な存在感。
封印が、ついに破られようとしていた。
月明かりの下、花蓮の運命が大きく動き始める。祠の闇の奥で、何かが目覚めようとしていた。