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2話 母の記憶

 桃色吐息の花を見つめていると、花蓮の心は自然と幼い頃の記憶へと向かっていった。

 あの頃、この庭はどれほど美しかったことだろう。


「花蓮、こちらにいらっしゃい」


 優しい声が記憶の奥から蘇る。七歳の花蓮は、母・雅江(まさえ)の呼び声に駆け寄っていく。雅江は庭の花壇にしゃがみ込み、土に手を当てていた。その横顔は穏やかで、春の陽だまりのような温かさに満ちている。


「お母様、何をしていらっしゃるの?」


「新しいお花の種を蒔いているのよ。花蓮も一緒にやってみる?」


 小さな手が母の大きな手に包まれる。土の感触は冷たくて、少しざらざらしていた。でも母と一緒なら、それも楽しい遊びになる。


「この種から、どんなお花が咲くの?」


「桃色吐息という名前の、とても美しい花よ。花蓮のように愛らしく育ってくれるといいわね」


 雅江は娘の頭を撫でながら言った。その手は柔らかくて、花の香りがした。


「桃色吐息……変わった名前ね」


「でも素敵でしょう? この花には特別な意味があるのよ」


 母の瞳が優しく細められる。花蓮は母の言葉の一つ一つを大切に心に刻んでいく。この時の記憶は、今でも鮮明に蘇る。母の声、表情、温もり──すべてが宝物のように心の奥深くに仕舞われている。


 庭には他にも様々な花が咲いていた。牡丹、菊、梅──季節ごとに移ろう花々が、松下家の庭を彩っていた。しかし雅江が一番愛していたのは、間違いなく桃色吐息だった。


「花蓮が大きくなったら、この花の本当の意味を教えてあげるわ」


 そんなことを言っていた母の顔を、花蓮は今でも覚えている。


 花蓮が十二歳になった春のことだった。桃色吐息が美しく咲き誇る中、雅江は娘を庭に呼び出した。


「花蓮、覚えているかしら? 昔、この花に特別な意味があると言ったことを」


「はい、覚えております」


 花蓮は素直に頷いた。あれから五年、彼女は母と共に庭の手入れを続けていた。花々の名前も覚え、それぞれの育て方も身につけていた。


「桃色吐息の花言葉、それは『あなたと一緒なら心が安らぐ』というの」


 雅江は花に手を伸ばし、そっと花びらに触れた。桃色の花びらは絹のように滑らかで、朝露が宝石のように輝いている。


「心が安らぐ……」


「そう。この花を見ていると、大切な人と一緒にいる時の安らぎを思い出すのよ。花蓮、あなたはお父様と私にとって、まさにそんな存在なの」


 母の言葉に、花蓮の胸は温かくなった。家族三人で過ごす穏やかな日々。朝の食事、庭での時間、夜の団らん──すべてが当たり前で、永遠に続くものだと思っていた。


「お母様も、私にとってそんな存在です」


「ありがとう、花蓮」


 雅江は娘を優しく抱きしめた。


「でもね、人生には辛いことも起こる。悲しいことも、苦しいこともある。そんな時、この花を思い出してちょうだい」


「どうしてですか?」


「この花言葉のように、本当に心安らぐ人を見つけることができれば、どんな辛いことも乗り越えられるから」


 雅江の声には、何か予感めいたものが込められていた。まるで遠い未来を見通しているかのような、そんな響きがあった。


「お母様は、お父様がそんな方なのですね」


「ええ。あなたのお父様と一緒にいると、本当に心が安らぐの。そして花蓮、あなたもきっといつか、そんな人に出会えるわ」


 二人は桃色吐息の花を見上げた。風が吹いて、花びらが舞い散る。その光景は、まるで祝福の雨のように美しかった。


 この日の記憶は、花蓮の心に深く刻まれている。母の温かな手、優しい声、そして桃色吐息の花言葉。それらすべてが、今の花蓮を支える大切な思い出となっている。


 しかし幸せな日々は、突然終わりを告げた。花蓮が十五歳の冬、雅江は原因不明の病に倒れた。


「お母様、今日はいかがですか?」


 花蓮は母の枕元に座り、やつれた顔を見つめていた。かつて美しかった雅江の頬は痩せこけ、唇には血の気がない。それでも彼女は娘に微笑みかけようとしていた。


「花蓮……ありがとう。あなたが側にいてくれるだけで……安らぐわ」


 弱々しい声が、花蓮の胸を締め付ける。医師は首を振るばかりで、有効な治療法は見つからない。薬草を煎じて飲ませても、祈祷師を呼んでも、母の病状は悪化する一方だった。


「お母様、きっと良くなります。春になれば、また一緒に庭の手入れを……」


「花蓮」雅江は娘の手を取った。


「庭の桃色吐息は、今年も咲くかしら」


「きっと咲きます。お母様が大切に育ててくださった花ですもの」


「そう……良かった」雅江は安堵の表情を見せた。「花蓮、お願いがあるの」


「なんでもおっしゃってください」


「私がいなくなっても、あの花だけは大切にして。そして……」


 雅江は一呼吸置いた。


「この花言葉を忘れないで。『あなたと一緒なら心が安らぐ』──きっとあなたにも、そんな人が現れる」


 花蓮は涙をこらえようとしたが、頬を伝う雫を止めることはできなかった。母は自分の死期を悟っている。それがどれほど辛いことか、花蓮には痛いほどわかった。


「お母様、そんなこと言わないでください」


「花蓮……あなたは強い子。きっと幸せになれる」


 雅江の手は、もうほとんど力がなかった。しかしその手の温もりは、確かに娘に伝わっている。


「お父様を支えてちょうだい。そして自分も大切に……」


 母の声はだんだん小さくなっていく。花蓮は母の手を両手で包み、その温もりを記憶に刻もうとした。


 窓の外では雪が舞っている。静寂な冬の夜に、母娘の最後の会話が続いていた。



 雅江が息を引き取ったのは、その三日後のことだった。穏やかな表情で、まるで眠っているかのように。花蓮は母の最期を看取りながら、胸の奥に大きな穴が空いたような感覚に襲われた。


 葬儀には多くの人が参列した。雅江は近所でも慕われており、その死を悼む声が絶えなかった。しかし花蓮にとって、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。


「花蓮さん、お母様は本当に良い方でした」


「心よりお悔やみ申し上げます」


 参列者たちの言葉が、花蓮の耳を素通りしていく。彼女の心は空っぽで、何も感じることができなかった。


 康政も深い悲しみに沈んでいた。愛する妻を失った喪失感は、彼を酒に向かわせた。花蓮は一人で葬儀の準備を整え、母を送り出すことになった。


 棺が土に埋められる時、花蓮は桃色吐息の花を一輪、母の胸に添えた。この花が母との最後の絆になる。そんな思いを込めて。


「お母様、ありがとうございました」


 小さくつぶやいた言葉は、風に運ばれて消えていく。雅江の温かな笑顔、優しい手、そして桃色吐息の花言葉──すべてが今は記憶の中にしかない。


 葬儀が終わり、人々が去った後、花蓮は一人庭に立っていた。雪に覆われた庭は静寂に包まれ、桃色吐息の木だけが寒風に耐えている。


 この日から、花蓮の本当の孤独が始まった。父は酒に溺れ、家の財政は悪化の一途を辿る。そして花蓮自身も、心の扉を閉ざしていくことになる。




 記憶から現実に戻ると、花蓮は桃色吐息の花の前に佇んでいた。あれから三年が経ち、この花だけが母との思い出を繋いでくれている。


「お母様……」


 花蓮は花に向かって語りかけた。枯れかけた葉もあるが、それでも花は美しく咲いている。まるで母の愛情が、今でも花蓮を見守っているかのように。


「あなたと一緒なら心が安らぐ……」


 花言葉をつぶやきながら、花蓮は自分の胸に手を当てた。母がいた頃の安らぎを、彼女は失ってしまった。父は病に伏し、頼れる人は誰もいない。


「お母様が言った通り、私にもそんな人が現れるのでしょうか」


 風が吹いて、花びらが一枚舞い散る。それは母からの答えのようにも見えた。


 花蓮は決意を新たにした。明日の夜、祠に向かう。神に願いを託し、この絶望的な状況を変えてもらう。それが最後の希望だった。


 母の思い出と共に、花蓮は新たな運命に向かって歩き始めようとしていた。桃色吐息の花が、静かに彼女の決意を見守っている。


 夜が更け、月が庭を照らしている。母の魂が宿るこの花の下で、花蓮は祈りを込めて手を合わせた。


「お母様、どうか私をお導きください」


 母への想いを胸に、花蓮の運命の歯車が静かに回り始めた。

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