19話 不動の誓い
夜明け前の静寂な時間、花蓮は祠の前で膝を抱えて座り続けていた。一睡もしていない彼女の目は赤く腫れているが、その瞳には固い決意が宿っていた。
「お母様……」
花蓮は胸の桃色吐息の花に向かって語りかけた。
「私は、焔様を諦めません」
昨夜の激しい口論を思い返しながら、花蓮は自分の気持ちを整理していた。
「焔様は傷ついていらっしゃるのです。澪様に裏切られた痛みが、まだ癒えていないのです」
風が吹いて、花びらが一枚舞い散った。まるで母が娘の言葉に頷いているかのように。
「でも、私は澪様とは違います。どんなことがあっても、焔様を見捨てたりしません」
花蓮は立ち上がった。朝日が昇り始め、新しい一日が始まろうとしている。
「焔様がどれほど冷たく接しようとも、私は焔様の隣にいます。それが愛するということです」
花蓮の決意は揺らがない。愛する人を支えることが、妻としての役目だと信じていた。
祠の奥から、かすかに気配を感じた。焔も眠れずにいるのだろう。
「焔様……」
花蓮は祠に向かって歩いて行った。たとえ拒絶されても、自分の気持ちを伝えなければならない。
それが今の花蓮にできる、唯一のことだった。
祠の前に立った花蓮は、深呼吸をして声をかけた。
「焔様、お話があります」
しばらく沈黙が続いたが、やがて焔が姿を現した。その表情は相変わらず冷たく、昨夜の怒りが残っている様子だった。
「まだ何か言うことがあるのか?」
焔の声は素っ気ない。しかし、花蓮は怯まなかった。
「はい。どうしてもお伝えしたいことがあります」
「聞く気はない」
焔が背を向けようとした時、花蓮の声が響いた。
「私は、焔様の隣にいます」
その言葉に、焔の足が止まった。
「何を言っている?」
「焔様がどこに行こうとも、何をしようとも、私は焔様の隣にいます」
花蓮の声は静かだったが、強い意志が込められていた。
「愚かなことを……」
「愚かでも構いません」花蓮が一歩前に出る。
「私は焔様の妻です。夫のそばにいるのは当然のことです」
焔は振り返った。その瞳に、困惑の色が見えた。
「貴様は我を理解していない。我は人間を憎んでいる」
「わかっています」
「ならば何故……」
「焔様が人間を憎むのも、人々に復讐したいと思うのも、理解できます」
花蓮の言葉に、焔は驚いた。
「でも、それでも私は焔様を愛しています」
「何故だ? 何故そこまで……」
「愛に理由は必要ありません」花蓮が微笑んだ。
「私は焔様のすべてを愛しているのです。優しいところも、怒っているところも」
焔は言葉を失った。
「だから、もし焔様が復讐をなさるなら、私も一緒についていきます」
花蓮の宣言に、焔は動揺を隠せなかった。
「一緒についてくるだと?」
「はい」
「貴様は人間だぞ? 同族を裏切るのか?」
花蓮は首を振った。
「裏切るのではありません。ただ、焔様を選ぶのです」
「選ぶ……」
「私にとって一番大切なのは焔様です。他の人がどう思おうと、関係ありません」
焔の心が激しく揺れた。この小娘は、本当に自分を選ぼうとしている。人間であることを捨ててまで。
「でも……」花蓮が続けた。
「できることなら、復讐はやめていただきたいのです」
「やはりか」焔の表情が再び険しくなった。
「結局、貴様も……」
「違います」花蓮が強い口調で言った。
「私は焔様のことを思って申し上げているのです」
「我のことを?」
「はい。復讐をなさっても、焔様の心の傷は癒えません。むしろ、もっと深く傷つくことになります」
焔は花蓮を見つめた。その瞳には、純粋な愛情が宿っている。
「澪様の時も、きっとそうだったのでしょう。復讐できなかったから、その痛みがずっと残っているのです」
焔の呼吸が荒くなった。図星だった。
「でも、今度は違います」花蓮が一歩近づく。「私がいます。焔様の痛みを癒すのは、復讐ではなく愛です」
「愛で……癒せるというのか?」
「はい。私の愛で、焔様の心を満たして差し上げます」
焔の瞳に涙が浮かんだ。長年の孤独と痛みが、ゆっくりと溶け始めている。
「花蓮……」
焔の声が震えていた。
「私は間違っていたかもしれない」
焔がついに認めた。
「人間への憎しみに囚われて、一番大切なものを見失うところだった」
「焔様……」
「貴様だ」焔が花蓮を見つめる。
「我にとって一番大切なのは、貴様だ」
花蓮の目に涙が浮かんだ。
「我も同じです」
「すまなかった、花蓮」焔が頭を下げる。
「貴様を疑い、冷たく当たって」
「いえ、私こそ」花蓮が首を振る。
「焔様のお気持ちを理解しようとしないで」
二人は見つめ合った。昨夜の対立が嘘のように、愛情が戻ってきている。
「花蓮」
「はい」
「貴様の言う通りだった。復讐では何も解決しない」
焔の告白に、花蓮は安堵した。
「我は貴様の愛で十分だ。他に何も要らない」
「焔様……」
焔が花蓮の手を取った。
「約束しよう。もう人間に復讐などしない」
「本当ですか?」
「ああ。その代わり……」
「何でしょうか?」
「貴様は我のそばを離れるな。永遠に」
花蓮は微笑んだ。
「もちろんです。私は焔様の妻なのですから」
二人は抱き合った。昨夜の嵐が去り、再び愛情が二人を包んでいる。
「我たちは強いな」焔がつぶやく。
「はい。どんな困難も、一緒なら乗り越えられます」
花蓮の言葉に、焔は頷いた。
愛の力は、憎しみよりも強い。二人はそれを改めて実感していた。
和解した二人は、祠の前で並んで座っていた。朝日が二人を温かく照らし、平和な時間が流れている。
「これからどうしようか?」
焔の問いに、花蓮は考えてから答えた。
「まずは、子供たちの病気を治すことから始めませんか?」
「子供たちの?」
「はい。旧き神々を倒すのは難しいでしょうが、病気なら焔様の力で……」
焔は花蓮の提案を検討した。
「できないことはないが……人間どもは我を恐れるだろう」
「私がついています」花蓮が微笑む。「大丈夫です」
焔は頷いた。
「わかった。やってみよう」
「ありがとうございます」
花蓮の嬉しそうな表情を見て、焔の心も軽くなった。
「しかし」焔が真剣な表情になる。
「旧き神々の脅威は残っている」
「はい」
「やつらは必ず我たちを狙ってくる。その時は……」
「その時も、私は焔様の隣にいます」
花蓮の言葉に、焔は微笑んだ。
「頼もしい妻だ」
「焔様の妻ですから」
二人は手を取り合った。これから待ち受ける試練がどれほど困難でも、一緒なら乗り越えられる。
しかし、その時はもうすぐそこまで迫っていた。
空の向こうから、不気味な雲が近づいてきている。旧き神々の脅威が、ついに現実のものとなろうとしていた。
「来るな……」
焔が空を見上げながらつぶやいた。
「何がですか?」
「旧き神々だ。もうすぐここに……」
焔の言葉が終わらないうちに、辺りが急に暗くなった。昼間だというのに、まるで夜のような闇が空を覆っている。
「ついに来たか……」
焔が立ち上がった。最終決戦の時が迫っている。
「花蓮、我から離れるな」
「はい」
花蓮も立ち上がり、焔の隣に並んだ。
どんな敵が現れようとも、二人なら必ず勝てる。愛の力を信じて。
雷鳴が響き、嵐の幕が上がろうとしていた。
しかし、二人の絆はもう揺らぐことはない。試練を乗り越えて、さらに強固になった愛が、これからの戦いを支えるのだった。
桃色吐息の花が風に揺れて、二人の勇気を讃えているようだった。
最後の戦いが、始まろうとしていた。




