18話 裏切りの痛み
町での出来事から一夜明けても、焔の怒りは収まっていなかった。祠の周囲には重苦しい雰囲気が漂い、彼の纏う黒い炎がその感情の激しさを物語っていた。
「やはり人間は信用できない」
焔は石段に座り、拳を握りしめていた。
「我が澪に裏切られた時と、何も変わらない。結局、人間は自分たちの都合で他者を糾弾し、暴力を振るう」
花蓮は焔の隣で静かに座っていたが、その言葉を聞いて胸が痛んだ。
「焔様……」
「昨日の貴様の姿を見て、我は思い知った」
焔の声に怒りが込もる。
「人間など、やはり愚かで残酷な生き物だ」
「そんなことはありません」
花蓮が反論すると、焔は冷たい瞳で彼女を見つめた。
「そんなことはない? 貴様はあれほど酷い目に遭わされたのだぞ?」
「でも、皆さんは怖かっただけです。子供たちが病気になって、不安で……」
「言い訳をするな!」
焔が怒鳴った。その声に、花蓮は身を縮めた。
「恐怖が暴力を正当化するというのか? 貴様に石を投げることが許されるというのか?」
花蓮は言葉に詰まった。確かに焔の言う通りだった。
「我はもう人間を信じない」焔が立ち上がった。「あの者どもに思い知らせてやる」
「思い知らせるって……」
「報復だ」
焔の瞳に復讐の炎が燃えていた。
「我を怒らせた報いを、身をもって味わわせてやる」
花蓮は恐怖を覚えた。焔が本気で人間への報復を考えている。
「焔様、お待ちください」
花蓮が焔の前に立ちはだかった。
「町の人々に何かするのはやめてください」
「何だと?」
焔が信じられないものを見るような目で花蓮を見つめた。
「貴様は、自分を傷つけた者たちを庇うというのか?」
「庇うのではありません。でも……」
「でも、何だ?」
「あの人たちも、大切な家族を持つ人たちです。子供たちを心配する親たちです」
焔は呆れたように首を振った。
「愚かな小娘だ。どこまでお人好しなのだ」
「お人好しではありません。ただ……」
「ただ、何だ?」
花蓮は言葉を選びながら答えた。
「もし焔様が人々を傷つけたら、私はとても悲しいです」
焔の表情が変わった。
「悲しい? 貴様を傷つけた者どもに報復することが、そんなに嫌なのか?」
「はい」
花蓮の即答に、焔は衝撃を受けた。
「何故だ? 何故そこまで人間を庇う?」
「私も人間だからです」
その言葉に、焔の心に氷の刃が刺さったような感覚があった。
「そうか……貴様も結局、人間の味方なのだな」
「そういう意味ではありません」
「いや、よくわかった」
焔が冷たく言った。
「貴様も、いざとなれば人間の側につく。澪と同じだ」
「焔様!」
「もう十分だ。我から離れろ」
焔は花蓮から背を向けた。
「これ以上、貴様の偽善に付き合う気はない」
花蓮は愕然とした。焔が自分を突き放そうとしている。
「偽善なんかではありません!」
花蓮が声を上げた。
「私は本当に、焔様のことを思って……」
「我のことを思って?」焔が振り返る。「ならば何故、我の敵を庇う?」
「敵って……」
「あの人間どもは、貴様を傷つけた。つまり、我の敵だ」
焔の論理は明快だった。しかし、花蓮には受け入れ難いものだった。
「でも、復讐をすることで、焔様の心が癒されるのでしょうか?」
「癒される?」焔が嘲笑を浮かべた。
「甘いことを言うな。復讐は癒しのためではない。正義のためだ」
「正義……」
「そうだ。悪には報いが必要だ」
二人の価値観は、完全に対立していた。
「私には理解できません」花蓮が首を振る。
「復讐が正義だなんて」
「ならば貴様は何も理解していない」焔が冷たく言った。
「世の中の現実を何も知らない、甘ったれた小娘だ」
その言葉は、花蓮の心を深く傷つけた。
「甘ったれた小娘……ですか」
「そうだ。現実を見ろ。人間は残酷で身勝手な生き物だ。優しさなど通用しない」
花蓮は涙を浮かべていた。しかし、その涙は悲しみよりも、焔への失望からくるものだった。
「焔様は変わってしまわれたのですね」
「何?」
「優しかった焔様は、どこに行ってしまったのでしょう」
花蓮の言葉に、焔は動揺した。
「我は変わっていない。ただ現実を見ているだけだ」
「違います」花蓮がはっきりと言った。
「焔様は、また昔の冷たい神に戻ろうとしている」
焔は言葉を失った。
長い沈黙が流れる。二人とも、相手の言葉を受け入れることができ
夕刻になっても、二人の間の空気は重いままだった。焔は祠の奥に引きこもり、花蓮は外で一人座っていた。
「お母様……」
花蓮は桃色吐息の花に向かって語りかけた。
「私は間違っているのでしょうか……」
風が吹いて、花びらが舞い散る。しかし、今夜はその美しさも花蓮の心を慰めてはくれない。
「焔様と初めて、こんなにも意見が対立してしまいました」
花蓮は自分の選択に確信を持てずにいた。町の人々を庇うことは正しいのか。それとも焔の言う通り、甘い考えなのか。
祠の奥からは、焔の気配も感じられない。彼もまた、混乱しているのかもしれない。
「私たちの愛は……これで終わりなのでしょうか」
花蓮の目から涙が落ちる。せっかく結ばれた心が、また離ればなれになってしまうのだろうか。
一方、祠の奥で焔も苦悩していた。
「何故だ……何故あの小娘は、自分を傷つけた者たちを庇う」
焔には花蓮の行動が理解できなかった。
「澪もそうだった。最後には人間の側についた」
焔は過去の記憶に苛まれていた。愛した女性に裏切られた痛みが、再び心を支配している。
「やはり人間は信用できない。花蓮も例外ではないのか……」
しかし、その考えを否定したい気持ちもあった。花蓮は澪とは違う。そう信じたい気持ちが、心の奥にあった。
「だが、現実は……」
焔は拳を握りしめた。愛と不信の間で揺れ動く心を、制御できずにいた。
夜が更け、月が雲に隠れて闇が深くなった。花蓮は祠の前で膝を抱えて座り続けていた。
「焔様……」
小さくその名前を呼んでみたが、返事はない。
「私は焔様を愛しています」
花蓮は闇に向かって語りかけた。
「たとえ焔様が私を突き放そうとも、その気持ちは変わりません」
風が冷たく吹いて、花蓮の髪を揺らした。
「でも、復讐だけはやめてください。お願いします」
祠の奥から、かすかに気配が動いた。焔が聞いているのかもしれない。
「焔様が人を傷つけるところなど、見たくありません。焔様は、そんな方ではないはずです」
花蓮の声は震えていたが、その想いは確固としていた。
「私がどんなに嫌われても構いません。でも、焔様には優しいままでいてほしいのです」
涙が頬を伝い落ちる。
「それが……それが、私の本当の願いです」
花蓮の言葉が、静寂な夜に響いた。
祠の奥で、焔はその言葉を聞いていた。花蓮の純粋な愛情に、心が動かされそうになる。
しかし、同時に怒りも湧き上がる。なぜこの小娘は、自分を傷つけた者たちのことばかり心配するのか。
「愚かな女だ……」
焔はつぶやいた。しかし、その声には以前のような冷たさはなかった。
愛と憎しみ、信頼と不信——相反する感情が焔の心を引き裂いている。
花蓮への愛は本物だ。しかし、人間への不信もまた本物だった。
この矛盾した感情を、どう解決すればよいのか。焔にも答えは見つからなかった。
夜が静かに更けていく。二人の間に横たわる溝は、深く暗いものだった。
しかし、どちらも相手への愛を諦めてはいない。ただ、その愛をどう表現すればよいのか、わからずにいるだけだった。
明日、二人の関係はどうなるのだろうか。嵐はまだ続いている。そして、最も激しい雷鳴は、これから響くのかもしれない。




