14話 触れ合う心
前夜の告白から一夜明け、祠の周りには穏やかな朝の光が差し込んでいた。花蓮は焔の隣で眠りから覚め、昨夜の出来事が夢ではなかったことを確認した。
焔の寝顔は、これまで見たことがないほど安らかだった。長年の苦悩から解放されたかのように、穏やかな表情を浮かべている。
「おはようございます、焔様」
花蓮が小さく声をかけると、焔はゆっくりと目を開いた。その瞳には、もう以前のような冷たさはない。
「おはよう……花蓮」
焔の声は驚くほど優しかった。「様」を付けずに名前を呼ばれて、花蓮の心は温かくなる。
「よく眠れたか?」
「はい。焔様がそばにいてくださったお陰で、とても安らかに眠れました」
花蓮の答えに、焔の口元に微かな笑みが浮かんだ。
「我もだ。久方ぶりに、悪夢を見ることなく眠ることができた」
焔が立ち上がり、花蓮に手を差し伸べる。その手を取って立ち上がった花蓮は、焔の手の温かさに胸が躍った。
「今日は何をしようか?」
焔の問いかけに、花蓮は驚いた。いつもなら自分が焔の世話を申し出るのに、今日は焔の方から尋ねてくれている。
「何でも焔様のお好きなことを」
「それなら……貴様と話していたい」
焔の言葉に、花蓮の頬がほんのりと染まった。
「私も、焔様ともっとお話ししたいです」
二人は祠の前に腰を下ろし、並んで座った。昨日までとは全く違う、親密な雰囲気が二人を包んでいる。
「花蓮」
焔が改まって声をかけた。
「何でしょうか?」
「我は……愛を表現するということがわからない」
焔の正直な告白に、花蓮は微笑んだ。
「昨夜、貴様への想いを伝えたが、どうすれば貴様を幸せにできるのかがわからないのだ」
「焔様……」
「教えてくれ。我に何ができる?」
焔の真摯な問いかけに、花蓮の胸は愛おしさで満たされた。
「そのお気持ちだけで、もう十分幸せです」
「それだけでは足りない」焔が首を振る。「貴様は我のために多くのことをしてくれた。我も何か……」
「では」花蓮が遠慮がちに言った。「時々、お名前で呼んでいただけませんでしょうか」
「名前で?」
「はい。焔様が私の名前を呼んでくださる時、とても嬉しいのです」
焔は少し戸惑ったような表情を見せたが、すぐに頷いた。
「花蓮」
「はい」
「花蓮」
「はい、焔様」
「……花蓮」
三度目に名前を呼ばれた時、花蓮の目に涙が浮かんだ。
「どうした? 何か辛いことでも……」
「いえ、嬉しいのです」花蓮が涙を拭いながら微笑む。「こんなに優しく名前を呼んでもらえて」
焔は困惑した。人間の感情は複雑で、時として理解し難い。しかし、花蓮の涙が喜びの涙だということはわかった。
「貴様は不思議な小娘だ」
焔が苦笑する。その表情も、以前とは全く違って優しいものだった。
「私も、焔様のことがよくわからないことがあります」花蓮が笑って答える。
「でも、それでいいのです。少しずつ、お互いを知っていけば」
焔は頷いた。急ぐ必要はない。時間をかけて、ゆっくりと愛を育んでいけばよいのだ。
午後、二人は庭の桃色吐息の花を見に行った。花は満開で、美しい花びらが風に舞い散っている。
「美しい花だ」
焔がつぶやいた。以前なら花など興味も示さなかったのに、今では素直に美しさを認めている。
「お母様が愛した花です」
花蓮が花に手を伸ばす。
「この花を見ていると、お母様を思い出します」
「母上に会ってみたかった」
焔の言葉に、花蓮は振り返った。
「お母様に?」
「ああ。貴様をこれほど素晴らしい女性に育ててくれた方だ。きっと美しい心の持ち主だったのだろう」
花蓮の目に、再び涙が浮かんだ。
「お母様もきっと、焔様を気に入ってくださったでしょう」
「そうだろうか?」
「間違いありません」
花蓮が確信を込めて言う。
「お母様は、私を愛してくれる方なら誰でも歓迎してくださったから」
風が強く吹いて、たくさんの花びらが舞い散った。桃色の花びらが二人の周りを舞い踊り、まるで祝福の雨のようだった。
「まるで母上が祝福してくれているみたいだ」
花蓮が手を伸ばして花びらを受け止める。その姿を見つめる焔の瞳には、深い愛情が宿っていた。
「花蓮」
「はい」
「我と契約したことを、後悔していないか?」
突然の問いに、花蓮は首を振った。
「後悔など、一度もしたことがありません」
「人間社会から孤立し、友人も失った。それでも?」
「それでもです」花蓮がはっきりと答える。
「焔様と出会えたのですから」
焔の胸が熱くなった。この小さな人間の女は、どこまでも自分を愛してくれる。
「我も同じだ」焔が言った。
「貴様と出会えて……生まれて初めて、生きていてよかったと思えた」
二人は見つめ合った。舞い散る花びらが、二人の愛を祝福しているかのようだった。
夕刻、二人は祠の前で並んで座っていた。西日が二人を照らし、幻想的な光景を作り出している。
「焔様」
「何だ?」
「私、最初は焔様を恐ろしい神様だと思っていました」
花蓮が恥ずかしそうに告白した。
「当然だ。我は神喰いだからな」
「でも、今では……」
花蓮の頬が赤く染まる。
「今では?」
「焔様が、世界で一番素敵な方だと思っています」
花蓮の告白に、焔は動揺した。
「世界で一番……そんな大げさな」
「大げさではありません」
花蓮が真剣な表情で続ける。
「焔様は強くて、優しくて、美しくて……私には勿体ないくらい素敵な方です」
焔は言葉を失った。このような賛美を受けたことなど、生まれて初めてだった。
「我は……恐ろしい神だぞ?」
「私には、とても優しい神様です」
花蓮の純粋な言葉に、焔の心は大きく揺れた。
「花蓮……我は貴様に恋をしているのかもしれない」
焔の告白に、花蓮は息を呑んだ。
「恋……」
「ああ。貴様のことばかり考え、貴様の笑顔を見ていたいと思う。これが恋というものなのだろう?」
花蓮の心は喜びで弾けそうだった。
「私もです」
「何?」
「私も、焔様に恋をしています」
二人は見つめ合った。恋という感情を、初めて口にした瞬間だった。
「不思議だな」焔がつぶやく。
「神である我が、人間に恋をするとは」
「でも、素敵なことです」花蓮が微笑む。
「恋は、種族を超えるのですね」
焔も微笑んだ。数百年ぶりの、心からの笑顔だった。
夜が深まり、星空が二人を見下ろしていた。今夜は特別に美しい夜空で、無数の星が輝いている。
「綺麗ですね」
花蓮が空を見上げながら言った。
「ああ」
焔も同じように空を見上げる。しかし、彼の視線は時折花蓮に向けられていた。
「焔様」
「何だ?」
「これからも、ずっと一緒にいてください」
花蓮の願いに、焔は即座に答えた。
「当然だ。我は貴様を離さない」
「私も、焔様のそばを離れません」
二人は手を取り合った。神と人間、本来なら相容れないはずの存在が、愛によって結ばれている。
「契約などもう関係ない」焔が言った。
「我は貴様を愛している。それだけだ」
「私もです。焔様を愛しています」
星空の下で交わされた愛の誓いは、どんな契約よりも強い絆となった。
「花蓮」
「はい」
「我の妻になってくれ。今度は契約ではなく、愛のために」
焔のプロポーズに、花蓮の目に涙が浮かんだ。
「喜んで」
二人は抱き合った。温かい体温が伝わり合い、二つの心が完全に一つになった瞬間だった。
桃色吐息の花びらが風に舞い、二人の愛を祝福している。母の霊も、きっと天国から二人を見守っているだろう。
恐怖から始まった契約は、真実の愛へと昇華した。神喰いと人間の少女の、奇跡のような愛の物語が、新たな段階を迎えたのだった。
月が二人を優しく照らし、永遠の愛を誓う夜となった。これまでの苦悩も孤独も、すべてはこの瞬間のためにあったのかもしれない。
愛に満たされた二人の前には、希望に満ちた未来が広がっていた。




