13話 神食いの過去
前夜の告白の後、焔は長い沈黙に包まれていた。花蓮が昔の巫女について尋ねた時、彼の表情には深い苦悩が宿っていた。
「焔様……」
花蓮が心配そうに声をかけたが、焔は答えない。祠の石段に座り、遠い空を見つめ続けている。
「お辛い思い出でしたら、無理にお話しいただかなくても……」
「いや」焔がついに口を開いた。
「もう隠すことはない。貴様には、すべてを知る権利がある」
焔の声には、覚悟が込められていた。長年封じ込めてきた記憶を、ついに誰かに打ち明ける時が来たのだ。
「我の過去を聞けば、貴様も我を恐れるかもしれない」
「そのようなことはありません」
花蓮が即座に答えた。
「私は焔様を信じています」
焔は花蓮の真っ直ぐな瞳を見つめた。この小娘の揺るぎない信頼が、彼の心を支えている。
「ならば……聞くがよい」
焔は深く息を吸った。数百年間、誰にも語ったことのない真実を話す準備を整えている。
「我がどのようにして神喰いとなったのか、その始まりを」
夜風が吹いて、祠の周囲を包む。重苦しい空気の中で、焔の告白が始まろうとしていた。
「かつて……我を信じると言った者がいた」
焔の声が、夜の静寂に響いた。
「その名を澪といった。村一番の美しい巫女で、心も清らかだった」
焔の瞳に、遠い記憶が宿る。
「我は当時、まだ神喰いではなかった。ただの山の神として、人々の信仰を受けていた」
花蓮は息を呑んだ。焔にも、普通の神として過ごしていた時代があったのだ。
「澪は毎日のように我の元を訪れ、祈りを捧げてくれた。他の人間とは違って、我を恐れることもなく、心を込めて接してくれた」
焔の声に、懐かしむような響きがあった。
「澪は桃色吐息の花を愛していた。神殿の庭に植え、毎日手入れをしていた。『この花の花言葉のように、焔様といると心が安らぎます』そう言って微笑んでくれた」
花蓮の胸が締め付けられた。まるで自分と同じことを言っているような気がする。
「我もまた、澪といることで初めて愛を知った。人を慈しむ心、誰かのために何かをしたいという気持ち――それらすべてを、澪が教えてくれた」
「それは……美しいお話ですね」
花蓮が小さく言った。しかし、焔の表情は曇ったままだった。
「しかし、それは長くは続かなかった」
焔の声が急に冷たくなった。悲劇の始まりを語る準備をしているのだ。
「村に災いが降りかかった時、すべてが変わった」
「ある年の夏、村を疫病が襲った」
焔の声が重く響く。
「多くの人が死に、田畑も枯れ果てた。人々は神の怒りだと考え、我に助けを求めてきた」
焔は拳を握りしめた。その時の記憶が、今でも彼を苦しめている。
「我は人々を救おうとした。神の力を使って病を治し、田畑を蘇らせようと」
「それは素晴らしいことです」花蓮が言った。
「焔様の優しさの現れです」
「だが、神の力には代償が伴う」
焔が苦々しく続けた。
「我が人間を救えば救うほど、我自身が変わっていった」
「変わった?」
「神の力を使いすぎた我は、やがて他の神々の力をも吸収するようになった。それが神喰いの始まりだった」
焔の告白に、花蓮は震えた。焔が神喰いになったのは、人々を救おうとしたからなのか。
「最初は小さな変化だった。しかし、やがて我の姿も恐ろしく変わり、人々は我を恐れるようになった」
「澪様は……」
「澪だけは、最後まで我を信じてくれた」
焔の声に、痛みが滲んだ。
「変わり果てた我の姿を見ても、『あなたは私の知っている優しい焔様です』と言ってくれた」
花蓮の目に涙が浮かんだ。澪という女性の愛の深さが痛いほど伝わってくる。
「しかし、村の人々の恐怖は限界に達した。神喰いとなった我は、村にとって災いの象徴となった」
焔の拳から血が滲んでいる。爪が食い込むほど強く握りしめているのだ。
「そして、ついにその日が来た」
焔の声が震えた。最も辛い記憶を語る時が来たのだ。
「村の長老たちが澪の元を訪れ、言ったのだ。『神喰いを封印する儀式に参加せよ。でなければ村が滅ぶ』と」
「澪は拒んだ」焔が続けた。
「『焔様は悪い神ではありません。きっと誤解です』
と必死に弁護してくれた」
花蓮は焔の痛みを、自分のことのように感じていた。
「しかし、村人たちの説得は執拗だった。『お前の家族も、恋人も、すべて神喰いに喰われるぞ』『村を救えるのはお前だけだ』――そのような言葉で澪を追い詰めた」
「ひどい……」花蓮が思わずつぶやいた。
「澪は苦しんだ。我への愛と、村人たちへの責任の間で」
焔の声が震えている。
「そして、ついに澪は折れた。涙を流しながら、封印の儀式への参加を承諾した」
「澪様……」
「儀式の夜、澪は我の元を訪れた。桃色吐息の花を手に、涙を流しながら」
焔の瞳から、一筋の涙が流れた。神が涙を流すなど、滅多にあることではない。
「『許してください、焔様。私は……私は弱い人間です』――そう言って謝り続けた」
花蓮も涙を流していた。澪の苦しみ、焔の痛み、そのすべてが胸に響いてくる。
「我は何も言えなかった。澪を責めることなど、できるはずがない」
「焔様……」
「『愛しています』――それが澪の最後の言葉だった」
焔の声が途切れた。長い沈黙が流れる。
「儀式が始まると、我は抵抗しなかった。澪を苦しめたくなかったからだ」
「それで封印されたのですね」
「そうだ。そして数百年間、孤独の中で澪への想いだけを抱き続けた」
焔の告白を聞いて、花蓮は彼の人間不信の深さを理解した。最も愛した人に裏切られた痛みは、想像を絶するものだったろう。
「だから我は、もう二度と人間を信じまいと誓った」
焔が花蓮を見つめた。
「だが……」
「貴様は澪に似ている」
焔が静かに言った。
「同じように桃色吐息を愛し、同じように我を恐れない。だから最初は混乱した」
「私は……私は澪様の代わりではありません」
花蓮がはっきりと言った。
「私は花蓮です。焔様を愛する、ただの人間です」
焔は驚いたような表情を見せた。
「澪様は確かに焔様を愛していらしたでしょう。でも、周りの圧力に負けてしまった。それは澪様の弱さかもしれませんが、愛がなかったわけではありません」
花蓮の言葉に、焔は耳を傾けている。
「私も弱い人間です。でも、一つだけ澪様と違うことがあります」
「何だ?」
「私には、もう失うものがほとんどありません」
花蓮が微笑んだ。
「だから、どんなに周りが反対しても、焔様の味方でいられます」
焔は息を呑んだ。
「友人も、親戚も、みんな私を避けています。でも構いません。焔様がいてくださるから」
「花蓮……」
「澪様は村全体と焔様の間で悩まれました。でも私は違います。私にとって一番大切なのは焔様だけです」
花蓮の告白に、焔の心は激しく動いた。
「澪様の分まで、私が焔様を愛します。だから、もう悲しまないでください」
焔は立ち上がると、花蓮の前に跪いた。
「花蓮……我は……」
「はい」
「澪を愛していた時以上に、貴様を愛している」
焔の告白に、花蓮の心は喜びで満たされた。
「我もだ」花蓮が微笑む。「焔様を、誰よりも愛しています」
二人は互いを見つめ合った。過去の痛みを乗り越えて、新しい愛が生まれた瞬間だった。
風が吹いて、桃色吐息の花びらが舞い散る。澪の愛も、花蓮の愛も、同じようにこの花に込められている。しかし今度は、誰にも引き裂かれることのない、永遠の愛として。
「ありがとう、花蓮」
焔が彼女の手を取った。初めて触れる焔の手は、温かかった。
「私こそ、ありがとうございます。過去をお話しくださって」
二人の心は、ついに完全に通じ合った。神喰いの孤独な過去も、花蓮の純粋な愛によって癒される時が来たのだ。
月が二人を照らし、新しい愛の物語が静かに始まっていた。




