第8話 流れ星の予告
昼の熱気は、校舎の壁で一度跳ね返ってから廊下に溜まる。
美月はそのぬるい層を抜けて、理科棟の一番奥へ向かった。
「天文部」。ドアの隙間から、いつもの扇風機の風と、マーカーのインクの匂い。
白板には、大きく四つの見出し。
① いつ:8/12→13 深夜~明け方(極大帯)
② どこ:北東(放射点=ペルセウス座)※空全体を広く
③ どうやって:暗順応15分/寝転ぶ/数える
④ 何を持つ:敷物・上着・虫よけ・飲み物・赤ライト
望月先輩が、黒ペンで“流れ星の絵”を小さく描き足した。
柏木先輩はチェックリストを握り、新堂はブルーシートを肩に担いだまま「蚊取り線香は校則NG!」と自分に言い聞かせている。
「ペルセウス座流星群は、毎年この時期。放射点は北東、Wの形のカシオペヤの下あたり。
でもね、視線は真上~広く。放射点ばかり見ても、もったいない」
望月先輩の声は、授業より柔らかいが、要点はぴしっとしている。
白板の端に、さらりともう一行。
“予約不可・早退不可・待つのが仕事”
「……“早退不可”?」
笑ってしまう。
望月先輩も笑って、黒ペンを回した。
「最初の十五分は、目を暗さに合わせる時間。ここでスマホの白い光を見ると“最初からやり直し”。
だから赤フィルム。音量はOFF。
それから、姿勢。座るより寝転ぶのがいちばん。首を守るクッションがあると最高」
柏木先輩が、持ち物ボックスから小さな空気枕を取り出して見本を見せる。
新堂は手を挙げる。
「数えるって、どうやるんですか?」
「一人一分法でいい。タイマーを合わせて“今の一分で何個”って記録。五回やれば統計っぽくなる。
紙は——これ」
配られたのは、部長手作りの小さな観測カード。
日付・時刻・方角・体感の空の暗さ(5段階)・一分の個数・“ひとこと”欄。
ひとこと例:長い尾/遅い/痕が残る/同時に二つ/“音が変わった気がした”
美月はカードの手触りを確かめ、胸が静かに高鳴るのを感じた。
“ひとこと”欄があるだけで、空が言葉を待っているように思える。
「場所は、学校の屋上でいこう。鍵は柏木。安全管理は三人体制。
集合は8/12の24:30(=8/13 0:30)。東が高くなるタイミング。
——天気と月齢は直前確認」
白板の真ん中に、太字で8/12→13 24:30 屋上。
線に囲まれたその時間が、胸の奥のカレンダーにも強く刻まれる。
「質問は?」
「……流れ星に、願いごとを三回言うのは、科学的には?」
新堂の真面目な顔に、部屋の空気が少し緩む。
望月先輩は、肩をすくめて笑った。
「高速すぎて無理。でも“願いの文を短くする訓練”にはなる。
僕は記録をおすすめする。願いより、残るから」
“記録”。
美月の胸の中で、その単語だけが別の光を帯びる。
観測ログに、あの日から増え続けている行。
「橋が、残りますように」と結んだ七夕の短冊。
その時、机の上の先輩のスマホが、ふっと震えた。
赤いフィルム越しに、一瞬だけ浮かぶ文字列。
(“相談、ありがとう。明日17時、少し時間いい?”)
目を逸らす。
逸らしながら、心のどこかに小さな石が落ちる音を聞く。
音は軽い。けれど、落ちた場所だけがやけに鮮明だ。
「——じゃ、予行。屋上で“寝転び配置”の確認と、見えない夜の練習」
鉄扉の向こう、風の層がひとつ増えていた。
夕方の熱に、夜の薄さがふわりとかぶさる。
シートを広げ、赤いライトを等間隔に置く。
足元の段差にテープ。手すりから一歩離れて寝転ぶ位置を決める。
「視界を四等分して、自分の担当を決めておくと数えやすい。右上・右下・左上・左下、の意識」
望月先輩が、寝転んだまま指で四角を描く。
美月も真似して空を区切る。
目に入るのは、うすい群青と、まだ少ない星の点。そして、風の音。
「音が変わる瞬間がある。遠くの道路の流れ、校庭の葉の擦れ、風鈴。
流れ星の前後で“音が止んだ気がする”って書く子が、毎年ひとりは出る。不思議だけど、書いておく」
“書いておく”。
真偽はあとでいい、という態度。
星を“信じる”ことと、“測る”ことの間に、ちゃんと橋があるのだとわかる。
「一分、やってみようか。——よーい、スタート」
タイマーが鳴り、四人で空を分け合う。
一分は、長い。
何も流れない空を見続けるのは、思っていたよりも、ずっと難しい。
それでも、風の層が少しずつ入れ替わるのがわかる。
どこかの家の風鈴が、遠くで二度、間を置いて鳴った。
「——終了。はい、“0”。」
新堂が笑い、美月も笑う。
“0”という記録が、意外にもすこし誇らしい。
待つことを、ちゃんとやれた印だ。
「本番は、出たり出なかったりを続ける。
大事なのは、“見えたことを数える”“見えなかった時間も残す”の二つ。——等しく大事」
望月先輩の声は、夜の手前でよく通る。
柏木先輩が「上着、忘れずに」と指差し、持ち物の最終確認が進む。
片付けに入る直前、望月先輩がふと美月のほうへ歩いてきた。
白板から外した小さなメモを一枚、差し出す。
8/12(火)24:30 屋上
※東側は寝転び優先
※“ひとこと”を必ず
「これ、予告状」
「予告状……」
思わず笑う。
望月先輩は、少し照れたように耳を掻いた。
「流れ星は“来る”って言ってくれないから、こっちが“待つよ”って先に言う」
天然だ、と思う。
でも、そんな言い方が好きだとも思う。
帰りの廊下。
窓の外は群青で、東の高みにベガ。
白い板の「8/12→13 24:30」の文字が、頭の中で何度も反転しては戻る。
昇降口で靴を履き替え、外へ。
風は昼より軽く、どこかの家の夕飯の匂いが薄い層になって通り過ぎる。
ポケットの中の観測カードを取り出し、一番下の“ひとこと”欄を指でなぞる。
ひとこと:待つのが仕事
書きたい衝動を堪えて、ペン先を戻す。本番で書く、と決めた。
当日、美月の部屋。
机の上に、早見盤とカード、赤いセロファン、薄手の上着。
母が扉をノックして顔を出す。
「徹夜?」
「明け方まで。……学校の屋上で」
「なら、スポーツドリンクと、カロリーメイト。あと、これ」
差し出されたのは、昔買ったままの小さなエア枕。
「首、痛めないように」と言って、母はすぐに引っ込んだ。
スマホの画面に、8/12 24:30のアラームを追加する。
通知の履歴に、部室で横目に見えた“相談、17時”の文字が、記憶だけで浮かぶ。
(進路、だよね)
言い聞かせる。
言い聞かせた言葉は、胸の中で丸まって落ち着く——ふりをする。
観測カードの裏に、鉛筆でごく小さく書く。
同時に見たい(流れ星/空/先輩の横顔)
書いたあと、消しゴムで一度消して、また同じ場所に小さく書き直す。
“願い事”ではない。“記録にしたいこと”。
そう思えば、紙の上に置いていられる。
窓の外。
ベランダの風鈴が、夜風の層に合わせて一度だけ鳴った。
空には、三つの点。
“針”“通路”“起点”。
そこから、見えない線をひとつ、心の中で引く。
美月はまだ知らない。
白板の片隅で震えた“相談”の文字が、当日の昼間に別の予定を生むことも、
その予定が、自分の胸に小さな誤差を増やすことも。
それでも今は、8/12 24:30という座標だけを、何度も内側で確かめていた。
流れ星は、予約不可。
だからこちらが先に——待つと決める。