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第7話 夏祭りの誘い

商店街の掲示板に、色褪せかけた夏祭りのポスターが重ね貼りされていた。

金魚すくい、型抜き、焼きとうもろこし。角には、小さく「今週土曜」とだけ書いてある。

放課後の帰り道、美月は自転車を押しながら、その“今週”が急に自分のほうへ歩いてくるのを感じた。


理科棟の一番奥、「天文部」。

扉を開けると、望月先輩は白板の隅に“地域祭:土曜(観察A)”と走り書きを残したまま、投影機のコードを束ねていた。

柏木先輩はシートの数を確認し、新堂はうちわで自分を扇いでいる。


「あ、ちょうど良かった。一ノ瀬さん」


望月先輩が顔を上げた。

少しだけ息が詰まる。昨日より、声が軽い。


「例の“見えない夜の観察”、土曜の夕方、行けそう?」


誘いは、約束ではなく、観測の提案の形で置かれた。

それでも胸の中の何かが、先に前のめりになる。


「……行けます」


言葉が出るのに、思っていたより時間がかからなかった。

柏木先輩がすぐに「じゃ、私も合流する」と手帳を開き、新堂が「屋台の位置取りは任せてください」とわけのわからないことを言う。

笑いが、夏の空気に混ざってほどける。


「じゃあ、鳥居のところで十八時。人が増える前に“音の地図”から始めよう。

 ——一ノ瀬さん、浴衣でも私服でも。足元だけ、滑らない靴で」


「はい」


返事をしながら、心のどこかが別のメモを取り出す。

浴衣。押し入れの引き出し。半幅帯。慣れていない下駄。


(歩けるかな……)


その不安と、別の期待が、同じ大きさで胸の中に並んだ。



土曜の午後、家。


押し入れから母が取り出したのは、昨年買って一度も袖を通していない紺地の浴衣だった。白い朝顔が小さく散っている。

「髪は上げたほうが涼しいよ」と言われ、鏡の前に座る。

ピンの金属がひやりと触れるたび、髪の根元の温度が下がる気がした。


帯を結ぶ手伝いをしながら、母は何気ないふうを装って聞く。


「天文部、今日は観測?」


「うん。……“見えない夜の観察”だって」


「なんだか、難しい詩みたいね」


母の笑いに救われる。

スマホの画面に、透明な赤いセロファンをテープで留める。

ライトをつけてみると、ほんのり暗く、目に優しい。

望月先輩に教わった“夜の目”の守り方を、自分の部屋で一つ実験する。


支度が整うと、下駄の緒が少し心許ない。歩幅を小さくする練習を、廊下で二往復。

玄関を出ると、風鈴が一度だけ鳴った。

遠くから太鼓の練習の音。夏の合図が重なる。



神社の鳥居は、夕方の光で朱が柔らかく見えた。


参道の両側に屋台が整列し、まだ火を入れていない鉄板が、鏡みたいに空を映している。

「こっち」と手を振る声。

振り向くと、望月先輩が紺の甚平に雪駄という装いで立っていた。いつもの白シャツより、地面に近い色。


「……似合いますね」


気づいたら口に出ていた。

先輩は、少し困ったように笑う。


「ありがとう。——一ノ瀬さんも、似合ってる。見つけやすい」


見つけやすい。

星に言う言葉を、人に向けられたときの、心の揺れ幅。

美月は喉の奥の返事を探して、見つからなくて、代わりに微笑んだ。


柏木先輩は、紺の浴衣に白い帯で現れ、「安全第一。走らない、押さない、迷子にしない」と指を三本立てる。

新堂はTシャツ短パンで、すでに焼きとうもろこしを二本抱えていた。

「観測の前に補給です」と真顔で言う。


「じゃあ、まずは“音”。場所ごとに、聞こえるものを三つ書く。鳥居、参道中央、境内、屋台の裏。匂いも可」


望月先輩が、小さなメモ用紙を四人に配った。

紙の上に、音が乗る場所を用意する作業。

美月はペン先を鳥居の欄に置く。


 鳥居:太鼓/子どもの笑い/風鈴

 匂い:線香/焼きイカのタレ


参道の真ん中は、音が広い。

境内は、砂利を踏む足音が重なる。

屋台の裏は、発電機の低い唸りと、タンクの熱、氷の削れる高い音。


「風は南から。——日中より湿ってる」


望月先輩のひとことが、紙の上の観測値に小さな矢印を追加する。

柏木先輩は、屋台の裏で店の人に声をかけて、発電機の位置を紙に点で記した。


新堂は、とうもろこしの串を片手に「出店配置図」を作り始め、誰も止めない。


「こうやって地上を測っておくと、空を見るときの“邪魔”と“助け”がわかる。——次、“光”。スマホの輝度、最低。赤フィルム、オン。視界を広く」


境内の隅、木の陰に少し暗い場所がある。

四人で立って、視線を上に広げる。

まだ完全な夜ではない。

ビルの影の向こう、薄い青の上に、白い点が針で刺したみたいに現れた。


「ベガ」


美月の口が先に動いた。

その右下に、また一つ。


「アルタイル」


少し遅れて、北東に白い点。


「デネブ」


祭りの灯りの中で、三つだけが確かな位置を持っている。


「天の川は、今日は“気配”も難しいね」


望月先輩の声は、残念そうではなく、状況の確認として静かだった。


「でも、名前があれば、見えない線は引ける」


ベガとアルタイルの間に、心の中で細い白を滑らせる。

そこに“川”がある、と決めてしまえば、ないことに悲しくならない。

見えない夜の観察は、そういう訓練だ。


「次、明るさ。灯りから五歩、十歩、十五歩——どこで星が一個増えるか、体で覚える」


参道の端から、屋台の灯りを背にして下がってみる。

五歩でベガがくっきり、十歩でアルタイル、十五歩でデネブの輪郭が“粒”に近づく。

足の裏で、空の見え方が変わる。

面白い、と素直に思う。


一周して戻ると、望月先輩が少し照れくさそうに言った。


「……あの、その。観測は観測で続けるんだけど、かき氷、いく?」


柏木先輩が即座に「観測に必要」とうなずき、新堂が「ブルーハワイ以外で」と割り込む。

屋台の前には、色とりどりのシロップが並んでいた。

美月は迷って、いちごに。

望月先輩はレモン。

柏木先輩は抹茶。新堂は強行でブルーハワイ。


「一口、交換します?」


自分から言ってしまって、すぐに頬が熱くなる。

先輩は「じゃあ」とスプーンを差し出した。

レモンは、ほんの少し目の奥がきゅっとなる酸っぱさ。

いちごは、思ったより優しい。

同じ氷なのに、かかる言葉が違うと、味の記憶も違う場所にしまわれる気がした。


「帰ってから頭が痛くなるやつだね」


「アイスクリーム頭痛、ですか?」


「そう、それ」


小さな専門用語が、かき氷の上で滑って笑いに変わる。

氷が舌の上で溶ける音はしないのに、耳の奥で“しゃり”という記憶の音が鳴る。

遠くで、最初の小さな花火が上がった。

まだ空は浅い群青。輪郭の甘い光の花が、音より先に咲く。


「……一ノ瀬さん」


呼ばれて顔を上げる。

望月先輩は、屋台の灯り越しに、少しだけ真面目な顔をしていた。


「その浴衣、星を見つけるみたいに、見つけやすい」


「それ、褒め言葉ですか?」


「褒め言葉。——星は“目印”があると探しやすい。今日の君は、俺の目印」


天然、という二文字が、喉の奥で転がって笑いになりそうになる。

同時に、胸の中ど真ん中に、やさしい矢印が一本刺さる。

返事の代わりに、いちごのスプーンを差し出した。

先輩は「甘い」と言って笑う。


「来年の祭りも、見えない夜の観察、メニューを増やそうか」


何気ない一言に、心が少しだけ引っかかる。

(来年。——先輩は、ここにいない)

わかっていた事実が、別の角度で立ち上がる。

氷の冷たさが、喉の奥で少し鋭くなる。


その時、先輩のポケットでスマホが小さく震えた。

赤いフィルム越しに、“相談、ありがと。明日17時でもいい?”の文字が一瞬浮かんで消える。


美月は視線を空へ戻した。

ベガ、アルタイル、デネブ。

三つの点は、屋台の光に負けず、そこにある。


「……音、もう一回。境内の端で」


望月先輩の提案にうなずく。

耳を澄ます。

太鼓の練習は終わり、代わりに花火の音が増えてきた。

遠くの国道は流れを緩め、近くのベンチでは誰かの笑い声が段を下りるように消えていく。


夜の層が厚くなる。


「星の名前当て、やる?」


柏木先輩が肩で合図する。


「はい。——ベガ」「アルタイル」「デネブ」


答え合わせは、四人の指で。

新堂は「たいやき」と言って怒られる。

笑いが、暗さに溶けて、目に優しい。


帰り際、鳥居の前。

屋台の灯りが背中を押す。

望月先輩が、少しだけ言いよどんでから口を開いた。


「来月、ペルセウス座流星群。——一緒に」


言葉は、誘いと約束の中間に置かれた。

返事は、心の中でとっくに出ている。

外に出すと、形が変わってしまいそうで、短く頷く。


「……はい」


それで十分だと、先輩は判断したらしい。

「詳しいことは、また部室で」と言って微笑む。


鳥居の影で別れ、提灯の灯りを背に歩き出す。

下駄の歯が、アスファルトの小さな凹凸を拾う。

浴衣の裾が、足首の風を掬う。

遠くで、もう少し大きな花火がひとつ、音だけを落として割れた。


家までの道のりで、メモを取り出す。


 観察A

 音=太鼓/笑い/風鈴/発電機/氷の音

 匂い=線香/タレ/綿あめ

 光=灯りからの距離と星の数(5/10/15歩)

 見えた星=ベガ/アルタイル/デネブ

 ひとこと=見えない線は、名前で引ける


ペン先が止まる。

その下に、迷って、やめて、もう一度迷って——

ごく小さく書く。


 先輩は、私の目印(今日)


玄関の戸を開けると、母が「おかえり」と振り向いた。

帯をほどく手伝いを受けながら、美月は鏡に映る自分を一度だけ見た。

頬は、いつもより少し赤い。

目は、いつもより少し暗さに慣れている。


窓の外、ベランダの風鈴が夜風に鳴った。

遠くの空に、三つの点。

“針”“通路”“起点”。

約束の手前で止まっている言葉が、胸の中でゆっくり明るさを増す。


美月はまだ知らない。


今日の“見つけやすい”が、やがて小さな誤解の入り口になることも。

それでも今は、屋台の灯りの外側で描いた見えない線を、何度も心の中でなぞり直していた。

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