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第6話 天文学の扉

図書室の冷房は弱く、除湿だけが働いていた。

返却棚の上に並ぶ理科年表と星空ガイドの背表紙が、夏色の光を吸って鈍く光る。

美月は貸出カウンターの脇で、透明カバーのかかった一冊をそっと開いた。


——『星はなぜ光るのか(入門天体物理)』


ページの端に付箋が一枚、薄い水色。

「ありがとう、先に借ります」みたいな小さな字が、鉛筆で残っている。

誰かがここで一度、同じ質問を抱えたのだと思うと、見知らぬ背中の温度を感じた。


放課後。理科棟の一番奥、「天文部」。

今日は投影機の灯りではなく、白いボードが中央に出されていた。

望月先輩がマーカーを握り、柏木先輩は配布プリントをホチキスで留めている。

新堂は扇風機の角度を直し、窓からの光を遮る黒い布を半分だけ下ろした。


「今日は“天体物理の入口”。観測するだけじゃなくて、なぜを少しだけ覗く」


望月先輩が、板書の一行目にさらりと書く。


 星の“色”=温度の手がかり


「ベガは青白い。アンタレスは赤い。色は、温度と関係する。熱いものは青白く、温度が下がるほど赤くなる。——ガスが光を出すときの“スペクトル”っていう指紋で、組成や温度がわかる」


「指紋……」


「うん、光の指紋。散った光をプリズムで分けると、ところどころ暗い筋が入る。吸収線。そこから“何でできているか”がわかる。遠くの星でもね」


柏木先輩が小さなプリズムを配ってくれて、窓際の白い光を通して見せてくれる。

机の上に、薄く七色が落ちた。

美月は思わず息を止め、すぐに呼吸を戻す。

「色は温度の手がかり」——昨日まで“綺麗”の言葉で包んでいたものに、ひとつ階段がついた気がする。


「次。距離。空の“遠い・近い”は、見た目じゃわからない。だから、まずは親指」


望月先輩が笑って、窓の外に親指を立てる仕草をした。

「片目をつぶって、親指を遠くの景色に重ねる。左右の目で交互に見ると、親指の位置がズレて見えるよね。これが視差。地球が太陽の周りを回ると、半年で視点が変わる。そのとき星の見かけの位置がほんの少しだけズレる。ズレの大きさから距離を測れる」


マーカーが、もう一行を書く。


1パーセク ≒ 3.26光年(“1AUが1秒角に見える距離”)


「……光年って、“時間”じゃなくて“距離”なんですよね」


「そう。光が一年で進む距離が“1光年”。単位の名前に引っかかるけど、距離。パーセクは“視差で測る距離の単位”。今日は言葉だけでいい。覚えなくていいから、“測れる”ってことだけ掴んでおいて」


“測れる”。


その言葉は、七夕の夜に聞いた“距離を測る”と同じ温度で、美月の胸に落ちた。


望月先輩はペンを置き、机の端から一冊の図録を取り出す。

表紙に、小さな英字と散らばる光点。

ページをめくると、グラフが現れる。横軸に“色”、縦軸に“明るさ”。


「H-R図。ヘルツシュプルング・ラッセル図。星の“色”と“明るさ”を並べると、帯状に並ぶ。これが主系列。ベガは青白い主系列の星。アンタレスは右上の赤い巨星」


赤い丸印がひとつ、青い点がひとつ。

知っている名前が、図の上で位置を持った瞬間、星はさらに“人”に近づいた。


「天体物理はね、“空を見て、グラフに並べる学問”でもある。見たものを残して、比べて、理由をたどる」


望月先輩は、ボードの隅に小さく書き足した。


 観測 → 記録 → 比較 → 予想


「文芸の“構成”にちょっと似てる」


つい口に出ると、先輩は「たしかに」と笑った。

「章立てがあるから、話が迷子にならない。空も同じ。方角と時刻と目印があれば、迷わない」


部室の空気は涼しくはないのに、頭の中だけが透明になっていく。

“綺麗”の向こうに、“仕組み”がある。

ノートの余白に、小さく書く。


 色=温度/視差=距離/H-R図=並べる“地図”


配られたプリントの下のほうに、細い字で“参考図書”の欄があり、さっき図書室で見た入門書の題名が載っていた。

(先輩が作ったのかな)

思ったところで、机の上の先輩のスマホが、静かに一度だけ震えた。

画面にポップアップが、赤いセロファンの反射でほとんど読めない形のまま現れて、消える。

“進路の…”という文字列に、視界が一瞬だけひっかかった。

(……進路相談)

胸の内側で、小さな石がころりと転がる。

手を伸ばせば拾えてしまいそうな大きさなのに、今は見なかったふりをする。


「——ここまでが“入口”。続きはまた今度。今日の仕上げ、“小さな観測の設計”**をやってみよう」


望月先輩が、白い紙を一人一枚ずつ配る。

項目は四つだけ。


①対象(夏の一等星/星座/星団などから一つ)

②方法(肉眼/双眼鏡)

③記録(方角・時刻・条件・“ひとこと”)

④理由(それを選ぶ理由)


「自分の“問い”で空を見る練習。小さくていい。理由は“なんとなく綺麗だったから”でもいい。言葉にすると、次が見える」


美月はペン先を紙に置き、すぐには動かさなかった。

(なぜ、ベガを見たい? なぜ、デネブ? なぜ、アルタイル?)

昨日つけた“針/通路/起点”を思い出す。

やがて、すっと字が紙に立った。


①アルビレオ

②双眼鏡

③東やや北。21:00。空:薄雲。ひとこと:並ぶ二つ

④理由:違いを知りたい(色・寄り添い方)


書いてから、驚いた。“違いを知りたい”という言葉が、自分の心の別の場所にもペン先を置いていく。


「いい。問いが具体だ」


望月先輩の声が、すぐ近くで落ちた。

紙の端に、彼の細い字が小さくメモを添える。


 “色は条件に左右される。焦らない。次の“暗さ”を待つ”


「暗さを、待つ」


「うん。空にも季節にも、こちらの都合は通らない。待つのも観測の一部」


“待つ”。


美月はその二文字を、胸の真ん中にゆっくり置いた。


小休止。

柏木先輩が水筒を配り、新堂が「夏祭りのポスター、昇降口に貼られてましたよ」と話題を振る。

校庭の向こう、商店街の提灯が準備されているらしい。

望月先輩は「ああ」と頷き、白板の隅に小さく“地域祭:土曜”と書いた。

それから、ペン先を止める。


「……もし良かったら、一ノ瀬さん」


「はい?」


「夏祭り、今年は屋台の明かりで星が薄いはずだけど、“見えない夜の観察”、一緒にやってみない? 風と音と、空の明るさ。あと、東の空に最初に現れる星の“名前当て”。短時間で戻る」


誘い——なのか、学習の提案——なのか。

言葉の真ん中にあるものが、少しだけ分からない。

だけど、胸の中の何かが先に頷いていた。


「……行きたいです」


自分の声が、思ったよりまっすぐに届いた気がした。

望月先輩は「じゃあ、また連絡する」と、白板に“祭=観測A案”と書き足す。

柏木先輩が「私も行く」と笑って付け加え、新堂が「焼きとうもろこし担当します」と手を上げる。

笑い声に、夏が混ざる。


片付け。

白板を拭き、プリズムを箱に戻す。

窓際の遮光布を上げると、湿り気を含んだ夕方の光が部屋に戻ってきた。

机の端には、さっきの図録が伏せて置かれている。

ページの間から、水色の付箋が一枚のぞいた。


(ありがとう、先に借ります——)


跡だけが、そこにあった。


昇降口へ向かう廊下。

窓の外は群青に溶け、電柱の先に最初の一等星が灯る。

望月先輩のスマホが、また一度だけ震えた。


“進路、資料ありがとう。明日17時でいい?”


誰から、の部分が、夏の光に紛れて読めない。

美月は、視線を空のほうに上げる。


(違いを知りたい)


胸の中の問いは、空へ向けられたはずが、いつのまにか自分のほうへ折り返している。


昇降口で靴を履き替える。

外へ出ると、風が少しだけ変わっていた。

昼の重さを含んだ空気から、夜の薄い層が上に乗る。

遠くで子どもたちのはしゃぐ声。どこかの家の風鈴。

商店街の街路樹には、もう提灯がいくつか吊られている。


帰り道、ポケットから小さなメモを取り出す。


 色=温度/視差=距離/H-R図=並べる地図

 待つのも観測

 祭=見えない夜の観察A


文字が、夏の湿気で少し波打っている。

“扉”がいくつも開いた日だと思った。

綺麗の向こうに仕組みがある、仕組みの向こうに理由がある。

理由の向こうに、名前のまだない気持ちがある。


――ほんとうの幸い、ってなんだろう。


国語の先生の声が、今夜は遠くで鳴った。

答えはまだ。

けれど、待つという方法を、ひとつ手に入れた。

それは、今の自分には十分な道具だ。


角を曲がると、提灯の赤が一つ、風に揺れて鳴った。

空の東には、もうベガがいる。


“針”“通路”“起点”。


そこへ向かう小さな線を、心の中でまた一本、引いた。

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