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第5話 七夕の願い事

七月七日。


昼に一度通り雨があったらしく、校庭の隅に小さな水たまりが残っていた。

蒸した空気の中に、濡れた土と草の匂い。蝉は途切れず鳴き、雲の切れ間から差す西日の角度が、今日が少し特別だと告げている。


放課後の理科棟。天文部の部室の前には、細い笹が一本、砂の入ったバケツに立てられていた。

色紙の短冊がいくつか、すでに風に揺れている。


「百均の笹だけど、気分は大事だからね」


柏木先輩が笑い、ホチキスで結んだ紙の輪をつなげている。

新堂はブルーシートを抱え、望月先輩は投影機と双眼鏡、星座早見盤の枚数を再点検していた。


「赤いセロファン、余りある?」


「はい、二十枚。テープも」


「オッケー。——今日の月齢は浅いから、月明かりは味方してくれるはず。あとは雲と風」


チェックリストに「蚊取り線香×」と書き添える柏木先輩(校則的にNG)。代わりに虫よけスプレーの本数にチェックが入る。

部室の扇風機が、短冊をゆらりと震わせた。


美月は、机の端の箱から細い麻ひもを取り出し、短冊に通す。

“願い事”。

ペンを握る手に、少しだけ迷いが走る。

(星をもっと知りたい——それだけでいいのかな)

胸の奥のどこかで、他の言葉が泡立っては、すぐに静まった。


「そろそろ屋上へ。見学の子、多いから、動線確認からいくよ」


鉄扉を抜けると、熱の名残がまだ薄く漂っていた。

手すりの近くにシートを広げ、赤フィルムを巻いた懐中電灯を所どころに置く。

段差には黄色のガムテープで印がつけられ、柏木先輩が「白いライト禁止、走らない、手すりに寄りかからない」と三つの約束を復唱させる。


空は、昼の青から群青へと境い目をすべらせている。

西には淡いオレンジ。南西の低空に、宵の明星がにじむ。

東の高みに、針で刺したような白い点——ベガ。


「みんな、十分だけ“暗順応”。座って、風の音を聞こう」


望月先輩の声は、いつもの講義よりわずかに柔らかい。

美月はシートに座り、目を閉じた。

国道を走る車のタイヤの音、遠い駅のアナウンス、校庭の隅で誰かが笑う声。

それらの上に、屋上だけの“風の層”が乗っている。

夜は音で少しずつ近づいてくるのだ、と最近わかってきた。


「開けて」


目を開けると、東の空に二つ目の明るい点。

ベガの少し南に、アルタイル。

しばらくして、北東に白い光——デネブ。

三つが薄い線で結ばれ、夏の大三角が形を取る。


「七夕の主役は、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)。二つの間に流れてる白い帯が“天の川”。暗い場所ほどはっきりするけど、ここでも“気配”は掴める」


投影機の簡易星図を出しつつ、望月先輩が静かに話す。


「昔話だとね、働き者同士が恋に落ちて怠けたから離された、なんてバージョンもあるけど——星に罪はない。ぼくらは“距離”を測る。名前を知る。見えるものを増やす」


“距離を測る”。


その言葉が、美月の胸のどこかで反響し、急に自分の心のことのように思えた。

近づいているのか、離れているのか。

それを確かめる手段を、ここで覚えている。


「じゃ、双眼鏡。ベガのすぐそば、こと座の平行四辺形。アルタイルの両脇、従者の星。はくちょうの“十字”をたどって、嘴のアルビレオ——色の違い、今日は……どうかな」


教わった通りに覗く。

ベガの周りの粒が解像し、アルタイルの横の二つが“連れている”ように見える。

はくちょうの胴を下れば、暗さの濃淡の中、嘴の先に寄り添う光。

色の違いは、やはり言い切れない。でも、同じ場所に並ぶという“事実”が、胸を穏やかにする。


「見えない夜の楽しみは、名前遊び。——“ベガは針”“デネブは起点”。一ノ瀬さんの“ひとこと”、良かったよ」


不意に名を呼ばれ、美月は頬が熱くなるのを自覚した。

望月先輩は気づいた様子も見せず、初心者たちに早見盤の合わせ方を説明していく。

赤いライトに照らされた横顔は、昼間より落ち着いて見えた。


「短冊、ここでも結ぼうか」


笹は風でさわさわ鳴り、紙の輪飾りがかすかに触れ合って音を立てる。

柏木先輩が配った短冊に、みんながそれぞれの字を書き始める。

“志望校合格”“家族が健康でありますように”“推しがいつまでも輝いてますように”

カラフルな願いが、夏の匂いと一緒に揺れる。


美月は、さっき保留していた言葉を、ペン先の前に引っ張り出した。


 星をもっと知りたい。

 見えるものを増やしたい。


書いてから、二行の間に小さな余白があることに気づく。

そこに、迷って、やめて、もう一度迷って——


 今日の空を、あなたと覚えていたい。


小さな字。自分にだけ読めるくらいの小ささで。

結び目を固くしていると、隣で望月先輩が自分の短冊を結んだ。

風が翻して、墨の線がチラリと見える。


 橋が、残りますように。


「橋?」


思わず、口に出してしまう。

望月先輩は、笹の位置を直しながらうなずいた。


「観測ノートとか、道具の手入れとか、初心者向けの手引きとか。——ここから先にも誰かが渡れるように」


“橋”。


それは先輩が時々口にする言葉だった。

未来に続く具体的な形を、願いとして結ぶ姿を見て、胸の奥が静かに熱くなる。


その時、ポケットの中で、先輩のスマホが小さく震えた。

画面が赤ライトにほんの一瞬だけ照らされて、文字列が浮かんでは消える。


(“相談、ありがと。明日も少し時間、いい?”)


誰からかは、読み取れない。

美月は、視線をすぐに空へ戻した。

天の川は、やはり“気配”だけ。けれど、その“気配”が今夜はいつもより近くに思える。


「——ね、願い事、言葉にした?」


柏木先輩が短冊を束ねながら尋ねる。


「はい。星の名前、もっと覚えたいです」


自分で口にすると、願いが急に現実の重さを持つ。

柏木先輩は「いいね」と頷き、笹を少し高い位置に直した。


観測は続く。


南の低空には、さそりの赤——アンタレス。

尾がゆっくり地平から抜け上がり、夏の帯に繋がっていく。

新堂が「いるか見えた!」と声を上げ、初心者の子が双眼鏡のストラップでもたつくと、望月先輩がさりげなく手を添える。


その手が美月の記憶に投げ込まれ、小さな波紋が広がる。


「今日はここまで。——“ほどほど”が明日に効く」


片付け。

双眼鏡のキャップを閉め、早見盤を袋に戻し、ライトの赤を消す。

笹は部室へ戻して、明日の昼に昇降口に飾る予定だという。

鉄扉の前で一列になって、段差を一人ずつ下りる。

白い蛍光灯が目に刺さり、廊下の空気が一気に現実を連れ戻す。


部室に戻ると、望月先輩が観測ログをテーブルに開いた。


「今日の“ひとこと”、書ける?」


美月はペンを取り、日付と天候の欄に記入する。


 七夕。東高く夏の大三角。天の川の気配。

 ベガ=針/アルタイル=通路/デネブ=起点

 さそり座(アンタレス赤)

 “同じ場所に並ぶ二つ”(アルビレオ:色は要再挑戦)

 願い:見えるものを増やしたい。


最後の行を書き終え、そっとペンを置く。

“願い”という文字が、紙の上で自分の手を離れて、未来側に置かれたように見える。


片付けが終わり、玄関へ向かう廊下。

窓の外はすっかり夜で、ガラスに自分たちの影が薄く重なる。

ふいに、前を歩く望月先輩の足が止まった。


「来月、ペルセウス座流星群の極大がある。——詳しいことはまた今度」


その言い方は、約束の手前で立ち止まるみたいに、穏やかだった。

胸の奥で、何かが一度、小さく鳴ってから静まる。


昇降口で靴を履き替え、外へ。

夜気は昼より軽く、どこかの家の風鈴が涼しく鳴る。

電柱の影に沿って歩くと、校舎の上に、三つの光がまだ形を保っていた。

“針”“通路”“起点”。

笹の短冊が、たぶん部室の横でまだ揺れている。


帰り道、ポケットの中の短冊の端を指で確かめる。

書いた字は小さいけれど、結び目は固い。


(ほんとうの幸いって、なんだろう)


授業で聞いた先生の言葉が、今夜は問いとして胸に残る。

星の名前を覚えるたび、見えるものが増える。

じゃあ、心の中の“名前”にも、いつか答えがつくのだろうか。


角の向こうで、花火がひとつ、音だけを落として消えた。

夏の夜は、遠くを近くする。


美月は空をもう一度だけ見上げた。


天の川は今夜も“気配”のまま——でも、それで充分だと思えた。

願いは、風に揺れる短冊のように、まだ形になりきらない。


けれど確かに、そこにある。

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