第4話 星座は恋の地図
昼下がりの教室は、扇風機の羽が刻むリズムで時間がほぐれていく。
美月は国語ノートの余白に、昨日の観測ログと同じ字で小さく書いた。
ベガ=針/アルタイル=通路/デネブ=起点
書いてから、ふっと笑う。
言葉をつけると、星が“近づく”——それは、名前を知って人が近くなる感覚とよく似ていた。
放課後。理科棟の一番奥、「天文部」。
ドアを開けると、望月先輩は大きな星図を机いっぱいに広げ、透明な定規で線を引いていた。
柏木先輩はチェックリストの枠を足し、新堂はブルーシートを肩に担いでいる。
「今日は“星座で歩く練習”。星座は地図、星は道しるべ。——屋上いこっか」
先輩の声に従って階段を上る。
鉄扉の向こう、まだ薄明るい空。
赤いセロファンのライト、折りたたみ椅子、双眼鏡。段差に“要注意”の付箋。
柏木先輩が「白い光はNG」と念押しし、しばし“暗順応”。
風の音、街のざわめき、遠い電車のブレーキ。
目が暗さに慣れていくと、空のほうが自分の存在を受け止めてくれるような、不思議な気がした。
「まずは復習。——東の高いところ、針みたいに鋭いのは?」
「ベガ」
「ベガの“横顔”。こと座の平行四辺形、見える?」
望月先輩が空に指で四角をなぞる。
言われて探すと、かすかに四つの小さな星が、歪んだ菱形を作っていた。
こと座は、ベガの周りに“取っ手のない小さな楽器”みたいに見える。
「ベガのすぐ近くに“二重星”がある。双眼鏡だと微妙に伸びて見えるかどうか、挑戦してみて」
美月は双眼鏡を目に当て、呼吸を浅く保つ。
さっきまで点だった光が、ほんの気のせい程度に“細長く”見える瞬間がある。
確信まではいかない。でも、さっきより知っている。
「次。ベガから南へ下がって——明るい星、これ」
「アルタイル」
「左右に、付き添うような小さな星が二つ。わしの肩みたいに見える。“彦星と従者”って覚える人もいる」
アルタイルの両脇。確かに、対になって連れて歩いているみたいに見える。
昨日“通路”と名づけた星が、今日は誰かを連れている。
「北東。“十字”。——はくちょう座、別名“北十字”。上が頭、長い胴体、尾の先が“起点”のデネブ」
白い十字が、天の川のかすかな帯を切り分けていく。
デネブから胴体の真ん中、サドルの位置へ、さらに先に進む“嘴”の方向。
望月先輩がそっと双眼鏡を貸してくれる。
「嘴の先に、アルビレオ。色の違う二つの星。小さな双眼鏡だと分かるかギリギリだけど、“気配”はつかめる」
“気配”——その言葉に、美月の胸がわずかに高鳴る。
レンズの向こう、ひとつの光が、かすかに“並んだ二つ”の気配になる。
色の違いは……言い切れない。けれど、同じ場所に寄り添う光、という事実だけで十分だった。
「よし、ここから“星跳び”。星の名前を道標にして、小さな星座へ歩く。——課題:いるか座を見つけてみよう」
「いるか……?」
「“夏の小さなご褒美”。アルタイルから北へ、少し東側。凧みたいな菱形に、尻尾がちょん。暗い街だと難しいけど、屋上でも“形の気配”は掴める」
美月は早見盤を回し、東の方角に合わせる。
“通路”のアルタイルから目を離さず、双眼鏡をゆっくりと滑らせる。
視界の中、星の粒が流れていく。
ふっと、四つの星が斜めの菱形を作り、その下に小さな一粒が“跳ねる尾”のように付いている場所に当たった。
「……いた」
小さく声が漏れた。
はっきり見えたわけではない。でも、形が“立ち上がった”。
それは、地図の上の印が現地の風景へ変わる瞬間に似ていた。
「うまい」
望月先輩の声が近い。
双眼鏡のストラップを直そうと伸ばした彼の手と、美月の手が一瞬触れる。
夏の夜の風よりも柔らかい、短い接触。
美月は反射的に「たまたまです」と言いかけて、代わりに、息を静かに吐いた。
「——“気配”を掴むの、得意だね」
先輩の言葉はからかいではなく、評価としてそこに置かれた。
胸の奥で、小さな音が鳴る。
「もうひとつ。矢座。アルタイルの北西に、短い線が刺さっているみたいな星並び。これも双眼鏡向き」
言われた通り、アルタイルから視線を少し動かす。
暗いキャンバスに、短い直線が細く浮かぶ。
矢が空に留められているみたいで、思わず笑ってしまう。
「“矢”を見つけたら、その左上、こぎつね座のあたりに、双眼鏡で面白い星の群れがある。“ハンガー星団”って呼ばれてる。コートをかける“あの形”に見えるから」
「ハンガー……」
美月は半信半疑で双眼鏡を動かす。
一度では掴めない。
もう一度。
星の濃い薄いが重なり、突然——逆さのハンガーの形が、わずかな星の並びから立ち上がった。
「……ほんとだ」
自分の声が、風と一緒にほどける。
星が“ものの形”を取った瞬間、人間の想像力は勝手に輪郭を補う。
その嬉しさは、子どものころ雲の形に名前をつけた記憶と、どこかでつながっていた。
「星座はね、恋の地図でもあると思ってる」
望月先輩が、ふいに言った。
横顔のまま、空に薄く線を引く。
「どこに立って、どこを目印にして、どの順に辿るかで、同じ空でも見えるものが変わる。距離と角度で意味が変わるのも、ちょっと似てる」
“恋の地図”。
言葉が、夜気の温度で胸に溶ける。
美月は“いるか座”の小さな凧型をもう一度確かめ、早見盤に小さくメモした。
いるか=凧+跳ね尾(アルタイルから北へ)
矢=短い直線(アルタイルの北西)
ハンガー=こぎつね座のあたり(双眼鏡)
新堂が「ハンガー見えた!」と声を上げ、柏木先輩が「落とすなよ、その“運”は七夕に使う」と笑う。
望月先輩は、白い小さな板に黒ペンでチェックを入れながら、時折空を見上げる。
その手元のスマホが、一度だけ小さく震えた。
“明日の相談、17時で大丈夫?”
ポップアップはすぐに消える。
美月は見ないふりをする。
ふりをしながら、胸のどこかで“小石”のような感触が生まれるのを、まだ名前のないまま握りしめる。
「——最後に、“方角で覚える”おさらい」
望月先輩は、手すりの陰に置いた方位磁石を拾い上げる。
東、西、南、北。
屋上の四隅を結ぶ線と、空の地図が重なる瞬間。
自分が“どこに立っているか”が確かになる。
「星は動くけど、方角は裏切らない。道に迷いそうになったら、まず東を思い出す。夏は、東からはじまるから」
“夏は、東からはじまる”。
美月は、心の中で何度か繰り返した。
はじまりの方向がある、というのは、今の自分にとって救いのある言葉だ。
ひとまずの“講座”が終わると、皆で座って、持ってきた水筒の水を飲む。
シートの端が風でぱたぱた鳴る。
遠くの国道の音が少しだけ弱まり、代わりに、夜の虫の声が濃くなる。
「観測ログ、今日も書いとく?」
差し出されたノート。
日付、天候、見えたもの。
美月は迷わずペンを走らせた。
東高く:夏の大三角
いるか座=凧+跳ね尾
矢座=短い直線
ハンガー星団(“逆さハンガー”の気配)
アルビレオ=並ぶ二つ(色は……要再挑戦)
最後に、小さく付け足す。
“星座は恋の地図”——距離と角度で意味が変わる
書き終えて顔を上げると、望月先輩は何も言わず、ただ親指を立てた。
それだけで、十分だった。
片付けの時間。
双眼鏡をケースに戻し、シートを丸め、ライトを消す。
鉄扉を閉めると、館内の白い蛍光灯が瞼に刺さる。
廊下を歩きながら、さっきの小石——“相談”という文字列の手触りが、ポケットの底で転がる。
昇降口を出ると、空は完全な夜。
東の高みに、三つの光が形を保っている。
“針”“通路”“起点”。
いるかが跳ね、矢が宙に留まり、どこかで誰かがコートをかける。
名前を与えた途端、世界はすこしだけこちらへ寄ってくる。
「七夕まで、あと三日」
柏木先輩が指を三本立てる。
美月はうなずき、早見盤の袋の角を握る。
袋のプラスチックが、夜風にかすかに鳴った。
帰り道。
角の駄菓子屋の前で、ラムネの栓を抜く音がして、胸のどこかの“夏”が反応する。
遠くでまた、花火が一つ、音だけを置いて消えた。
東を“はじまり”と決めた空と、いくつもの細い線で結ばれた、やさしい夜の地図のことだけを、胸の中で何度も、たどり直していた。